INICIAR SESIÓN「返信しなよ。このタイミングなんだし」
みかが、にやにやしながらスマホを指差した。
「無理でしょ」
私はすぐに首を振る。
「学会で二度会っただけだし、そんなに親しいわけじゃないから」
もう一度、画面を見る。
【綾瀬隼人】
『こんばんは。
この前の学会ぶりです。急だけど、今少し話せたりする?』どうして今日なのだろう。
夫が愛人を家へ連れて帰ってきた日に。
四回目の結婚記念日に。
偶然にしては、あまりにもタイミングがよすぎる。
「普通に『どうしました?』でいいじゃん」
「でも、急に連絡してくるような距離じゃないし」
「だから、理由を聞くんでしょ」
みかは当然のように言った。
それでも、指は動かなかった。
私はまだ既婚者だ。
半年後には離婚する。
そう口にしたばかりなのに、まだその現実すら受け止めきれていない。
誰かに期待して、また傷つくのはもう十分だった。
「ほら、貸して」
みかが手を伸ばす。
「ちょっと、待って」
止めるより早く、スマホを奪われた。
「みか!」
「はいはい。任せなさい」
素早く文字を打ち、そのまま送信する。
『こんばんは。
どうされましたか?』「……最悪」
「感謝してよ。自分じゃ送れなかったくせに」
みかは悪びれる様子もなく、カフェラテへ口をつけた。
「人生って、こういう時に急に動くんだよね」
「動かないよ」
深く息を吐く。
何も始まるはずがない。
私は離婚の準備を始めようとしているだけだ。
恋愛をしたいわけでも。
誰かに救ってほしいわけでもない。
ただ。
あの家から出られるようになりたい。
その時、スマホの画面に既読がついた。
驚くほど早かった。
数秒後。
すぐに返信が届く。
【綾瀬隼人】
『よかった。
今、もしかして青山います?』「……え?」
思わず声が漏れた。
みかが身を乗り出す。
さらに通知が続く。
『東郷先生らしい人を見た気がして。
すごく暗い顔で歩いてたから、気になって』指先が止まった。
暗い顔。
私がどんな顔で家を出たのか。
自分ではわかっていなかった。
けれど、学会で二度会っただけの人には気づかれた。
四年間一緒に暮らしてきた夫は。
私がどんな顔で帰りを待っていたのか、一度も気づかなかったのに。
みかの表情が、少しだけ真剣になる。
「綾香」
「何?」
「その人、ちゃんとあんたを見てるっぽいじゃん」
胸の奥が、かすかに揺れた。
けれど、すぐに打ち消す。
違う。
ただの偶然だ。
たまたま見かけて。
たまたま、私がひどい顔をしていただけ。
「……大げさだよ」
スマホを伏せようとする。
その瞬間。
すぐ近くから、低く柔らかな声が聞こえた。
「東郷先生」
反射的に顔を上げる。
そこに、綾瀬隼人が立っていた。
長い黒髪を後ろで束ねた、背の高い男。
黒いシャツが、整いすぎた顔立ちによく似合っている。
「……どうして、本当にいるんですか?」
思わず、そのまま口にしてしまった。
綾瀬先生は少し困ったように笑う。
「ごめん。やっぱり本人だった」
その距離感が、やはり少し近い。
学会で会った時もそうだった。
遠慮がないのに、押しつけがましくはない。
妙に人の懐へ入ってくる人だった。
綾瀬先生の視線が、私の目元で止まる。
赤く腫れたまぶた。
泣いた痕。
きっと、隠しきれていない。
ほんの一瞬で、綾瀬先生の表情から笑みが消えた。
「……何があったの?」
声が低くなる。
わずかに怒りを含んでいるように聞こえた。
けれど、その怒りは私へ向けられたものではなかった。
その一言だけで、喉の奥が詰まった。
みかには、自分から話せた。
優が帰ってこなかったことも。
咲子を連れてきたことも。
全部。
けれど。
まだほとんど知らない人に、こんな顔を見られた途端、急に惨めさが込み上げた。
「……別に」
大丈夫だと言おうとした。
いつものように。
