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私が愛していたのは、最初からあなたじゃない

私が愛していたのは、最初からあなたじゃない

作家:  かもめ完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

ひいき/自己中

クズ男

身代わり

妻を取り戻す修羅場

不倫

加賀美裕司(かがみ ゆうじ)と付き合って3年。私・白石凪(しらいし なぎ)は彼の友人たちの間で、何をされても怒らない彼女として有名だった。 彼がどこで誰と会っているのか詮索したことはないし、何人もの女性と曖昧な関係を続けていようが、夜遅くまで遊び歩いていようが、文句一つ言わなかった。 裕司はそんな私を自慢に思っているらしく、友人たちにも、私がどれほど彼に惚れ込んでいるかを得意げに話していた。 ところがある日、裕司は偶然、私の初めての恋人・神崎俊平(かんざき しゅんぺい)と私が付き合っていた頃の記録を残したアカウントを見つけてしまう。 そこに映っていた私は、今とはまるで別人だった。些細なことで拗ね、すぐに嫉妬して、とても感情が安定しているとは言えない。 動画の中で、俊平が困ったように笑いながら尋ねていた。 「なんでそんなにすぐ怒るんだよ」 すると私は、悪びれもせずに答えた。「好きだから怒るに決まってるじゃん。好きじゃなかったら、何されたって気にしないもん」 それを聞いた裕司は、呆然とした。

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第1話

第1話

バーで裕司と鉢合わせたとき、彼の膝には、キャミソールにショートパンツ姿の若い女性が座っていた。細く白い腕を裕司の首に回し、身を寄せて笑う唇には、きらきらしたグロスが塗られている。

ボックス席では、既婚者の友人たちが帰り支度を始めていた。裕司に申し訳なさそうな笑顔を向けながら、口々に言い訳をしている。

「悪いな、裕司。うちの嫁、こういうのにうるさくてさ。さっきから何回も帰れって電話が来てるんだよ。これ以上遅くなったら、今夜はソファで寝る羽目になる」

裕司は、膝の上の女が自分のくわえていたタバコを抜き取り、そのまま口に運ぶのを止めようともせず、鼻で笑った。

「どいつもこいつも情けないな。女なんかに尻に敷かれやがって」

すると、独身の友人たちが一斉にはやし立てた。「やっぱ裕司は違うな!何時に帰ろうが、白石さんは一度も居場所を聞いてこないんだろ?どうやってそこまで言うこと聞かせたんだよ。俺たちにも教えてくれって!」

膝に座っていた女も声を立てて笑い、裕司の胸にしなだれかかった。

「ほんとですよ。私とこんなことしてるところ、彼女に見られたらまずいんじゃないんですか?」

「あいつは俺にベタ惚れだからな。俺が言えば何でもするし、付き合って3年、一度だって喧嘩になったことがない」

「すげえ!さすが裕司だな!」羨ましそうに笑う周りの男たち。「これだけ外で遊び回ってても、彼女は何も言えないんだろ?やっぱ男はそうじゃなくちゃ――」

そこまで言いかけた男が、突然口をつぐんだ。少し離れたところに、無表情で立っている私を見つけたらしい。

裕司も私に気づいた。しかし、その顔には少しの動揺もなく、ただ膝の上の女を押しのけ、片眉を上げて私を手招きした。

「どうしてここにいるんだ?」

私は一瞬足を止めたものの、そのまま近づいて落ち着いて答えた。

「友達と来たの」

押しのけられた女の子は不機嫌そうな顔になり、私を上から下までジロジロと見てから、引きつった笑みを浮かべた。

「白石さん」

近くで見て、ようやく誰なのかわかった。

裕司の会社に最近入ったばかりの秘書で、確か、水野莉奈(みずの りな)という名前だったと思う。学歴はごく普通の私立大学卒だったが、裕司が履歴書の写真を見て気に入り、自ら採用を決めたと聞いていた。

まさかこんなに早く手を出していたなんて。

私は彼女を無視した。

裕司はかなり飲んでいるらしく、切れ長の甘い目元が酒で潤んでいた。薄暗い照明の下では、腹が立つほど整った顔立ちがいっそう際立っている。その裕司が私の手首をつかみ、強引に引き寄せた。

