LOGIN朝霧が晴れゆく山間のオアシス。
透明度の高い湖面が、昇り始めた太陽の光を受けて黄金色にさざめいている。 昨晩、互いの汗と愛の証で汚れた身体を清めるため、二人は夜明けと共にこの水辺へとやってきていた。 ひんやりとした水底の砂を素足で踏みしめながら、ディーネは頭からざぶりと水を被る。 水面から顔を出し、青味がかった髪を後ろへかき上げると、しなやかな曲線を描く裸体から水滴が弾け飛び、朝の光を浴びてプリズムのように輝いた。 ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた浅瀬で身体を洗っていた男が、ビクンと肩を揺らして慌てて顔を背けるところだった。 その無骨で逞しい横顔は、首の根元から耳の先まで、火が付いたように真っ赤に染まっている。 「……なんだい、あんた。今更どこ見て照れてるんだか」 ディーネは呆れたように小さく吹き出し、バシャバシャと水音を立てて彼の元へと歩み寄った。 「そ、それは……その、明るい陽光の下で見るお前の姿が、あまりにも……眩しくて……」 目のやり場に困り、視線を彷徨わせる大男。そのしどろもどろな様子に、ディーネはおかしくてたまらないといった風に声を上げて笑った。 「ほんと、おかしなヤツだね。昨夜はあんなに獣みたいに貪りついて、お互いの恥ずかしいところなんて、嫌ってほど見せ合ったじゃないか」 「う……それは、そうだが……っ」 からかうように彼の目の前に立ち、ディーネはその大きな手から水草を編んだ布を奪い取る。 「ほら、背中向けな。流してやるよ」 「……あ、ああ。すまん」 素直に背を向けた彼の、岩のように広くて頼もしい背中。そこには昨夜、自分が快楽のあまり立ててしまった爪痕がいくつも残っている。 それをごしごしと遠慮なく擦る。 不思議なことに、その時間は少しも退屈ではなかった。 むしろ妙に落ち着く。 その理由までは考えなかった。 「で? この鬱蒼とした森ももう飽きたし、次は何処へ行く? 北の雪山か、それとも東の海峡にでも行ってみるかい?」 適当に水を掛け合い、互いの肌を洗い流しながら、終わりのない旅の予定を無造作に尋ねる。 すると彼はゆっくりと振り返り、照れを隠しきれない顔のまま、それでも真っ直ぐに彼女を見つめ返した。 「俺は……お前が行く場所なら、地の果てでもついていく。お前と一緒なら、どこだっていい」 「……バカの一つ覚えみたいに、そればっかりだね」 呆れたように言い捨てながらも、ディーネの口元は隠しきれない喜びに緩んでいた。 澄み渡る朝の空気と、果てしなく広がる未知の世界。 しかし今ディーネは、いつの間にか、景色を見るより先に彼の姿を探している自分に気づかなかった。 「行くよ」 「ああ」 ディーネは先に歩き出す。 その半歩後ろを、大きな足音が当然のようについてくる。 振り返ることはない。 振り返らなくても、そこにいると知っているからだ。 朝陽に照らされた二つの影は、まだ見ぬ世界へ向かって長く伸びていた。黄金色に染まった荒野の果て。 かつて神殿の一部だったのだろう。崩れ落ちた石柱がいくつも大地に突き刺さり、夕暮れの光の中で、二人の影を長く、孤独に引き延ばしていた。 風が吹き抜け、水色の髪が激しく煽られる。 その向かいに立つヤンシーは、ただ黙ってディーネを見つめていた。 その眉間に、無数のしわを寄せながら―― 目の前にいる女が、今から何をしようとしているのか。 それを理解してしまった者の眼差しだった。 対してディーネの瞳には、一切の迷いがない。 冷たい。 かつて《水の柱》として、多くの敵を斬り伏せてきた頃と同じ――いや、それ以上に冷徹な戦士の光が宿っていた。 「……本気で来な、ヤンシー」 ディーネは愛剣を正眼に構えた。 「今日で、師弟の縁を切る」「…………」「あたしを、ただの戦士として見な」 ヤンシーの拳が、わずかに震えた。 「……できない」「何故だい」「……俺には、お前を敵として見ることができない」「なら、あたしがあんたを斬るよ」「…………」「あんたがあたしを倒せたなら……その時は、もう師範でも弟子でもない」 ディーネは剣先をヤンシーへ向けた。 「だから――本気で来な」 長い沈黙。 やがてヤンシーは、静かに首を横へ振った。 「……できない」「……あんた、それでもあたしの弟
