LOGIN病室で一人になった洋介は、娘が出て行った部屋の扉をじっと見つめていた。あの扉から入ってくる人間といえば、医師と看護師、そして事件を担当する刑事以外には由利のみだった。碧斗は仕事が忙しくてなかなか来られないし、紫苑はなぜか自分に興味がない様子だった。定期的に彼の元を訪問するのは、もはや由利だけだった。彼は病室のベッドに横になり、じっと考え込んだ。つい最近、最愛の妻に捨てられたばかりだった。彼女に未練がないと言えばウソになるが、今ではだいぶ乗り越えることができている……とは思う。夜になると、様々なことを考え込んでしまう。泣いてしまうことさえあった。自分には泣く資格なんてないことはわかっていた。しかし、それでも溢れ出る涙を抑えることができなかった。「……」どれだけ、大きな罪を犯してしまったのだろうか。洋介は怪我をしてからというもの、ふと昔のことを思い出すようになった。まだ淳子がいて、家族円満だった頃。彼が思い浮かべる家族の記憶の中に、由利はいなかった。紫苑の笑顔はいくらでも浮かぶのに、なぜか由利の笑顔はどれだけ思い出そうとしても出てこない。一体いつから、彼女の笑顔を見ていなかったのだろうか。―――答えは今でも出てこない。最後に彼女が笑ったのはいつだった?俺は一体いつから由利のことをまともに見ていなかった?そのような疑問が浮かび上がっては、頭の中をグルグルと駆け回る。最初から答えが出ないとわかっていながらも、ついつい考えてしまう。「最初から……俺は全て間違えていたんだろうな……」自分でもわかっていた。彼は紫苑を溺愛する一方で、由利を育児放棄していた。いや、育児放棄どころか彼女からすれば虐待だったのかもしれない。愚かにも、今になってそのことに気が付いた。「しかし、最近になってやたらと夢に由利が現れるな……」洋介は近頃、謎の悪夢に悩まされていた。夜になると、いつも由利が彼の夢の中に現れる。そして、泣きそうな顔で毎回同じ言葉を口にするのだ。『父さん……私はあなたの”唯一”の娘なのに……あなたは私を虐待した……!』その言葉の意味を、彼はいつも理解できなかった。由利は間違いなく彼の娘だが、唯一ではない。紫苑は紛れもなく淳子が生んだ洋介の子だった。しかし、目の前に現れる彼女はとても嘘をついているようには見えなかった。「……一体、何が起きてい
父洋介が怪我をしてからというもの、由利は仕事の合間を縫って父のいる病院へ通うようになった。今日は父親の好きだったご飯を作って持ってきた。別に父親のことが好きだからそうしているわけではない。ただ、いつか父が亡くなったとき罪悪感で心が辛くならないように、行動しているだけだ。父にされた仕打ちを思えば、何で自分でもこんなことしてるんだろうなとは思う。「―――父さん、お見舞いに来たわよ」「由利……今日も来てくれたのか」病室へ入ると、父が嬉しそうに頬を緩ませた。彼の見舞いに来る人間は由利以外にはいない。妻とは離婚したうえに、碧斗は仕事が忙しくてあまり来ることができない。そして紫苑もなぜか、病院に全く顔を出さなかった。(紫苑、あんだけ父さんのこと好きそうに見えたのに……)血の繋がりがなくとも養父として大切に思っていると感じていた由利だったが、彼女はやはりどこまでも冷たい人間だった。「入院生活は寂しいから、お前が見舞いに来てくれて嬉しいよ……」「そう、私は紫苑みたいに愛想がよくないし、器用じゃないけどね」「由利……」紫苑のように愛想が良くない、器用じゃない。それはかつて、洋介がまだ幼い由利に対して言った言葉だった。彼は紫苑を溺愛する淳子の影響か、昔から何かと由利と紫苑を比べていた。いつも紫苑を褒め称え、由利を叱る。(ホンット、私もどうして父さんの見舞いにわざわざ来てるのかわからないわ)そんな彼女に対し、父は罪悪感に満ちた顔で口を開いた。「由利……すまなかった」「……」由利はその言葉をすぐには受け入れることができなかった。大切にしていた紫苑や妻から見捨てられた今になって気付くなど、あまりにも遅すぎるのではないか。由利はこれ以上、身勝手な父の姿を見ていたくはなかった。むしろ前と変わらないほうが、彼女の心もいくらか楽だったかもしれない。「……父さんが何を思ったところで、私の心の傷が消えるわけではありません」「……わかっている」父は苦しそうに由利から目を背けた。たとえ彼がどれだけ後悔したところで、由利が今さら父に心を開くことはない。彼は自分自身の犯した罪を、一生かけて背負っていかなければならなかった。「……そうですね、葬式くらいには出てあげましょう」「由利……?」「勘違いしないでください。親の葬儀にすら参列しないだなんて、何を言われるか