「遊びに来るなら俺にも一言言えよな。ほら、キスしろ」そう言って、私の口元に顔を近づけてくる。

私は反射的に顔を背けた。

さっきまで莉奈とキスしていたかもしれないと思うと、気持ちが悪かったのだ。

裕司の表情が変わり、口元の笑みがすっと消える。

座っているのは彼の方なのに、私を見るその目は、まるで上から見下ろしているかのようだった。

「凪、どういうつもりだ?」

私は顔を背けたまま、静かに言った。

「飲みすぎ」

「俺が嫌だってのか?」友人たちの前で恥をかかされたと思ったのだろう。裕司の目がすっと冷たくなったかと思うと、突然、隣にいた莉奈を引き寄せて膝に座らせ、その後頭部をつかんだ。

莉奈は嬉しそうに顔を輝かせ、素直に裕司のキスを受け入れる。

二人は私の目の前で、舌を絡めるような濃厚なキスを交わした。十数秒後、莉奈が息を切らしながら顔を離すと、その唇の端には唾液が細く糸を引いていた。

莉奈は私をちらりと見て、勝ち誇ったように笑った。

裕司も挑発するように私を見つめている。

周りの友人たちは一斉に黙り込み、誰もが私の反応をうかがっていた。

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第1話
バーで裕司と鉢合わせたとき、彼の膝には、キャミソールにショートパンツ姿の若い女性が座っていた。細く白い腕を裕司の首に回し、身を寄せて笑う唇には、きらきらしたグロスが塗られている。ボックス席では、既婚者の友人たちが帰り支度を始めていた。裕司に申し訳なさそうな笑顔を向けながら、口々に言い訳をしている。「悪いな、裕司。うちの嫁、こういうのにうるさくてさ。さっきから何回も帰れって電話が来てるんだよ。これ以上遅くなったら、今夜はソファで寝る羽目になる」裕司は、膝の上の女が自分のくわえていたタバコを抜き取り、そのまま口に運ぶのを止めようともせず、鼻で笑った。「どいつもこいつも情けないな。女なんかに尻に敷かれやがって」すると、独身の友人たちが一斉にはやし立てた。「やっぱ裕司は違うな!何時に帰ろうが、白石さんは一度も居場所を聞いてこないんだろ?どうやってそこまで言うこと聞かせたんだよ。俺たちにも教えてくれって!」膝に座っていた女も声を立てて笑い、裕司の胸にしなだれかかった。「ほんとですよ。私とこんなことしてるところ、彼女に見られたらまずいんじゃないんですか?」「あいつは俺にベタ惚れだからな。俺が言えば何でもするし、付き合って3年、一度だって喧嘩になったことがない」「すげえ!さすが裕司だな!」羨ましそうに笑う周りの男たち。「これだけ外で遊び回ってても、彼女は何も言えないんだろ?やっぱ男はそうじゃなくちゃ――」そこまで言いかけた男が、突然口をつぐんだ。少し離れたところに、無表情で立っている私を見つけたらしい。裕司も私に気づいた。しかし、その顔には少しの動揺もなく、ただ膝の上の女を押しのけ、片眉を上げて私を手招きした。「どうしてここにいるんだ?」私は一瞬足を止めたものの、そのまま近づいて落ち着いて答えた。「友達と来たの」押しのけられた女の子は不機嫌そうな顔になり、私を上から下までジロジロと見てから、引きつった笑みを浮かべた。「白石さん」近くで見て、ようやく誰なのかわかった。裕司の会社に最近入ったばかりの秘書で、確か、水野莉奈(みずの りな)という名前だったと思う。学歴はごく普通の私立大学卒だったが、裕司が履歴書の写真を見て気に入り、自ら採用を決めたと聞いていた。まさかこんなに早く手を出していたなんて。私は彼女
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第2話
