LOGIN翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。
全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。
キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。
紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。
まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくないとでもいうように。
そのとき、インターホンが鳴った。
慎一がドアを開ける。すぐに、外から若い女性の明るく弾む声が聞こえてきて、そのまま紗月の耳に届いた。
「社長〜、今日が正式に入社して初日なんですよ。お迎えに来ちゃいました。感動してくれます?」
「由衣か。どうしてここがわかったんだ」
「社長の秘書さんに聞いたんです。昨日はホテルに戻らず、そのままご自宅に帰られたって……秘書さん、私のことかなり気に入ってるみたいで、社長のことを聞いたら何でも教えてくれるんですよ。社長、私に付きまとわれちゃいますよ?」
スクリーンで見た印象そのままに、彼女は明るくて屈託がなく、まるで小さな太陽のようだった。
紗月も思わずそちらへ足を向ける。ちょうどそのとき、彼女が親しげに慎一へと身を寄せるのが目に入った。
慎一はどこか含みのある笑みを浮かべ、視線を柔らかくする。そして優しく手を伸ばし、彼女の身体をそっと外へ押しやるが、その動きはあまりにも軽く、ほとんど意味をなしていなかった。
綾瀬由衣。
昨日、ニュースで彼女の新しい声明と写真を見たばかりだった。その本人が今、自分の家に立ち、しかも自分の夫とこんなにも親密にしている。どう見ても、最近知り合ったばかりの関係には思えなかった。
「気をつけろ。外ではそんなに近づくな。パパラッチに撮られたら面倒だ」
「いいじゃないですか〜。社長は私の恩人なんですから。違約金も全部払ってくれて、事務所にも入れてくれて……このご恩、一生忘れませんよ?」
「大したことじゃない。何度も口にするほどのことでもないだろう」
「大したことですよ! それに社長、新しいドラマにも投資してくれるって聞きました。お金、またたくさん使うんでしょう?」
「うちの所属タレントだ。売り出すために力を入れるのは当然だ」
「ふふっ、社長ってロマンチックですね」
二人の距離感はあまりにも近く、そのやり取りも自然すぎるほどだった。
紗月の顔はみるみるうちに青ざめ、唇は震えを抑えきれない。
もともと優れなかった体調は、胸の奥から込み上げる激しい嫉妬に煽られ、さらに悪化していく。
紗月の姿に気づいても、由衣は一歩も引かなかった。
大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながら、目の前のやつれた女を興味深そうに見つめる。
ひとしきり観察すると、彼女は自信ありげに胸を張り、紗月のことなどまるで相手にしていない様子で、甘ったるい声で慎一の名を呼んだ。
「慎一社長〜。この方、どなたですか? ニュースで見た、仲の良い奥様ですか?」
わざとらしいほど無邪気な口調で、しかし言葉の端々には明らかな棘があった。
そして、にこやかな笑顔のまま紗月に軽く会釈する。
「奥様、おはようございます。私、慎一さんをお迎えに来たんです。ですから、送りはご無用ですよ」
その言葉を聞いても、慎一は気分を害する様子はなかった。
彼は紗月を一瞥すると、わざとらしく由衣の肩に手を回す。くすぐったそうに、由衣がくすくすと笑い声をこぼした。
「お前がわざわざ挨拶するような相手じゃない」
そう言い捨てると、由衣を連れて、そのまま家を後にした。