色とりどりの旗が風に揺れ、通りには屋台が軒を連ねている。 焼いた肉の香ばしい匂いと、甘い菓子の匂い。遠くでは祭囃子が鳴り、人々の笑い声が絶え間なく響いていた。 商工盛んな城下町で開かれている、収穫祭。 かつて神殿の静寂を「空白」としか感じられなかったディーネは今、その喧騒の中を歩いていた。 手には、焼きたての串焼き。 「……なかなか悪くないねぇ」 誰に聞かせるでもなく呟き、肉を一口齧る。 ふと隣へ目を向ければ、そこには見慣れた巨躯があった。 あまりの大きさに道行く人々が自然と道を譲る、その「山」のような男――ヤンシー。 その彼が、なぜか街の子供たちに囲まれ、困惑しながらも軽々と抱え上げ、その肩へ乗せてやっている。 まるで、大型犬に小動物が群がっているような光景だった。 (……相変わらず、変な連中に好かれる男だねぇ) 呆れたように鼻を鳴らす。 けれど、その青い瞳には、以前にはなかった柔らかな光が宿っていた。 子供たちはヤンシーの腕にぶら下がったまま、無邪気になついてくる。 「おじちゃん、これ持ってて!」「おじちゃん、もっと高い高いしてー!」「お、おい……俺はまだ二十二――」「ねえ、おじちゃん。この綺麗なお姉ちゃんと結婚するの?」 「「…………」」 祭囃子が、ほんの一瞬だけ遠くなった気がした。 以前にも、似たようなことがあった。 あの時は二人とも、まるで神龍の咆哮を浴びたように固まったものだ。 だが、今回は違った。
夜の帳が下りた安宿の片隅で、血の匂いと消毒薬の鼻を突く香りが混じり合っていた。 ディーネは、目の前で上半身を露わにして座るヤンシーの太い腕を、無言で、けれど指先が白くなるほどの力で掴んでいた。 その右肩には、崩落した瓦礫から子供を庇った際に負った、痛々しい裂傷が刻まれている。 「……痛いかい」 低く、地這うような声。 「いや。これくらい、大したことは――」「黙りなッ!!」 ディーネの鋭い一喝が、狭い部屋の空気を震わせた。 ヤンシーが驚いて言葉を呑む。見上げた彼女の青い瞳には、かつて神龍ヴォルナパルムを睨みつけた時よりも激しく、昏い怒りの炎が宿っていた。 「……あんたさ。自分の命を、一体何だと思ってるんだい」 包帯を巻く手つきは苛立ちを隠そうともせず、乱暴に、けれど決して傷口を広げない絶妙な精度で、彼女は処置を続ける。 「お前が危ないわけじゃなかった。俺が少し無理をすれば、あの子供は助かると思ったんだ。……誰かを助けられるなら、俺の傷など、安いものだ」 ヤンシーは至極真面目に、かつての道場で木刀を振っていた頃と変わらない真っ直ぐな声で答えた。 そのあまりにも愚直な言葉に、ディーネの堪忍袋の緒が切れた。 「そういうところが、大馬鹿野郎だって言ってんだよ!」 ディーネは包帯を止め、彼の分厚い胸板を両手で力任せに突き飛ばした。 「あんたはいつもそうだ。あたしの前で格好つけて、食われそうになったり 、ボロボロになったり! あたしが助けなきゃ、今ごろあんたは冷たい土の下なんだよ! わかってんのかい!?」「……ディーネ」「あんたの命は、もうあんた一人