何でもないふりをしようとした。
けれど、うまく声が出ない。
綾瀬先生は急かさなかった。
ただ、黙って私を見ていた。
同情するような目ではない。
無理に聞き出そうとする目でもない。
それが、余計に苦しかった。
誰かに気づかれることは、こんなにも居心地が悪い。
それなのに同時に。
ほんの少しだけ、楽になる。
その時。
テーブルの上のスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、胸の奥が冷える。
【優】
『今日は帰るの?』
短い文だった。
それだけ。
続けて、また通知が届く。
『咲子、泊まるし
嫌なら無理しないで』空気が止まった。
嫌なら無理しないで。
言葉だけを見れば、気を遣っているようにも読める。
けれど、あまりにも残酷だった。
私の家なのに。
夫の愛人が泊まるから。
妻である私が、帰るかどうかを選ばされている。
指先に力が入らない。
みかが画面を見て、表情を険しくする。
「……何、それ」
反射的にスマホを伏せようとした。
けれど、遅かった。
綾瀬先生の視線が、一瞬だけ画面へ落ちていた。
すぐに私へ戻る。
さっきまでの軽さは、完全に消えている。
少しだけ眉を寄せ。
静かに、低い声で聞いた。
「……それ、旦那さんですか?」
答えられなかった。
違うと言えば、嘘になる。
はいと言えば。
自分がどれほど大切にされていない妻なのか、すべて認めることになる。
数秒前まで。
私は、ただ偶然この人に見つかっただけだと思っていた。
最悪な場面を見られてしまっただけだと。
まさか。
まだ三度しか会ったことのないこの男が。
私のために、東郷優の真正面へ立つことになるなんて。
この時の私は、まだ想像もしていなかった。
先ほどの縁談を。感情的な拒絶として受け取っていない。私が望んだ通り。仕事と婚姻を、きちんと分けてくれている。「白松先生」郁人先生が言う。「今日のことは」「今後の業務へ持ち込む必要はありません」「はい」「ただ」一度、隼人くんへ視線を向ける。「隼人とは、話した方がいいでしょう」その言い方に。わずかな含みがあった。心配というより。今の弟の状態を、正確に見ている人の言葉だった。「そうします」私が答えると、郁人先生はそれ以上何も言わなかった。「では」「お疲れさまでした」「お疲れさまでした」郁人先生は、隼人くんの横を通る。二人の間に。短い視線が交わった。「兄貴」隼人くんが呼ぶ。「何ですか」「後で連絡する」「分かった」兄弟の会話は、それだけだった。郁人先生が部屋を出ていく。襖が閉じると。急に、隼人くんと二人だけになった。***隼人くんは。すぐには話しかけてこなかった。上着のポケットへ片手を入れたまま、少し離れた場所に立っている。機嫌が悪い。そう見えた。けれど。表情から何を考えているのかは読めない。父親たちの前で見せていた冷たさは消えている。それでも。いつもの隼人くんにも戻っていなかった。「隼人くん」私から名前を呼ぶ。ようやく、視線がこちらへ向いた。今日初めて。正面から目が合う。その目には。怒っているような。傷ついているような。それでも、どちらも隠そうとしているような色があった。「終わった?」低い声だった。「うん」「郁人兄貴とは」一度、言葉が止まる。「ちゃんと話したんだ」「挨拶しただけだよ」「そう」短い返事。やはり、少し機嫌が悪い。「隼人くん」「何?」「私に言いたいことがあるでしょう」隼人くんは。少しだけ目を細めた。すぐには答えない。私の表情を。今度こそ、逃さず見るように。じっとこちらを見ている。「あるよ」やがて言う。声は静かだった。「かなり」「ここで話す?」隼人くんは、部屋の中を一度見回した。料亭の個室。父親たちがいた場所。郁人先生との縁談を提示され。隼人くんが海外事業を継ぐと決めた場所。「ここでは話したくない」はっきり言う。「じゃあ、帰る?」その問いに。隼人くんの口元が、わずかに固くなった。「帰りたい?」
