ログイン紬は宙に浮かび、蓮の遺体が運ばれていくのを見下ろしていた。彼女の心にはさざ波ひとつ立たなかった。恨みも、怨念もない。まるで赤の他人の結末を見ているような、不思議なほど静かな気持ちだった。かつて彼女は、彼を一生恨み続けると思っていた。冷凍倉庫での冷酷な仕打ちも、子供を殺されたことも、莉奈に騙されて自分を傷つけ続けたことも、すべてを呪ってやると。けれど、こうして魂だけの姿になり、彼が一生をかけて償う姿を見続け、意気揚々としていた「久我蓮」という男が、見る影もなく老いさらばえていく様を見届けていたら――あんなに激しかった恨みは、風に吹かれた煙のように消え去ってしまった。それは「許した」からではない。「憎むほどの価値もなくなった」からだ。紬はかつて、彼を熱烈に愛し、すべてを捧げた。けれど彼はその愛を踏みにじり、尊厳を粉々に砕いた。その愛はとっくに、あの極寒の冷凍倉庫の中で凍りつき、砕け散ってしまっていたのだ。もう二度と元に戻ることはない。その時、懐かしい声が聞こえた。「紬……」振り向くと、そこには父と母が立っていた。記憶の中にあるいつもの姿だ。母は濃紺のカーディガンを、父はグレーのジャケットを着て、優しい笑顔で紬に向かって歩いてくる。そして、二人の足元には、小さな影が寄り添っていた。白いベビー服を着た男の子。まん丸な顔に、愛らしい笑顔を浮かべている。その大きな瞳は、紬にそっくりだった。あの子だ。失われた子供だ。氷のように冷たく固まっていたあの日とは違う、とても健康的で、可愛い姿をしていた。「紬、迎えに来たよ」母が手を差し出した。その手は、幼い頃に握った時と同じように温かかった。紬はもう耐えきれず、切れた糸のように涙をこぼしながら駆け出し、母の胸に飛び込んだ。母は優しく紬の背中をトントンと叩いてくれた。小さい頃、いじめられて泣いていた彼女を慰めてくれた時と同じように。「よしよし、もう泣かないで。紬はたくさん苦労したわね。これからはもう、辛い思いなんてしなくていいのよ」父も目を赤くして傍らに立ち、娘の頭を撫でた。「バカな子だ。そもそも、蓮さんなんかと結婚させるべきじゃなかったんだ。お前にこんな苦労をさせて……すまなかったな」紬は首を横に振り、父を見上げた。「ううん、お父さんのせいじゃない。私が自分で選んだ道だから…
秋風が枯れ落ち葉を巻き上げ、墓の前でひとしきり舞った後、カサカサと音を立てて蓮の肩に降り積もる。彼は桃の木でできた杖に寄りかかっていた。持ち手部分に彫刻された「絡み合う蓮の花」は、かつての艶を失っている。それはまるで、長い年月の風雪に晒され、老いさらばえて脆くなった彼自身そのものだった。ここ数年、彼は墓の側を離れようとしなかった。墓石の横には色褪せたウールのブランケットが敷かれ、その上には紬が生前気に入っていたジャスミンの香炉が置かれている。だが今、香炉の中の灰は冷え切っている。彼が何かを思い出した時だけ、震える手でマッチを擦り、安物の線香に火を灯すのだ。頼りない煙が風に吹かれ、虚空へと消えていくのを、彼はただぼんやりと見つめていた。彼の髪はすっかり白くなり、薄くなった頭皮に張り付いている。目尻の皺は深い溝のように刻まれ、かつて鋭い光を放っていた瞳は、今や白く濁り、光を失っていた。座り込むたびに、彼は墓石を支えにして、荒い息を整えなければならない。胸の奥から響く咳は、まるで壊れたふいごが軋むような音を立て、一度咳き込むたびに身を引き裂くような痛みが走った。