LOGIN「アーシュ、どうして……?」
ディートハルトは眉をハの字にして、苦しそうな表情を向けてきた。
そんな顔しないで……。私は奥歯をぐっと噛んだ。
ちゃんと言わないと……。
「もっ、もともと、親同士が好き合ってると勘違いして婚約しっちゃったじゃない? うちは貧乏男爵家で、あなたの家は伯爵家……。それにもう騎士団に入るんだし、女性除けも必要ないわ。あなたの人生がかかってるんだもの、結婚は釣り合った人とした方がいいわ……」
私は息も忘れて、彼への気持ちを吐き出した。
「嫌だ……」
「えっ……?」
「僕は、アーシュ以外となんて嫌だ!」
腕を掴まれ彼に引き寄せられる。
気がつけば、また逞しい腕の中に包まれる。
「ちょっ、ディー! きついわ、離して……」
渾身の力で分厚い胸板を押しても、びくともしなかった。
「嫌だ!離さないよ。だって、離したらアーシュは逃げてしまうだろう?もう、このまま僕の腕の中に閉じ込めてしまいたい……」
ディートハルトはどうしてしまったのだろう……。
「に、逃げないから……。お願い、離して?」
私は上を向いて懇願した。
夕日に照らされて、オレンジがかった翡翠の瞳と目が合う。
その瞳からは熱い何かを感じた。
幼い頃とは違い、もう大人の男性なのだと……。
視線をそらしたいのに、その瞳から目が離せなかった。
私たちの距離はどんどん近づき、ディートハルトの顔がぼやけていく。
「っ……!」
唇がほんの少し——触れる。
少し距離を離して、彼が私の顔を覗き込む。
前髪がまた触れ合う。
何度も角度を変えて、彼の柔らかい唇が降ってきた。
息もできず、気持ちも胸も苦しくなる。
ようやく唇が離れ、私は肩で息をした。
顔に血液が集まり、火照っているのが分かった。
「アーシュ、耳まで真っ赤だよ」
ディートハルトの吐息が耳にかかり、赤く染まる。
私はディートハルトの胸を力いっぱい押して、ようやく腕の中から離れられた。
「ディー……、どうしてこんなこと……」
ディートハルトは悪びれた様子もなく、首を傾げた。
「ずっとしたかったから……?」
「えっ……、何言って……」
「君は魔道具に夢中で、僕と二人きりの時間を作ってくれなかっただろう?」
「うっ……」
魔道具課に確実に内定をもらうために、王家が発行する特許を取る必要があった。
魔力量が少なく、派手さに欠ける私には努力量でしかその壁を越えられなかった。
平日も授業が終われば、研究部に行き、週末もイヴェッタと共に魔道具の研究に勤しんでいた。
婚約者とは名ばかりで、食堂で会えば話す程度となっていた。
まして、二人きりで会うなど……。
はぁ……とディートハルトが溜息をついた。
「君が昔から魔道具作りが好きで、内定をもらうために努力していることもしっていたよ。だから、会いたいとかデートしたいとか言わなかった」
「うん……」
「本当は君を抱き寄せたかったし、キスだってしたかった。それ以上だって……」
「……っ」
それ以上って……。
私は心臓が早鐘を打ち、うつむいた。
てっきり騎士課の訓練が忙しいから、声をかけてこないのかと思っていた。だから、もう私は必要ないのかと……。
「でも、まさか婚約解消したいなんて言われると思わなかった。だから、もう——我慢するのはやめた」
ディートハルトが私の腰に手を回し、ぐっと引いた。
ラベンダーの香りが鼻孔をくすぐる。
反対の手で顎を持ち上げられて、強制的に上を向かせられた。
ディートハルトの親指が私の唇をなぞった。
「まるで、さくらんぼみたいな唇だね……。すごくおいしそう……」
今日のディートハルトはおかしい。
ラベンダーの粉に何か変な物でも混ぜてしまっただろうか……。
ゴーン、ゴーンと寮の門限を知らせる鐘が鳴り響いた。
私は勢いよく立ち上がり、「戻らないと!」と言って寮まで走り抜けた。
ディートハルトの様子をうかがう余裕はなかった。
あれは誰……?
