FAZER LOGIN青山駅前のカフェに着くと、みかが窓際の席から大きく手を振っていた。
派手な金髪のボブは、混んだ店内でもすぐに見つかる。
「綾香、こっち」
香山みか。
高校一年の頃からの親友で、私が唯一、本音を話せる相手だった。
向かいの席に座った瞬間、みかの表情が固まる。
「……待って」
私の顔をじっと見たあと、眉を寄せた。
「何、その顔。ひどすぎるんだけど」
私は苦笑した。
「そんなに?」
「大学の時、彼氏に振られた次の日よりひどい」
その言葉に、なぜか少し笑ってしまった。
笑えたことに、自分でも驚く。
「今日、結婚記念日だったんだよね」
みかの動きが止まった。
「……え?」
私はコーヒーカップへ視線を落とした。
そして。
冷めた料理のことも。
咲子のSNSに、優の腕時計が映っていたことも。
愛人を連れて帰ってきて、今夜も泊まらせると言われたことも話した。
最後に。
結婚記念日だと伝えた私に、優が返した言葉も。
「だから?」
すべてを聞き終えると、みかは二秒ほど黙った。
「……最低だね」
声は静かだった。
けれど、次第に表情が険しくなっていく。
「いや、最低どころじゃない」
少し身を乗り出し、声を落とした。
「綾香、それ普通じゃないからね」
胸の奥が、わずかに痛む。
「でも、最初から言われてたし」
自分でも、また同じ言葉を口にしていると思った。
「咲子さんとは別れないって」
「五年だけの結婚だって」
みかは信じられないものを見るように、私を見つめた。
「契約結婚だからって、何をしてもいいわけじゃないでしょ」
「結婚記念日に愛人を連れて帰ってきて、自分の妻に出ていかせるなんて普通じゃない」
言い返せなかった。
正確には。
言い返すための言葉が、もう残っていなかった。
「綾香」
みかが、今度ははっきりと言った。
「あんた、完全に感覚が麻痺してるよ」
胸の奥を、鋭いものが通った。
そうかもしれない。
優が帰らない夜にも慣れた。
咲子が家にいることにも慣れた。
夫婦らしい会話がないことも。
一人で食事をすることも。
少しずつ我慢しているうちに、それが普通だと思うようになっていた。
そうしなければ、四年間もあの家にはいられなかった。
「……私ね」
気づけば、口が動いていた。
カップを持つ指先へ視線を落とす。
「一回くらい、選んでほしかった」
みかは何も言わなかった。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「馬鹿だよね」
笑おうとしたけれど、うまくできなかった。
「こんな結婚なのに」
「優がいつか、少しは私を見てくれるんじゃないかって」
声が小さくなる。
「まだ期待してたんだ」
口にした瞬間、胸の奥に残っていたものが形を持った。
契約だったから苦しかったのではない。
私は優が好きだった。
好きな人に、四年間一度も選ばれなかった。
それが苦しかったのだ。
みかが、ゆっくり息を吐く。
「あと半年なんでしょ?」
私は顔を上げた。
「……え?」
「優のプロジェクトが終わったら、離婚する約束なんだよね」
「たぶん、そのくらい」
みかはまっすぐ私を見た。
「だったら、今から準備しな」
その声に迷いはなかった。
「離婚の準備」
離婚。
心臓が、わずかに跳ねた。
これまで何度も、いずれ終わる結婚だと自分に言い聞かせてきた。
けれど。
自分から終わらせるのだと、考えたことはなかった。
五年が過ぎれば、優に手放される。
私はただ、その時を待つつもりだった。
でも。
今日、初めて思った。
もう待ちたくない。
「……本当に、離婚するんだ」
声に出すと、急に現実味が増した。
みかが頷く。
「するんだよ」
「少なくとも、できるように準備しておくの」
そして、スマホを手に取った。
「まず、仕事」
「住む場所も必要だし、お金のことも考えなきゃいけない」
仕事。