自分の目の前で彼氏がほかの女とキスをして、平気でいられる女なんていない。周りの男たちも、さすがの私も今度こそ怒り出すと思っていたのだろう。しかし、私はただ裕司と目を合わせ、淡々と言った。「酔ってるみたいだから、私は先に帰るね」部屋を出る時、裕司の友達の感嘆する声が聞こえた。「マジかよ。彼女さん、どんだけ寛大なんだ?あれを見ても怒らないなんてさ!」「さすが裕司だな。彼女、別れを切り出されるのが怖くて、文句も言えないんだろ」「相当惚れ込んでるらしいぞ。昔、裕司を丸1年も追いかけてたって話だし。何でも言うこと聞いて、裕司の言いなりだったんだろ?そこまで好きなら、そりゃ怒れないよな」裕司は、見下すように鼻で笑った。「あいつは俺から離れられないからな。怒る度胸なんてないんだよ」真冬の冷気は、肌を切りつけるように冷たかった。いつの間にか雪が降り始めていて、舞い落ちる雪は車のライトに照らされるたび赤く染まり、街灯の下ではぼんやりと黄色く浮かび上がっていた。私はマフラーをきつく巻き直し、壁にもたれかかってタバコに火をつけた。メンソールの煙が冷たい空気と一緒に肺へ入り、ちくりとした痛みが走る。これは、俊平が一番好きだった銘柄だ。付き合っていた頃、私も吸ってみたいと何度もせがんでは、そのたびに叱られていた。「凪、何言ってんだよ?タバコなんか吸ってるの見つけたら、ただじゃおかないからな!」彼と別れたあの日、私は自分でタバコを1箱買い、むせながら吸った。それからは誰も私を叱ってくれなくなり、私はタバコを覚えた。ここ数年で吸う本数はかなり減ったけれど、それでも、感情が抑えられなくなると、今でもつい手が伸びてしまう。裕司がほかの女とキスをしているのを見ても、確かに腹は立たなかった。だって、私は裕司のことなんて、最初から愛していないのだから。裕司と付き合うことになったのは、私のほうから彼に言い寄ったからだった。初めて会ったのは、新しくオープンしたバーだ。裕司は出資者として店に来ていて、目の前のテーブルには酒がずらりと並び、隣に座る美女たちは彼の冗談に声を上げて笑っていた。あの整った顔立ちは、その場にいた女性たちの視線を独り占めにしていた。何人もの女性が裕司に連絡先を聞きに行っていたのを覚えている。そして、私も
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第3話
私が俊平と付き合い始めたのは17歳のときで、別れたのは25歳。10年には1年足りなかったけれど、それでも9年間、私たちは一緒にいた。俊平は、私たちが通っていた私立高校で唯一、奨学金を受けている生徒だった。成績がずば抜けて優秀だったため、特待生として入学を認められたのだ。もともとは裕福な家庭で育ったらしい俊平。けれど、父親が共同経営者に裏切られて会社が倒産し、そのショックに耐えきれず自ら命を絶った。もともと病弱だった母親も、その後を追うように亡くなってしまったという。何不自由なく育った御曹司が、一夜にしてすべてを失い、天涯孤独の身になったのだ。それでも、俊平はすぐに立ち直った。裕福な家の子どもばかりが集まる私立高校でも、卑屈になることも偉ぶることもなく、常に学年トップの成績を維持し、生徒たちの投票で生徒会長にも選ばれた。そんな彼を好きにならない人なんていない。私は何度も彼に告白して、そのたびに振られた。でも絶対に諦めず、ずっと彼を好きでい続けた。ほかにも俊平を好きな女の子は大勢いたけれど、何度も断られるうちに一人、また一人と諦めていった。最後までしつこく追いかけていたのは私だけだった。そして卒業を間近に控えたある日、6回目の告白をした私に、俊平はとうとう困り果てたように尋ねた。「凪は、俺のどこがそんなに好きなんだ?」私は頬を赤くし、涙を浮かべながらも、意地になって俊平を見つめた。腹が立っていたのか、悲しかったのか、自分でもよくわからない。ただ、俊平が好きだった。理由なんてない。人を好きになるのに、理由なんていらない時もある。「好きなものは好きなの!俊平の全部が好き!」俊平は複雑な表情を浮かべ、しばらくしてから静かに言った。「でも俺には何もないし、お前に何もしてやれない。それでも、俺でいいのか?」私は大きな声で答えた。「いいに決まってるでしょ!でもね、俊平。いくら好きでも、私にだって意地はあるんだから!今回も断るなら、もう二度と告白しないからね!」俊平は長い間、私を見つめていた。そして、諦めたような、降参したような深いため息をつくと、そっと私を抱きしめた。「……本当に、バカだな」私は目を見開いた。一瞬、心臓が止まったかと思うほど驚き、その直後には胸が激しく高鳴り始める。あんなにも嬉し
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第4話