会食は、それ以上続かなかった。父親たちは、事業上の条件については改めて整理すると確認して。縁談については私の意思を尊重するという形で話を終えた。店の人が新しい茶を運んできたものの、誰もほとんど口をつけない。先ほどまでと同じ個室なのに、空気だけがすっかり変わっていた。私は背筋を崩さないまま、静かに席を立つ準備をした。感情のままに怒鳴ったわけではない。父の考えも。綾瀬家の立場も。郁人先生への敬意も。一つずつ言葉にして、その上で断った。間違ったことはしていない。それでも。隼人くんの表情が一瞬崩れたことだけが、胸の奥に残っていた。「今日は、これでいいだろう」父が言う。「今後の事業については、改めて話す」「分かりました」私は短く答えた。父は、まだ完全には納得していないのだと思う。けれど、ここで話を戻すことはしなかった。少なくとも。私が以前のように、家の用意した流れへ黙って乗るつもりがないことは伝わったはずだった。真哉兄さんも席を立つ。父と隼人くんのお父さんが先に部屋を出た後、兄が私の横へ並んだ。廊下へ出る前に、低い声で言う。「綾香は、学んだんだな」「何を?」「優との結婚で」足が止まりかける。真哉兄さんは、いつものように大きな表情を見せない。ただ、先ほど私が父親たちへ返した言葉を思い返しているようだった。「相手を立てたまま」兄が続ける。「自分の拒否だけを残した」「父さんにも、綾瀬家にも、反論する理由を与えなかった」褒めているのか。皮肉を言っているのか。兄の声からは判別しにくい。私は小さく息を吐いた。「四年間の結婚生活が」口元だけで笑う。「こういう場で役に立つなんてね」自分でも、少し皮肉な言い方だと思った。優の隣にいるために覚えたことだった。相手が何を求めているかを先に読み。不用意に感情を見せず。場を壊さない言葉だけを選ぶ。当時は。自分の意思を抑えるために使っていた。今日初めて。自分を守るために使った。「無駄ではなかったということだ」真哉兄さんが言う。「それ、慰めてるの?」「事実を言っている」兄らしい返事だった。「でも」真哉兄さんは少しだけ声を落とす。「今日の答え方でいい」「父さんに反発するだけでは」「また感情の話にすり替えられる」「分かってる」「ならい
「白松先生のお考えは理解しました」「ありがとうございます」頭を下げる。「ただ」その声が、わずかに低くなる。「一つだけ、確認してもよろしいですか」「はい」父親の視線が。私から隼人くんへ移った。隼人くんは、姿勢を崩さない。まだ私を見ていない。「これまで」隼人くんのお父さんが言う。「何度話しても、家の事業には関わらないと言っていた隼人が」「今日、海外事業を継ぐとまで言った」「それほど頑なだった意見を変えさせたにもかかわらず」父親の視線が、再び私へ戻る。「あなたには、うちとの縁談の意向は本当にないのですか」問いかけは丁寧だった。けれど。何を確認したいのかは分かる。郁人先生との縁談ではなく。隼人くんとの将来を考えているのではないか。隼人くんが、ここまでした理由を。私も受け入れているのではないか。そう聞かれている。一瞬。隼人くんの肩が、わずかに強張ったように見えた。それでも。こちらは見ない。私は、答えを急がなかった。今。隼人くんのために。都合のいい言葉を返すこともできた。個人的に交際していることを伝え。将来的な可能性を否定しないと言えば。隼人くんの決断にも、表向きの理由がつく。けれど。それをしてしまえば。今度は、隼人くんとの関係が。家同士の話の中へ組み込まれる。郁人先生との縁談を断った直後に。別の綾瀬家との婚姻の可能性を差し出すことになる。それは。私が今伝えたかったことと違う。「隼人さんが今日決めたことは」私は、言葉を慎重に選んだ。「私自身も、知らなかったことです」初めて。