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第5話

Author: 柚乃
春江は慌てて駆け寄り、奏太を連れていった。

「今夜は俺の前に顔を出すな。もう君の顔なんて見たくない」怜司は言った。

紗季は小さく頷き、背を向けて二階へ上がった。

怜司とはとっくに別居している。帰ってきたところで、同じ部屋で寝ることもない。

寝室に戻ると、紗季は引き出しから一冊のノートを取り出して、開いた。

そこには「正」の字がびっしりと書き込まれていた。怜司に傷つけられるたびに、紗季は一つずつ書き足してきたのだ。

紗季はペンを手に取り、新たに一本書き足そうとした。

けれど、手が止まった。

ペンを置く代わりに、ノートのページをそっと撫でる。いくつもの「正」の字は凹凸になっていて、指先にひんやりとした感触が伝わってきた。

五年間で、怜司にこれほど傷つけられてきたのだ。

そして紗季は、もうすぐ三十歳になるというのに、子どもを一人産んだこと以外、何一つ成し遂げていなかった。

それなのに今も、ノートに一人の男に傷つけられた記録を残している。

十七歳なら、こんなことをしていても可愛らしいと思える。

でも、二十七歳にもなってこんなことをしているなんて、ただの愚か者だ。

笑ってしまうほど、馬鹿げている。

紗季はノートを閉じると書斎へ向かい、一ページずつ破ってシュレッダーに入れた。

細かな紙くずが排出口からぱらぱらと落ちていく。まるで雪が降っているようだ。

シュレッダーの中で一枚の紙が引っかかり、紗季は手を伸ばして取り除こうとした。そのとき、爪が金属に引っかかり、爪の先が皮膚から剥がれた。

あまりの痛みに、思わず声が漏れる。

ちょうどそのとき、怜司がドアを開けた。「何してる?」

紗季は顔を青ざめさせ、指をぎゅっと握りしめた。「何でもない」

「誰が入っていいと言った?」

紗季はふいに、何も言いたくなくなった。

何を言っても、何をしても、怜司から返ってくるのはいつだって冷たさと嫌悪だけだ。

怪我をしたと伝えたところで、怜司はきっと、自業自得だと思うだけだろう。

紗季は立ち上がると、そのまま部屋を出て、後ろ手にドアを「バタン」と閉めた。

怜司はその場に残ったまま、閉じたドアをしばらく見つめていた。さっきの紗季は、いつもと少し違って見えた。

寝る前、紗季は奏太の部屋へ向かった。

春江がすでに奏太をお風呂に入れて寝支度を済ませていた。奏太は白い雲柄のパジャマを着て、行儀よくベッドに横になっていた。澄んだ顔立ちに整った眉と目。長く揃ったまつ毛が、鼻筋に淡い影を落としている。

紗季は奏太の頭を撫でながら、離婚したら親権を失ってしまうことを思い、胸が少し痛んだ。

「ママ」奏太が突然、口を開いた。

「ん?」

「今日、パパはどうしてママに怒ったの?」

紗季は少し間を置いてから、「何でもないよ。もう寝なさい」と答えた。

立ち上がって息子の布団を整えていると、奏太が突然、紗季に抱きついた。「ママ、これからはちゃんとしてね。もうパパを怒らせないで。

パパが怒るとママに怒鳴るでしょ。そうするとママが悲しくなるし、僕も悲しいから」

紗季は動きを止めた。

胸の奥に、ほろ苦さと愛おしさが入り混じった。

身をかがめ、息子の額にそっとキスをする。「うん」

翌日、紗季は奏太を幼稚園に送ってから、車で高橋テクノロジーへ向かった。

もともと紗季は、この分野では誰もが認める天才だった。これまで一度も社会に出て働いたことはなかったが、仕事の流れを少し覚えると、すぐに職場に馴染んだ。

それに、この五年間も専門分野の勉強を怠ったことはなく、常に最先端の技術に触れ続けていた。

そうして、あっという間に一週間が過ぎた。

金曜日、定時を待たずに会社を出た紗季は、先に奏太を幼稚園へ迎えに行き、そのまま彼を連れて実家へ向かった。

実家は西側エリアの外れにある静かな住宅街の一角に建っていた。二階建てのこぢんまりとした家で、少し古びてはいるが、家の中はきれいに片付いていた。ベランダには色とりどりの花が咲き乱れ、遠くからでもすぐに目に入るほどだ。

