로그인紗月自身も、ここまで強く拒絶反応を示すとは思っていなかった。 まだ意識はぼんやりしていて、身体もまともに力が入らない。頭も上手く働かないまま、慎一を前にした瞬間――ただ反射的に、本音が出てしまったのだ。 拒絶してしまったあとになって、紗月は少しだけ後悔した。さすがに今の態度は、悪かったかもしれない。 けれど、自分を責めるより先に、慎一の冷たい笑い声が落ちてくる。 その目には、いつものように軽蔑が滲んでいた。「まるで俺がお前に触りたがってるみたいな反応だな」 吐き捨てるように言ってから、慎一は鼻で笑う。「わざわざ俺の前で倒れたくせに。……相変わらず大した手だな、紗月」「……」 紗月は何も言えなかった。 慎一に誤解されることなんて、今まで何度もあった。 忘れたつもりでいた。 気にしないようにしていた。 本当は、そのひとつひとつが、心の奥にずっと積み重なっていたのだ。 昔は必死に弁解していた。 少しでも自分を理解してほしくて、嫌われたくなくて、何度も言葉を尽くした。 でも今は、もうそんな気力も残っていない。 胸の奥だけは、相変わらず慎一の言葉ひとつで痛むのに。反論も、言い訳も、何ひとつ口にできなかった。 ――慎一がそう思いたいなら、それでいい。 どれだけ頑張っても、この人の考えは変わらない。 少し前までは、どれだけ遠くても、想い続けていればいつか届くのだと思っていた。 いつか振り向いてもらえると。 いつか、自分を見てくれる日が来るのだと。 今となっては――そんなふうに信じていた自分が、ひどく滑稽に思えた。「どうした。図星か?」 紗月が俯いたまま何も言わないのを見て、慎一は彼女が言い返せないのだと勝手に解釈した。 視線に宿る軽蔑がさらに濃くなる。 その一方で、胸の奥には妙な安堵もあった。 こんな真似をするということは、紗月はまだ自分の気を引こうとしている。 まだ自分へ執着している。 そう思った瞬間、胸の内に張りついていた得体の知れない焦燥が、わずかに薄れていく。 (やはり紗月は、自分から離れられない。) その確信が、不思議なほど慎一を落ち着かせた。 ただ、自分の身体を壊してまで気を引こうとするやり方は、気に入らなかった。 慎一は不機嫌そうに眉を寄せたまま、低く硬い声で続ける。「医者に点滴は打たせた。
紗月は、自分が深い海の底へ沈んでいくような感覚に包まれていた。 どこを見渡しても、果てのない闇しかない。 息苦しいのに、不思議と冷たくはなかった。 むしろ、ぬるい水に全身をゆっくり侵されていくような、淡い温度だけがあった。 足元にも何もない。 地面を踏みしめる感覚はなく、底の見えない闇へ引きずり込まれていくような恐怖だけが、じわじわと身体にまとわりついてくる。 紗月は前へ進もうとした。 けれど、どれだけ歩いても景色は変わらない。闇から抜け出すこともできなかった。 行く当てもないまま、それでも彼女は歩き続けた。疲れすら感じない。ただ意味もなく、ひたすら前へ。 やがて立ち止まり、気づいてしまう。 ――どれだけ足掻いても、結局は無駄なのだと。 そして、ふと理解した。 現実でも、この奇妙な暗闇の中でも、きっと同じなのだ。 水面に浮かぶ月のように。どれほど焦がれても、求め続けても。それは決して、自分のものにはならない。 目を開けるより先に、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。 ひどく切羽詰まった声音だった。意識の霞んだ紗月には、それが誰なのか分からない。 次の瞬間、強い光が瞼越しに差し込み、紗月は眉を寄せて再び目を閉じた。 すると不意に、手へ重みが落ちる。 誰かに強く握られている。 痛みを感じ、紗月は小さく呻いた。「……っ」 その声を聞いた途端、手を掴んでいた力はすぐに離れていった。* 紗月が倒れてからの数時間、慎一は自分でも理解できない焦燥感に苛まれていた。 落ち着かない。 妙に胸がざわつく。 そんな自分自身に、慎一は苛立っていた。 相手は紗月だ。 ただ気を失っただけかもしれない。あるいは、自分の前でまた芝居をしている可能性だってある。 それなのに、なぜここまで神経を乱されなければならないのか。 だが結局、社長室へ紗月を運び込むと、慎一はすぐ朝倉家専属の家庭医へ連絡を入れていた。 医師は十五分ほどで到着した。 呼吸や脈拍、瞳孔反応を手際よく確認し終えると、医師は慎重に慎一の顔色を窺いながら口を開いた。「朝倉様。奥様ですが……おそらく過労かと」「過労?」「かなり体温が低いですね。脈も弱いですし、低血糖を起こしている可能性もあります。ひとまず点滴を入れますが……目を覚まされた後、一度きちんと病院で精密検