だって、俊平の人生をめちゃくちゃにしたのは私の父なのだ。あんなことをされて、恨まずにいられる人なんているだろうか。私だって、同じ立場ならきっと恨んでいた。因果応報だったのかもしれない。その後、父は投資に失敗して自ら命を絶ち、白石家も破産した。一方、海外へ渡った俊平は目覚ましい成功を収めていた。投資家としての先見の明があり、成長産業の波に乗って、わずか数年で会社をナスダックに上場させたのだ。今では新進気鋭のIT企業家として名を知られている。かつてとは立場がすっかり逆転し、私たちの人生が交わることはなくなった。これから先も、二度と交わることはないだろう。だからこそ、初めて裕司を見たとき、ずっと止まっていたはずの心が、久しぶりに動き出したような気がしたのだ。私にとっては、誰と付き合おうが大した違いはなかった。あれほど俊平に似た顔の人と出会えただけでも、十分すぎるほど幸運だったのだから。その顔が見たくて、私は何年もの間、裕司の言うことを何でも聞き、呼ばれればどこへでも駆けつけた。彼が必要とする時、私はいつもそばにいた。彼が夜遅くまで外で遊んでいても、電話1本でベッドから起き上がり、他の女のところまで迎えに行った。裕司は私の誕生日も、二人の記念日も、まるで覚えていなかった。誕生日当日でさえ家に帰らず、知り合ったばかりの女の子と外で遊び歩いていたこともある。もともと裕司は、遊び人として有名だった。女遊びが大好きで、付き合う相手を服でも着替えるように次々と替えているような男。白石家が破産する前から、私もその噂は聞いていた。私と付き合い始めてからも態度はまったく変わらず、何度か相手の女性が直接私のところへ乗り込んできたことさえある。裕司はただ、私に嫉妬させて喧嘩を吹っかけ、それを口実に別れようとしている――私はそれをよく分かっていた。けれど、私は一度も嫉妬せず、責めることもしなかった。そんな関係が長く続くうちに、裕司も次第に私がそばにいることに慣れていった。裕司も友人たちも、私が彼を心の底から愛していて、嫌われたくない一心で何も言えないのだと思っていた。でも本当は、どうでもいいのだ。ただ、夜中にふと目が覚めた時、あの顔を見られればそれでよかった。俊平がまだ隣にいてくれる。そう思い込めるだけで、私はどうに
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第5話
そもそも裕司は、付き合い始めるときから私に自分の生活には干渉するなと言っていた。この3年間、外に女がいなかったことなど一度もないし、私はてっきり、そういう付き合い方が彼の望みなのだと思っていた。ところが裕司は、なぜか不機嫌になった。見せつけるように莉奈をさらに引き寄せ、ほとんど膝の上に座らせたまま、私の目の前で濃厚なキスを交わし始める。恋人である私など、まるで眼中にない様子だった。周りの人たちはすっかり見慣れているらしく、特に驚きもしなかったが、何人かは同情するような目を向けてきた。私はスマホの写真や動画を眺めながら、食事会が終わるのを待っていた。酒が進むにつれ、莉奈もだいぶ酔いが回ってきたようだった。そろそろ私に取って代わりたいという気持ちを隠しきれなくなったのか、こちらを何度か値踏みするように眺めたあと、わざとらしく口を開く。「今どきiPhone12なんて使ってるんですね。なんだかレトロ」私が相手にしないでいると、莉奈はますます調子に乗った。「iPhone12って、どんな形だったかも忘れちゃいました。もう骨董品みたいなものですよね。ちょっと気になるなあ。白石さん、見せてもらってもいいですか?」「いやです」私はスマホを握り直した。「社長、白石さんに見せるように言ってくださいよ。たかがスマホ一つなんですから」私が黙っているのを見て、裕司は眉をひそめた。「見たいって言ってるんだから、見せてやれよ」「嫌」私はもう一度断った。「社長」莉奈は彼の腕に抱きついて甘える。自分の言うことを聞かない私に、裕司は面子を潰されたと感じたのだろう。表情を険しくすると、こちらへ手を差し出した。「スマホ」それでも、私は何も言わない。「そんなに見せたくないなんて、何が入ってるんですか?」莉奈が火に油を注ぐ。「もしかして、人に見られたら困るものでも入ってるとか?」裕司の目つきが一段と険しくなり、突然、私のスマホを奪おうと手を伸ばしてきた。「何するのよ?!」驚いて抵抗した拍子に、スマホが手から滑り落ちた。私は反射的に裕司を突き飛ばし、落ちるスマホを受け止めようとした。その拍子に、裕司は腰をテーブルの角にぶつけ、苦しそうにうめいたあと、私を怒鳴りつけてきた。「何ムキになってんだよ、凪!たかがスマホだろ?壊れたって