その言葉に、胸の奥が重くなる。
「……今さら、現場に戻れるかな」
「医師免許、腐らせる気?」
みかは即座に返した。
「大学病院でずっと働いてたんでしょ?」
「専門医だって、もう少しだったんじゃないの?」
その言葉に、指先が止まる。
忘れたふりをしていた過去を、急に目の前へ置かれた気がした。
白衣を着ていた頃。
毎日が忙しくて。
体力的には苦しかった。
それでも、患者の状態が少し良くなった時や、治療方針を考えている時間が好きだった。
結婚を機に辞めてから。
もう戻れないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。
「ブランク、四年だよ」
「四年で全部忘れるわけじゃないでしょ」
みかは呆れたように言う。
それから、ふと何かを思い出したように目を見開いた。
「あ」
「そうだ。あの先生は?」
「……あの先生?」
「前に学会で会ったって話してた人」
少し考えたあと、みかが指を鳴らした。
「綾瀬隼人」
身体が、わずかに固まる。
長い黒髪を後ろで束ねた、妙に距離の近い男。
学会で二度会っただけなのに、なぜか強く印象に残っていた。
『東郷先生、現場戻る気ない?』
そんなことを聞いてきたのは、彼だけだった。
もう医師として働いていない私を。
過去の人間としてではなく。
まだ戻れる人間として見ているような言い方だった。
「ただの社交辞令でしょ」
「絶対違う」
みかは即答した。
「ずっと綾香のこと見てたもん」
「それに、帰り送るって言ってたじゃん」
「私が迎えに行ってたのに、あの人、最後まで綾香のこと気にしてたよ」
思わず顔をしかめる。
「……やめて」
「私、一応は既婚者だからね」
どんな結婚であっても。
まだ、私は優の妻だ。
それくらいの線引きは必要だった。
夫には、その常識がないとしても。
その時。
テーブルの上のスマホが震えた。
何気なく画面へ視線を落とす。
表示された名前を見た瞬間、指先が止まった。
【綾瀬隼人】
『こんばんは。
この前の学会ぶりです。急だけど、今少し話せたりする?』心臓が、大きく跳ねた。
どうして。
よりによって今日なのだろう。
夫が愛人を家へ連れて帰ってきた、この日に。
みかが画面を覗き込む。
数秒後。
盛大に吹き出した。
「うわ、本当に連絡来たじゃん」
そして、悪い顔で笑う。
「人生、動く時って急に動くんだよ」
私は返事もできず、スマホを見つめていた。
この時は、まだ知らなかった。
この一通のメッセージが。
私をあの家から救い出し。
優が信じていたすべてを、壊すことになるなんて。
***店を出た時には。午後十時を過ぎていた。約束した一時間は。もう終わっている。「駅まで送る」「隼人くんは?」「車」「明日も診療でしょう」「うん」「早く帰った方がいいよ」「綾香ちゃんも」同じ言葉を。互いに言う。それでも。すぐには別れなかった。夜の通りを。ゆっくり歩く。駅へ向かえば。十分もかからない。けれど。どちらも。少しだけ歩く速度が遅かった。人通りが減った場所で。隼人くんの腕が。綾香の腕へ触れる。偶然かと思った。けれど。次の瞬間。指先が。綾香の手へ触れた。確かめるような。短い接触。綾香は。手を引かなかった。隼人くんの指が。ゆっくりと絡む。手をつなぐ。何度も。したことがあるわけではない。それなのに。久しぶりに触れたせいか。手のひらだけで。身体の内側まで熱くなった。隼人くんは。何も言わない。綾香も。何も言えなかった。ただ。握られた手に。少しだけ力を返す。その瞬間。隼人くんの指が。強くなる。会えなかった時間が。その力へ表れているように思えた。駅へ近づく。人が増える。それでも。隼人くんは。手を離さなかった。「このまま」隼人くんが。前を向いたまま言う。「帰したくない」低い声だった。綾香は。足を止めた。隼人くんも。同じように止まる。目が合う。