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第2話

Author: こいのはな
彼は禁酒を破った。

声を聞く限りでは、少し酔っているようだった。

でも、拓海がこんな風に大声を出すなんて。

知佳が知る拓海は、高校時代、クールな優等生で、勉強に集中しているときはもちろん、体育の授業でも、拓海を好きになった女子生徒が水を差し出しても、一度も振り向かなかった。

その後、知佳の夫となった拓海は、さらに礼儀正しかった。感情の波もないほど安定していて、笑うこともなければ怒ることもなく、いつも淡々としている。あまりにも淡白で、たまに拓海の指先に触れると、体温さえも冷たく感じるほどだった。

動画の中でカメラが一人一人の顔を映していくと、彼女は酔いの回った拓海を見た。目を輝かせ、カメラに向かってグラスを掲げて大笑いしている。「結衣、おかえり」

そうか、拓海も笑うのか。

熱くなるときもあるのか。

女性を名前で呼ぶこともあるのか。

ただ、知佳に向かって笑うことはないし、熱くなることもないし、親しげに名前を呼んでくれることもない。

「奥様、もうお起きになりますか?」扉の外から中村さんの声がした。

知佳は毎日規則正しい生活を送っているが、今日はまだ気配がない。中村さんは心配になった。奥様の足のことを思うと、何か手助けが必要かもしれない。

知佳はスマホを脇に置いて、「起きるわ、すぐ出る」と答えた。声がかすれて詰まっていた。

朝食中村さんはオムライスを作ってくれたが、知佳は少し食べただけでもう箸が進まない。

「奥様、お昼と夜は何にしましょうか?」中村さんはミルクをグラスに注いで知佳に差し出した。

「適当で……」彼女は以前のように、「拓海の好きなものを作ってください」と言おうとしたが、一言口にしかけて後の言葉を飲み込んだ。

中村さんにも分かった。毎日同じやり取りをしているのだから。「拓海さんがおっしゃってました、今日はお食事に帰らないって。接待があるそうです」

知佳はうなずいた。

当然家には帰らない。なぜなら、さっきツイッターで見てしまったから。結衣が今後一週間、誰が奢ってくれて、自分が何を食べるかをリストアップしていた。

【やっぱり学生時代の友情が一番純粋ね♪私はこんなにたくさんのお兄ちゃんみたいな友達に愛されている可愛い子なの!】

知佳は昼間は大体2時間英語を勉強し、それから数時間美術理論を学ぶ。

自分に何かすることを見つけなければ、この長い時間を、どうやって過ごせばいいのか?人生をかけて、夫が家に帰ってくるのを待つのか?

彼女は待ったことがあるのだ……

待つというのは、あまりにも辛かった。

でも今日の彼女の予定は以前と違っていた。

この合格通知は学校の最後の募集だったようで、急いで確認しなければならない。

だから、今日の最初の仕事は、学校に確認料を支払うことだった。スマホに銀行からの引き落とし通知が届いたとき、彼女はほっと一息ついた。

拓海から離れる日がまた一日近づいた。

夕方、彼女は服を着替えて、外出の準備をした。

中村さんはとても驚いた。「奥様、どちらへ?」

拓海の付き添いなしに、知佳が外出することはほとんどなかった。

「ああ、大学の同級生がこちらで公演をするから、ちょっと会いに行くの」知佳は言った。実際は試験会場近くのホテルに泊まるつもりだった。

明日IELTS試験があり、しかも朝一番だった。朝に駆けつけると、渋滞で間に合わない可能性がある。

前回のIELTS受験は数ヶ月前で、理想的な成績には達していなかったが、留学申請の締切がいたので、先に申請を提出した。合格するとは思っていなかったので、念のため明日の試験も予約していた。

幸い、学校は英語の成績を後から提出することができる。

「でも……」中村さんは知佳の足を見て、「私がお供しましょうか?」

「大丈夫よ、女子会だから、もう一人いると気を使わせちゃうの」知佳は表情を変えなかった。

「それでは拓海さんに連絡いたしますね」中村さんは本当に知佳に何かあったら大変で、この責任は負えなかった。

「その必要ないよ、拓海には安心して接待に集中してもらって。邪魔しないで、友達との集まりが終わったら連絡するから、迎えに来てもらうわ」知佳はバッグを持って、家を出た。

彼女の足が不自由であることを考慮して、二人の新居として拓海が買ったのは高級マンションだった。知佳はエレベーターに乗って1階に降りた。

陽光の中に出ると、彼女は無意識に頭を下げ、身を縮め、帽子をかぶり、襟を立てた。

足が不自由になってから、舞台で自信に満ち溢れていた知佳は消えてしまった。

足の不自由になった知佳は、もう人の視線の中に入る勇気がない。

中村さんはいつも言う。外出するときは拓海さんと一緒の方がいいと。

拓海もいつも言う。俺の付き添いなしには、家にいた方がいいと。

でも、彼らは知らない。

知佳が最も恐れているのは拓海と一緒に外出することで、一人で外出するよりもさらに恐ろしいということを。

なぜなら、彼らを見るすべての人の目に書かれているから。

こんなに優秀な男性が、どうして妻が足の不自由な人なのか?

彼女はタクシーを呼んで、ホテルの方へ向かった。

車の中で、彼女は黙って窓外の街並みを眺めていると、突然道端の駐車場に拓海の車が停まっているのを見た。

「ちょっと待ってください、止めてください」彼女は急いで運転手に声をかけた。

拓海の車はレストランの前に停まっていた。

昨日は拓海の幼馴染の奢りで、今日は拓海の番だと、結衣のSNSに書いてあった。

彼女はなぜか車を降りた。

レストランに入ると、知佳は受付で言った。「森川の予約をいただいているはずですが」

店員は知佳を個室の扉まで案内してくれた。「こちらです」

「ありがとうございます」知佳は店員にお礼を言った。

実際知佳も自分が一体何をしに来たのか分からなかった。家にいたときは、心の中で衝動が次々と湧いてきたのに、実際にここに立つと、扉を開ける勇気もなくなってしまった。

中からは賑やかな話し声が聞こえてきた。

「今日はあまり遅く帰れないし、酒も飲めないんだ。昨夜酔っ払って帰ったら、家で嫁が怒り狂ったからな」

これは拓海のある幼馴染だった。

「まだ昔のあなたなの?最初は何があっても仲間が一番だって言ってたのに、今じゃ完全に尻に敷かれてるじゃない。やっぱり拓海の方が義理堅いのね」

これは結衣で、話し声が可愛らしく柔らかだった。

そうか、結衣はこういう性格なのか。

拓海はこういう性格の女性が好きなのか。

残念ながら、自分は本当にそういう性格じゃないし、演じることもできない。

中で拓海の幼馴染が続けて言った。「拓海は違うだろ?知佳がこいつに何か言えるわけないじゃん」

「そういえば」結衣の声がまた響いた。「拓海、聞いたんだけど、あなたの奥さんって足が不自由なの?どうして?」

誰も結衣の「どうして」に答えなかった。

知佳の心は、ぎゅっと締め付けられた。

拓海の幼馴染たちが中で話し始めた。

「それにしても、拓海、俺たちは本当に君が気の毒だよ。君を見ろよ、金はある、顔もある、男前で、どんな人でも結婚できるのに、どうして足の不自由な人と結婚したんだ?」

「本当だよ、拓海、君は俺たちの中で一番優秀なのに、今知佳と結婚して、外で会議するにしても接待するにしても、記者会見するにしても、奥さんが必要な場面で、君は誰も連れて行けないじゃないか。損してるって思わないのか!」

そういうことだったのか……

拓海はいつも言っていた、彼女が仕事に参加する必要はない、おとなしく家で自分がお金を稼いで帰ってくるのを待っていればいいと。

知佳の実家の人たちがそんな拓海を天まで持ち上げて褒め、みんな知佳は幸せだと言ったが、実は、拓海は知佳を外に連れて行けないと思っていたからだった……

個室から拓海の苦笑いが聞こえた。「知佳は俺に恩があるからな、俺が知佳に借りがあるんだ」

「君が知佳に借りがあるって、あんなにたくさんお金をあげて、もう清算したじゃないか!」

「そうだよ、その時直接お金を渡して手切れ金にすればよかったのに、自分の一生の幸せを賭ける必要があったのか?」

「俺が言うのもなんだが、菩薩様を家にお迎えしたって、毎日お参りして、正月とお盆にお願いして商売繁盛を祈ることもできるのに、こんな人を家に迎えて、何の役に立つんだ?」

「そうそう、君の手伝いに何ができる?外での接待はダメ、家でお茶を入れたり水を運んだりするのも、こぼすんじゃないかと心配になるだろ?拓海、水を飲んで……こう、こう、こんな感じか?」

個室から大爆笑が聞こえ、その中に結衣の狂ったような笑い声も混じっていた。「拓海、あなたの奥さんって本当にこんな風に歩くの?」

扉に耳を当てて聞いていた知佳は、全身の血液が頭上に駆け上がるのを感じた。怒りと屈辱で、彼女はバランスを失った。

個室の扉が彼女によって押し開けられた。

中はちょうど大爆笑の真っ最中だった。

拓海の幼馴染の一人、西村文男(にしむら ふみお)という男が、コップを持ちながら、大げさに足を引きずって歩き、声まで細くして言っていた。「拓海、拓海、拓海、お水、拓海、あ~転んじゃった、拓海抱っこして~」

知佳は拓海を見つめた。彼が何かを言ってくれることを期待して。

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