寮の自室に入り、ドアを閉めた所で腰が抜けてヘナヘナと座り込んでしまった。
アルディの声がして、私は急いで外に出た。「アルディ!」アルディが大きな男性を木に追い詰めていた。「アルディ! どうしたの?」私はアルディに駆け寄る。「この人が、窓からお母様を覗いていました! 不審者だ!」アルディは木の棒を振り回し、その男の人に向けた。「アルディ! まず、話を聞きましょう……」私は、その人に目を向けた。 所々汚れてほつれた衣類。日焼けした肌に白いシャツ、厚い胸板。金色の髪が肩まで伸び、無精髭が生えている。ドクン。私を優しく見つめる。――翡翠色の瞳。見間違えるはずがない——この子と同じその瞳。 「あ、あああ……」私は言葉にならなかった。「……お母様?」アルディが眉を下げて、私を覗き込む。「こんな、身なりで……、ごめん。久しぶり、アーシュ……」「ディー……。どう――して」「そんなの、――決まっている」ディートハルトが、一歩ずつ近づく。私は、後ずさりする。アルディが私の前に立ち、木の棒をディートハルトに向ける。「近寄るな! お母様は、――ボクが守るんだ!」「お母……様?」彼の瞳が大きく見開かれ、じっとアルディを見る。「その瞳……。この子は……」アルディが木の棒を振りまわしながら、ディートハルトに向かっていく。ディートハルトは避けずに全て受け止める。そして、尻もちをついた——目には涙をためて。「どうだ! 参ったか! これにこりて、二度と来るな!」アルディは私の手を引いて、店に入った。閉まる扉の隙間から、顔を押さえ、うずくまる彼
「アルディ、何か変わったことはなかった?」「うん、何もなかったよ!」私と同じ色の髪が揺れ、翡翠色の瞳が私を見た。「いつも、警備ご苦労様。何か飲む?」「うん! 冷たいの!」「はーい」私はカウンターに座る我が子を見て、目を細めた。髪は私に似たけど、幼い頃の彼にそっくりだわ。カランコロン。「いらっしゃい……、あっエクリアさん、ルシアンも!」「アルディ~! また、大きくなったな~」ルシアンが親戚の伯父のように優しく声をかける。アルディが二人にお辞儀をした。私が道具課を辞めて、この店を開いた。二人は常連さんだ。「何か飲みますか? いつものでいい?」「じゃあ、お言葉に甘えて……」ルシアンが笑った。その頭を、容赦なくはたかれる。「いたっ」「ちょっと、ルシアン。ここはカフェじゃないのよ? 魔道具店!」「分かってますよ~」二人のいつものやり取りに、私の頬が緩む。「ふふふ。いいんですよ、ちょうどアルディの分も作るところですし……。それに、お客さんのは魔道具を作っている間、お茶をしてのんびり待っていてほしかったんです……」アルディにフルーツジュースを置く。「そうだったんだね。うん、いいねぇ。お客さんはどう? やっていけそう?」「はい……。少しずつ、街の人も増えてきて、なんとかなりそうです……」エクリアさんがホッと息を吐いた。「そう……。良かった……」エクリアさんは目尻に優しいシワを作る。「忙しくなったら、俺がいつでも手伝いに来ますからね! なんなら、雇ってもらっても……」エクリアさんが、ルシアンの耳をひっぱった……。「いてててて……。最近、エクリアさんひ
――退団届。「どうしても、見つけないといけない人がいます」「地位も名誉もよりもか……。今までの努力が……」俺は爪が食い込むほど、手を握った。「構いません。俺には、その人の方が大事だからです」「はあ……。お前も頑固だからな……。でも、退団だけはするな」「――しかし」団長が机に置いた封筒を持って、俺の胸に押し付けた。「落ち着いたら、手紙をくれ。俺がその地域の騎士団に異動させてやるから……」俺は退団届をクシャッと握り込む。団長の大きな手が、俺の頭を撫でて髪が乱れる。その手はとても重かった。「――はい。感謝します、団長」団長は白い歯を見せて笑った。 ◇◇◇ 騎士団の荷物は意外と少なかった。まぁ、ほとんど討伐でこの事務所にはいなかったから……。訓練場を見渡す。青い空に緑の芝が揺れる。息を吸いこめば、青々とした香りが胸に広がる。俺は前を向いて、出口を急いだ。——その時。後ろから芝を駆ける音がした。振り向く間もなく、お腹に手を回された。その手はひどく震えて、冷たかった。子どもみたいに小さな手。その手に俺は幾度も助けられてきた。「なんでだよ! なんで……。ひどいよ、ディー……」――レイン。「すまない。急いでいたんだ。お前にはたくさん世話になったのに……」「そうだよ! 相棒だったじゃん。それなのに、何の相談もなく、休団するなんて!」「……」胸が痛かった。「あの、アーシュレイって女が原因なんだろう? あんなひどいことされたのに、なんで? もう、離婚だってできるじゃないか!」