ここ数日、逃げるように仕事へ没頭し続けたせいで、身体はとっくに限界を迎えていた。 それなのに、紗月は目を閉じても眠れなかった。 終わりの見えない、ひどい不眠だった。 眠れないだけではない。 食欲もほとんど失われていた。数日間、まともに口にできたのはほんの少しだけ。顔色も明らかに悪く、普段そこまで親しくない同僚ですら「大丈夫ですか」と声を掛けてくるほどだった。 けれど紗月自身は、自分が壊れているとは思っていなかった。 まだ働ける。 数字や資料で頭を埋め尽くしている間だけは、余計なことを考えずに済む。それがここ最近、唯一息をつける時間だった。 幸い、プロジェクト自体は順調に進んでいた。 第二フェーズの定例報告会も目前に迫っている。 徹夜で仕上げた資料とプレゼン用のPPTを蒼空へ渡した瞬間、彼は大げさなほど目を輝かせ、五分近くずっと紗月を褒め続けた。「紗月さん、すごすぎます! これ、めちゃくちゃ時間かけましたよね? ……というか、顔色かなり悪くないですか? 報告会、本当に大丈夫です?」 紗月は小さく笑って首を振った。 疲労のせいで、その笑みはどこか弱々しい。「大丈夫。ちゃんとできると思う」 この報告会を、彼女はずっと楽しみにしていた。ほとんど、自分のすべてを注ぎ込んできたと言ってもいい。 ようやく自力で掴み取った案件だった。 だからこそ、何より大切だった。 前回は慎一のせいで、報告の場を逃した。だから今回は、絶対に失いたくなかった。 欲しいものは、いつだって手に入らない。 せめて仕事だけでも。 自分が努力した分だけ返ってくる成果くらいは、ちゃんと掴みたかった。 紗月の言葉を聞いた蒼空は、一瞬だけ複雑そうな顔をした。 同情にも似ているのに、それだけではない何かが混ざったような表情。 けれど、それもほんの一瞬だった。 今の紗月には、そんな違和感に気づく余裕すらなかった。 蒼空によれば、報告会は来週月曜。 そんな重要な日程ですら、紗月は最後になって知らされた。正式な通知メールも来ていない。 関連書類やデータを一通り引き継ぎ終える頃には、蒼空が本社へ戻る時間になっていた。 エレベーターへ向かう途中、紗月はめくれ上がっていた廊下のカーペットに足を取られた。「っ……」 身体が大きく傾く。 その瞬間、蒼空が咄嗟に紗月の
紗月にとって、家へ帰らなかった夜は、これが初めてだった。 彼女はそのまま会社に残り、正田から渡された資料を確認し続けていた。 読み進めるほどに、フォルダの中には他部署の案件資料まで大量に混ざっていることに気づく。しかも、どこに問題があるのか明記されているわけでもない。 紗月はひとつひとつファイルを開き、全文を読み込み、さらに社内オンラインストレージから関連するプロジェクト資料を探し出して照合していった。 ひどく非効率な作業だった。 それでも彼女は手を止めなかった。 何か別のことに集中していなければ、頭の中に浮かんでくる慎一のことを、どうしても振り払えなかったからだ。 愛していた人が、こんなにも醜く見えてしまう。 その事実が、紗月には苦しかった。 その夜、紗月は会社の仮眠室で過ごした。 照明を落としても、室内は完全な暗闇にはならない。 カーテンのない窓からは、向かいに立ち並ぶオフィスビル群の灯りが絶え間なく差し込み、白く滲んだ光が静かな仮眠室をぼんやりと照らしていた。 紗月は眠れなかった。 ソファに横になったまま、紗月はただ窓の外の夜景を眺めていた。 仕事の手を止めた途端、脳裏ではまた慎一との記憶が勝手に流れ始める。まるで停止ボタンの壊れた映写機みたいに、次から次へと映像が再生されていった。 逃げられない。 振り払えない。 慎一を思い浮かべるだけで、涙が勝手に溢れてしまう。 不思議だった。 慎一に酷い扱いを受けるのは、今さら始まったことじゃない。 結婚したあの日から、紗月の日々はずっと、光のない夜の中にいた。 先に希望なんて見えない。 それでも彼女はひとりで歩き続けてきた。 苦しくても。 辛くても。 絶望しても。 それでも慎一を愛していたから、全部を抱えたまま耐え続けてきた。 だから今まで、こんなふうに泣いたことなんてなかった。 諦めようと思ったことも、一度だってない。 もしかしたら、三年分の涙が限界を迎えただけなのかもしれない。 蓋をしていただけで、痛みも、報われない想いも、ずっと胸の奥に残っていた。 開ける前に激しく振られた炭酸みたいだった。 蓋を開けなければ平気だったのに、一度溢れ出してしまえば、もう止められない。 最初は静かに涙を流していただけだった。 気づけば紗月は、小さく身体を丸めたま
慎一が朝目を覚ましたとき、隣はすでに空だった。今度は、紗月のほうが先に出ていったらしい。 時計を見る。まだ六時にもなっていなかった。 紗月が何時に起きたのかは分からない。以前なら、先に出ていくのはいつも慎一のほうだった。 それを今朝は紗月に先を越されたのだと思うと、慎一は妙に面白くなかった。 別に気にしているわけじゃない。 紗月がいないほうが、むしろ都合がいい。ようやく身の程をわきまえたというだけだ。 そう思っているはずなのに、ベッドを下りる前、慎一はまるで何かに取り憑かれたように、隣のシーツへ手を伸ばしていた。 そこに残る体温を確かめる。もう冷えきっているのかどうか。それさえ分かれば、紗月がいつ出ていったのかも分かるとでもいうように。 自分が何をしているのかに気づいた途端、慎一自身もさすがに馬鹿げていると思った。 苛立たしげに、低く鼻を鳴らす。 いったい何に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。 朝の五時台、空はまだ薄暗い。雨のせいで外気は冷え込み、室内にも湿った冷たさが入り込んでいる。 慎一は部屋を出ると、何気ないふりをして家の中を一巡した。そして最後に、紗月の閉ざされた部屋の扉の前で視線を止める。 これまでの慎一なら、この家に一秒でも長くいるだけで不快だったはずだ。 それなのに今は、わざわざキッチンへ行き、豆から挽いてコーヒーを淹れる余裕まであった。 ゆっくりと時間をかけて、それを飲み干す。 そのあいだも、意識はずっと散漫だった。 扉の向こうで、紗月はまだ眠っているのだろうか。 気づけばカップは空になっていた。 それでも家の中は静まり返ったままで、自分以外の気配はどこにもない。 結局、慎一は無意識のうちにひどく時間をかけてから、ようやく家を出た。 玄関で初めて気づく。 紗月がいつも通勤に履いている靴は、とうに消えていた。* その日、紗月は会社に一番乗りした。 夜中に目を覚ましてから、ずっと眠れなかった。 慎一のそばにいたせいかもしれない。 けれど自分の部屋に戻ってからも、眠気は少しも訪れなかった。 理由もなく気持ちは沈んでいるのに、心臓だけは昂ぶったまま、どくどくと音を立てている。苦しかった。 目を閉じるだけで、慎一との記憶が次々と押し寄せてくる。 いい思い出も、悪い思い出も、入り混じって
今回は、これまでで一番長かった。 そのうえ、終わりの見えない苦しさだった。 ただ欲を発散するだけなら、慎一はもっと早く終わらせる。 今夜の彼は違った。紗月を壊したいかのように、じわじわと逃げ道を塞いでくる。 慎一の指先は、少しも容赦をくれなかった。紗月の知らない触れ方を、彼はいくつも知っていた。 途中から紗月は泣きすぎて声が掠れ、まともに言葉も出せなくなっていた。 身体は震え続け、息も上手くできない。 それなのに慎一だけは、最後まで乱れない。 シャツもきっちり閉じられたまま。ネクタイこそ外れているものの、それ以外は普段の彼と何も変わらない。 ただ一か所だけ、隠しきれない熱を帯びている以外は。 まるで、愛し合っているとは思えなかった。汗と涙で乱れているのは紗月だけで、シーツにまで湿り気が残っている。「や……もう、やだ……」 こんな強い快感、もう耐えられない。 波のように押し寄せる感覚が、慎一のせいで何度も終わってくれない。身体を激しく揺さぶられるたび、頭の奥まで白く痺れていく。 もう、これ以上は続けたくなかった。 涙で滲む視界の向こう、慎一を見上げながら、紗月はかすれた声で懇願した。 慎一はぴたりと手を止めた。 降ってきた声は、変わらずひどく冷たかった。「紗月。入れてほしいなら、自分から頼め」 そんなこと、言いたくなかった。 悔しくて。 惨めで。 それでも慎一の思い通りになるのが嫌で、紗月は唇を噛み締める。 黙ったままの紗月を見て、慎一はまた指を動かし始める。 許してくれるつもりなんて、最初からない。 結局、耐え切れるはずもなかった。 紗月は涙でぐちゃぐちゃになりながら、途切れ途切れに彼の望む言葉を口にする。 その瞬間、また新しい熱に呑み込まれた。* どれくらい時間が経ったのか、もう分からなかった。 途中から記憶は途切れ途切れで、紗月はいつの間にか意識を手放していた。限界まで体力を使い果たし、そのまま眠りに落ちたのだろう。 再び目を開けた時、部屋は薄暗い夜に包まれていた。 閉め切られていないカーテンの隙間から、夜の気配だけが淡く差し込んでいた。 喉が痛い。 身体は鉛みたいに重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。 しばらくぼんやりと天井を見つめていた紗月は、ようやく違和感に気づいた。 いつの