仕事中には見ない目。自分の部屋で。キスをした時に見た。少し熱を含んだ視線。「……うん」何への返事か。自分でも分からなかった。帰りたくない。そう答えたのかもしれない。隼人くんの目が。少しだけ揺れる。それから。つないでいた手を引かれた。強くではない。一歩だけ。近づくように。綾香は。隼人くんの前へ立つ。人の少ない建物の陰。通りの明かりが。隼人くんの横顔だけを照らしている。近い。互いの息が。分かる距離。隼人くんの手が。綾香の頬へ触れる。指先が。耳の近くへ髪をよける。触れ方は。以前と同じように丁寧だった。それなのに。今日は。その丁寧さが。少し苦しかった。もっと。近づいてほしい。そう思った。隼人くんが。表情を確かめる。綾香は。顔を背けなかった。次の瞬間。唇が重なった。最初から。以前より深かった。久しぶりに触れたから。互
金曜日。午後八時を過ぎた頃。プロジェクトの会議が終わった。最後の資料が閉じられ。席を立つ人たちの声が。会議室の中へ広がっていく。綾香は。机の上の資料をまとめながら。壁の時計を見た。八時十二分。隼人くんとの約束は。九時。病院から会議の会場へ移動し。そこから。待ち合わせの店までは。三十分もかからない。今日は。間に合う。それだけで。少しだけ肩の力が抜けた。ここ数日。予定が延びるたびに。今日も会えないかもしれないと。何度も思った。でも。今夜は。仕事が終わった。スマホを開く。『終わった』送ると。すぐに既読がついた。『俺も』続けて。『先に着いてる』思わず。足が速くなる。***待ち合わせは。駅から少し離れた。小さな店だった。遅い時間でも。軽い食事ができる。照明は落ち着いていて。店内の席も。ほとんど埋まっていない。扉を開ける。奥の席に。隼人くんがいた。白衣ではない。濃い色のシャツ。髪は。いつものように後ろで束ねている。片手で。グラスへ触れながら。入口の方を見ていた。目が合う。その瞬間。表情が変わる。大きく笑うわけではない。けれど。目元が。はっきりと柔らかくなる。それを見ただけで。胸の奥にあった疲れが。少しだけ消えた。「お待たせ」隼人くんの前まで行く。「待ってないよ」「先に着いてるって」「十分くらい」「それは待ってる」「綾香ちゃんを待つのは」少しだけ笑う。「嫌じゃないから」綾香は。向かいの席へ座った。久しぶりに。仕事の途中ではなく。二人きりで向かい合う。それだけなのに。どう座ればいいのか。少しだけ分からなくなった。クリニックでは。白衣を着たまま話す。病院では。郁人先生や。他の医師と。患者のことを話す。隼人くんとの連絡も。最近は。短いメッセージばかりだった。今は。目の前にいる。手を伸ばせば。触れられる距離。そのことを。急に意識した。「疲れてる?」隼人くんが尋ねる。「少し」「会議、長かった?」「今日は予定通り」「よかった」「隼人くんは?」「普通」「その顔」「何?」「普通じゃない時の顔」言うと。隼人くんが。少し笑った。「ばれるようになったね」「見るって決めたから」「
***夜。隼人くんから電話が来た。入浴を終え。髪を乾かしている途中だった。「もしもし」『今、大丈夫?』「うん」電話の向こうから。小さく息を吐く音が聞こえる。『今日、ごめん』「仕事だから」『ほとんど話せなかった』「うん」否定できなかった。『顔は見たけど』隼人くんが。少しだけ笑う。『会った感じしなかったね』綾香は。ドライヤーの電源を切った。部屋が。急に静かになる。「私も」それだけ答えた。画面越しではなく。電話の声だけでもなく。近くで。何でもない話をしたかった。仕事の途中ではなく。次の予定を気にせず。隼人くんの顔を見たかった。『次』隼人くんが言う。『いつ空いてる?』綾香は。ベッドへ座り。カレンダーを開いた。「来週の火曜日」『俺、父親と会う』「水曜は?」『診療の後、採用の面談』「木曜日」『綾香ちゃん、オンコールでしょう』「うん」「金曜日は?」少し間が空く。