突如告げられた衝撃的な事実に、由利は目を見開いたまま固まった。そんな姉の姿を、紫苑はクスクスと笑った。「姉さん、何をそんなに驚いているの?別に誰でも知っていることよ。あ、父さんは知らないか。あの人は私が自分の子供だって信じて可愛がってるんだから」「紫苑、どうして……」紫苑が父親の子供ではないという噂は、由利自身も聞いたことがあった。しかし、ただの噂に過ぎないだろうとあまり深くは考えなかった。しかし、当の本人がそのことを知っていて、堂々と認めたのだ。あまりの衝撃に、由利は思考が停止した。「紫苑……知っていたの……?」「当然でしょう?私がどれだけ母さんと一緒にいたと思ってるの?姉さんが知らないような夫婦の秘密まで、私は知ってるんだから」紫苑は平然と言い放った。彼女がいつ知ったのかはわからないが、実の父親だと思っていた人が赤の他人だなんて普通だったらショックだろう。しかし、紫苑はまるで落ち込んでいない。それどころか、口元に笑みすら浮かべていた。「紫苑……悲しくないの?」「悲しい?何のこと?」紫苑はわけがわからないというように笑みを深めた。「父さんが自分の本当の父親じゃないって……私だったらショックで夜も眠れないわ……」「別に悲しくなんてないわ。父さんは昔から仕事が忙しい人だったでしょう?思い入れもあまりないのよ」紫苑の言う通り、父の洋介は仕事人間で昔からあまり家にはいなかった。しかし、由利と違って紫苑はそんな父にとても可愛がられていた。いくら関わる機会が少なかったとはいえ、ショックを受けるのは当然ではないだろうか。「ああ、姉さんは正真正銘父さんの子だから安心してね。あなたは父さんと母さんの血をきちんと引いているわ」「……」そのとき、紫苑は突然アハハッと声を上げて笑い出した。シンと静まり返った夜の空間で、彼女の高い笑い声が響いた。「父さんも馬鹿よね。自分の子を蔑ろにして愛する妻が不倫の末に作った子供を可愛がっていたんだから。おかしくてたまらないわ」「紫苑……」目の前にいる紫苑が、とても人間であるようには見えなかった。そんな酷い言葉を、どうして平然と言えるのか。「当然、母さんは知ってたわよ?母さんは父さんを憎んでいたからね。父さんの血を引く姉さんよりかは……まだ別の男との子である私のほうがよかったんでしょうね」紫苑はそう言うと
病室へ入ってきた紫苑は、慌ててベッドにいる父の元へと駆け寄った。彼女は包帯に巻かれた父の手をギュッと両手で握り、無事を喜んだ。「父さん、よかった!無事だったのね」「紫苑……わざわざ来てくれたのか」突如やってきた愛娘の姿に、父洋介は僅かに頬を緩ませた。最近は紫苑を遠ざけていた父だが、やはり彼女が由利よりも可愛いのは変わらないようだった。「父さん、私すっごく心配したのよ?父さんが階段から落ちて大怪我をしたって聞いて、慌ててここまで来たの」「そうか……嬉しいよ」紫苑は毎回リアクションがかなり大げさだった。プレゼントを貰うときも過剰な反応をするし、ちょっとの怪我でも相手を心配する。そのような点が周囲に好かれるのだろう。しかし、彼女の本性を既に知っている由利と碧斗からすれば、創り上げた偽りの姿にしか見えなかった。それどころか、二人は紫苑に妙な違和感を感じ取った。(……変ね。仕事もしていない紫苑が、病院まで到着するのがどうしてこんなに遅くなるの?)由利や碧斗と違って暇を持て余しているはずの紫苑が、なぜすぐ近くの病院へ来るまでに時間がかかったのか。由利はチラと碧斗に視線を送り、彼の意向を窺った。「……」どうやら、碧斗も全く同じような疑念を抱いているようだった。そんな姉夫婦の疑問に気付くことはなく、紫苑は父の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。