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第3話

Author: るるね
last update publish date: 2026-03-21 03:24:15

 距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。

「……気持ち悪い匂いだな」

 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。

 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。

 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。

 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。

 その気配はすぐに見抜かれた。

 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける。

「言ったはずだろ。お前とキスするなんて、吐き気がするだけだ」

 その言葉に、紗月の鼻の奥がつんと痛む。

 彼を押しのけようと手を胸に当てるが、それでも、最後まで突き放すことができない。

 もう……何週間も、彼に会えていなかった。

 ニュースでは、何度も彼の姿を見ていた。

 会社がまた大規模な買収を成功させたとか。

 所属タレントが賞を取ったとか。

 あるいは、どこかの女優と親しげに並ぶ姿とか。

 そんな記事を目にするたび、胸が重く沈み、何度も問いただしたくなった。

 それでも、こうして本人が目の前にいると、紗月の視線は自然と彼の顔をなぞってしまう。

 冷えきった眼差し、薄く結ばれた辛辣な唇。

 胸の奥がどうしようもなく疼いてしまう。

 悲しいほどに、心が動く。

 この人を、二十年も愛してきたのだから。

 あまりにも卑屈で、惨めで、彼にとってはただのはけ口に過ぎないこの触れ合いでさえ、どこかで与えられたもののように感じてしまうほどに。

「……慎一、会いたかった」

 口を開けば、また情けないほどの想いがこぼれ落ちる。

 その上で彼は、嘲るように鼻で笑った。一言たりとも信じていないとでも言うように。

「会いたい? 相変わらず、嘘も下手だな。今のお前のその様子、まるで安い犬みたいだ」

 吐き捨てるようなその言葉は、刃のように鋭く、何のためらいもなく紗月の胸の奥へと突き刺さった。

 あまりにも容赦のない声音に、紗月は思わず目を閉じる。視界が遮られた瞬間、こらえていた感情が一気に溢れ出しそうになった。

 喉の奥がきゅっと締めつけられ、呼吸がうまくできない。胸の内側を、見えない手で掻きむしられているような痛みが広がる。

 声を漏らすまいと、唇を強く噛みしめた。

 けれど、まぶたの裏に滲んだ熱は、もう止められなかった。

 目尻から、透明な涙が一筋、静かに零れ落ちる。それは頬を伝いながら、ぽたり、とラグの上へ落ちていく。

 まるで、音もなく壊れていくもののように、その涙さえも彼には届かないとわかっていながら。

 案の定、彼から返ってきたのは、一言だけだった。

「……大した演技だ」

 すべてが終わったあと、慎一がシャワーを終えて浴室から出てきたとき、紗月はまだ同じ姿勢のまま、ソファに倒れていた。

 衣服は脱がされておらず、ただ乱れているだけ。そこに、余韻めいたものは何一つ残っていない。

 慎一がパジャマではなく、新しいスーツに着替えているのを見て、紗月は身体を起こした。

 服を整える余裕もないまま、先に言葉がこぼれる。

「……泊まっていかないの?」

 その問いに、慎一はちらりと一瞥をくれただけで、答える気配すらない。

 淡々と腕時計をはめ、リビングを出ていこうとしたそのとき、背後から、焦ったような声が追いかける。

 彼の機嫌を損ねるかもしれないとわかっていても、止められなかった。

「来月……おじいさまの誕生日なの。おじいさまは昔から私のことを可愛がってくださっていて……もし、あなたが結婚してから私にこんなふうに接しているって知ったら――」

 言い終わる前に、慎一が振り返る。

 その視線は、鋭く、怒気を孕んでいた。

「……脅しているのか?」

 祖父は、慎一にとって数少ない弱点だった。

 両親は多忙で家を空けることが多く、幼い頃の慎一はほとんど祖父に育てられたようなものだった。

 高齢で体も弱く、今年に入ってからも何度も入院している。刺激を与えることはできない。

 そしてこの結婚を、誰よりも喜んでいるのも祖父だった。

 だからこそ、慎一は知られるわけにはいかない。自分と紗月が、こんな関係であることを。

「……違うの、慎一。ただ……あなたに残ってほしくて。おじいさまの誕生日、どう過ごすか一緒に考えられたらって……」

 紗月は声を落とし、必死に柔らかく言葉を紡ぐ。

 祖父を引き合いに出すのが卑怯な手段だと、自分でもわかっていた。

 慎一がそれを嫌うことも。

 しかし彼を引き留めるための材料が、もうほとんど残っていなかった。

 慎一の表情はさらに険しくなる。

「……これ以上、何も言うな」

 吐き捨てるようにそう言い、苛立った様子で腕時計を外し直すと、そのまま大股でリビングを抜け、廊下の奥へと消えていく。

 向かった先は、別の寝室。

 紗月が眠る部屋とは決して交わることのない、もうひとつの部屋だった。

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