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第3話

Author: 有限宇宙
「律がね、あなたが作るお汁粉は絶品だって言うの。味見させてもらってもいいかしら?」

断ろうとしたその時、律がまた私のスマホに送金してきた。備考欄には【手間賃】。

以前なら、これは家政婦が受け取るチップだった。

今では、この「一条夫人」もその対象になったのか?

皮肉な笑みを浮かべ、私は電話を切り、金を受け取った。

もうすぐ離婚するのだ。稼げるうちに稼いでおこう。

大雨の中、お汁粉をホテルに届けた時には、すでに深夜二時になっていた。

スイートルームのドアは開いていて、まるで私を待っているようだった。

ふかふかの絨毯を踏むと、莉子の声が聞こえてきた。

「律、前に聞いたんだけど、早川さんのお母さんが亡くなった時、彼女を抱きしめたって本当?

彼女のこと、愛しちゃったの?」

私はその場で立ち止まり、無意識に息を潜めた。

去ると決めたはずなのに、心臓が勝手に早鐘を打つ。

またあの雨の夜を思い出した。私が律に恋をしたあの夜を。

律、あなたも、覚えているの?

部屋の中で、律は窓の外の雨を見て、少しぼんやりしていた。

半年前も、このような雨の夜だった……

莉子が彼を揺すり、不満げに言った。

「律ってば、まだ答えてないじゃない」

男は我に返り、澄んだ声で、しかし何とも言えない複雑な響きを含んで答えた。

「まさか……ただ……憐れだっただけだ。

道端の捨て猫や捨て犬を可哀想に思うのと、何の違いもない」

ガシャン!

お汁粉の容器が床に落ち、部屋の中の二人を驚かせた。

律が出てきて、真っ先にその場で固まった。

「お前……いつ来たんだ?」

私は彼を無視し、黙々と床の惨状を片付け始めた。

律は眉をひそめ、しゃがみ込んで手伝おうとしたが、私は反射的に避けた。

彼の手が空中で止まり、何事もなかったかのように引っ込められた。

その様子を見ていた莉子の目に、嫉妬の色が走った。

彼女はソファのハンドバッグから紙幣を取り出した。

「早川さん、ご苦労様。これ、お駄賃よ」

紙幣が宙を舞い、一枚また一枚と私の自尊心を叩いた。

以前、母が病気の時、私は治療費のために人に見下されることを甘んじて受け入れた。

今、母が亡くなっても、私はやはり人に見下されている。

そう思うと、私は自嘲気味に口角を上げた。

「どうも」

金を受け取り、帰ろうとすると、律が私を引き止め、不機嫌そうに言った。

「紬、お前は少しも怒らないのか?」

瞳が震えた。彼に聞きたかった。

何に怒ればいいの?

私に怒る資格なんてあるの?

私は彼、一条律の機嫌が良い時に道端から拾ってきた犬猫に過ぎない。

機嫌が良ければ可哀想がってあやす。

機嫌が悪ければ、足で蹴飛ばす。

「もう遅いので、帰るわ」

しかし私の従順は、彼の機嫌を直すことなどできなかった。律はドアを塞ぎ、複雑な目をした。

「お前、昔はこんなじゃなかった」

「昔のあなただって、他人が私をいじめているのを、ただ黙って見ていたりはしなかったはず」

二年前、律の従弟が人前で私の育ちの悪さを嘲笑い、貧乏臭くて縁起が悪いと言ったことがあった。

それを知った律は、彼を即座に会社から追い出し、二度と私の前に現れるなと命じた。

一年前、取引先のパーティーで、私は罠に嵌められてプールに落ちた。

律はその場で私を突き落とした犯人をプールに沈め、一晩中出られないようにした。

私を愛していないこと以外、彼は本当に私によくしてくれた。

律も昔のことを思い出したのか、下ろした手を不自然に握りしめた。

「俺は……」

しかし私の回想はもう終わっていた。二人に礼儀正しく微笑みかけ、私はその場を後にした。
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