すべては一瞬の出来事だった。 幸いだったのは、紗月が立っていた場所が足場の縁ではなかったことだ。 とっさに身体をひねったことで、そのまま床へ倒れ込み、間一髪で足場の外へ投げ出されるのは免れた。 しかし、その代償は大きかった。 足首に鈍い痛みが走る。 まだ治りきっていなかった場所を、再び捻ってしまったのだろう。今度は前回とは比べものにならないほど痛みが強かった。激しい痛みに息が詰まりそうになる。 紗月はその場に身体を丸めるように倒れ込んだ。 それでも、両腕だけは無意識にお腹を守るよう抱き締めたまま、決して離そうとはしない。 あと少し。 あとほんの少し位置がずれていたら、そのまま足場から真っ逆さまに落ちていた。 痛みがあまりにも激しく、息をすることさえ苦しい。 額には汗が滲み、全身は強張ったまま一歩も動けなかった。 視界まで歪み、ぐらぐらと揺れている。 それでも、その視界の端には由衣の足元が映っていた。 彼女は安全な場所に立ったまま、一歩も動こうとしない。 ただ静かに、紗月が苦しむ姿を見下ろしていた。 やがて痛みがわずかに和らぎ、紗月はゆっくりと顔を上げる。 その視線の先で、由衣は口元をゆっくりと吊り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。 その瞳には、凍りつくような冷たい悪意が宿っていた。 紗月と目が合っても、由衣は視線を逸らそうとはしなかった。 その身には、狂気と冷静さが同居したような、ぞっとする空気が漂っている。 紗月の心は、一気に底へ沈んでいった。 由衣が、はっきりとそう口にしたからだ。「やっぱり、本当に妊娠してたんだ」 その口調には、一片の迷いもなかった。 つまり、たった今の行動は、紗月が本当に妊娠しているのかを確かめるためだけのものだったのだ。* 昼休みが終わると、由衣は何事もなかったかのように撮影現場へ戻っていった。 だが、彼女が去った後も、あの低く不気味な笑い声だけはいつまでも紗月の耳にこびりついて離れない。 全身から血の気が引き、震えはいつまで経っても止まらなかった。 ――もう、ここにはいられない。 紗月は本能的に、お腹の中の子だけは守らなければならないと思った。 そう思った瞬間、紗月ははっと息をのんだ。 妊娠を知ってからというもの、胸の中はずっと複雑な思いでいっぱいだった。どこか現実味
休みが終わり、再び撮影現場へ出勤すると、紗月は由衣の周囲の空気がどこかおかしいことに気づいた。 これまでも由衣の機嫌がいいことはなかった。 だが今日は、紗月が現場に来た時から、由衣が何とも言えない視線でじっと彼女を観察していた。 その視線に、紗月はなんとなく背筋が寒くなる。 幸い、今日は由衣の撮影スケジュールがかなり詰まっていた。 ほとんどの時間をスタジオでの撮影に費やしており、紗月と顔を合わせる機会もあまりない。 それに、紗月は少しだけ安堵する。 今日は美咲から、セットの解体作業を手伝うよう指示されていたからだった。 本来であれば、この作業は専門の大道具会社の担当であり、解体スタッフの配置もすでに決まっていた。 そのため、紗月が来たところでかえって邪魔になるだけで、スタッフたちも困ったような顔をしていた。 結局、運搬などの簡単な作業だけを任されることになった。 それでも、美咲や由衣の傍にいるよりは、こちらの方がずっと居心地がよかった。 解体チームの雰囲気はとても良い。 四人しかいないからか、全員仲が良く、仕事中も笑い声が絶えない。 紗月が一人で黙々と作業をしていると、退屈しているのではないかと気を遣い、わざわざ会話に巻き込んでくれることもあった。 こんな職場の空気は、紗月にとってほとんど初めてのものだった。 朝倉サポートソリューションズでの日々は、毎日が息苦しく、張り詰めた空気の中で過ごすばかり。 由衣の傍も同じだった。 だからこそ、解体スタッフたちの楽しそうな会話を聞きながら、紗月も時折つられるように微笑み、小さな笑い声を漏らしていた。* 昼休み。 紗月は近くの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。 何気なく顔を上げた時、別の方向から由衣がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迷いのない足取り。 その視線もずっと紗月へ向けられている。 明らかに、自分を目当てにしているのだと分かった。 紗月の前まで来ると、由衣はゆっくり顔を上げ、目の前にある解体途中の背景セットへ視線を向けた。 それは数日前の撮影で使われていたセットだった。 二階建てほどの高さがある、マンションのバルコニーを模したセット。 高層階のベランダを演出するために作られたものだ。 今は、もともと取り付けられていた透かし彫りの装