街道沿いの、何てことのない草原。 西の空が赤く焼け始め、遠くの町から晩餐を告げる鐘の音が微かに流れてきた。 ディーネは、道端の大きな岩に腰を下ろし、何度も何度も、町へと続く一本道を睨みつけていた。 「……まったく。あの馬鹿、いつまでかかってんだい」 ヤンシーが一人で買い出しに出てから、もう随分と時間が経つ。 旅の必需品を揃えるだけなら、太陽が真上にあるうちに戻れるはずだった。 かつてのディーネにとって、「待つ」という行為は、ただの静止に過ぎなかった。 水の神殿で精霊の静寂を見つめていた四年間。 彼女の周りには常に人がいた。けれど、誰が去ろうと、彼女の胸に広がる「空白」が揺らぐことはなかった。 だが―― 「…………遅いね」 日が落ち、草原の緑が深い藍色に沈み始めた頃。 ディーネの胸の内には、苛立ちを塗りつぶすように、冷たい湿り気を帯びた「何か」が這い上がり始めていた。 いつもなら、隣には岩のような巨躯がある。 振り向かなくても、そこに穏やかで太い呼吸があることを知っている。 今はそれが、ない。 ただ、草原を抜ける夜風の音だけが、耳障りなほど鮮明に聞こえてくる。 (……もし、戻ってこなかったら?) 火竜山で彼が飲み込まれた瞬間の、あの心臓が止まるような喪失の恐怖が、夜の闇に乗じて蘇ってくる。 「あたしは一人でも生きていける」――かつて当たり前のように抱いていたその傲慢な確信が、今の彼女には、もうどこを探しても見当たらなかった。 視界の端に、揺れる影が見えた。 町の方角から、見
月さえも雲に隠れた、深い夜。 焚き火の残骸が赤く燻るだけの野営地で、ディーネは膝を抱え、ただ闇の底を見つめていた。 かつて《水の柱》として君臨していた頃、彼女は「疲れる」という感覚さえ、戦士としての弱さだと切り捨ててきた。 精霊の加護を受け、ただ冷徹に、合理的に、最適解だけを叩き出す。 それが、人々に崇められる「柱」の在り方だった。 だが今、彼女の胸の奥を満たしているのは、戦いへの高揚でも退屈でもない。 もっと重く、湿り気を帯びた、底のない泥のような疲労だった。 旅に出て、愛を知った。 それは幸福なことだった。 けれど同時に、失うことへの恐怖や、誰かを護り抜かなければならないという新しい重圧も、彼女に与えていた。 愛するものができたからこそ――怖い。 そんな自分の弱さを、ディーネはまだ上手く扱えずにいた。 不意に、隣に巨大な影が落ちた。 音もなく腰を下ろしたヤンシーだ。 彼は何も言わない。 ただ、ディーネから少しだけ離れた場所で、静かに同じ闇を見つめている。 「……何だい。あんたも寝られないのかい」 ディーネは顔を上げず、震える声を隠すように膝に顔を埋めた。 かつての自分なら、こんな時こそ自分に喝を入れただろう。 弱音なんか吐くんじゃない。 そんな暇があるなら木刀を振れ。 そうやって、どれだけ苦しくても一人で立ち続けてきた。 けれど。 隣から伝わってくるのは、かつて毒花に倒れた時に感じた、狂おしいほどの熱ではない。
旅の夜。 安宿の寝台に腰を下ろしたヤンシーが、大きな掌の上に小さな包みを乗せて差し出してきたのは、何の前触れもないことだった。 「……何だい、それは」 ディーネは怪訝そうに眉をひそめる。 「街で見かけて、お前に似合うと思ったんだ。……受け取ってくれ」 不器用な指先が包みを解く。 中から現れたのは、彼女の髪の色によく似た、深い青の石をあしらった銀の髪留めだった。 ディーネはしばらくそれを見つめ――鼻で笑った。 「……馬鹿だねぇ。あたしは戦士だよ? こんなチャラついたもん、戦いの邪魔になるだけさ」 そして、ぷいと顔を背ける。 「……そんなもの、必要ない」 情け容赦のない拒絶。 ヤンシーは少しだけ目を伏せた。 「……そうか。すまない。余計なことをした」 そう言って、彼は髪留めを机の端にそっと置いた。 それ以上、何も言わなかった。 深夜。 隣でヤンシーが地鳴りのような寝息を立て始めた頃。 ディーネは、そっとシーツを抜け出した。 月明かりに照らされた机の上。 そこに置かれた銀の髪留めを、彼女は剣を握る時よりもずっと慎重に、指先で摘み上げた。 「…………」 冷たい銀の感触。 その中央で、深い青の石が月明かりを受けて静かに輝いている。 ディーネは窓硝子に映った自分の姿を見た。 乱れた水色の髪。 旅の埃にまみ