Mag-log in瑛介が深山グループを完全に追い出されてから、1ヶ月が経っていたが、彼はまだあがき続けていた。毎日きちんとスーツを着て家を出る。まるで、今も多忙を極める深山社長であるかのように振る舞った。しかし、車に乗ったはいいが、どこへ向かえばいいのか分からない。以前は家族のように付き合っていた仲間たちも、少しずつ瑛介と距離を置くようになった。最初のうちは、まだ食事や酒の席に誘ってくれる人もいた。だが、酒が回れば、結局話題はいつも同じところへ行き着く。深山グループに起きた大きな変化。夕奈がどれほど迅速かつ大胆に会社を立て直しているか。そして、瑛介がどのように栄光の頂点から転落したのか……同情する視線や面白がるような視線、そんな全ての視線が彼の心に針のように突き刺さった。やがて、そんな誘いすら途絶えた。彼はまるで流行遅れになった服のようだった。クローゼットから取り出され、価値がないと判断されれば、あっさりゴミ箱へ捨てられる。瑛介はその落差を受け入れられなかった。わずか2ヶ月で彼の髪は半分以上白くなり、身体は大きく痩せ細った。頬骨は浮き出て、目の下は深く落ち窪んでいる。仕立ての良いスーツでさえ、今では身体に合わず、まるでハンガーに掛けられているだけのようだった。彼は重度のうつ状態に陥った。目覚めても、なぜ生きているのか分からない。食事は味気なく、夜は悪夢ばかり。ただ息をするのさえ苦しかった。酒浸りになり、一日中部屋に閉じこもる。酔うと物を投げ、散らかった床で泣き伏した。泣き疲れると、今度は車で深山グループのオフィスビルへ向かう。しかし、ビルには入らず、道路の向かいの花壇に腰掛け、かつて自分のものであったビルを見上げるだけ。太陽の光がガラス張りの外壁に反射し、眩しいほど輝いているのを、彼はただ細めた目で一日中じっと眺めていた。通り過ぎる人々は、皆複雑な表情を浮かべる。かつて頂点に立っていた男が、今では道端に座り込み、まるで主人に捨てられた犬のようにただ呆けているのだから。夕奈は毎日、会社へ出入りするたびに、向かい側に座る瑛介の姿を目にしていたが、最初は気にしないようにしていた。だが瑛介は、雨の日も風の日も毎日現れた。まるでそこに座る石像のように。社員たちの間でも、「社長は頭がおかしくなった」「気の毒だ」などという
瑛介の頭の中で、何かが弾けたような音がした。「夕奈!」ついに抑えきれなくなり、彼はほとんど叫ぶように声を張り上げた。「どうしてこんなことをするんだ!」夕奈は振り向き、瑛介を見つめる。彼女の瞳は凪いでいるようにとても静かで、かつて深く愛した男に向ける視線ではなかった。まるで通りすがりの他人にでも向けるかのような、無機質な視線。ゆっくりと彼に歩み寄る。ヒールの音が規則正しくフロアに響き、その一歩一歩に、瑛介は心臓が踏みつけられているように感じた。「どうしてって?」夕奈は口元を歪め、冷ややかな笑みを浮かべる。「瑛介、本当にわからないの?」夕奈は少し瑛介を見下ろすようにして、言い放った。「だって、今の深山グループがあるのは、私がいたからでしょ?資金も、築き上げた人脈も、会社の戦略だって……私が何日も徹夜して作り上げてきたもの。あなたが今の地位に就けているのだって、全て私を踏み台にしたからなんだよ?」夕奈の声は決して大きくなかったが、その言葉ひとつひとつは氷の刃のように、瑛介の胸へ深く突き刺さった。「今、私はただ……自分のものを取り戻しているだけ」瑛介の顔色がみるみるうちに青ざめていく。「ここは深山家のものだ!俺の父、祖父……何代にも渡って受け継いできたものなんだぞ!お前が奪っていいものじゃない!」「奪う?」夕奈は思わず吹き出してしまった。「瑛介。あなたが会社を譲り受けた時、会社の口座にいくら残っていた?銀行への返済は滞り、取引先への支払いは半年も遅れ、社員の給料すら払えなかった。それが、あなたの言う深山家が代々受け継いできたもの?」彼女の一言一言が、瑛介が長年守ってきた虚像を切り裂いていく。「私がいなければ、深山グループは5年前に無くなってた」瑛介は口を開いたが、喉に何かが詰まったようで、声が出なかった。夕奈が彼を見ることはもうなかった。そして、取締役たちへ向き直り、再び穏やかな声で問いかけた。「皆さん、私が深山グループを奪ったと思いますか?」会議室に沈黙が流れる。一人の取締役が眼鏡の位置を直し、淡々と言った。「株を保有する者の決定に従う。それがビジネスのルールです。奪うとかではありません」「私は黒崎社長を支持します」別の取締役も続ける。「この数年間、会社の運営を見てきた我々には分かっています。黒崎社長の先
