ログイン霜月咲希(しもつき さき)は海鳴市で最も影響力のある秘書として知られ、並みいる経営者たちも彼女の前では頭を垂れる。 なぜなら、九条グループのトップである九条泰誠(くじょう たいせい)が、毎年咲希に十億単位の金を惜しげもなく使い、ついにはプロポーズまでしたからだ。 しかし、咲希にとってかけがえのない母親の容態が急変し、病院から危篤を告げられたその日に、泰誠は派手なパーティーを主催した。 会場では音楽が鳴り響き、まるで祭りのような賑わいだった。
もっと見る「咲希……」咲希は何も言わず、ただ静かに弦を見つめていた。その表情からは思索が読み取れそうでいて、拒絶しているようでもあった。弦にはその真意が量れない。彼は唇を噛みしめ、真剣な眼差しで切り出した。「咲希、済まなかった――」咲希は沈黙を貫いたまま、不意に腰をかがめると、触れるだけのキスを、弦の唇の端に落とした。弦は呆然とし、心臓が早鐘のように鳴り始めた。咲希がすっと身を起こすと、落ち着きを取り繕うとして、わずかに頬を染めた。「先にシャワーを浴びてきて。待ってるわ」……杏と初めて会った際、咲希は二人の会話から意図的に外されていた。どんな話をしたのかは不明だが、短い面会のあと、杏は弦に対して随分と好感を持ったようだった。退院後、咲希は杏を連れて旅行を計画し、弦を同伴させようと提案した。「私のせいで、二人ともハネムーンにも行けてないんでしょ」こうして、母娘二人の旅行は、両家そろっての旅行になった。弦との旅は極めて快適だった。咲希の要望を最大限に尊重しつつ、すべてを完璧に段取りし、何も気苦労をさせなかったからだ。家では二人ともそれぞれの用事があり、一日中一緒にいるわけではなかったが、旅行中はそうはいかない。二人で過ごす24時間。親密さは急速に深まり、ついに一線を越える関係となった。帰宅前夜、夜食をとっても寝付けず、二人は海岸で散歩をしていた。同じ業界にいて、かつては強敵同士だったため、お互いのことをよく知っており、会話には事欠かなかった。夜の砂浜は無人で、気づけばホテルの灯りから随分と遠ざかっていた。慌てて二人は折り返し、ホテルへ引き返すことにした。しかし、向きを変えてわずか数歩で、咲希は突如として低血糖で倒れ込み、尖った石で頭を強く打ってしまった。車椅子の弦は狼狽し、叫び続けた。「咲希?咲希!」あいにくスマホを持たず、ホテルは遠い。咲希を一人残して助けを呼びに戻るわけにはいかなかった。弦は身の回りを探った。幸い、咲希に低血糖の持病があると知って以来、彼はいつも飴を持ち歩くようにしていた。車椅子を少し下げると、弦は地面に身を投げ出し、這って咲希のそばまで行き、咲希に飴を含ませた。だが咲希はうまく飲み込めず、目を覚ます気配もなかった。刻一刻と時間は過ぎ、弦の全身から汗が噴
泰誠は、顔から血の気が引いていくのを感じた。弦とは犬猿の仲で、どこで顔を合わせても、弦は嫌味な言葉をぶつけてくるのが常だった。これまで泰誠は、そんな挑発をまともに相手にしたことはなかった。だが今日ばかりは、弦の目の前で何も言い返せなかった。泰誠は強張った体を引きずるようにして、咲希が車に乗り込み、視界から消えていくのをただ見送ることしかできなかった。帰宅すると、空っぽのクローゼットが目に入った。そこには、もう咲希がいた痕跡など微塵も残っていない。激しい目眩に襲われ、泰誠はその場に崩れ落ちた。丸一日後、掃除に来た家政婦が倒れている泰誠を発見し、救急車で病院へ搬送された。目を覚ますと、泰誠はすぐに仕事に取りかかった。目下の急務は2週間後の新製品発表会だが、満足のいく企画はまだ一つも出ない。現実が泰誠を追い詰めているようだった。咲希がいなければ、何もできないのか、と。彼女の存在の大きさを思い知らされるばかりだ。頭をよぎる咲希への想いを打ち消すかのように、泰誠は狂ったように働き続け、自分に余白を与えなかった。これまでになく冴えているようだが……すべてにおいて最悪のコンディションだった。2週間後、期待を集めていた新製品発表会は多くのファンを失望させ、ネット上で嘲笑の的になった。徹夜続きで目を充血させた泰誠は、再び病に倒れ、入院することになった。……九条グループの新製品発表会のニュースが流れる中、咲希は病室で杏に付き添い、一緒にフルーツを食べていた。杏は明日退院できるほど回復しており、咲希がフルーツの盛り合わせをほとんど平らげると、「咲希、そんなに食べたら運動する時にお腹が苦しくならない?」と気遣った。咲希はしれっと嘘をついた。「この後、移動するでしょ?車の中で消化できるから大丈夫だよ」そうは言いながらも、手にしたフルーツピックをそっと置いた。杏はティッシュを渡しながら、何気ない調子で聞いた。「そうねえ、あれからもう1ヶ月近くになるわ。相手を紹介してくれないの?」スマホから顔を上げて、「うん」と答えた咲希。数秒後に杏の真意を察し、とぼけるように尋ねた。「相手って……誰のこと?」「もう、白々しいわね。ずっと育ててきた母親に、嘘なんて通じると思ってるの?」杏は咲希の手を優しく握りしめた。「毎日咲