執事の佐久間は、屋敷に戻って療養するよう何度も説得した。介護士を雇い、温かいベッドで過ごすべきだと。しかし蓮は、そのたびに静かに首を横に振るのだった。彼は枯れ木のような指で、墓石に刻まれた「紬」の名前を何度も何度も撫でる。まるで、壊れやすい至宝に触れるかのように。「紬は、あの広い屋敷の寒々しさが嫌いなんだ」彼はいつも、うわごとのようにそう呟いた。「ここには彼女の好きな桐の木がある。子供も一緒にいる。ここなら、彼女は寂しくないはずだ」だが本当は、彼自身が一番よくわかっていた。寂しくてたまらないのは、紬ではなく自分自身なのだと。ある日の早朝。まだ空が白みきらないうちに、蓮は墓の脇に建てられた粗末な小屋から、足を引きずるようにして出てきた。それは佐久間が手配して建てた仮設の小屋で、中には粗末なベッドと石炭ストーブがあるだけだ。冬は氷室のように冷え込み、夏は蒸し風呂のように暑い。それでも彼は、ここを離れようとはしなかった。彼は色褪せた厚手の上着を羽織り、墓の前まで来ると、懐からハンカチに包まれた「何か」を大切そうに取り出した。震える手で包みを開く。中に入っていたのは、
冷凍倉庫に閉じ込められた莉奈は、極限の苦しみを味わっていた。骨の髄まで凍てつく寒さ、耐え難い飢え、そしていつ死ぬかわからない恐怖。それらが少しずつ彼女の精神を蝕んでいく。彼女はようやく理解したのだ。かつて自分が紬に与えた苦痛が、どれほど凄惨なものだったのかを。彼女は後悔し始めた。自分の愚かな行いを悔やみ、泣き叫んだ。もし紬に嫉妬などしなければ、もし執拗に彼女を陥れようとしなければ、こんな無残な結末を迎えることはなかったのに。しかし、今さら何を悔いても遅すぎた。蓮に彼女を許すつもりなど毛頭なかった。彼は使用人に命じ、莉奈がすぐに死んでしまわないよう、わずかな水と食料だけを与え、生かさず殺さずの状態で苦しみを長引かせたのだ。莉奈は扉越しに蓮へ命乞いをしようとしたが、蓮が姿を見せることは二度となかった。彼の心にあるのは、亡き妻への懺悔と、莉奈への尽きることのない憎悪だけだった。数日後。使用人が、息絶えている莉奈を発見した。その遺体はカチコチに凍りつき、顔には死の瞬間の恐怖が張り付いたままだった。その報告を聞いても、蓮は眉一つ動かさなかった。彼にとって、莉奈の死は心の中の憎しみをほんの少し和らげる材料にはなったかもしれない。だが、どれだけ彼女を苦しめたところで、愛する紬と子供が受けた傷も、失われた命も、何一つ戻ってはこないのだ。蓮はそれからも、来る日も来る日も紬の墓の前に座り続けた。雨の日も風の日も、彼はそこを動こうとはしなかった。長期間にわたりトップが不在となった会社は、深刻な経営危機に陥った。株主たちは激怒して蓮に会長職の辞任を迫り、かつて栄華を極めた久我家の資産と産業は、坂を転がり落ちるように没落していった。だが、蓮はそのことに関心すら示さなかった。富も、名声も、地位も、今の彼にとっては道端の石ころほどの価値もなかった。彼が唯一執着し、守りたかったのは紬と子供だけだった。しかし、その宝物は彼自身の手によって永遠に失われてしまったのだ。彼は夜ごと、夢を見るようになった。夢の中では、紬が優しい笑顔で彼に歩み寄ってくる。その腕には、元気な赤ん坊が抱かれている。「紬……!」蓮は涙を流し、愛おしいその姿を抱きしめようと手を伸ばす。しかし、指先が触れそうになった瞬間、二人の姿は霧のように消え失せてしまうのだ。「待ってくれ!行かないでくれ……