イヴェッタに会議室に通される。「なんか飲む?」その声に感情が見えなかった。「いや、大丈夫だ」「……」イヴェッタが自分の紅茶をカップに入れて、飲みながらテーブルの椅子に座った。俺も彼女の向かいに座った。「で、今さら、何しに来たの?」「は? それは、どういうことだ……? 討伐が終わったから帰ってきたんだ。」彼女の言葉にはいつも、棘がある。「そうね。副団長様だもんね。就任おめでとうございます」祝う気のない顔で、イヴェッタはそう言った。「ありがとう……」「昨日、家に帰った。アーシュがいた痕跡がなかった。よく着ていたワンピースもなかった。俺からの手紙も……」「魔道具課にはもう、アーシュはいないわよ。あなたが討伐に出発して、すぐに辺境の地に異動になったのよ」――異動?あんな時期に?イヴェッタが口元を歪めた。「自分で異動願いを出してね……」「アーシュが自分で!? いったいなぜ……。彼女は今どこにいるんだ!」イヴェッタの眉に深い皺ができる。「言うわけないじゃない。アーシュがあなたに手紙の一つも残さないで行ったのよ。それって、――分かるわよね?自分のことばかり考えているから、こうなるのよ。ま、一つ言えることは、アーシュは今、幸せに暮らしているわ……」「幸せ……?」俺のいないところで……?丸眼鏡の奥の瞳がいたずらに、微笑む。「そうよ。とーってもね」「4年別居なら、片方だけの署名で離婚できるわね」――離婚。イヴェッタが優雅に紅茶を飲む。「ま、婚姻を結んだまま、その――レインって子と一緒になるでもいいし。どこかの、貴族女性と再婚するでもいいんじゃない? きっと熱心なあなたのお母様が見つけてくれるわよ。なんたって、―
「副団長!お疲れ様です。 もう、お帰りになるのですか?」俺は騎士団本部で、帰りの支度をしていた。魔獣討伐に出て、――4年。やっと、帰ってこられた。俺は今回の討伐中に、副団長に就任した。アーシュは喜んでくれるだろうか。赤い髪をなびかせて、花のように笑う彼女が頭に浮かんだ。俺は口元が緩んだ。「副団長、にやけてますよ……。奥様、魅惑的ですもんね~!うらやましいですよ。奥様が食堂に来る時間は男性職員で混んでるって言いますからね!」「は……?」「ちょっと、副団長! 俺を睨まないでくださいよ。噂ですよ、噂……。今日は熱い夜になりそうですね~。では、失礼します!」そう言って、なかば逃げるように、若い団員は事務所を出ていった。食堂での様子を想像し、俺は奥歯に力が入った。あんなに清らかなアーシュに……。俺は頭を振る。――今日会えるんだから。俺は荷物をまとめ、足早に事務所を出た。手紙の返事がなかったことなど、忘れて……。 早く着きたくて、馬で伯爵邸に帰ってきた。夜も更け、屋敷も静かになっていた。扉を開けると誰かが立っていた。「おかえり……」さらに細くなった母の手が、俺の顔をなでた。「ディートハルト、またやせたんじゃない? 肌の色もこんなに焼けてしまって……。――体は? ケガはしていない?」母が俺の周りを回り、体を確認する。「また、一段と逞しくなったわね。でも、伯爵家当主になるんだから、そんなに鍛えなくても大丈夫よ?」――また、その話か。「でも、若い貴族女性には好ましいかもしれないわね……。何人かに声をかけてみようかしら……」母が何やら独り言を言った。「母さん、心配ありが
――もう、妊娠8か月になった。 あのあと、所長に申請書を出して、時短勤務にしてもらうことができた。 つわりのひどい時は何日も休みをもらった。 もちろん、良く思わない人もいた。 でも、エクリアさんやルシアンが私の分の仕事を請け負ってくれた。 私は背伸びをして彼の頭をなでた。 「ルシアン……。あなたやエクリアさんのおかげで、ここまで働くことができたと思っているわ……。本当に感謝を……」 なでた手をルシアンに掴まれた。 「――そうじゃない! もっと大事にされるべきなんですよ! あなたは……! 赤ちゃんだって……」 ルシアンは知らないから……。 ――私のずるさを。 婚姻を保ったまま、逃げたのは——私だから。 こんな方法しか、思いつかなかった。 彼とつながっている紙きれだけのこの関係を……。 私が——望んだんだ。 「うん……。 ルシアンの気持ち、嬉しいよ……。ありがとう……。明日から、家でゆっくり過ごすわ」 「俺だったら、もっと大事にするのに……」 それはまるで吐息のような声だった。 「……? 今なんて……?」 ルシアンは顔に似合わない、大きなため息をつき、髪の毛を勢いよく掻いた。 「まあ、いいです。産休に入っても、連絡くださいね! 俺もエクリアさんも、いるんですからね!」 「うん。ありがとう。頼りにしてますよ! 魔道具課のエース君!」 「あ、また俺のこと子ども扱いして……」 「あはは。だって、弟みたいに大事だから」 彼は口を結んで、何とも言えない顔をした。