庭にはカイドウの木が植えられていて、若々しい緑の葉の間から、鮮やかな紅色の花が顔を覗かせている。眺めているだけで心が和むような、清々しい光景だ。

紗季が奏太を連れて中へ入ると、焼きたてのハンバーグの香りが漂ってきた。

母の江藤由美(えとう ゆみ)が部屋から出てきた。

奏太は素直に「おばあちゃん」と呼んだ。

「まあ!」由美は嬉しそうに奏太を抱き寄せ、頬にキスをしたり、頭を撫でたりして、なかなか離そうとしなかった。

「ほら、早く入って。二人が来るって聞いて、おばあちゃんが朝からずっと料理してたのよ。二人の好きなものばかりだからね」

由美は嬉しそうに紗季に言った。

紗季は奏太を連れて庭先の水道で手を洗った。そのとき、台所で忙しそうに動き回る祖母・藤原秀子(ふじわら ひでこ)の姿が目に入った。

紗季が十歳のとき、両親は離婚した。母に連れられて実家へ戻って以来、女三人だけで支え合って暮らしてきた。

五年前、紗季が怜司の子を身ごもったとき、こんなことは初めてで、どうすればいいのか分からなかった。

しかもその頃、祖母が突然重い病に倒れ、病院で生死の境をさまよっていた。

次々と届く支払いの催促を前に、紗季は母にも相談せず、一人で黒田家を訪ねた。

採血してDNA鑑定を行い、子どもが怜司の子であることが確認された。黒田家から今後どうするつもりなのかと聞かれ、紗季は「お金が必要です」と答えた。

黒田家は一度に一億円を紗季に振り込んだ。そのお金のおかげで、祖母は一命を取り留めた。

それから間もなく、黒田家から連絡があり、紗季に怜司と正式に結婚するよう告げられた。

それは紗季にとって、思いがけない幸運だった。これから始まる生活への期待と怜司への愛を胸いっぱいに抱え、彼女は喜び勇んで婚姻届を出しに行った。

この先には、幸せな結婚生活が待っているのだと思っていた。

けれど現実は、容赦なく彼女を打ちのめした。

今になって思えば、運命が与えてくれたものには、最初からその代償が決められていたのだ。

今の不幸は、昔の自分が受け取ったものの代償を、ただ自分で払っているだけなのかもしれない。

だから紗季は、怜司を恨んではいなかった。彼が自分にどんな態度を取ろうと、それは当然のことだと思っていた。

紗季は奏太の手を引き、リビングへ向かった。すると、奏太が小さな声で尋ねた。「ママ、いつ帰るの?」

紗季は眉をひそめた。「来たばかりなのに、もう帰りたいの?」

奏太は何も答えず、黙ってしまった。

秀子が料理を作り終えると、二人を嬉しそうに食卓へ招いた。

真ん中には、出来たてのハンバーグが一皿。ほかにも、紗季と奏太の好きな料理ばかりが並んでいた。

由美は奏太に久しぶりに会えたことが嬉しくて、料理を取り分けながら幼稚園での生活についてあれこれ尋ねた。

奏太はもともと淡々とした性格で、聞かれたことにも適当に返事をしていた。

「習い事は何かさせてるの?隣の家の女の子なんて、もうダンスを習い始めたのよ」

由美が言うと、奏太は眉を寄せ、答えたくなさそうな顔をした。

紗季は慌てて口を挟んだ。「まだ何も。もう少し遊ばせてあげようと思ってるの。

でも、絵を描くのはすごく好きみたい。先生にも、才能があるって言われたの」

そう話したところで、紗季はふと、父が画家だったことを思い出した。両親が離婚する前、小さな家には父のキャンバスや油絵の具が所狭しと置かれ、家の中はいつも散らかっていた。

父はなかなか才能を認めてもらえず、ほとんど何もせず家にこもっては、一枚、また一枚と絵を描いていた。けれど、絵が売れることはほとんどなかった。

由美は一人で家計を支えながら、父のために高価な筆や絵の具まで買わなければならず、大きな負担を抱えていた。二人はほとんど毎日のように喧嘩をしていた。

離婚するのは、時間の問題だったのかもしれない。

離婚する前の晩、紗季は部屋の外で、母が父を責める声を聞いた。「金持ちの女に夢中になって、あの女についていって贅沢な暮らしをするつもりなんでしょ!」

もともと由美は、上品で物腰の柔らかな女性ではなかった。そのときは、まるで何もかも投げ出すように泣きわめいていた。

自分は気高い人間だと思っていた父は、言い返すことができず、追い詰められた末に由美を平手打ちした。二人はそのまま取っ組み合いになった。

由美は部屋に鍵をかけてしまい、紗季は中に入ることができなかった。家の中から聞こえてくる怒鳴り声や、物が壊れる音を聞きながら、紗季は木の扉にもたれ、ぼんやりと夜空に浮かぶ細い月を見上げていた。

白く浮かぶ月は、まるで傷口のようだった。

翌日、顔を腫らした由美は離婚届を出しに行った。

幼い頃の紗季には、父のような男に、母がなぜいつまでもすがっているのか分からなかった。

けれど大人になり、怜司と出会って初めて、その気持ちが分かった。

女にはそれぞれ、自分で乗り越えなければならない試練がある。

父が家を出ていったことを、紗季は最初こそ憎んでいた。けれど、すぐに気持ちを整理することができた。離婚する前から、父は紗季のことをそれほど愛してはいなかったからだ。

幼い頃、紗季は一生懸命勉強し、何をするにも一番を目指していた。

それなのに、父はいつも紗季に冷たかった。その目に、父としての愛情を感じたことは一度もなかった。

「そうなの?」由美は少し驚いた。

「そういえば、紗季も小さい頃、絵を習ってたわね」秀子が言った。

「でも、結局ものにはならなかったけどね」紗季は奏太の頭を撫でた。「奏太のほうが私よりずっと才能があるみたい。隔世遺伝っていうのかもね」

その言葉を聞いた由美の笑顔が、一瞬だけこわばった。

彼女は箸を置き、秀子と顔を見合わせた。けれど結局、何も言わなかった。

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