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第6話
あてもなく街を歩いていると、曲がり角の向こうに、見覚えのある後ろ姿が目に飛び込んできた。その瞬間、行き交う車も人々のざわめきも、すべての音が消えたような気がした。一瞬止まったかと思った心臓が激しく脈打ち、その音だけが耳の奥に響き始める。俊平にそっくりな後ろ姿だった。けれど、慌てて駆け寄ったときには、もう人混みの中に消えていて、どこを探しても見つからない。私は呆然とその場に立ち尽くし、背後から車のクラクションを鳴らされて、ようやく我に返った。そのまま、力なく歩き出した。今年の冬は、例年になく雪が多い気がする。公園のベンチに座ってしばらくすると、まつ毛にひんやりとしたものが触れた。そこで初めて、辺り一面が雪で真っ白になっていることに気づいた。私は体を小さく丸め、そのまま動かずにいた。どこにも行きたくない。そもそも、どこへ行けばいいのかわからなかった。父が亡くなったあと、母はすぐに再婚して海外へ移り住んでしまったから、私にはもう、家族と呼べる人がいない。俊平はかつて、私に帰る場所をくれた。でも、最後には私を一人残して去ってしまった。裕司との暮らしだって、帰れる場所があると呼べるようなものではない。寝泊まりできる場所ならある。それでも、帰りたいと思える家は、どこにもなかった。頬を熱い雫が伝う。そっと涙を拭って立ち上がろうとした時、突然、目の前に影が落ちた。裕司が追いかけてきたのかと思って顔を上げた私は、その瞬間、息が止まりそうになった。何度も何度も夢に見た顔が、今、目の前にあるのだ。夢と現実の境目が曖昧になり、指先が震える。しかし、触れた途端に消えてしまいそうで、手を伸ばすことさえできなかった。俊平の目元には雪がついていて、それがゆっくりと溶けていった。その一瞬、私を愛してくれていた俊平が、帰ってきたのだと思った。彼は優しい声で囁く。「ただいま」……どうやって俊平の家まで来たのか、よく覚えていない。ただ、私はずっと泣き続け、俊平にしがみついて、どうしても離れようとしなかったことだけは覚えている。とうとう俊平は困ったように私を抱きかかえ、ベッドに横になると、背中を優しく叩いてくれた。「もうどこにも行かないから、泣くなって。そんなに泣いたら頭が痛くなるぞ」私はまともに言葉も出せず、顔
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第7話
俊平は私の頭に顎を乗せ、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「あのときは、どうしても受け入れられなかったから、どうすればいいのか、俺にもわからなかったんだ。お前の父親が憎くてたまらなかったし、凪のことまで憎まずにはいられなかった。海外にいた間も、ずっとお前を憎みながら、同時に愛してた。自分でもおかしくなりそうで、カウンセリングにも通ったこともある。でも……どうにもならなかったんだ」俊平は私の手を握り、静かな声で続ける。「何度も凪の夢を見たよ。夢の中でお前が泣きながら、『俊平、どうして私を捨てたの?』って聞くんだ。それがつらくて、目が覚めてから朝までずっとタバコを吸ってた。あの時、どうすればよかったんだろうな。なあ、凪……俺はどうすればよかったんだ?」私は何も言えない。「でも、時間が経って、ようやくわかったんだ。お前の父親と凪は別の人間だし、あの人がしたことは凪には関係ない。それに、もうお前の父親も亡くなってるから、俺も過去のことはもう捨てようと思った。だから、もう一度やり直そう」俊平はゆっくりと私を抱きしめる腕に力を込めた。「もうどこにも行かないし、二度と凪を置いていかない。前のマンションはやめて、新しい家を買ったんだ。