弦は頷いた。「そうだね……わかった。とりあえずリハビリの先生に聞いてみる」言い終わって、どこか気乗りしないような響きだったと気づき、慌ててこう付け足した。「問題ないと言ってくれるはずだ」咲希がほっとしたように微笑み、「それなら本当に助かります」と言った。二人が帰宅し、明日からリハビリが始まることを伝えると、裕美子は感極まった様子で喜んだ。剛は裕美子の様子を見て苦笑いし、咲希たちが上へ戻ったところで「無理するな。泣きたいだけ泣けばいい」と優しく声をかけた。裕美子は泣き笑いしながら叫んだ。「弦にいくらお願いしても首を縦に振らなくて、ずっと部屋に引きこもっていたのに……本当によかった。本当によかったわ!」「結局、咲希さんの功績だよ。本当にできた人だ。これからは、弦によくするよりも咲希さんを大切にするべきだ。そうすれば弦も変わっていく」と剛が言った。……泰誠は帰宅するなり、玲奈に渡していた品をすべて返却させた。その夜、一ノ瀬家の人たちが訪ねてきたが、遠回しに理由を聞こうとするばかりだった。彼らの貪欲さを目の当たりにするたび、泰誠の中で咲希への罪悪感は膨らんでいった。人生で初めて、泰誠は冷徹なまでに玲奈たちを追い返した。それだけでは足りなかった。彼はこの5年間で渡した金をすべて清算し、一ノ瀬家の経営を崖っぷちにまで追い込んだ。泰誠は、咲希との5年間を反芻し、自分がしでかしてきたことを思い出しては後悔の念に押しつぶされそうになっていた。3日間家を出ずに考え抜いた末、咲希を探しに行こうと決意した。泰誠は、咲希の取り分である株の権利と、慰謝料を持って御堂家の病院へ向かった。だが、既に警備に指示が出されており、中へ入れてもらえなかった。泰誠は病院の前で数日張り込んだが結果が出ず、場所を弦の自宅前に移し、出入りする車両を見張った。それを察知した咲希は外出を控えるようになった。だが3日間同じ状況が続き、彼のせいで生活のペースを変え続けるのは、もう嫌だった。弦と車で門を出た瞬間、案の定、泰誠に行く手を阻まれた。泰誠は道を譲らずに立ち尽くしていたため、咲希は車を降りて向き合うしかなかった。泰誠は株式の譲渡書類を差し出した。「これが、君に返すべきものだ」咲希は迷いなくサインをし、「ええ、いただいたわ。も
「正直一度でいいから、一ノ瀬玲奈になってみたいわ。何もせず、一滴の汗も流さず、涙さえ絞り出さずに、周りが勝手に美化してくれて、他の人がやったことまでいつの間にか彼女の手柄にされるなんて」と、咲希は皮肉交じりに言った。泰誠は動きを止め、血の気が引いた。「他の人の手柄……って、どういうことだ!あの時の人は、君だったのか?」口に出した瞬間、確信へと変わった。咲希の性格を知り尽くしている泰誠にとって、この件で彼女が嘘をつくはずがないとわかっていたからだ。泰誠は低く囁いた。「すまない。記憶障害が悪化しているようだ。一度ちゃんと診てもらう必要がある」「医者に診てもらう必要なんてないわ。あなたに必要なのは一ノ瀬さんでしょ?」咲希は淡々と続けた。「彼女が好きだから、記憶が混乱してるのよ」泰誠は真剣に否定した。「玲奈に対して男女の感情なんて抱いていない。好きじゃないんだ」咲希は彼を見つめ、一歩下がって距離を置いた。「泰誠、素直に認めるならまだしも……8年間も追いかけてきた男が、感情的な恩知らずで、こんなにも卑怯な人間だったなんて、今日の件でやっと目が覚めたわ。そんな男に対してときめくなんてこと、あるわけないでしょ?二度と私の前に現れないで。あなたを見るたび、お母さんが危険な目に遭ったあの日々を思い出して、私まで死にそうなほど不安になるの。同じ絶望をあなたにも味わわせたいと思ってしまうわ」泰誠はまるで両足に鉛を流し込まれたように、その場で固まり、顔色を真っ青にした。咲希が通り過ぎて去ってからも、まる30秒は身動きがとれなかった。これまで向けられたことのない、凍てつくような拒絶に動揺しながら、彼はようやく体を翻して後を追った。「咲希!」「九条、ネットで幼なじみとのろけ話をして、現実では俺の妻に執拗にまとわりつくなんて、ずいぶんと忙しいんだな」弦がふらりと現れ、二人の間に割って入った。泰誠は冷たく言い放つ。「咲希とのことに、部外者が口を出すな」弦はかすかに笑った。「自分から世間に私生活をさらして、全国に語らせておいて、どうして俺だけ口を出しちゃいけないんだ?いや、俺が口を出す正当な理由なら、山ほどある」弦は戸籍謄本を取り出し、泰誠に見せつけながらゆっくりと開いた。「堂々と夫と言える立場にあるのは、この俺なんだ。指図