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第2話

Author: 歩々花咲
「辞表です」

苑は淡々と告げた。彼女は、彼にだけは嘘をつかない。

――だって彼は、たとえ善意の嘘でも嫌う人だから。

蓮の表情がさらに険しくなる。

「これからは辞表は直接人事部に出せ。お前がやることじゃない……暇なら、お前の祖母の相手でもしてやれ」

バタン――

重たいドアの音がオフィスに響いたと同時に、苑の顔から笑みが音もなく消えていった。

「朝倉……それ、私の辞表なんだけど」

夕方六時。

苑は蓮に付き添って芹沢家を訪れた。

車が止まった瞬間、琴音が白い犬を抱えて飛び出してきた。

彼女の瞳には、蓮への嬉しさと照れがあふれている。

ただ、腕に抱かれた犬だけは、まるで敵を見るように蓮へと吠え立てていた。

「Qたん、ダメよ。パパでしょ?」

その一言に、苑は思わず口元を引きつらせる。

蓮は犬や猫などの動物が苦手だ。いや――アレルギーを持っているからだ。

けれど次の瞬間、彼は手を伸ばし、犬の頭を軽くぽんと叩いた。

「Qたんか。俺に吠えたら、お前のママに出荷してもらうからな?」

その姿に、苑の胸がギュッと締めつけられる。

以前、彼女が飼っていた猫。

ずっとケージの中で育てていたのに、蓮が「毛が無理」と言って、手放させた。

あの時は「仕方ない」と自分に言い聞かせたけれど――

今、彼は琴音の犬にまで優しい声をかけている。

……そうか。

本当に好きな人のためなら、アレルギーさえも忘れるんだね。

「蓮、お父さんとお母さんが中で待ってるよ」

琴音は舞踊の道を歩んできた女の子。

スラリとした体にしなやかな声、その視線には自然な柔らかさがある。

女の自分ですら、彼女に見惚れてしまいそうになる。

ふたりはまるで恋人のようにぴたりと寄り添いながら、玄関へと入っていく。

その後ろで、苑は運転手と一緒に山ほどの贈り物を抱えてついていった。

今日のこの場は――婚礼に向けての打ち合わせ。

苑はソファの隅に座り、ノートを開いて淡々とメモを取っていた。

まるで、感情なんてどこにもないかのように。

だけど、心の奥ではちゃんと泣いていることなんて、誰も気づかないんだ。

完璧なまでに、職務に忠実。

「こちらで思いつくことは、すべてお伝えしましたよ」

琴音の父親がそう言った頃には、苑のノートはすでに一冊まるまる埋まっていた。

けれど、琴音の母親はまだ不安げに尋ねてきた。

「白石さん、全部ちゃんと書き留めましたか?抜けはありませんか?」

「お母さん、心配しないで。世間ではこう言うそうだよ――『蓮を得るは易し、苑を得るは難し』って」

琴音はにこやかに苑を見つめながらそう言って、わざとらしく蓮の腕にしがみつく。

「ねえ、蓮?彼女が優秀だからこそ、こんなにも長くそばに置いてるんでしょ?」

「白石は信頼できます。どうぞご安心ください、伯父さん、伯母さん」

蓮の目が、すっと苑に向けられる。

その視線には、一瞬の冷たさが宿っていた。

まるで、「失敗は許さない」と言わんばかりに。

確かに、琴音の言う通りだ。

苑は蓮の身の回りのこと、公私に渡るすべてを七年間支えてきた。

一度だって、彼女はミスをしたことがない。

誰が疑ってもいい。けれど、蓮だけは彼女を信じてくれなきゃいけなかった。

なのに、警告……?

その瞬間、苑の胸の奥にあったぬるい痛みが、さらに深く冷たく沈んでいった。

「ねえ蓮、結婚式の日、白石さんにも私の付き添いをしてもらいたいの」

琴音は楽しげに笑いながら苑を見つめる。

「お願いできないかな?」

苑はその日、自分の予定があることを思い出して、静かに答えた。

「申し訳ありません。その日は先約がありますので……」

「えーっ、蓮、その日は白石さんに他の仕事をさせないでね?彼女にもドレスを着せて、私たちの幸せを一番近くで見守ってもらいたいの!」

琴音の声は甘やかで、けれどその奥に鋭利な刃を隠していた。

その一言一言が、苑の心を切り裂いていく。

――まるで無邪気な顔をした暗殺者。

帰り道、車内は重苦しい沈黙に包まれていた。

蓮は疲れたようにこめかみを揉んでいたが、苑は黙って助手席に座っていた。

やがて、車が楓林園に到着すると、苑はきっちりと礼を整えて一言。

「朝倉社長、お疲れさまでした。おやすみなさいませ」

ドアに手をかけようとした、その時だった。

「……アレルギー出た。薬、取ってくれ」

蓮は無造作にネクタイを引き抜きながら言った。

その喉元には、赤い湿疹のような斑点が浮かび上がっていた。
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saka
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