隼人くんの表情が、わずかに動いた。横顔しか見えない。それでも。頬の筋肉が一瞬だけ固くなり。伏せていた視線が、わずかに上がる。「私に事前の相談はありませんでした」続ける。「ですので」「隼人さんの決断を理由に」「私の意向まで、今ここで決めることはできません」父親は黙って聞いている。隼人くんも。今度は完全に無反応ではいられなかった。それでも。まだこちらを見ない。「今後のことは分かりません」私は、曖昧に逃げるためではなく。正確に答えるために言った。「ただ」一度息を置く。「少なくとも、今の私には」「綾瀬家との婚姻の意向はございません」部屋の中に、静かな沈黙が落ちた。郁人先生と
「私のことなので、ここからは私が話します」声を出した瞬間。室内の視線が、一斉にこちらへ集まった。父。真哉兄さん。隼人くんのお父さん。郁人先生。そして。隼人くんだけが、まだ私を見なかった。膝の上で握っていた指を、ゆっくりと開く。感情のままに言えば、簡単だった。私の結婚を、事業の条件にしないでほしい。勝手に話を進めないでほしい。隼人くんも、自分の人生を私の知らないところで決めないでほしい。言いたいことはいくつもある。けれど、ここは家族だけの場所ではない。両家の父親がいて、今後も仕事で関わる相手がいる。郁人先生にも、何の非もない。誰かを傷つける形で断れば、その後の仕事へ余計なものを残す。優と結婚していた頃。私は何度も、こうした席に座った。相手を否定せず。意図を理解していると伝え。その上で、自分に不利な約束だけは避ける。当時は、東郷家の妻として身につけた話し方だった。今は。自分の意思を守るために使う。私は、まず綾瀬家の父親へ向き直った。「このようなお話をいただけたことは、大変ありがたく思っております」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「郁人先生ほどの方とのご縁を、両家の将来も含めてご検討いただいたこと自体、光栄です」郁人先生が、静かにこちらを見る。先ほどと変わらない表情だった。それでも、私が何を言うのかを、きちんと待っていることは分かった。「また」私は続けた。「父が、この話を事業の発展と両家の関係を考えた上で提案していることも理解しています」父の顔へ視線を移す。「新設病院と地域医療連携は、今後も長く続く事業です」「そのために、両家の関係をより確かなものにしたいと考えることも、立場としては理解できます」父は何も言わなかった。否定せずに聞いている。おそらく。私がここまで父の意図を汲んで話すとは思っていなかったのだろう。「ですが」言葉を急がず、短く息を吸う。「事業上の必要性がなかったとしても」「私は、郁人先生との婚姻の意思を持つことはできません」部屋の空気が、わずかに動いた。声を強くしたわけではない。それでも。曖昧に受け取られる余地がないように言った。「郁人先生に何か問題があるという意味ではございません」すぐに言葉を重ねる。「むしろ」郁人先生へ向き直った。「とても
海外の関係者との調整。現地法人の経営。投資判断。必要なら、長期間日本を離れることもあるのかもしれない。隼人くんが、自分のクリニックを今まで通り続けながら、簡単に担える仕事ではない。「経営については、お前のやり方でいい」お父さんが言う。「投資も、お前の判断に任せる」「クリニックを手放せとも言わない」一つずつ。隼人くんが拒む理由を減らしていく。「だが、海外事業だけは、お前が責任を持って継げ」お父さんは、少し間を置いた。「それが、こちらの条件だ」隼人くんは答えなかった。先ほどまで、どの問いにも迷わず返していた。その隼人くんが、初めて沈黙している。けれど。迷っているようには見えなかった。条件の重さを測っている。引き受けた場合に必要となる責任を、一つずつ確認しているようだった。