『夜なら』綾香は。自分の予定を見る。「プロジェクトの会議」『何時まで?』「たぶん八時」『じゃあ、その後』「隼人くん、次の日も診療でしょう」『綾香ちゃんも病院でしょう』どちらも。相手を止める理由にはならない。でも。無理をさせたいわけでもない。「一時間だけ?」綾香が尋ねる。『うん』「遅くなっても?」『会いたい』迷いのない声だった。胸の奥が。小さく熱くなる。「私も」今度は。すぐに返した。金曜日。午後九時。互いのカレンダーへ。予定を入れる。一時間だけ。それでも。会える日が決まったことで。少し安心した。『今度は』隼人くんが言う。『仕事だけで終わらせないようにする』「仕事の途中で呼ばれたら?」『その時は仕方ない』「物件の話が延びたら?」『抜ける』「それは駄目でしょう」『じゃあ急いで終わらせる』綾香は。少し笑った。「私も」『うん』「会えるように終わらせる」言った後。自分の言葉に。少しだけ引っかかった。仕事を急いで終わらせる。無理をする。そういう意味ではない。ただ。会うことを。空いた時間に回さない。隼人くんも。同じように思ったのかもしれない。『無理はしないで』「隼人くんも」『でも会おう』「うん」短い沈黙。電話越しに。互い
隼人くんに会いに行った夜から。また。顔を見ない日が続いた。病院へ行き。患者を診る。帰宅して。翌日の予定を確認する。疲れて眠り。朝になれば。また病院へ向かう。その繰り返しの中で。隼人くんとのやり取りは。少しずつ短くなっていた。『今日、何時に終わる?』昼休みに送る。返事が来たのは。夕方だった。『診療の後、物件の担当と会う』『綾香ちゃんは?』『たぶん七時くらい』『今日は難しいね』画面を見つめる。会おうと約束していたわけではない。それでも。今日も会えないと分かると。少しだけ残念だった。『うん。また今度』送る。それ以外に。返す言葉がなかった。***翌日は。隼人くんの方が早く仕事を終えた。『近くまで行こうか』夕方。そう届いた。綾香は。患者の記録を確認しながら。時計を見る。予定では。あと一時間ほどで終われるはずだった。『たぶん七時半には出られる』『待ってる』その言葉だけで。胸が少し軽くなった。今日は会える。病院の外で。短い時間でも。顔を見られる。そう思っていた。けれど。退院を予定していた患者の状態が。夕方になって変わった。家族への説明が必要になり。確認しなければならないことが増えた。時計の針だけが。先へ進む。七時半。八時。隼人くんから。催促は来なかった。代わりに。『まだかかりそう?』とだけ届いた。綾香は。廊下の端で立ち止まり。短く返信する。『ごめん。まだ終われない』少しして。『分かった』続けて。『今日は帰って寝て』綾香は。画面を見つめた。会いたかった。せっかく。隼人くんが近くまで来てくれようとしていた。でも。今から急いでも。疲れた顔で。数十分会えるだけ。翌朝も早い。隼人くんの言う通りだった。『ごめんね』送る。『謝らなくていいよ』すぐに返ってくる。優しい。だからこそ。余計に寂しかった。***病院では。郁人先生と顔を合わせることが増えていた。手術のある日。患者の引き継ぎ。病棟で確認が必要な時。会えば。自然に言葉を交わす。「白松先生」名前を呼ばれ。振り返る。「昨日の患者さん」「朝はどうでしたか」「落ち着いています」「そうですか」短い会話。それで終わる。郁人先生とは。予定を