2週間が過ぎた。夕奈は、洗練された黒のスーツに身を包み、深山グループのビルの前に立っていた。ロビーで待っていた瑛介は、夕奈が入ってくるなり、すぐに満面の笑みを浮かべる。「夕奈!」駆け寄って肩を支えようとした。「やっと来てくれたんだ……」しかし、夕奈はその手をふわりと避けた。静かな瞳で彼を冷たく見下ろすと、唇の端に薄い笑みを浮かべる。「行こう。取締役たちが待ってるから」瑛介の手は宙で行き場を失っていた。心に一抹の不安がよぎったが、再会できた喜びがすぐにそれを打ち消した。会議室のドアが開け放たれる。夕奈が足を踏み入れると、一瞬にして静寂が訪れた。会議テーブルには取締役や株主、幹部が全員集まり、ずらりと並んでいた。彼らの中には、深山家と長年の付き合いがある者もいれば、ここ数年、夕奈が引き上げた新参者もいる。皆の視線が一斉に夕奈へと集まった。畏敬や期待、そして見定めるような視線が交差する。夕奈の後について歩いていた瑛介は、いつもの癖で中央の席――代表取締役の椅子へと向かった。しかし、夕奈はそのままその席に座った。黒革の回転椅子に座った夕奈は、指を組んで机に置く。その動作はとても優雅で、落ち着き払っていた。掃き出し窓から降り注ぐ太陽光が彼女を照らし、薄い金のヴェールをまとわせている。瑛介の足が止まった。「夕奈、座る席を間違えてる。そこは俺の席だ」瑛介を見上げた夕奈だったが、動く気配はない。彼女は唇をわずかに引き上げると、室内全員に届く声で静かに言った。「座って。あなたの席はあそこだから」そう言って、彼女が指さしたのはテーブルの末席。瑛介の笑みが凍りついた。会議室が静寂に包まれる。瑛介は動かずに、役員へと視線を投げかけ、誰か味方がいないかと探した。しかし、皆が一様に目を逸らす。資料を見つめる者、お茶を啜る者、携帯を弄るふりをする者……「皆様」夕奈が沈黙を破った。「本日お集まりいただいたのは、新たな代表取締役を選出するためです」そう夕奈が言い終えるか否かのタイミングで、瑛介の顔から血の気が引いた。彼は夕奈に歩み寄る。「夕奈、どういうつもりだ?戻ってきたらもう一度籍を入れて、やり直すって約束しただろ――」「誰がそんな約束した?」夕奈が言葉を遮った。「瑛介、私が言ったのは、
妻にする、自分の女にする、結婚して家庭を築く……それらは全て嘘だったのだ。入籍の話を持ち出すたび、瑛介がいつもあやふやな言い訳でごまかしていたことを思い出す。ただ忙しいだけだと信じていたが、最初から彼にその気などなかったのだ。婚姻届を出せば、それが本当の結婚になる。しかし、彼は一度たりとも、夕奈との離婚を真剣に考えてはいなかった。「瑛介……」杏は瞳を潤ませた。溢れ出しそうな涙を必死にこらえながら、震える声で問いかける。「ねえ、私を一体何だと思っていたの?私を家に連れて帰って、ウェディングドレスを試着させて、式を挙げようとして……私って一体あなたの何だったの?」瑛介は何も答えずに、ただうつむいたまま、杏の視線を避けた。「答えてよ!」ついに杏は我慢の限界に達した。「私はあなたにとって何だったの?いつでも捨てられる都合のいい愛人?瑛介、あなたに人の心はあるわけ?」瑛介の喉仏が大きく動き、彼がかすれた声で一言だけ謝った。「ごめん。でも、今はお前を遠ざけるしかないんだ。もう二度と、連絡も取らない」杏は瑛介の瞳を見つめ、未練やためらい、もしくは罪悪感が残っていないかを探す。だが、そこに宿るのは揺るぎない決意だけ。本当の利益を前にした時、瑛介はほとんど迷わなかった。瑛介は杏のために大金を払って彼女の自由を取り戻した。海辺で杏にロマンチックなプロポーズをした。そして、彼女のためなら夕奈にハサミを向けることさえ躊躇わなかった。しかし、本気で天秤にかけなければならない時、一方が夕奈と深山グループの数兆の資産、もう一方が杏という存在——瑛介は一切の迷いなく前者を選んだ。杏はふっと静かに笑みをこぼす。やっとわかった。瑛介の世界で自分はただの花であって、絶対になくてはならないものではない。花は枯れれば捨てられるし、生きていく上で絶対に必要なものでもないのだ。「わかった」立ち上がると、杏は涙を拭い、冷え切った声で答えた。「私、行くね」杏が部屋を出ていったあとも、瑛介はそのままソファに沈み込んでいた。うつむいたまま、立ち上がることさえしない。玄関が閉まる音がした。その音はとても小さかったが、瑛介の胸には重い一撃のように響く。弾かれたように立ち上がり、玄関へと駆け出した。ドアノブに手をかけたものの、結局それを引き開