郁人先生が、隼人くんを見る。いつもと変わらない表情だった。止めもしない。代わりに答えることもしない。弟が何を選ぶのかを、ただ待っている。「海外事業については」隼人くんが、ようやく口を開いた。「現在の権限と収益構造を、すべて確認させてください」「当然だ」「既存の経営陣も、能力を見た上で再編します」「構わない」「投資判断へ、家から個別の指示を入れないことも条件にします」「結果を出すのであれば任せる」「僕のクリニックを、海外事業の傘下へ入れるつもりもありません」「それも認める」お父さんは、一つずつ即答した。交渉だった。親子の話ではない。これから事業を渡す側と。引き受ける側。互いに、譲れるものと譲れないものを並べている。私の父も、真哉兄さんも、何も口を挟まなかった。隼人くんが海外事業を担えば、白松家との連携に必要な経営判断も、投資も、十分に引き受けられる。父親たちが縁談によって得ようとしていたものを。より大きな形で差し出すことになる。「隼人」お父さんが改めて名前を呼ぶ。「絶対にやらないと、ずっと言っていたお前が」視線が鋭くなる。「それでも、本当に継ぐのか」隼人くんは、お父さんをまっすぐに見た。その横顔には。先ほどまでの冷たさが、そのまま残っている。苦しさも。迷いも。少なくとも、私たちに見せるつもりはない。「綾香さんを」隼人くんが言う。初めて。私の名前が呼ばれた。それでも、視線はこちらへは向
「なら、確認することがある」隼人くんのお父さんがそう言うと、隼人くんはわずかに顎を引いた。「はい」先ほどまでと変わらない声だった。父親たちの前へ突然現れ、白松家との事業連携を自分が引き受けると宣言した後も、呼吸一つ乱れていない。私の父へ向けていた完璧な礼儀も。自分の父親へ向ける冷静な視線も。最初から、この場で何を差し出すのか決めてきた人のものだった。それでも私は、隼人くんがここまで言うとは思っていなかった。家の医療法人へ入るつもりはない。これからも、家とは分けた場所で仕事をする。クリニックで郁人先生へ、そう言い切っていたのは、つい先日のことだった。その考えは今も変わらないと、隼人くん自身が言った。けれど。私を事業の条件から外すためなら、必要な役割をすべて引き受けるとも言っている。「お前は以前から」隼人くんのお父さんが、ゆっくりと言葉を続けた。「家の事業には入らないと言ってきた」「はい」「何度話しても、答えは変わらなかった」「覚えています」「クリニックを立ち上げる時も、資金も運営も家と分けた」「その方がよいと判断しました」言い訳も、反発もない。聞かれたことだけに答える。お父さんは、そんな隼人くんをしばらく見ていた。叱るというより、値踏みするような目だった。「だが」低い声が、静かな個室へ落ちる。「お前のやり方が間違っていたとは思っていない」隼人くんの表情は変わらなかった。けれど、真哉兄さんがわずかに顔を上げた。私の父も、続きを待つように杯から手を離す。「自分で起こした事業を、ここまで安定させた」お父さんが言う。「医療現場だけでなく、数字も見ている。人を雇い、組織を作り、必要なところには資金を入れる判断もできる」「ありがとうございます」隼人くんの返答は短かった。褒められたことを喜んでいる様子もない。今、父親が自分をどう評価しているのか。その先に、どのような条件を置こうとしているのか。ただ静かに待っている。「投資についても」お父さんが続けた。「お前に才能があることは把握している」隼人くんが個人で行ってきた投資については、私も詳しく知らない。医療関連だけではなく、今後伸びる事業へ早い段階で資金を入れて。利益を出していると、以前少しだけ聞いたことがあった。それも父親は把握していたら
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま







