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第4話:離婚、手伝ってあげる

Author: Sunny
last update publish date: 2026-05-09 22:08:45

「……それ、旦那さんですか?」

綾瀬先生の視線が、伏せきれなかったスマホの画面へ落ちる。

私は反射的に手を重ねた。

「……違います」

ほとんど条件反射だった。

自分の家に帰るかどうかさえ、愛人の都合で決められる妻。

そんな惨めな自分を、知られたくなかった。

数秒の沈黙。

綾瀬先生が、少し困ったように笑う。

「いや、それはちょっと無理あるよね」

隣で、みかが吹き出した。

「先生、正解です」

「みか」

止めようとしたけれど、もう遅かった。

みかは私の制止を無視して、綾瀬先生へ向き直る。

「この人の旦那、本当に最低なんですよ」

「結婚記念日のディナーをすっぽかして、愛人を連れて帰ってきたんです」

「しかも、その愛人を今夜も泊まらせるって」

みかは、私のスマホを指差した。

「それで、妻には『嫌なら帰らなくていい』ですよ」

カフェの雑音が、妙に遠く聞こえた。

綾瀬先生の表情から、笑みが消える。

「……愛人?」

低い声だった。

驚いているというより、声の温度が一気に下がったように聞こえた。

私は視線を落とす。

「……契約結婚なんです」

誰に向けた説明なのか、自分でもわからなかった。

「最初から、そういう約束で」

「優には好きな人がいて」

「五年が過ぎたら、離婚することになっていて」

言葉を重ねるほど、自分へ言い聞かせているような気がした。

「だから、別に——」

続きは出なかった。

別に、平気。

別に、傷ついていない。

そんなはずはない。

契約だったとしても、私は四年間ずっと傷ついていた。

優を好きだった。

いつか、ほんの少しでも選ばれる日が来るかもしれないと思っていた。

けれど。

一度も、その日は来なかった。

綾瀬先生は、黙って私を見ていた。

同情するような目ではない。

哀れむような表情でもない。

ただ、私の言葉をそのまま受け止めている。

それが、少しだけ落ち着かなかった。

しばらくして。

綾瀬先生が、小さく息を吐いた。

「東郷先生」

落ち着いた声だった。

「契約結婚だったとしても」

言葉を選ぶように、一度視線を落とす。

それから、まっすぐ私を見た。

「普通に傷ついていいやつだから」

時間が止まったような気がした。

その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。

傷ついていい。

そんなことを言われたのは、初めてだった。

私はずっと。

契約なのだから、仕方がないと思っていた。

最初からわかっていたのだから、耐えられない私が悪いのだと。

そうやって、自分の気持ちを押し込めてきた。

認めてしまえば。

この結婚がどれほど苦しかったのか、すべて溢れてしまいそうだったから。

目の奥が熱くなる。

慌てて視線を落とした。

こんな場所で泣きたくない。

まだ三度しか会ったことのない人の前で。

綾瀬先生は、それ以上何も聞かなかった。

どうして我慢したのかも。

なぜすぐに離婚しなかったのかも。

責めるようなことは、一つも言わない。

代わりに、ふっと空気を変えるように首を傾けた。

「そういえば」

「……はい?」

「仕事、戻る気ない?」

あまりにも唐突で、思考が止まった。

「仕事?」

「医者」

綾瀬先生は、何でもないことのように言う。

「前に学会で話したでしょ」

「現場に戻るか迷ってるって」

覚えていたんだ。

自分でも忘れようとしていた、何気ない言葉を。

「……でも」

指先を握る。

「ブランクが四年あります」

「四年でしょ?」

綾瀬先生は迷わず頷いた。

「全然いけると思う」

「そんな簡単に言わないでください」

思わず苦笑する。

「現場は、そんなに甘くないです」

「知ってるよ」

即答だった。

その顔から、軽さが少し消える。

「だから言ってる」

「東郷先生、学会で話した時も、ちゃんと勉強を続けてたじゃん」