不安な数日を過ごした後、紗月は休みの日に病院を訪れ、改めて検査を受けた。 そして結果を告げられた瞬間、彼女は全身から力が抜け、そのまま診察室の椅子へ崩れ落ちる。 そんな紗月の反応を見て、医師もすぐには言葉を続けなかった。 少し間を置き、言葉を選ぶようにしてから、穏やかな声で口を開いた。「現在は妊娠四週前後ですね。二週間後にもう一度来院していただいて、胎嚢の位置を確認しましょう。その後、今後の検査予定なども一緒に決めていきますが……朝倉さん、それでよろしいですか?」 紗月の思考は止まったままで、視線もずっと宙の一点を見つめたまま動かなかった。 医師の言葉は耳に入っていた。けれど、それを理解するまでには少し時間が必要だった。 しばらくしてからようやく、何を告げられたのかをゆっくり理解し始める。「あ……はい……」「では、今日のうちに次回の予約もできますが……」 医師は手元の予定表を確認しながら日付を口にした。 それでも紗月の反応が遅いからといって急かすことはなく、ただ辛抱強く返事を待ってくれる。 こうして突然妊娠を告げられ、頭が真っ白になってしまう患者は珍しくないのだろう。 医師の落ち着いた態度からは、そんな慣れた優しさが感じられた。 彼女は意識してゆっくりとした口調で話し、紗月から再び返事を聞くと、安心させるように穏やかな声で続けた。「朝倉さん、まだ赤ちゃんは小さいですから、どんな決断も遅くはありません。もし迷いや不安があるようでしたら、ご相談をお受けする専門の窓口もございますので、ご希望でしたら予約をお取りできます。また、必要であれば産科への紹介状をお作りすることもできますよ」「あ……」 一瞬、紗月の心が揺れた。 ぼんやりと医師を見つめた後、気づけば無意識のうちに小腹へ手を添え、少し迷うように首を横に振った。「いえ……大丈夫です。二週間後にまた来ます」 医師は頷き、ゆっくり立ち上がる紗月を見ながら、最後に一言付け加えた。「朝倉さん、できれば診察にはご主人も一緒に来られるといいですね。妊娠中の注意点は、ご家族にも知っておいていただいた方がいいですから」「……はい」 婦人科を出ると、外は気持ちがいいほどの晴天だった。 人で賑わう街の中に立ちながら、紗月は自分がどこへ向かえばいいのか分からなくなっていた。 足が重い。
飯野は普段から口が軽く、思ったことをそのまま口にするタイプだった。今の言葉も、ただ下品な冗談のつもりで口にしただけだ。 まさか紗月が一瞬で顔色を変えるとは思っていなかった。 目を大きく見開き、何かに怯えるような表情を浮かべる。 その反応はあまりにも異様で、飯野も思わず呆気に取られた。 さらに冗談を続けようとしていた口も止まる。「まさか……当たったの? 本当に妊娠してるとか? ちょっと待ってよ、怖いんだけど! 俺、妊婦とどうこうする趣味はないからね」「あ……違います……違う、そんな……」 紗月は慌てて否定しようとする。 あまりにも動揺していて、飯野の言葉がどれほど失礼かを考える余裕すらなかった。 ただ、胸の奥には奇妙な恐怖がじわじわと広がっていく。 ――もし、本当に当たっていたら。 こんなひどい生活の中で、もし本当に慎一との子供ができていたら……。 そう考えただけで、紗月の顔からさっと血の気が引いた。 あれほど自分を嫌っている慎一が、その子を歓迎してくれるはずがない。 気づけば、紗月の手は無意識のうちにお腹へ伸びていた。 まだ何の実感もない。 けれど、ここ数日は確かに疲れやすく、食欲もなかった。 ずっと仕事の疲れだと思っていた。 しかし今、この止まらない吐き気が、紗月に別の可能性を疑わせる。 そう考えた瞬間、顔色はみるみる失われ、頭の中は真っ白になった。 そんな紗月に、飯野が再び手を伸ばそうとしたことで、彼女はようやく我に返る。「すみません……」 小さくそう言い残すと、紗月は逃げるようにその場を後にした。 バッグを取りに戻る余裕すらなかった。 紗月はスマートフォンで検索し、一番近いドラッグストアへ向かうと、そのまま妊娠検査薬を購入した。 こういうものを買うのは初めてだった。 結婚してから夫婦生活はあったが、慎一は毎回きちんと避妊をしていて、その可能性を徹底的に排除していた。 ただ、最近の数回だけは確かに……。 検査薬の箱を握りしめながら、紗月はこれまでのことを思い返していた。 慎一でさえ余裕を失うほど激しかった時もあり、何度かは完全に避妊できていなかったこともあったのかもしれない。 その頃の紗月は、意識を失うほど疲れ切っていて、目を覚ました時にはいつも慎一がすべてを片付け終えていた。 だからこそ、これま
由衣としても、紗月を傍に置いているだけで目障りだったのだろう。 だからこそ、こんなやり方で自ら諦めて身を引いてくれればいいと考えた。 それに、今日立花が紗月にオーディションの話を持ちかけたことを思い出すだけで、由衣の胸には苛立ちが込み上げてくる。 一刻も早く紗月を自分の前から消してしまいたかった。 視界に入らないだけで、どれほど気が楽になることか。 慎一がどういうつもりで紗月を自分の傍に置いたのか、由衣には分からなかった。 最初は、数日だけ自分のおもちゃ代わりにして遊ばせるつもりなのだと思っていた。 だが、どうやら由衣の思っていたような話ではなかったらしい。紗月は毎日律儀に現場へ顔を出し、慎一は一度として撮影所に姿を見せない。 由衣自身、もうこんな嫌がらせじみた遊びを続ける気力はなくなっていた。 紗月が嫌いなのは本当だが、慎一のいない場所でどれだけ紗月を虐めたところで、自分には何の得もない。 それどころか、毎日の撮影でようやく保っている機嫌まで悪くなる。 まったく割に合わなかった。 もちろん由衣は知らない。 もし選べるのなら、紗月だって好きでここで仕事をしているわけではないことを。 目の前に置かれた、今にも溢れそうなほど並々と注がれたビールジョッキを見つめながら、紗月はわずかに躊躇した。 すると、周囲から「飲んで!」「いけるいける!」と囃し立てる声が上がった。 一人ではない。 次々と声が重なり、その場の空気はみるみるうちに熱を帯びていく。 まるで、紗月が飲み干すまでこの騒ぎは終わらないと言わんばかりだった。 由衣は冷ややかな笑みを浮かべながら、迷っている紗月を眺める。やがて紗月は両手でジョッキを持ち上げ、ゆっくりと何口か続けて飲んだ。 しかしジョッキを下ろしても、中身はほんの少し減っただけだった。 それを見た一人の俳優が面白そうに笑う。 もっと飲めと囃し立てながら、男はしつこく紗月を急かした。 もともとは向かいの席に座っていたが、それでは不便だと思ったのか、いつの間にか隣のスタッフと席を替わり、紗月のすぐ横へ移動してきていた。 そして、笑顔のまま、一口飲むたびにまた次の一口を勧めてくる。 由衣はそんな様子を黙って見ていた。 当然、その男の下心にも気づいている。 紗月は女優ではない。 ただの付き人だ。 そし
由衣は立花に対しても、いつも通りの甘く愛らしい笑顔を浮かべていた。 だが、立花は特別な反応を見せることはない。 他のスタッフのように機嫌を取ることもなく、終始一人の役者として接しているだけだった。 穏やかに頷き、「分かりました」と一言だけ返すと、再び紗月へ視線を向ける。「さっきの話は、また今度にしましょう」 紗月ははっとして、慌てて頷いた。「……あ、はい」 立花の姿が完全に見えなくなるまで見送った瞬間、由衣の顔から、それまでの愛らしい笑みが跡形もなく消えた。 紗月の肩を掴んでいた指先にも力がこもり、痛みに思わず身を引こうとした。 しかし、由衣は手を離さなかった。 それどころか、逃げられるのを恐れるかのように、さらに強く肩を掴んだままだった。 一瞬、由衣の表情が醜く歪む。けれど、何かを思い出したように、すぐさま無理やり笑顔を作った。 その笑みはひどく不自然だった。 演技力には定評のある女優なのに、紗月を前にすると、どうしても感情を隠しきれないらしい。