「そういえば」話が途切れたところで。綾香は。今日見た名前を思い出した。「病院に来てる先生で」「うん」「前に話した」「最初のオンコールの日に来てくれた外科の先生」隼人くんが頷く。「郁人先生?」「うん」名前を知っていることに。少し驚いた。以前。一度だけ話したことを。覚えていたらしい。「今日」綾香は続けた。「手術予定の書類で」「フルネームを見たの」隼人くんの表情が。少しだけ変わる。「何て?」「綾瀬郁人先生」一度。短い沈黙が落ちた。隼人くんは。驚くというより。頭の中で。何かをつなげたような顔をした。「兄貴だね」やはり。そうだった。「多分」綾香は。少しだけ笑う。「お兄さんじゃないかと思って」「そう」隼人くんが。小さく息を吐いた。「その病院に来てたんだ」「知らなかった?」「どこで手術してるかまでは」「いちいち聞かないから」隼人くんらしい答えだった。「似てる?」隼人くんが聞く。「顔?」「うん」綾香は。少し考えた。「言われたら」「少しだけ」「少しだけなんだ」「雰囲気が違いすぎるから」「兄貴は」隼人くんが。少しだけ笑う。「隙がないでしょう」「うん」すぐに答えると。隼人くんの笑みが。少し深くなった。「やっぱり」「でも」綾香は続ける。「冷たい人ではないと思う」「そうだね」返事は。思っていたより早かった。「郁人兄貴とは」少しだけ間を置く。「別に仲悪くないよ」“郁人兄貴とは”。ほんの少しだけ。言葉に含みがあるように聞こえた。でも。綾香は。そこを追わなかった。家族の中に。それぞれ違う距離があることくらい。不自然ではない。隼人くんが。今。話したいところまででいい。「どういう人?」綾香が聞く。「もう会ってるでしょう」「病院でしか知らないから」隼人くんは。少し考えた。「見たままだよ」「説明になってない」「ちゃんとしてる」「それは分かる」「自分がやることと」少し言葉を探す。「やらないことが、はっきりしてる」郁人先生の。淡々とした話し方を思い出す。必要なことには。きちんと答える。けれど。自分から。余計な説明はしない。「この前」綾香は言う。「別の病院で働いてるんですかって聞いたの」「うん」
その日。綾香は。翌週の手術予定を確認していた。病棟へ配られた一覧には。患者の名前。担当医。執刀医。必要な情報だけが。細かく並んでいる。自分が関わる患者の欄へ。順番に目を通す。そこで。一つの名前に。視線が止まった。【綾瀬郁人】一度。目で追い直す。郁人先生。病院では。誰も名字で呼ばない。看護師も。医師も。当たり前のように。郁人先生と呼んでいた。だから。フルネームを見るのは。初めてだった。綾瀬。珍しい名字ではない。けれど。医師で。隼人くんより少し年上に見える。別の病院で働きながら。こちらへ手術に来ている。そして。隼人くんには。医師をしている兄がいる。偶然かもしれない。そう思いながらも。一度気づくと。無関係には思えなかった。「白松先生」近くにいた看護師から呼ばれ。綾香は顔を上げた。「すみません」「来週の患者さん」「こちらで合っています」「ありがとうございます」書類を返す。郁人先生について。その場で尋ねることはしなかった。家族のことを。病院の人に確かめる必要はない。隼人くんへ聞けばいい。そう思った瞬間。最後に顔を見た日を思い出した。メッセージは交わしている。電話も。数分なら何度かした。それでも。落ち着いて会えたのは。少し前だった。隼人くんも。クリニックの拡大準備で忙しい。綾香も。病院勤務へ戻ってから。以前より帰宅が遅くなった。会いたいと思っても。互いの予定を見れば。また今度でいいかと。画面を閉じてしまう日が続いていた。今日も。病院を出た後は。まっすぐ帰るつもりだった。けれど。郁人先生の名字を知ったことで。隼人くんの顔が浮かんだ。確認したいから。それだけではない。久しぶりに。会いたいと思った。***勤務を終え。病院を出る。日中の熱が。まだ道路に残っていた。空は。薄い青から。少しずつ夜の色へ変わっている。駅へ向かう人の流れに入り。途中で。足を止めた。このまま電車へ乗れば。家に帰る。少し早く眠れる。明日の準備もできる。けれど。綾香は。スマホを取り出した。隼人くんとの画面を開く。『まだクリニック?』送る。すぐには。返事が来なかった。忙しいのだろう。やはり。今日は帰ろうかと思
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦







