Short
危篤の母より元カノ?最低男を捨て宿敵の妻へ

危篤の母より元カノ?最低男を捨て宿敵の妻へ

作家:  風太完了
言語: Japanese
goodnovel4goodnovel
18チャプター
49ビュー
読む
本棚に追加

共有:  

報告
あらすじ
カタログ
コードをスキャンしてアプリで読む

概要

切ない恋

逆転

ひいき/自己中

妻を取り戻す修羅場

不倫

霜月咲希(しもつき さき)は海鳴市で最も影響力のある秘書として知られ、並みいる経営者たちも彼女の前では頭を垂れる。 なぜなら、九条グループのトップである九条泰誠(くじょう たいせい)が、毎年咲希に十億単位の金を惜しげもなく使い、ついにはプロポーズまでしたからだ。 しかし、咲希にとってかけがえのない母親の容態が急変し、病院から危篤を告げられたその日に、泰誠は派手なパーティーを主催した。 会場では音楽が鳴り響き、まるで祭りのような賑わいだった。

もっと見る

第1話

第1話

霜月咲希(しもつき さき)は海鳴市で最も影響力のある秘書として知られ、並みいる経営者たちも彼女の前では頭を垂れる。

なぜなら、九条グループのトップである九条泰誠(くじょう たいせい)が、毎年咲希に惜しげもなく十億単位の投資をし、ついにはプロポーズまでしたからだ。

しかし、咲希にとってかけがえのない母親・霜月杏(しもつき あん)の容態が急変し、病院から危篤を告げられたその日に、泰誠は派手なパーティーを主催した。

会場では音楽が鳴り響き、まるで祭りのような賑わいだった。

「泰誠さん、本気出しすぎだろ!子どもの頃を思い出して紙飛行機大会をやっただけなのに、玲奈ちゃんが勝ったからって、そこまで祝うか?高級ワインに海岸の打ち上げ花火、有名バンドまで呼んで、おまけにプライベートジェットまで贈ったなんて!」

「そんな景気のいい話があるなら、俺も一日中、一番飛ぶ紙飛行機の折り方を研究してたのに!」

「お前が何をしたって無駄さ。あの仕事中毒の泰誠さんが、普段は食事の時間すら惜しんでるのに、1週間も時間を割いてまで紙飛行機を折り続けたんだからな。千個の中から一番よく飛ぶものを選んで玲奈ちゃんに贈って優勝させて……

ただの余興で参加したんじゃない、玲奈ちゃんを喜ばせるために本気でプレゼントを用意してたんだよ」

「さすが初恋の人だな。5年間も連絡が途絶えてたのに、帰国した途端、この扱いだ」

一人が声を上げた。「泰誠さん、俺も初恋の人になりたいよ!」

会場の中心にいた男は厳しい表情を崩さなかったが、隣の女性に話しかけられると、その目にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

急いでパーティー会場へ駆けつけた咲希は、その光景を目の当たりにして足が止まった。耳に当てた電話口の声に返事をすることさえ忘れて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

「お姉ちゃん!泰誠さんに一体何があったの?病院まで運転手が迎えに来て、そのまま連れて行かれるなんて……もしもし?お姉ちゃん、早く帰ってきて。お母さんが……もう長くないのよ」

我に返った咲希は、痛いほど強く拳を握り締めると、声を震わせながら「今すぐ行く」と告げた。

そんな咲希に気づいた泰誠が、大股で歩み寄ってきた。

何も持っていない彼女を見て、泰誠は眉間にしわを寄せた。「玲奈のドレスはどうした?大きく裂けてしまって、君が持ってくる予定の特注のドレスを待っているんだ……今のままじゃ玲奈は踊れない」

「踊れない」その一言が、鋭いナイフのように咲希の胸を突き刺し、声が出なくなるほどの痛みを走らせた。

自分の母の命が消えかかっているというのに、この男は別の女が踊れないことを気にしているのか?

おそらく事前に、泰誠からメッセージか、あるいは運転手経由で伝言があったのだろう。だが、咲希は母の命が危ないという知らせに頭が真っ白になり、全く受け入れていなかった。

咲希が無言でいると、泰誠は冷たい声で責めた。「咲希、最近は一体どうしたんだ?いつもどこか上の空じゃないか?」

咲希は力を振り絞った。「お母さんが……」そう言いかけたが、続きの「もう長くない」という言葉が喉の奥で詰まり、どうしても吐き出せなかった。

だって、以前にも何度も言ったはずだったから。

1週間前、杏が脳梗塞で倒れた。

それからの7日間、咲希は何度も泰誠に頼み込み、第一線の脳神経外科医を紹介してほしいと伝えていた。

泰誠はそのたびに承諾していたが、話が全く進む気配はなかった。

連日の忙しさを見て、てっきり大きな仕事に追われているのだと信じ、頭を抱えるほど焦りながら、それでも健気に待っていたというのに。

泰誠は会社で別の女と紙飛行機遊びをしていたというのか?

千個も折る時間があるなら、少しでも医師探しに協力してくれていたら、母は死ななくて済んだのではなかったのか?

咲希の虚ろな眼差しを見た泰誠は、冷静に言った。「何かあったのか?知っての通り、俺は物忘れがひどいんだ。大事なことは何度も言ってもらわないと忘れてしまう」

「忘れ……た?」咲希は声を張り上げた。「お母さんが死にそうなの!私の大切な家族がいなくなるのよ!」

「泰誠!ドレス、持ってきてくれた?」一ノ瀬玲奈(いちのせ れいな)が、ほころびかけた服を抱えて小走りでやってきた。

「特注品は間に合わなかった。すぐに代わりの手配をするよ」咲希の言葉を遮るように、泰誠は無意識に振り向いて答えた。

そして彼は部下に電話をかけ始めた。

「すぐにダンス用のロングドレスを届けてくれ。色はカナリアイエロー、柄なし、サイズはS、身長165センチに合うものを……」

用件を済ませると、泰誠は再び咲希に向き直り、何かを思い出すように聞いた。「何の話をしていたっけ?」

咲希が抱えていた絶望、怒り、そして悲しみ。そのすべてが、あまりに残酷な一言に胸の奥で塞き止められた。

泰誠には、記憶障害がある。そうだ、そうなのだ。

自分の母が病気であることも、何度も約束した「忘れない」という言葉も、医師を紹介するということも、どれも彼は覚えていなかった。

けれど、5年も会っていないはずの玲奈のことはすべて記憶している。玲奈の負けず嫌いなところや、ちょっとした遊びでも一番を取りたがるところ。どんなご褒美が好きで、どれほど派手なことを好むかさえも。

咲希は唇を噛み締め、口の中に血の味が広がるのを感じた。「いいえ、もういいわ」

彼女は震える体を引きずり、壁を伝いながらその場を去った。

泰誠は金銭的には自分に惜しみがなかったから、てっきりそれが愛だと思い込んでいた。

今やっと分かったのだ。この男のような富裕層にとって、何より貴重なのは時間、最も惜しくないのは金なのだと。

病院へ戻る車の中で、咲希は5年前に亡くなった泰誠の母親・九条洋子(くじょう ようこ)のことを思い出していた。

あの頃は、泰誠にとってどん底の時期だった。

父親の九条光生(くじょう こうき)が病に伏し、会社では技術が盗まれ、敵対勢力に市場を食い荒らされる中、当時の恋人であった玲奈には「構ってくれない」と責められ、別れを告げられた。彼女はその後あっさりと海外へ行き、歌手の男と付き合い始めたのだ。

泰誠を支え続けたのは、秘書として隣にいた咲希だった。

本当なら、咲希こそ泰誠のもとを去るべきだったかもしれない。

かつての事故で泰誠をかばって大怪我を負い、集中治療室に三度も運び込まれて、ようやく命を取り留め、泰誠から半年の休職を与えられていたのだから。

けれど、主治医に止められていたにもかかわらず、わずか1週間でギプスを巻いたまま会社に戻り、仕事に復帰した。

咲希は泰誠のそばで会社と家族の両方を支え、日に日に衰弱して死へ向かう光生を見守る苦しみに寄り添い、かけがえのない家族の最期を共に見届けた。

胸を引き裂かれるような不安を一番深く理解しているはずの泰誠が、今、自分の苦境にはそこにいない。

咲希の瞳から、涙が静かにこぼれ落ち、やがて押し殺したような嗚咽に変わった。

泰誠のそばで、8年も時間を費やしてきた。

最初の3年間は休む間もなく働き続け、直属の秘書に昇進した。

4年目に泰誠をどん底から救い出し、恋人の座を得た。

そして8年目にプロポーズされ、人目を忍ぶ関係から、公に認められた恋人になった。

ずっと遠くから泰誠を見つめるだけだった片思いから、ようやく隣へ歩めたというのに……すべてを手に入れたようでいて、結局は何ひとつ手にしていなかったのかもしれない。

その時、スマホが鳴った。知らない番号から画像が送られてきた。

1ヶ月前に玲奈がネットで自慢していた、他の歌手とのプロポーズ写真だった。

何の意味があるのかと思いつつ投稿日を見て、咲希は体が凍りついた。

泰誠が自分にプロポーズをした日と全く同じ日だったのだ。彼が自分に指輪を渡したのは、玲奈のあのプロポーズ写真から3時間後だった。

4年にわたる秘密の関係。疲労困憊で眠る自分を夜10時に起こして行ったあの慌ただしいホテルでのプロポーズ、適当な装飾、サイズが合っていなかった指輪……

すべての答えがそこにあった。

関係を公表しなかったのは、玲奈が戻ってくるのを待っていたから。

自分を婚約者にしたのは、もう玲奈とは無理だと諦めたからだ。

自分はただの、本命を逃した代わりの「当て馬」に過ぎなかったのだ。

泰誠は最初から、自分に真心などなかったからこそ、自分の母の病もどうでもよく、記憶にも留まらないのだ。

自分が愛だと思い込んでいたもののせいで、母の治療を遅らせてしまったのだ……

胸の奥から突き上げるような激痛が止まらなかった。

病院に着いて車を降りる時、ふらついて立っていられなくなった咲希を気品のある女性が支えてくれた。

咲希はぼんやりと見て、相手が泰誠の宿敵である御堂弦(みどう げん)の母親・御堂裕美子(みどう ゆみこ)だと気づいた。

裕美子は、じっと咲希を見つめ、ひどく満足そうな表情を浮かべた。

「咲希さん。私の方で、脳疾患の第一線で活躍する専門医たちを集めて、あなたのお母さんの治療方針を立てさせたわ。お母さんはまだ救えるわ。

ただ条件が……半身不随になってしまったうちの息子の妻になってもらうことよ」

もっと見る
次へ
ダウンロード

最新チャプター

続きを読む
コメントはありません
18 チャプター
第1話
霜月咲希(しもつき さき)は海鳴市で最も影響力のある秘書として知られ、並みいる経営者たちも彼女の前では頭を垂れる。なぜなら、九条グループのトップである九条泰誠(くじょう たいせい)が、毎年咲希に惜しげもなく十億単位の投資をし、ついにはプロポーズまでしたからだ。しかし、咲希にとってかけがえのない母親・霜月杏(しもつき あん)の容態が急変し、病院から危篤を告げられたその日に、泰誠は派手なパーティーを主催した。会場では音楽が鳴り響き、まるで祭りのような賑わいだった。「泰誠さん、本気出しすぎだろ!子どもの頃を思い出して紙飛行機大会をやっただけなのに、玲奈ちゃんが勝ったからって、そこまで祝うか?高級ワインに海岸の打ち上げ花火、有名バンドまで呼んで、おまけにプライベートジェットまで贈ったなんて!」「そんな景気のいい話があるなら、俺も一日中、一番飛ぶ紙飛行機の折り方を研究してたのに!」「お前が何をしたって無駄さ。あの仕事中毒の泰誠さんが、普段は食事の時間すら惜しんでるのに、1週間も時間を割いてまで紙飛行機を折り続けたんだからな。千個の中から一番よく飛ぶものを選んで玲奈ちゃんに贈って優勝させて……ただの余興で参加したんじゃない、玲奈ちゃんを喜ばせるために本気でプレゼントを用意してたんだよ」「さすが初恋の人だな。5年間も連絡が途絶えてたのに、帰国した途端、この扱いだ」一人が声を上げた。「泰誠さん、俺も初恋の人になりたいよ!」会場の中心にいた男は厳しい表情を崩さなかったが、隣の女性に話しかけられると、その目にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。急いでパーティー会場へ駆けつけた咲希は、その光景を目の当たりにして足が止まった。耳に当てた電話口の声に返事をすることさえ忘れて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。「お姉ちゃん!泰誠さんに一体何があったの?病院まで運転手が迎えに来て、そのまま連れて行かれるなんて……もしもし?お姉ちゃん、早く帰ってきて。お母さんが……もう長くないのよ」我に返った咲希は、痛いほど強く拳を握り締めると、声を震わせながら「今すぐ行く」と告げた。そんな咲希に気づいた泰誠が、大股で歩み寄ってきた。何も持っていない彼女を見て、泰誠は眉間にしわを寄せた。「玲奈のドレスはどうした?大きく裂けてしまって、君が持ってくる予定
続きを読む
第2話
咲希は、ほんの3秒で決断を下した。杏はすぐさま手術室に運ばれ、第一線で活躍する専門医たちが万全の体制で待ち受けていた。この物々しい雰囲気に、妹の霜月紗夏(しもつき さな)は涙を流しながら興奮気味に言った。「お姉ちゃん、この専門医の先生たちは泰誠さんが呼んでくれたの?これでお母さんは助かるんだね!?」咲希は手術室を見つめながら、淡々と言った。「今日で泰誠とは別れるわ」紗夏は不思議そうに聞いた。「もう結婚しないの?」ビジネスの取引で結ばれただけの関係。感情のかけらもない、見知らぬ夫。そう思った瞬間、咲希の胸に虚しさが広がり、その声はどこか悲しそうだった。「結婚はするわ。挙式の予定は変えない。1ヶ月後に予定通り行う。でも、相手は違う。新郎が別の人に代わるわ」……3日後、杏の容態は深刻な状況から脱し、安定した。御堂家の病院へ転院することになった。咲希はやっと一息つき、これでようやく終わらせるべき関係に向き合う気力がわいてきた。まず、退職する。そして九条グループとの関係を完全に断つこと。オフィスに足を踏み入れると、部下たちが嬉しそうに駆け寄ってきた。「昇進おめでとうございます!霜月さん、いえ、これからは副社長とお呼びすべきですね!」咲希は驚かなかった。取締役会から直接辞令を受けたし、人事部からも社内に公示されていたからだ。ただ、母の急変があり、まだ副社長として正式に皆の前に立ててはいなかった。咲希はドアにかかった「副社長室」という輝くプレートを見つめ、さまざまな思いが胸をよぎった。年中無休で働き詰めの毎日を8年間送り続け、やっと手にしたこの栄冠だった。せっかく就いたポストをすぐに手放すことにはなったけれど、この実績はキャリアにおいて何物にも代えがたい大きな武器になるはずだ。言葉をかけようとしたその時、冷たい声が響いた。「霜月さんは在職期間中、丸3日間出社せず、業務連絡も無視し続けている。プロ意識が欠けているため、今日付で部長職に降格。社内に通知しなさい。副社長としての特権と持株はすべて没収。新しい副社長である一ノ瀬さんに移しなさい」静まり返るオフィス。ドアのそばでポケットに手を突っ込んでいた無表情の泰誠を見つめ、咲希の呼吸は思わず重くなった。以前、彼は大きなミスで会社に大損害を出した幹部を
続きを読む
第3話
泰誠は、わずかに顔色を変え、先ほどまでの笑みを瞬時に消し去った。彼が口を開くより先に、咲希は踵を返し、自分のデスクへ戻ると、パソコンで退職届を打ち始めた。退職メールを送ってから1分もしないうちに、泰誠から承認の通知が来た。さらに1分後、彼から電話がかかってきた。「玲奈は名義だけの副社長だ。彼女が投資でトラブルを抱えて金銭を必要としているから、助けてやりたいだけなんだ。変なプライドが高いから、仕事の報酬という形をとらないと受け取らないんだよ。昔からの付き合いだし、困っている友人を助けるのは当然だろう?君が少し冷え切った態度を改めて、玲奈の問題が片づけば、副社長の座は君に返す」咲希は黙ったまま何も返さなかった。しばらく待ったあと、泰誠の声は冷たくなった。「咲希、俺の婚約者になってから、ずいぶん偉くなったものだな。少し甘えが過ぎるんじゃないか?仕事をサボったり、退職をチラつかせたりしてまでわがままを通すつもりか?5分やる、冷静になれ。今すぐ退職届を撤回すれば、なかったことにしてやる。もし本当に辞めるのが本望なら、俺もその意思を尊重するがね」言い捨てると、電話を切った。スマホの画面を眺めながら、咲希は自嘲気味に笑った。泰誠が咲希に優しい言葉をかけられるのは、せいぜいここまでだった。彼は決して、その尊大な態度を崩すことはなかった。彼はそういう性格なのだと思って、揉め事が起きればいつも咲希が先に折れてきた。しかし、玲奈の機嫌を取っている姿を見た今、泰誠が突きつけた冷淡で融通の利かないこの条件を受け入れる気力は残っていなかった。咲希は立ち上がり、窓辺で一息ついてから仕事の片付けに取り掛かった。今はただ、1日も早く引継ぎを終えてここを去りたい。それだけだった。午前中ずっと慌ただしく働き、休憩が終わる頃になってようやく食事へ向かった。店に入った途端、低血糖の影響か視界が暗くなり、そのまま床に倒れ込んでしまった。店員が慌てて駆け寄ってくる。「お客様!大丈夫ですか?」外から足音が聞こえ、誰かが男性店員を押しのけるようにして、意識が遠のきかけた咲希を抱き上げた。「コーラを持ってきてください、早く!」咲希がゆっくり意識を取り戻すと、手元で支えられたコーラを反射的に口に運んだ。視界が晴れ、そこに泰誠がいるこ
続きを読む
第4話
泰誠がじっと見守る中、咲希はスマホを躊躇いなく床に叩きつけた。泰誠の声色が険しくなった。「咲希!」咲希はテーブルに手をついて立ち上がった。体の不調ゆえか、その声は弱々しく、低く柔らかかった。「もし今、低血糖で苦しんでいるのがあなたなら、どんな理由があろうと私はあなたを追い出したり、責め立てたりして無理に従わせるような真似はしないわ。だって私は覚えているから。低血糖の人は、感情を揺さぶられるだけでも危ないって。空腹のまま店を出て、数歩も行かないうちにまた倒れたらどうしよう。倒れた拍子に鋭いものにぶつかって、動脈を切るかもしれない。骨折するかもしれない。目を傷つけるかもしれない。もう一度倒れて完全に意識を失えば、糖分を補給することもできず、命に関わるかもしれない。泰誠、人を愛するということは、それほどまでに臆病になることなの。何をするにも怖くてたまらなくて、だから自分のプライドだって捨ててしまう。でもあなたは、いつだって何も恐れていない」咲希はかすかに笑った。「あなたは、怖がるという感覚を忘れてしまったのかもしれないわね」それだけ告げると、彼女は振り返り、一歩一歩、泰誠の視界から離れていった。弱々しいその後ろ姿を前に、泰誠はその場から立ち上がったものの、追いかけることはできなかった。……引き継ぎの仕事は山ほどあり、咲希は朝から晩まで残業して、終えるまでに半月以上かかった。次に行うのは引っ越しだ。これも大掛かりな作業だ。昼間は泰誠の家で荷物をまとめ、夜には業者に荷物を運び出してもらい、二人が同棲する前に買っておいたマンションへと運ぶ毎日だった。この期間、咲希はずっとそのマンションで過ごしていた。荷造りをして4日目、この部屋にあった咲希の私物はついにほとんど片付いた。最後の片付けを終えようとした時、電話が鳴った。通話ボタンを押すと、画面に表示された名前は泰誠だった。半月以上ぶりに、彼から電話がかかってきた。会社で顔を合わせても二人は一言も話していなかったため、彼の声を聞くのも久しぶりだった。その声は、いつも通り淡々としていた。「4日も欠勤しているが、いつまで意地を張っているんだ?仕事は遊びじゃない。ここは感情任せに好き勝手する場所じゃない」どうやら泰誠は、咲希が退職届を出したことさえ忘れてい
続きを読む
第5話
「大丈夫ですか?」引越し業者が慌てて声をかけた。「こんなに血が出ているなんて、動脈でも切ったんじゃないですか!?」その鮮やかな赤を目にした泰誠は、まぶたをぴくりと震わせ、すぐに玲奈の目を覆った。「見るな、血を見ると倒れるだろう」泰誠は玲奈を部屋へ避難させると、足早に咲希の様子を見に戻った。「木村さん!」彼は屋内に向かって叫んだ。「救急箱を!」咲希は指先を動かし、痛みをこらえながら言った。「救急箱なんて役に立たない。病院に行かないと。腱が切れたみたい」「わかった」泰誠は手渡されたガーゼを受け取ると、咲希に応急処置をしつつ、家政婦の木村恵(きむら めぐみ)に命じた。「早く部屋の床の血を拭いてくれ。俺の靴底にも少しついたかもしれない。玲奈に見せられないんだ。それから玲奈の靴底も確認して、血がついていたらすぐに履き替えさせてくれ。それが終わったら、外の血も綺麗に拭き取っておいてくれ」人は、二つのことを同時にはこなせない。咲希の処置をしながら指示を飛ばすうちに、傷口を包帯で巻くための手つきが、自然と遅くなっていった。咲希は溢れ続ける血をただぼんやりと見つめ、泰誠の手の中から、自分の手を引き抜き、業者にガーゼを巻いてもらい自ら救急車を呼んだ。泰誠はようやく意識を咲希に戻し、包帯を巻かれた手を見てはっとした。「手は大丈夫か?」咲希は黙って彼を見つめた。麻痺しかけていた心が、その言葉によってまた痛み出した。傷口の痛みが全身の神経を伝い、胸の痛みと共鳴するように広がって、冷や汗が噴き出した。またしても泰誠は、自分のことを忘れていた。だが咲希は傷のことを説明することなく、彼の横を通り過ぎると花壇の縁に座り、救急車を待った。泰誠が後を追おうとすると、部屋の中から玲奈の声がした。「泰誠!前に勧めてくれた経済の本、今探してくれない?暇で退屈しちゃう!」泰誠は立ち止まり、出血で顔色が悪い咲希をちらりと見て言った。「本を渡してから、君を病院に送るよ。ただの切り傷でも、診てもらった方が安心だ」咲希は何も答えず、振り返りもしなかった。足音が消えた頃、今度は玲奈が現れた。彼女は血の上を何食わぬ顔で踏み、咲希の傷を値踏みするように見た。「痛いんでしょ?私なら、こんな名家に嫁ごうなんて思わないわ。身の丈に合わない富
続きを読む
第6話
咲希は軽傷の方の手で、重傷を負った手を支えながら、救急車の前まで歩いていった。「救急車を呼んだのは私です。この腕は、もうまったく動きません」救急隊員が傷の状態を確認し、すぐに咲希を乗せようとした。目を覚ましたばかりの玲奈は、咲希の包帯から滲む血を見て、荒い息を吐き始めた。泰誠はさっと救急車のドアを閉め、咲希を車外に締め出した。「玲奈は血を見るとひどく具合が悪くなるんだ。君と同じ空間にはいられない。別の救急車を呼べ」泰誠が放つ強烈な威圧感に気圧され、結局、咲希を置き去りにしたまま救急車は去っていった。咲希は空を仰ぎ、込み上げる涙をまばたきで押し込め、引越し業者に向かって声を絞り出した。「すみません。まずは病院に寄ってください。追加料金を払います」一行が急いで車に乗り込むと、恵が駆け寄って叫んだ。「霜月様、これをお忘れですよ!」その手には、寝室に飾られていた二人のウェディングフォトが握られていた。咲希の写真に映る、白いウェディングドレスの自分と、深いグレーのスーツを着た泰誠が、幸せそうに寄り添って笑っていた。視線を逸らし、静かな声で告げた。「捨てて」結婚相手を変えることはまだ泰誠に伝えていないし、わざわざ話すつもりもない。彼が恋愛で自分を騙したのなら、自分は結婚で彼に返すだけだ。これが公平というものだろう。……咲希の腱は3本断裂しており、病院は直ちに手術の手配をした。手術後、医師から再三の注意を受けた。しっかり休養しなければ、腱が癒着してしまい、手は元のように動かせなくなる。悪化すれば、物をつかむことすら困難になるという。「前みたいに、ベッドの上で仕事なんてしちゃダメですよ。うちの病院では有名なんですから」咲希は神妙に頷いた。「もう、そんなことはしません」医師が去り、静まり返った病室で、咲希はふと、何をして過ごせばいいのか分からなくなった。仕事も辞めた。引っ越しも終えた。弦と挙げる結婚式のために、ウェディングドレスも、空いた時間に試着して決めてある。8年間、休む間もなく走り続けてきた日々が突然止まり、咲希は何をすればいいのか分からなくなった。そんな時間に、まだ少し慣れずにいた。しばらく天井を眺めていた咲希は、寝ることに決めた。雑念が多すぎて、ようやく深い眠りに落ちたと思っ
続きを読む
第7話
泰誠がそのトラウマを覚えているとは、夢にも思わなかった。彼は何の悪びれもなく数年間、自分と秘密の交際を続けていたからだ。どんな女だって、胸を張れる関係を望むものだ。自分だって本当はそうしたかった。でも、泰誠にそれを強いることを恐れて、彼の方からのアクションをただ待ち続けていたのだ。自分の切実な願いや不満に、泰誠は最初から気づいていた。全部見て見ぬふりをしていたのだ。自分への愛がその程度だからこそ、彼は自分に対して優しさのかけらも持てなかった。咲希はベッドサイドにあったグラスをひっつかむと、泰誠の頭めがけて力いっぱい投げつけた。「二度と来ないで!」泰誠は額を軽く押さえ、じっと咲希を見つめた。「つまり、その選択をしたってことだな」咲希の瞳からは止まらない涙が溢れ出していた。彼女は震える唇で、一語一句、言い放った。「あなたを好きになったことが、私の人生で一番愚かな選択だった」泰誠はその場に立ち止まったが、結局振り返ることはなかった。翌日の夕方、紗夏から急に電話がかかってきた。「お姉ちゃん、お母さんがスマホでニュースを見てね。お姉ちゃんのことが酷く書かれてるのを見て激怒して、泰誠さんのところに抗議に行くって叫んで……そのまま卒倒して救急搬送されたの!」咲希は手の傷の処置もままならないまま、慌てて御堂家の病院へと駆けつけた。道中、ふとスマホを開くと、テレビ出演なんて絶対にしないはずの泰誠が、玲奈と一緒に恋愛番組に出ている動画が目に飛び込んできた。番組内で泰誠は言った。「ネット上の書き込みは、社内スタッフによる一方的な逆恨みからくる過激な嫌がらせです。既に本人を懲戒解雇しました」名前こそ出さなかったが、普段からネットで話題になりがちな泰誠の番組だ。放送後、すぐに正体を突き止める動きが広まり、周囲の知人たちまでが犯人は咲希ではないかとSNSで噂し始めていた。咲希のアカウントには大量の誹謗中傷がなだれ込んだ。以前、幸せな気持ちをさりげなく綴っていた過去の投稿まで一つひとつ掘り返され、あらぬ邪推でボロクソに叩かれた。さらに業界内の知人まで便乗し、デタラメを書き連ねている。【九条グループにいた8年間、霜月さんはずっと体を売ってのし上がってきた】情報は業界内で一瞬にして駆け巡っただろうから、皆もう知っているはずだ。これか
続きを読む
第8話
新婦が新郎の車椅子を押しながら、ゆっくりと芝生の会場の中心へ向かっていく。泰誠はこれまで数多くの結婚式に出席してきたが、今回ほどお似合いではない二人を見るのは初めてだった。新郎は足が不自由で車椅子に座っており小さく見えたが、新婦はすらりと背が高く、凛と立っていた。泰誠は身を乗り出し、新婦の横顔を覗こうとした。二人の歩みが遅いのか、それとも自身の焦りからか、しばらく見ても背中しか見えない。サテン地のウェディングドレスに包まれた背中は非常にエレガントで、静かに咲くユリの花のようだった。咲希の雰囲気に似てはいる。しかし、静かすぎた。自分の知る咲希は、もっと生き生きとして軽やかだった。だが、無理もないことだ。身体が不自由で、気性が激しく、元カノの絶えないプレイボーイと結婚するのだ。誰が楽しそうにできようか?「母さん、人違いだよ」泰誠は洋子にそう断言した。洋子は眉間に深いしわを寄せ、新婦の背中を凝視したまま、確信を持てずにいた。咲希の生真面目な性格を思えば、彼女のような真っすぐな人間がこれほど羽目を外すなどあり得ない。世の中には似たような人がいるものだ。さっきの一瞬は、きっと目が疲れていたに過ぎない。洋子は表情を緩めた。「咲希さんはなぜまだ来ないのかしら?二人で一緒に来るはずだったんでしょ?」泰誠がスマホを確認しても、新着のメッセージも通話も一件もなかった。彼は軽く言った。「最近、ちょっといざこざがあってね」「一ノ瀬さんのことかしら?」洋子は眉をひそめる。「前にも言ったでしょ。あの女は未熟だから離れなさいって。最近あなたたちが流したゴシップを見なさいよ。妻がいながら他の女の影をちらつかせる夫を許せる人なんていないわ」泰誠は反論した。「俺がどん底だった時に去った件は別だよ。玲奈は後に俺にお金を振り込んでくれたし、有力なスポンサーとの仲介もしてくれたんだ。玲奈がいなければ、今の業界のトップを走る九条グループはない。恩返しするのは当然だ」洋子が何かを言いかけた時、不意にその場が凍り付いた――新婦と新郎はステージの中央に辿り着き、ゆっくりと振り返った。「母さん、どうした?」息を荒らげて頭を支える洋子を見て、血圧かと焦って薬を探そうとした泰誠だが、洋子に手を制された。「咲希さんは、もう来ないわね」洋子は
続きを読む
第9話
泰誠は体を硬くしたが、それでも手を離そうとはしなかった。「放して!」咲希は怒気を孕んだ声で命じ、必死に振り払おうとした。だが、怪我をしている方の手は全く動かせず、片手だけでは力も入らない。抵抗しても無駄だった。泰誠は弦の問いかけには答えず、ただ咲希の手を引いて連れ去ろうとした。大股で足早に歩く泰誠に引きずられるように、咲希はよろめき、床を引きずるドレスの裾を踏んで危うく転びそうになった。「お姉ちゃんを放せ!」前列から紗夏が飛び出し、泰誠を突き飛ばした。体勢を立て直した泰誠は、まだ幼さの残る顔に浮かんだ激しい憎悪を見て愕然とした。自分では、紗夏との関係は悪くないと思っていた。彼女からこれほど深い怨みを買うような覚えはなかった。泰誠は苛立ちを抑え、紗夏に言い聞かせるように言った。「紗夏ちゃん、君には分からない事情があるんだ」「事情なんてどうでもいい!お姉ちゃんの手首が折れそうなくらい赤くなってるの、見えないの!?」紗夏は咲希の腕を抱き寄せ、瞳を潤ませた。「本当に、お姉ちゃんのことなんてどうでもいいんだね!」泰誠は目を落とし、咲希の細い腕が痛々しいほど赤くなっているのを見て取った。力をわずかに緩め、彼女の手を包み込むように握り直す。「咲希、詳しい話は二人だけでしよう」車椅子に乗った弦が前に現れ、冷ややかに告げた。「二人だけで何を話すんだ?九条社長が浮気して、ネットで他の女といちゃつき、恋人宣言までしたせいで、元婚約者さんが絶望して俺と籍を入れた。それを話すのか?」その言葉に会場が騒然となった。参列者の中には、九条グループの取引先も少なくなかった。取引がなくとも、同じ業界・同じ社交界に属する者ばかりで、皆が泰誠の動向を詳しく知っていた。九条家は常に体面を重んじる一族の代名詞だ。泰誠は誰からも羨まれる「完璧な息子」であり、二世代目の中でもひときわ目立つ秀才だった。今日の騒動は、九条家がこれまで積み上げてきた面子を泥で塗り潰す行為に他ならず、参列者たちは、内心どこか溜飲が下がる思いだった。会場には、驚きのあまり言葉を失う者と、隠しきれない笑みをこぼす者があふれていた。泰誠は邪魔だとばかりに弦を突き飛ばした。その激しい勢いで咲希までもが激痛に顔を歪めた。弦の顔から笑みが消える。「九条社長。俺が車椅子だ
続きを読む
第10話
結婚式が終わると、咲希はメイクを落とし、私服に着替えて、紗夏と共に杏を見舞うため病院へ向かった。結婚したことは、姉妹そろって杏には秘密にしていた。一つは、急に助かった理由を杏が悟ってしまい自分を責め、容体が悪化することを恐れたからだ。二つ目は、つい一昨日救急搬送されたばかりで体が弱っており、騒がしい場所に連れ出すわけにはいかなかったからだ。そのため今日の結婚式には、霜月家の親戚は一人も呼ばず、親族側として出席してもらったのは紗夏と数人の友人だけにした。噂話が杏の耳に入るのを防ぐためだ。杏の話し相手をして夕暮れまで過ごし、眠りについたのを見届けてから、咲希は病院を後にした。今日は初夜だ。たとえ感情のない政略結婚であっても、この夜に不在にするわけにはいかない。下の階まで見送りに来てくれた紗夏が、突然泣き出した。「九条家なんて嫌い!御堂家なんて嫌い!九条の人はお姉ちゃんを尊重もしないし、大切にもしてくれない。御堂の人はお姉ちゃんを九条家への復讐の道具にして、母さんの病状も考えずに今日式を挙げた。私たちのことなんて何とも思ってないよ!幸せな結婚式にしたかったのに、見てよ。あんなに綺麗に装っても、招待客には変な噂をされて。あとで振り返ったって、幸せな思い出なんて一かけらもないじゃない!」咲希は、紗夏の目元を優しく拭いながら笑った。「紗夏、弦さんがいかに大金持ちか知ってる?彼の嫁になりたい女は星の数ほどいるんだよ?この8年間、無休で働き続けて本当に疲れたんだ。これからは贅沢に生きたいの。セレブ妻になりつつお母さんも救えるなんて、一挙両得でしょ?私も納得したうえで決めた日程なの。それに私だって、泰誠に仕返ししたくて結婚したんだから、打算的だよ。さあ、あと数日で学校も始まるんだから。あと数日は楽しく過ごして。戻りなさい」紗夏を部屋に戻し、咲希は花壇の端にしばらく座り込んでいた。今夜、帰る場所が足取りを重くする。まだ他人同然の夫と、どう向き合えばいいのか分からなかった。空が刻一刻と暗くなり、意を決してタクシーを捕まえようと立ち上がった。突然、背後でクラクションが鳴り、咲希の心臓は跳ね上がった。ハザードランプを焚いている車に目をやると、下りた窓から手が伸び、だるそうに振られていた。「30分も休んだら十分だろ
続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status