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「璃子、七條璃子の件です。あなたたちが結婚するのは本当ですか?あなたは璃子の婚約者なんですか?」
(璃子?本郷の執行役員が璃子になんの用だ?それに何故、彼が俺たちの婚約を知っている。まだ社外には公表していない内容なのに……。)
璃子との関係が公になってから周囲からの探りも増えた。しかし、あくまでも主導権は社長や璃子にあって、俺の口から言えることはなかった。社長から秘密にするよう厳命されていて、名刺を渡されたとはいえ初対面の相手には尚更、話せることなんてない。
「……申し訳ないですが、初めてお会いしたあなたに私の口からは何も言えません。失礼ですが七條璃子さんとはどのようなご関係でしょうか?」
玲央は俯いて小さく息を吐くと、意を決したように力強く宣言するように声を張って言った。その声には、個人的な感情の強さが滲んでいた。
「私は、璃子さんの婚約者です―――――」
あまりにも明確にハッキリという玲央の言葉を聞き間違えるはずがない。しかし、頭は混乱して彼の言っている意味が理解できずにいた。
(璃子の婚約者?璃子は俺と交際する前に誰かと婚約していた?それとも、現在進行形で話は進んでいるのか?まさか、俺の知らないところで璃子は二股をかけていたのか)
颯side玲央から「恋人岬」の話を聞いた璃子は、自分の記憶が正しいか確かめるために、翌日実家に帰り、古びたアルバムを見返していた。その日の夜に、俺と玲央の元に次々と送られてきたのは数枚の画像だった。そこには、まだおぼつかない足取りで鐘の前に立つ幼い璃子や、小学校低学年、そして高学年と、成長の階段を登る彼女の姿があった。背景にはいつも黄金に輝く鐘が映っている。どの写真の璃子も、母に向けられたレンズに向かって満面の笑みでピースサインを作っていたが、その写真を撮っていた母親の瞳には、一体何が映っていたのだろうか。「母は今、伊豆で生活していてあの鐘の場所に行っているのかもしれない……。三十年前の約束を、あそこなら守れると思っているのかも」璃子の言葉は、希望というよりは、そうであってほしいという悲痛な推測のように聞こえた。璃子の中で、日が近づくにつれて週末への期待が膨れ上がっていた。こうして土曜日の朝早く、璃子は玲央親子とともに消えた母親の影を追って伊豆へと旅立っていった。(璃子、だいぶ張り切っていたけれど大丈夫だろうか……)一人残された部屋で璃子の背中を思い出していた。母親がいなくなって、もうすぐ二年になろうとしている。璃子は気丈に振る舞ってはいるが、その内側で心が削り取られているのは明白だった。かつての璃子は、自信に満ち眩しいほどに輝いていた。しかし、今はその面影は消え失せ、代わりに疲れ切った悲壮感が漂
颯side「私、ここ知っている……。前に、何度か行ったことがある気がするわ」「え? 璃子、本当か?」璃子のその一言で場の空気が一変した。玲央が身を乗り出して問いかけると、璃子はゆっくりと頷いた。「うん、家に写真もあると思う。夕日に照らされた黄金に輝く鐘があって……。それを、母に言われるがままに鳴らした覚えがあるわ。母はその時、何かを強く祈るように手を組んでいたの。鐘を鳴らした時に相手の名前を言うと想いが届くんだって言っていて。てっきりお父さんの名前を呼んでいると思っていたけど……」公式サイトには、「相手の名前を呼びながら三回鳴らすと愛が叶う」と記されている。都内からだと日帰りではなかなか厳しい距離にあるこの場所に何度も足を運んでいたのだとしたら、よっぽど深い思い入れがあったに違いない。(三十年前の約束をずっとその鐘に託し続けていたのか……)「私、この場所に行ってみたい。行ってお母さんを探したいの。……玲央、一緒に行ってもいい?」「ああ、もちろんそのつもりだった。父さんも今度こそ逃げずに向き合うと言っている。……松田さんも、もし良かったらどうですか? ここで何らかの進展があったら、僕たちの関係も大
颯side必死で探していても見つからず、諦めかけた時に事態が大きく進展する時がある――。全てを捨てて佐奈へ向き合おうと決意し、璃子たちに婚約解消を切り出した矢先に、玲央の父が思い出した手がかりは、一筋の希望でもあると同時に俺にとってブレーキでもあった。「今度の週末、泊まりで伊豆に行ってみないか? 璃子さんのお母さんの件で一つ思い当たる場所を思い出したんだ」平日の朝、会社に行くために父親と同じタイミングで家を出た玲央は、玄関の門を抜けた後に父親からそう誘われたのだという。「思い当たる場所?」玲央の言葉に、俺と璃子は期待と疑念が混ざり合った声を上げた。父親に誘われた玲央は、すぐさま俺と璃子に連絡を寄こし、その日の夜、都内の隠れ家的なバーで急遽三人で会うことになった。「ああ。父の話だと学生時代のサークルの合宿で毎年、伊豆に行っていたそうなんだ。サークルメンバーの親族が所有する別荘地やリゾートホテルの会員権を使って泊まり、そこでテニスやゴルフに明け暮れていたらしい」玲央は淡々と語るが、俺は自分の知る一般的な大学生の合宿とのあまりの格差に名家特有の浮世離れした背景を感じずにはいられなかった。しかし、今はそんな違和感を口にして話を折るようなことをしたくないと思い、そっと胸の奥にしまい込んだ。
佐奈side「今は食事中です。このタイミングでする話ではないと思いますが」蓮が不快感を露わにしながら、カトラリーを置く乾いた音を立てて両親に釘を刺すと座に冷や水が打たれたような静寂が訪れた。皆が我に返ったように気まずそうな顔をし、口々に「無事に授かって元気に産まれてくれば問題ない」と体裁を整えていた。無理やり話を終わらせたものの、会場の空気は冬の底のように重く沈んだままだ。(これ、もし結果が悪かったと知ったら絶対に大問題になるよね……。どうしよう、蓮と私の意向だけで納得するとは思えない)蓮との幸せなはずの未来に一気に濃い陰りを感じ、目の前に並ぶ繊細で美しいはずの懐石料理さえも、今は薄暗い靄(もや)がかかったように見えた。その後の会話は全く耳に入らず、私はただ顔を強張らせながら笑顔で相槌を打つので精一杯だった。食事会がお開きになり、料亭の重厚な門を出ると、夜の冷たい風が火照った頬を刺す。蓮と二人きりになり歩き出すと、堰を切ったように無性に切なくて悲しい気持ちが溢れてきた。「佐奈、寒くないか?」「……大丈夫」「今日は私を庇ってくれてありがとう。……今日、蓮のところに泊まってもいい?」私の言
佐奈side精密検査の結果が「要再検査」だったこと、そしてその不安を抱えながら今日ここに座っていることを母は知らない。口止めしておけばよかったと猛烈な後悔が押し寄せたが、もはや後の祭りだった。母の言葉を聞いた蓮のお母さんが、花が咲くような笑顔で身を乗り出してきた。「まあ、ブライダルチェックのことですね。佐奈さん、受診されたの? 次世代のことをしっかり考えて準備をなさっているなんて。意識が高くて本当に素敵だわ。藤堂家としても、そんな賢明なお嫁さんに来ていただけて心強いわね」絶賛の言葉が、鋭い棘となって私の胸に突き刺さる。「異常なし」という報告を当然のものとして待ち構える二組の夫婦の視線が、今、私一人に集中している。喉の奥がカラカラに乾き、心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響いた。「実は、まだ最終的な結果が出ていないんです。でも二人とも自覚症状はないので大丈夫だと思います。それに、こればかりは授かりものですし巡り合わせの面も大きいですので……」言葉に詰まった私をフォローするように、蓮が代わりに笑顔で返答してくれた。努めて平静を装っている彼の横顔に縋りたい気持ちだった。このまま、どうかこの話題が終わってほしい。しかし、現実は甘くはなかった。「蓮、そんな悠長な考えでは駄目よ」蓮のお母さんが、有無を言わせぬトーンで諭すように続けた。「若い方が出産
佐奈sideこの日、結婚式の招待客の確認や、名家として報告を欠かせない親族・役員に漏れがないかの精査、そして双方の両親の間で式の規模感に認識のズレがないかを最終確認するために、都内の静かな一角にある老舗料亭で食事会を開いた。「会社関連の招待は、あまり気にしなくていいよ。直属の部門と、特にお世話になっている役員だけでいいんじゃないかな。将来的に蓮が社長に就任した際、その時は就任の式典を設けるだろうから。今は、純粋に二人の結婚を祝う場として整えればいい」蓮の父が凛とした所作で猪口を傾けながらそう言った。「私も同感だ。既に代表に就任しているなら別だが、今の段階では形式に囚われすぎる必要はない。式場も二人が納得した場所を選べばいいよ」私の父も頷き、同じ考えであることを示した。父たちが柔軟な姿勢を見せてくれたことに、私と蓮は小さく目配せをして胸を撫で下ろしていた。「結婚したら家庭を支えていかないといけないんだ。蓮、仕事に集中するのもいいが体調管理や健康には十分気を付けるんだぞ」「はい、そのつもりです。自分だけの身体ではないという自覚は持っています」「佐奈もだ。自分の健康を過信するな。蓮君の体調を管理し、健やかな家庭を築くのがお前の務めだぞ」父の言葉に、私は「はい」と短く答え、お辞儀をした。会話は和やかに進み、話題はいつしか将来の「家庭像」へと移り変わっていく。すると、父の隣で上品に微笑んでいた母が何の気なしに弾んだ声で口を開いた。「そういえば佐奈、この前検診を受けたわよね? 結果はどうだったの? 健康診断じゃなくて……ほら、なんだったかしら。最近の若い方が結婚前に受けるという検査」(お母さん、やめて……!)喉元まで出かかった悲鳴を飲み込む。この話題を両家の両親が揃っている前で出して欲しくなかった。予期せぬ角度から飛んできた刃に私の心臓がドクンと大きく脈打った。