翌朝、目を覚ました瑛介は、見慣れた影が檻の外に立っているのに気づいた。それはゆったりとした白いニットを身に纏い、長い髪を肩に流していた夕奈だったが、顔色はあまりよくなく、血の気がない。傷もまだ癒えていないらしく、分厚いガーゼで覆われていた肌が見え隠れしている。夕奈に気づいた瑛介は、瞬時に瞳を潤ませた。彼は檻の中から転がるようにして鉄柵に近づき、柵の隙間から手を伸ばして、必死に夕奈のズボンの裾を掴んだ。「夕奈……夕奈!」しかし、瑛介の声は掠れ、ほとんど言葉になっていない。「俺が悪かった。だから……離婚しないでくれ。もう一度だけチャンスをくれないか……もう二度とあんなことはしないから……」夕奈は目の前の無様な男を見下ろし、静かに問いかける。「『あんなこと』って、具体的には何のことなの?」瑛介は口を開けたまま、何も言えなかった。しどろもどろになるだけで、具体的な答えは何も返ってこない。数秒待った夕奈は、淡々と言った。「答えられないなら、もう帰って」彼女が背を向けて立ち去ろうとする。瑛介は焦った。今日ここで追い返されたら、もう二度と夕奈には会えない。夕奈の冷酷さは身をもって知っている。一度何かを決めた彼女は、テコでも動かない。「待ってくれ!行かないでくれ!」彼は獣のように叫び、絶望的な涙声を響かせる。「言う!答えるから!もう二度とほかの女とは一切関わりを持たない!杏とも……もう二度と会わないから!だから、頼む。もう一度だけチャンスをくれ!」夕奈は歩みを止め、ゆっくりと振り返った。檻の中の汚れた男を見下ろす彼女の口元に、静かな笑みが浮かぶ。それは春の湖面の揺れる水面のように穏やかな微笑みだった。しかしその奥にある瞳には冷気が宿り、冬の夜空に瞬く星のように鋭く光っている。「どうするつもり?」夕奈はまるで他人事のように、淡々と問いかけた。わらにもすがる思いで、瑛介が焦ったように言葉を続ける。「なんでもやる!お前が許してくれるなら、言われたこと何でもするから!」少しの間を置いて、夕奈が静かに口を開いた。「簡単なことだよ。今すぐ花森さんを追い出して、二度と私の視界に入らないようにしてくれる?彼女との今後一切の縁を切るの」彼女の長いまつ毛がわずかに伏せられ、瞳の奥に宿る冷たさが隠れた。「そうすれば、
瑛介は会社を飛び出し、車へ乗り込んだ。ハンドルを握りしめる両手には力が入り、関節が白くなる。彼の頭の中には、ただ一つ。夕奈を見つけ出し、再婚すること。そして、株を取り返し、すべてを元通りにする。それだけだった。夕奈さえ戻ってくれるなら、どんなことでも受け入れるつもりだ。車が黒崎邸の鉄の門の前に停車した。瑛介は車を降り、何度も来たことのあるその門を見上げる。彼は深く息を吸い込むと、震える手でインターホンを押した。インターホンが点灯し、聞き慣れない声が響いた。「どちら様でしょうか?」「瑛介です。夕奈に会いに来ました」数秒の沈黙の後、インターホンから乾いた笑い声が聞こえてきた。「よくもまあ、のこのことやってこられましたね」門の前に立ち尽くす瑛介の髪を、夜風が逆立てる。それからどのくらい経っていただろうか。瑛介の足はしびれ、指先は凍えて感覚もなくなっていた。今夜はもう会えないのだろうか、そう諦めかけた時、門が突然鈍い音を立てて開き始めた。使用人と思われる男が門の内に立っており、無表情に瑛介をちらりと見ると、さっと傍にそれる。「深山様、どうぞお入りください」瑛介はそのまま中に進んだ。手入れされた庭を抜け、石段を上がると、黒崎邸のリビングへの扉が開け放たれていた。瑛介は深く息を吸い込み、敷居をまたぐ。背後の扉が、重々しく閉ざされた。リビングの照明は明るく、少し目がくらむほどだった。瑛介は目を細め、広々とした室内を見回した。そこには、ソファに座っている陸がいた。陸は立ち上がりもせず、まばたきすらしない。ただソファの背に深く体をあずけ、足を組んでいる。「陸さん……」瑛介が声をかけようとした瞬間、瑛介の視界が大きく揺れた。勢いよく振られた拳が、瑛介の顔面を捉えたのだった。あまりの威力に鼻が砕けるような激痛が走り、視界に無数の火花が散った。体勢を崩した瑛介は、無様にも床へと倒れ込んだ。「よくもまあ、俺に話しかけられたな」陸の声は、氷のように冷たかった。陸はスーツのボタンを外し、瑛介に向かってゆっくりと歩み寄る。その夕奈に似た瞳には、隠しきれない怒りが渦巻いていた。瑛介が立ち上がる暇もなく、二発目が容赦なく振り下ろされた。その一撃はこめかみに叩き込まれ、瑛介は横に吹き飛んだ。口