蓮は、紬の墓前にやってきた。墓前に手向けられた遺影の中で、紬は優しく微笑んでいる。けれどその笑顔は、まるで鋭利な刃物のように蓮の心を突き刺した。彼はあの小さな子供を、紬と同じ墓に眠らせてくれた。まだ名前もなく、この世界の温かさを知ることもなかったけれど、それでも彼にとっては大切な我が子だったのだ。「紬、すまない……」蓮は墓石の前に跪き、止めどなく涙をこぼした。「今さら何を言っても遅いことはわかっている。俺は莉奈に目を曇らされ、お前にあんな残酷なことをし、俺たちの子供まで死なせてしまった。莉奈はあの冷凍倉庫に閉じ込めた。お前と子供の命で償わせるつもりだ。こんなことでは到底、俺が犯した罪の償いにはならないとわかっているが、今の俺にできるのはこれだけなんだ。紬……もしお前の魂がまだここにあるなら、俺を許してくれないか?本当に後悔しているんだ。お前と子供に、会いたくてたまらない……」彼はそうして、日の出から日の入りまで跪き続け、ひたすらに懺悔を繰り返した。けれど、彼がどれだけ言葉を尽くしても、紬からの返事が返ってくることは二度となかった。その時、執事の佐久間が歩み寄り、蓮に一冊の日記帳を差し出した。「旦那様、これは奥様の日記帳でございます。遺品を整理していた際に見つけました」蓮は日記帳を受け取り、震える手でページを開いた。そこには、二人が結婚してからの日々が綴られていた。彼への愛、妊娠した時の喜び、そして彼に傷つけられた時の苦しみと絶望が、克明に記されていた。【今日、蓮さんはまた莉奈さんのことで私を怒鳴った。本当に悔しいし、悲しい。私は莉奈さんをいじめてなんていないのに、彼はどうしても私を信じてくれない】【赤ちゃん、今日ママはきみに音楽を聴かせたよ。聞こえたかな?ママはきみが生まれてくるのを本当に楽しみにしているの。いつか私たち家族が、幸せに暮らせますように】【蓮さんに部屋に閉じ込められてしまった。お腹が空いたし、すごく怖い。赤ちゃん、強くいてね。ママが絶対に守るから】そして、最後のページ。【冷凍倉庫に閉じ込められてしまった。寒い……すごく寒い。赤ちゃん、ごめんね。ママはもう耐えられそうにないの。守ってあげられなくてごめんね。……蓮さん、あなたが憎い。私はあなたを、永遠に許さない】最後の数行は、文字が乱れ、絶望に満ちていた。蓮
蓮は、莉奈について徹底的な調査を開始した。彼女がいったいどんな人間なのか、なぜ執拗に紬を陥れようとしたのか、その理由を知りたかったからだ。もたらされた調査結果は、彼を震え上がらせるものだった。莉奈は、彼が信じていたような「か弱く健気な幼馴染」などではなかった。彼女は幼い頃から紬に嫉妬していたのだ。紬の家柄が良く、容姿が優れていたこと、そして何より、蓮の両親がかつて紬と蓮を結婚させようとしていたことが原因だった。莉奈はずっと蓮のことが好きで、彼を手に入れるためなら手段を選ばなかった。蓮の前でわざと弱々しく可憐なふりをし、彼の同情と庇護欲を煽った。そして、何度も罠を仕掛けて紬を陥れ、蓮に紬を嫌わせて捨てさせ、自分がその代わりに久我家の奥様の座を奪い取ろうと企んでいたのだ。以前、家宝の壺が割れた一件も、彼女の仕業だった。今回の風邪も、彼女の自作自演だった。彼女は自分の体が弱く、少し風に当たればすぐに風邪を引くと知っていた。だから紬が窓を開けた後、わざと窓辺に駆け寄って風に当たり、風邪を引いた姿を蓮に見せつけることで、紬が故意に危害を加えようとしたと思わせたのだ。調査結果を見た蓮は、怒りで全身を震わせた。自分がこれまで大切に守ってきた相手が、まさかこれほどまでに悪毒な女だったとは想像もしなかったのだ。「園田莉奈……あの悪魔め!」蓮は歯ぎしりし、その瞳には殺意が満ちていた。彼は、紬が冷凍倉庫で味わった苦痛を思い出し、罪のない子供が無惨に死んでいったことを思い出し、胸の中の悔恨と怒りが激しく燃え上がった。彼は誓った。莉奈が犯したすべての罪に対し、必ず相応の報いを受けさせると。蓮は莉奈を自分の前へ連れてこさせた。蓮の氷のような視線を見た莉奈は、内心恐怖を感じたが、無理やり落ち着きを装った。「蓮さん、どうしたの?」「どうしただと?」蓮は冷たく笑い、調査報告書を莉奈の目の前に投げつけた。「自分で見てみろ。お前がやってきた『善行』の数々をな!」莉奈は報告書を拾い上げ、読み進めるにつれて顔色が青白くなっていった。彼女は悟った。自分の陰謀がバレたのだと。「蓮さん、違うの、これは誤解よ……」莉奈は必死に弁解しようとした。「誤解?」蓮は怒号を上げた。「壺を割って紬を陥れたのも、わざと風邪を引いて俺に彼女を罰させたのも、まだ誤解だと言うのか?莉奈、
蓮は、紬と子供の亡骸を久我家の屋敷へと連れ帰った。彼はリビングのソファに深く沈み込んだまま、虚ろな目で一点を見つめている。その姿は、まるで魂を抜かれた抜け殻のようだった。その痛ましい姿を見て、執事の佐久間は胸を痛めた。彼は長い間ためらっていたが、意を決して主人の前へと歩み出た。「旦那様……奥様は、誰よりも旦那様を愛しておられました」佐久間の静かな声が、沈黙したリビングに響く。「この家に嫁いでこられてから、奥様は毎朝誰よりも早く起きて、旦那様のために朝食を用意されていました。夜、どんなに帰りが遅くなっても、決して先に休もうとはせず、ずっと起きて待っておられました」蓮の眉がわずかに動くが、佐久間は言葉を続ける。「旦那様が風邪を引かれた時もそうです。奥様は一睡もせずにベッドの傍らに寄り添い、懸命に看病をなさっていました。旦那様の心に園田様がいらっしゃることは、奥様も十分承知しておられました。それでも一言も不満を漏らすことなく、妻としての務めを黙々と果たされていたのです」佐久間の声が、わずかに震え帯びる。「ご懐妊された時の奥様の喜びようと言ったら……毎日、お腹のお子様に音楽を聴かせたり、絵本を読み聞かせたりして、それはそれは誕生を心待ちにしておられました。あの日、窓を開けられたのも……部屋の空気が少し淀んでいて、お子様に悪い影響が出るのを心配されたからです。ただ少し、新鮮な空気を入れたかっただけなのです。それがまさか、このような残酷な結末を招くとは……奥様ご自身、夢にも思わなかったことでしょう」佐久間の言葉は、鋭利なナイフとなって蓮の心臓を抉った。封じ込めていた記憶が、堰を切ったように溢れ出してくる。彼に冷たく当たられた日々のこと。それでも紬が見せてくれた、健気な笑顔。妊娠がわかった時の、あのはにかんだような幸せそうな表情。そして――冷凍倉庫へ連れて行かれる時の、必死に頼んだこと。悔恨が津波のように押し寄せ、彼を飲み込んだ。彼はようやく気づいたのだ。自分が莉奈の表面的な弱さに惑わされ、紬という女性が捧げてくれた真実の愛を踏みにじっていたことに。「俺は……俺はなんて馬鹿なことを……」蓮は頭を抱え、獣が呻くような声を上げた。「紬、俺が悪かった……本当にすまなかった。頼むから戻ってきてくれ!これからは大事にする、お前も子供も、俺