「もう働いてないのに、あれだけ細かい質問する人、あまりいないから」

胸の奥が、小さく揺れた。

学会へ行ったのは、未練があったからだ。

もう戻れないと思いながらも。

医療の世界から、完全に離れることができなかった。

「優秀な人ほど、戻る時に怖くなるんだと思う」

綾瀬先生が続ける。

「前と同じようにできなかったらどうしようって考えるから」

図星だった。

私は何も返せない。

「でも」

少しだけ口元を緩める。

「できるかどうかは、戻ってから考えればいいんじゃない?」

軽い言い方だった。

けれど、その目は真剣だった。

みかが、すぐに身を乗り出す。

「先生の病院で働けるんですか?」

「みか」

「だって大事なことでしょ」

綾瀬先生は少し考えたあと、頷いた。

「うちでもいいし、他を紹介することもできる」

「いきなり決めなくていいよ」

そして、私へ視線を戻す。

「まずは見学だけでも来れば?」

見学。

その言葉だけで、胸がざわついた。

白衣を着る自分。

診察室へ入る自分。

患者の前に座る自分。

もう二度と戻れないと思っていた光景が、一瞬だけ浮かぶ。

「仕事のことなら手伝える」

綾瀬先生は、さらりと言った。

「必要なら、住む場所のことも一緒に考えよう」

私は思わず顔を上げた。

「どうして、そこまで」

会ったのは、まだ三度だけ。

私は既婚者で。

離婚すら決まっていない。

普通なら、関わりたくないと思うはずだ。

綾瀬先生は、少しだけ困ったように笑った。

「離婚って、準備いるでしょ」

軽い口調。

けれど、冗談ではないことがわかる。

「仕事がなくて、住む場所もなかったら」

「出たくても出られないから」

その言葉に、息が止まる。

出たくても出られない。

それは、今の私だった。

五年の契約が終わるまで待つしかないと思っていた。

仕事もない。

自分の収入もない。

あの家を出たあとの生活を、具体的に考えたことすらなかった。

綾瀬先生は、少しだけ身を乗り出す。

「無理に離婚しろとは言わないよ」

「でも」

まっすぐな目が、私を捉える。

「逃げる準備くらいは、しておいてもいいと思う」

胸の奥が、大きく揺れた。

逃げる。

みかにも言われた言葉。

けれど今度は、ただ家を出るという意味ではなかった。

仕事を取り戻す。

自分で暮らせるようになる。

優に手放される日を待つのではなく。

自分で、終わらせる日を選べるようになる。

その時。

スマホがまた震えた。

画面を見る。

【優】

『明日の朝、咲子いるし

帰るにしても、朝食いらない』

胸の奥が、冷える。

続けて、もう一通。

『あと土曜の会食よろしく

夫婦で出席だから』

愛人を家に泊める。

私には帰らなくてもいいと言う。

それなのに。

必要な時だけ、妻として隣に立たせる。

綾瀬先生は、スマホを覗き込もうとはしなかった。

けれど、私の表情を見ただけで何かを察したらしい。

「……また旦那さん?」

私は小さく頷いた。

「明日の朝は帰ってきても食事はいらないって」

自分でも、なぜ説明しているのかわからなかった。

「それから、土曜日は夫婦で会食に出ろって」

綾瀬先生の眉が、わずかに寄る。

「愛人を泊めてるのに?」

「はい」

「でも、外では夫婦のふりをさせるんだ」

何も言えなかった。

言葉にされると、ひどく滑稽だった。

綾瀬先生が、小さく息を吐く。

「……旦那さん」

低い声だった。

「思ったより最低だね」

みかが大きく頷く。

「先生、やっとわかりました?」

「想像以上だった」

二人の会話に、少しだけ笑いそうになった。

けれど。

笑うより先に、綾瀬先生が私を見た。

さっきまでよりも、真剣な目だった。

「東郷先生」

少しだけ間を置く。

「逃げる準備、始めよっか」

心臓が、大きく跳ねた。

離婚する。

仕事へ戻る。

あの家を出る。

まだ、何一つ決まっていない。

それでも。

初めて思った。

もう、我慢したくない。

優が必要な時だけ呼びつける、肩書きだけの妻ではいたくない。

私は。

自分で、自分の人生を選びたい。

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