「―――父さん、よかったわね。命拾いできて。私もとっても嬉しいわ」***父親は怪我のため、仕事を休んでしばらく入院することになった。お見舞いを終えたあと、由利は帰り際の紫苑を引き留めた。病院の外は既に暗くなっていて、星が出ていた。「紫苑、ちょっと話があるんだけど、いいかしら?」「どうかしたの?姉さん」紫苑がいつもの柔らかい笑顔で振り返った。星空の下で笑う彼女は、他の誰よりも儚く美しかった。「いや……今日、病院へ来るのがずいぶん遅かったのね」「ああ、部屋で寝ちゃってたのよ。そのせいで携帯の電話に気付かなくって……遅くなっちゃったの」紫苑は照れたようにエヘヘと笑った。さっきまで父親を心配していたとは思えないほど、彼女はいつもと何一つ変わっていなかった。由利はそんな彼女が理解できなくて、続けて尋ねた。「ねぇ、紫苑……あなた、どうしてそんなに平然としていられるの?」「平然と?何のこと?」きょとんと首を
碧斗が車を出し、二人は大慌てで父の運ばれた病院まで向かった。「父さんが階段から落ちて大怪我ってどういうこと?一体何があったの?」「詳しくは俺もわからない。だけど……会社で事故に遭ったそうだ。何とか一命を取り留めたけど、足を骨折したって……」「そ、そんな……」昔からずっと健康で風邪も引いたことがないような父が怪我で入院するだなんて。由利はとても信じられなかった。しばらく車を走らせると、由利たちは父のいる大きな総合病院に到着した。「…………パトカー?」病院の前には、なぜかパトカーが停まっていた。碧斗と由利は疑問に思いながらも、病院内へ入った。「―――父さん!怪我をしたと聞き……」病室へ入ると、何やら刑事と話し込んでいる父親の姿が視界に入った。どうして刑事さんがここに?突然室内になだれ込んだ二人を見た父親が、ゆっくりと顔をこちらに向けた。「……由利、碧斗君」「………父さん」由利と洋介の関係を察したのか、刑事が彼女に向かって頭を下げた。「夏目洋介さんの娘さんですか?」「ええ、そうです……父が怪我をしたと聞いて、急いで来たんです……」由利は隣にいた碧斗を夫だと説明を加えた。二人は洋介の親族として、特別に病室内にいることを認められた。「あの……どうして刑事さんが父の元を……?」由利は抱いていた疑問に触れた。何となく予想はつくものの、念のためきちんと確認しておきたかった。「実は……今回の一件が事故ではなく事件である可能性が浮上したんです」「…………やっぱり、そうだったんですね」由利と碧斗は顔を見合わせた。事故ではなく、事件。つまり、父はたまたま階段から落ちてしまったのではなく、何者かの手によって落ちた可能性があるということ。(一体誰が、父さんを……?)犯人の姿形もわからず、由利は途方もない不安に押しつぶされそうになった。父に危害を加えようとした人間がいる。頭に包帯を巻いた父は、由利に向けて口を開いた。「……意識を失う前、誰かに背中を押されたような気がしたんだ」「……父さん、誰かというのは」「……そこまではわからない。階段の上には誰もいなかった」事件だと判明したはいいものの、肝心の犯人の正体は掴めないままだった。室内にどんよりとした重い空気が流れていたそのとき、突然部屋の扉が開いた。「―――父さん、階段から落ちたと聞いた
碧斗の元から立ち去った由利は、一人部屋に戻った。彼女は突き止めた真実をノートにまとめ、じっくりと考え込んだ。「………やっとわかったわ。この残酷なループを終わらせる方法を」しばらく考えた末に、ある一つの結論に辿り着いた。どうして三度も人生を経験しておきながら、そのことに気が付けなかったのだろう。普通に考えれば、すぐにわかることだというのに。「私にとっての一番の敵は……きっと紫苑―――彼女だわ」―――紫苑こそ、このループの鍵を握っている。そのような考えになるまで、そう時間はかからなかった。彼女がそう思ったのには、当然いくつか根拠がある。(まず、おそらく私は三度とも死んでいるのよ。一度目と二度目は記憶が途切れていたというだけで、本当は死んでいた)つい最近、一度目の生の最後の記憶を取り戻した。三度目の通り魔と全く同じ男に襲われて、最後を迎えた。きっと二度目も同じ人物に刺されて死んだのではないだろうか。その可能性が高いだろう。「紫苑は碧斗のドリンクに何か薬を仕込んでいた……そう考えたほうが自然ね」一度目、二度目と碧斗は紫苑の死に耐えられず自ら命を絶った。最後に由利が見た彼は、あまりにも異常だった。(そうよ、今思えば碧斗はあそこまで平然と暴言を吐くような酷い性格の人ではなかった……多少、冷たいところはあったけれど……)おそらく前世の彼は、紫苑が与え続けていた薬の影響でおかしくなっていたのだろう。中毒性の高い薬を与え続けると、人は簡単に狂ってしまう。そのせいで理性を失い、最後は自死という選択をしてしまったのではないだろうか。もし碧斗が紫苑と不適切な関係を続けていたのも、薬が関係しているのだとしたら、何だか複雑な気分だった。「だとしたら、私は一体誰に憎しみを向ければいいのかしら……」そう呟いたそのとき、突然部屋の扉が勢いよく開けられた。「――ゆ、由利!大変だ!」「……碧斗、どうかしたの?」切羽詰まった様子で中に入ってきたのは、ついさっき話したばかりの碧斗だった。彼は肩で息を吐きながら、由利に縋り付いた。いつも冷静な彼がここまで慌てているなんて、珍しい。一体何があったのだろうか、由利は嫌な予感を隠しきれなかった。「―――義父さんが、階段から落ちて大怪我をしたって!」「…………何ですって?」
「紫苑……!紫苑……!しっかりしてくれ……そんな……どうして急に……!」水藻区(みなもく)にある大病院の一室にて。一人の男がベッドに横たわって微動だにしない女に必死の思いで呼びかけている。彼の呼びかけも虚しく、彼女はビクともしなかった。病室が静寂に包まれ、人々のすすり泣く声が耳に入る。この場にいる全員が彼女の死を悲しみ、現実を受け止めきれないでいる。そんな中、一人の女が複雑な表情で彼ら家族を見つめていた。「……」――どうして、こんなことになってしまったのか。彼女は心の中で自分自身に問いかけた。当然、答えなど出てこなかった。元より、答えられる問題ならそのように思ったりはしないだろう
両親、碧斗は紫苑の妊娠に大層喜んだ。このときには既に紫苑は病気を克服し、強く生き始めていた。そんな彼女の変化は、由利にとっても喜ばしいことだった。「二人とも、妊娠おめでとう」「ありがとう、姉さん」紫苑は嬉しそうに微笑んだ。まだ平らな彼女のお腹を、隣にいた碧斗がそっと撫でた。その顔はとても幸せそうで、由利は回帰してよかったと心の底から思えた。紫苑は複雑そうな目で由利を見つめた。「姉さんから祝いの言葉をもらえるとは思っていなかったから……驚いたわ」「……そんなことないわ、私は誰よりもあなたたちの愛を応援しているもの」強がりでも嘘でもない。紛れもない本心だ。由利の言葉を聞いた両親は
実に二度目の回帰、三度目の生だった。前世と同じ、結婚一年目のあの日に戻ってきたようだった。彼女はそのことに困惑したが、二度目だったせいか、今回は落ち着いて行動することができた。紫苑が亡くなり、碧斗が死んだことにより彼女は回帰した。それは前世と同じだった。ここから推測できることは一つだけ。それは、碧斗の死が彼女の回帰に繋がっているということだ。――碧斗が亡くなったことをきっかけに、私は巻き戻ってきた。なら、碧斗が死ななければ、二度と回帰することはないのではないか。由利がそのような結論に至るまで、そう時間はかからなかった。そのためには紫苑が死なないようにする必要があった。彼女がいなくな
結婚してから三年が過ぎたあたりのことだった。前世で由利が妊娠したのとちょうど同じ時期。今世では由利の代わりに紫苑が彼の子を身籠った。前世と違って驚きはしなかったし、怒りすら湧いてこなかった。彼女自身も、そうなることを望んでいたからだ。このときには既に、碧斗と紫苑は不倫関係にあった。そのことに由利も薄々勘付いていた。思えば、最初から気付かなかった自分がおかしかったのだ。前世から、碧斗は看病を理由によく紫苑の部屋を訪れていた。その頻度は週に五回以上、妻である由利よりも紫苑と過ごす時間のほうが多いほどだった。由利と夜を共にするのは週に一度であるのに対し、義妹である紫苑とは異常ともいえるほど夜