だから、今度は二人で、一から好きなように部屋を作っていこう、な?」目の奥が熱くなり、視界がゆっくりと滲んでいく。私は俊平の腕にしがみつき、小さく頷いた。「うん」いつの間にか雪はやみ、雲の切れ間から朝日が差し込んでいた。私の世界にも、ようやく光が戻ってきた。私は長期休暇を取り、俊平も仕事を休んだ。二人で家にこもり、愛し合って過ごしては、疲れるとソファで寄り添ってテレビを見る。しばらくするとまた寝室へ戻り、夜になってようやく一緒に近所のスーパーへ買い物に出かける……そんな毎日を送っていた。俊平は昔と同じように私の好きな料理を作ってくれ、二人でテーブルを囲んで食事をし、食べ終わると私を椅子に座らせたまま、洗い物まで全部引き受けてしまう。「私だってお皿くらい洗えるよ。今は家事もいろいろできるようになったんだから」そう言ってみたけれど、俊平は聞かなかった。昔から俊平は私をとても甘やかしてくれ、彼と一緒にいた頃は、俊平にできることを私にさせようとしたことなど、一度もない。でも、裕司は違った。裕司は幼
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第8話
「まったく、どれだけヤキモチ焼くんだよ。本当に女の秘書なんか雇ったら、夜中に俺の大事なところを切り落とされそうだな。安心しろ。秘書もアシスタントも運転手も、全員男だ。周りに女なんて一人もいないから、いい加減機嫌直してくれるか?」私は俊平の首に腕を回し、念を押した。「とにかく、ほかの女と怪しいことしてるのがわかったら、絶対に許さないからね。本当に殺しちゃうんだから」「はいはい、わかったよ」俊平は私が首にしがみついて甘えるのをしばらく好きにさせてくれたが、ふいに尋ねてきた。「じゃあ、凪は?」私はすぐにピンとこなくて聞き返す。「なにが?」俊平は笑顔のままだったけれど、その目からは少しずつ笑みが消えていった。「この前の電話、あいつからだったんだろ?これからも、あいつと関わるつもりなのか?」そこで初めて、俊平がずっとそのことを気にしていたのだと気づいた。今まで何も聞かなかったのは、きっと言い出せずにいたからだろう。私は慌てて説明した。「本当に裕司のことは好きじゃないから!付き合ったのだって、俊平に顔が似てたからで……俊平がいなくなって、つらくてどうしようもなくて、あのときはどうかしてたの。だから、代わりになる人が欲しかっただけで……この何年も、俊平のことを忘れた日はなかったよ。ずっと帰ってくるのを待ってたんだから」「じゃあ、今は?」俊平の表情は変わらない。「今は俊平と一緒にいたい。それだけ!裕司のことなんて一度も好きになったことないし、なんで今さら電話してきたのかもわからない。でも、もう二度と関わるつもりはないから!」ようやく納得したらしく、俊平は私に軽くキスをして出かけていった。私はその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、家の中に戻ろうと振り返る。しかしその瞬間、後ろの大きな木の陰から、裕司が姿を現した。裕司は革靴でタバコの吸い殻を力任せに踏み消し、冷たく笑った。「へえ、そうかよ、凪。そういうことだったのか。最初から俺のことなんか好きじゃなかったんだな。しかも、あいつとよりを戻すために、俺を振ったってわけか?」まさかこんなところで鉢合わせるとは思わず、一瞬うろたえたものの、私はすぐに気持ちを落ち着ける。「別れたのは、もう付き合い続ける意味がないと思ったからだよ。確かに私は裕司を好きになったこと
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第9話