「ねえ、あんたも役者になりたいんだ?」 由衣は唇を吊り上げる。「そういえば、昔立花監督の映画を受けたことがあるって聞いたことあるなぁ。だからあんなに気にかけてくれるってわけ?」 立花の作品に出演するため、由衣は以前から立花本人のことはもちろん、その交友関係や人脈についてもかなり調べていた。 その過程で、紗月がかつてオーディションに合格し、事務所から出演決定の連絡まで受けていたことも知っている。 けれど、その話はいつの間にか立ち消えになっていた。 どうして由衣がそんなことまで知っているのか、紗月には分からなかった。 もしかしたら、慎一が話したのかもしれない。 そう考えた瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。 紗月が何も答えずにいると、由衣は苛立ったように口元を歪めた。 その無反応な態度が気に障るらしく、腹立たしさを滲ませながらも、どうにか感情を押さえ込む。「理由は知らないけど、芸能界に入りたいなら私が力になってあげてもいいよ?今夜、打ち上げがあるの知ってるでしょ? この世界って人脈も大事だから。分かるよね?」 そう言ってから、由衣はにっこりと笑った。 その口ぶりでは、紗月も一緒に参加させるつもりらしかった。 紗月は反射的に断ろうとする。「いえ、私は――」「ねえ」 由
慎一は感情の読めない目で由衣を見つめていた。 もしかすると、少し酔っているのかもしれない。 でなければ、どうして頭の中に浮かぶのが、また紗月のことなのだろう。 もし相手が紗月だったなら――。 彼女は、こんな露骨な誘い方はしない。 情事に対する羞じらいは、大人の女とは思えないほど初々しく、結婚して三年経った今でも、ベッドの上の彼女はどこか控えめで、耐えるようなところがあった。 慎一はぼんやりと思い返していた。 結婚したばかりの頃、紗月がほんの数回だけ、ベッドの上で自分から歩み寄ろうとしてきたことを。 だがそのたびに、自分はきっと、酷く傷つけるような言葉を投げたのだ。だから紗月
プロジェクトの件を引き続き確認すると言っていたものの、実際に紗月が車へ乗り込んでから、慎一はその話題に一切触れなかった。 隣に座る紗月を気にする様子もなく、ただ手元の資料へ目を落としている。 その資料は、先ほど秘書から受け取ったものだった。 渡す際、新人らしいその秘書は、気になって仕方ないというように何度も紗月を見ていた。視線には隠しきれない好奇心が滲んでいる。 対して久我だけは、慎一が紗月を連れて車へ乗り込んだ時から、ずっと口元へ薄い笑みを浮かべていた。 慎一は仕事モードへ入ると、驚くほど集中する。 車内には音楽も流れていない。 そのせいで空気は静まり返り、少し大きく息をす
慎一に容赦なくそう言われ、さっきまで積極的に紗月のパソコンを奪っていた蒼空は、今度は気まずそうに顔を引きつらせた。 青ざめたり赤くなったりを繰り返しながら、下河の怒気を含んだ視線に押されるように、俯いて発表台から降りていく。 途端に、会議室中の視線が紗月へ集まった。 紗月は一瞬呆然としていたが、下河に苛立った声で名前を呼ばれ、ようやく我に返る。 慌てて前へ進み、発表の準備を始めた。 慎一は、わざわざ一番遠い席を選んだりはしなかった。 適当に近くの席へ腰を下ろし、そのまま壇上の紗月へ視線を向ける。 距離が近い。 慎一は座っていて、紗月は立っている。 本来なら壇上に立つ紗月の
慎一が来るなど、紗月にはまったくの予想外だった。 蒼空の顔にも明らかな驚きが浮かんでいる。どうやら彼も聞かされていなかったらしい。 もともと彼らに貸し与えられていたのは、物置の隣にある、閉鎖的な小部屋だった。設備らしい設備はなく、せいぜい移動式のホワイトボードが一枚置かれている程度だ。 蒼空が本社の人間であろうと、彼らの進めている共同プロジェクトが重要な案件であろうと、正田にとってはどうでもよかった。 ただ、本社の人間相手にあからさまな嫌がらせをするわけにもいかない。だからこそ、こういう陰湿なやり方で遠回しに恥をかかせていた。 正田がわざわざ陰湿な手を回したところで、蒼空はまる