裕司は笑みを消し、冷たく言い放った。「ただし、これだけは覚えとけ。俺がお前に振られたんじゃない。俺がお前を捨てたんだ!」そう吐き捨てると、裕司は背を向けて大股で立ち去っていった。私はしばらくその場で呼吸を整え、じんじんと痺れる指先をゆっくり握り込む。裕司とは、こんなひどい別れ方をするつもりではなかったのに。曲がりなりにも3年間付き合ったのだから、できることなら穏便に終わらせたかった。ただ、裕司が言ったことも、おそらく本心なのだろう。彼は最初から私を好きだったわけではなく、今回わざわざ会いに来たのも、周囲にちやほやされて育った御曹司が初めて女に振られ、プライドを傷つけられたからに違いない。それなら、それでよかった。あれほどプライドの高い裕司のことだから、もう二度と私の前には現れないだろう。裕司とは、もう二度と関わることはないと思っていた。そう思っていたのに、予想以上に早く再会することになった。ある日、部署のマネージャーが急な出張に出ることになり、社長の商談に同行する役目が私に回ってきた。普段、この手の商談は社長が進め、私たち社員は資料やデータを用意するだけなので、今回も特に気にしていなかったのだが、案内された個室に入った途端、私は足を止めた。なぜなら、上座に裕司が座っていたから。社長も驚いた様子だったが、すぐに愛想のいい笑みを浮かべる。「まさか加賀美社長ご本人にお越しいただけるとは。今回の提携をそれほど重視してくださっているとは思いませんでしたよ。大変光栄です」私も戸惑った。確かに今回の取引先は裕司の会社だったが、正確には傘下の子会社だ。しかも、この規模の案件なら通常は子会社の責任者が決裁するもので、社長である裕司がわざわざ商談に出席する必要などない。単なる偶然なのか、それとも私への仕返しのために来たのか……でも、すぐにその答えは分かった。酒が進み、社長が懸命に提携の話をまとめようとしていると、裕司がふいに小さく笑った。その視線が私に向けられる。その冷たい目には、どこか人を弄ぶような色があった。「藤原社長、うちとの契約を取りたいなら、別に難しい話じゃありません。そちらの社員……なかなか面白そうな人ですね。だから、こうしましょう」裕司はテーブルに置かれた高級ウイスキーのボトルを指
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第10話
「とんでもない。ただ、白石は本当にお酒が飲めないんです。もちろん、私どもとしても今回の契約はぜひ成立させたいと思っていますが、だからといって社員の命を危険にさらすわけにはいきませんので」私にも、何が起きたのかはわかっていた。俊平が助けてくれたのだ。私は社長に一言断り、席を立ってトイレから俊平に電話をかける。「さっきの電話、俊平だったんでしょ?でも、どうしてわかったの?」俊平の声は落ち着いていた。「加賀美社長が最近、突然子会社に乗り込んできて、凪の会社との取引を直接担当し始めたって聞いたんだ。それで、凪が目当てなんじゃないかと思って。今日はどうしても手が離せなくて行けなかったんだけど、あいつに何かされなかった?大丈夫?」「ううん、大丈夫。ちょうどいいタイミングで電話してくれたから、助かったよ」自然と声が甘くなる。「それならよかった。俺がついてるから、お前は何も心配しなくていい。嫌になったら遠慮なく言い返して、仕事だって辞めていいんだぞ。凪一人くらい、俺が養えるんだから」「うん」電話を切ってトイレを出た私は、廊下に差しかかったところで歩みを緩めた。裕司が壁にもたれ、指の間にタバコを挟んでいたのだ。彼の周辺にはタバコの煙が漂っている。一瞬ためらったが、気づかないふりをして通り過ぎようとした。でも、彼の横を通りかかった瞬間、手首を強く掴まれて引き戻された。「目ついてんのか?こんなところに人が立ってんのに、見えなかった?」私は力いっぱいその手を振りほどき、眉をひそめる。「一体何がしたいわけ?!」「あの男のことがそんなに好きなのかよ?あいつの一体どこが俺よりいいんだ?」裕司は指先でタバコの火を押し消すと、目を細めて私を見た。私がきちんと答えなければ、いつまでも引き下がらないのだろう。「俊平は、ほかの女の人と浮気したりしないから」「は?」裕司は面食らったようだった。「私と付き合ってるのに、ほかの女の人と曖昧な関係になったりしないってこと」私は言葉を続けた。「私をないがしろにしないし、傷つけたりもしない。いつも大切にしてくれるし、私のことをちゃんと考えてくれる。ほかの誰でもなく、私だけを見てくれるし、気持ちにも嘘がないから」私は裕司をまっすぐ見つめ、一言ずつはっきりと告げた。「俊平は私を大切にし
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