Short
不倫夫を捨てて世界を離出します

不倫夫を捨てて世界を離出します

By:  莉里Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
25Chapters
50views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

「システム――私は所有者ナンバー12138の娘です。この世界からの離脱を申請します」 真冬の夜、暖炉の炎がぱちぱちと音を立て、白い壁に揺れる影を残す。 伊賀崎千春(いがさき ちはる)は、窓の外で降り積もる雪を見つめながら、首元のシルバーのネックレスを静かに外し、小さく呟いた。 しばらくすると、静まり返った寝室に無機質な機械音が響いた。 「申請を受理しました。処理を開始します。15日後、あなたを本世界から離脱させます」 その声が消えた瞬間、手のひらに乗せていたはずのネックレスが、跡形もなく消えていることに、千春は気づいた。

View More

Chapter 1

第1話

「システム――私は所有者ナンバー12138の娘です。この世界からの離脱を申請します」

真冬の夜、暖炉の炎がぱちぱちと音を立て、白い壁に揺れる影を残す。

伊賀崎千春(いがさき ちはる)は、窓の外で降り積もる雪を見つめながら、首元のシルバーのネックレスを静かに外し、小さく呟いた。

しばらくすると、静まり返った寝室に無機質な機械音が響いた。

「申請を受理しました。処理を開始します。15日後、あなたを本世界から離脱させます」

その声が消えた瞬間、手のひらに乗せていたはずのネックレスが、跡形もなく消えていることに、千春は気づいた。

そのとき、テレビではちょうど伊賀崎透真(いがさき とうま)のインタビューが始まっている。

「今回発表された新作ジュエリーシリーズ『スプリング・ラブ』ですが、この名前には特別な意味があるのでしょうか?」

司会者の問いに、メインゲストの透真は柔らかく微笑む。その眼差しには、惜しみない愛情が宿っている。

「『スプリング』はすなわち『春』。妻の名前から取っています。このシリーズには、『一生彼女だけを愛し続ける』という想いを込めました」

あまりにも自然な惚気に、司会者は思わず頬を緩める。

「お二人は初恋同士で、大学卒業後、すぐにご結婚されたそうですね。結婚4周年を迎えようとした今も変わらず仲睦まじいご夫婦ですが、その秘訣は何でしょう?」

「秘訣ですか……強いて言うなら、何でも妻を優先することですね。連絡は必ずすぐ返しますし、毎日何かしら喜んでもらえることを考えるようにしています」

その答えに、会場から羨望のため息と歓声が一斉に上がる。

「ああ、神様、こんなに一途な旦那さん、私にもください!」

「伊賀崎さんみたいな男って本当に珍しい!私も伊賀崎さんの心を攫ってしまいたいわ!」

いつまでも鳴り止まない歓声を聞きながら、透真は穏やかに笑って言った。「すみません。私の心は、いつだって千春だけのものです」

割れんばかりの拍手が会場を包み込み、インタビューは終了した。

透真の姿が消えるのを見届けると、千春は静かにテレビの電源を切り、自嘲するように口元を歪めた。

――「私の心は、いつだって千春だけのものです」って?

昔は、そうだったかもしれない。

二人は幼なじみとして育ち、15歳で恋人になり、22歳で結婚した。

制服を着ていた頃から付き合い始め、タキシードとウェディングドレスをまとって結ばれた二人を、誰もが理想の夫婦だと羨んだ。

透真はSNSで千春の写真ばかり投稿し、異性とも距離を置いていた。

結婚式当日から3日3晩、街のあちこちで花火を打ち上げ、世界中に「愛する女性を妻に迎えた」と、誇らしげに宣言した。

千春が腎不全を患ったときには、迷うことなく自分の腎臓を提供し、「君がいないなら、俺も生きる意味なんてない」と言った。

付き合ってから7年間、結婚してから4年間、彼は告白の日に誓った言葉を裏切らなかった。

けれど、人は変わる。

千春の父、笹原和夫(ささはら かずお)がそうだったように。透真もまた、例外ではなかった。

和夫は27歳のとき、母の笹原佳代子(ささはら かよこ)を裏切った。秘書と関係を持ち、その結果、佳代子はすべてに絶望してこの世界から離脱することを選んだ。

そして26歳の透真もまた、千春を裏切った。親友の妹を人知れず囲い、彼女の存在を千春に隠し続けていたのだ。

20年以上の時を経て、同じ悲劇が繰り返された。

だから今度は――千春は母と同じ道を選んだ。

彼が裏切るなら、自分はこの世界から姿を消す。

ふと、寂しくなった首元に触れる。その感触に、母が旅立つ前に残した言葉が蘇った。

「千春、私はこの世界の人間じゃないの。任務を果たすためにここへ来ただけ。そして、その任務はもう終わったの。

お父さんは私を裏切った。だから私は家へ帰るわ。

このネックレスをあなたに託すね。もし、この世界で生きるのが苦しくなったら――システムに呼びかけて。そうすれば、あなたもこの世界を離れて、私のところへ来られるから」

――この世界を、永遠に去る。

それこそが、今の千春の願いだった。

彼女は静かに笑うと、結婚指輪を外し、そのまま暖炉の炎の中へ放り投げる。

扉を閉めたその瞬間、ガチャリと玄関が開く音がした。

冷たい雪をまとった透真が、真っ赤なバラの花束を抱えて帰ってくる。

「千春、ごめん。今日は会議が長引いて、帰りが遅くなった」

そう言って微笑みながら、いつものように花束を差し出した。

バラは毎日のように贈られていた。けれど今日の花だけは、香りがやけに強い。何かを隠そうとしているかのように。

千春は花束をテーブルへ置く。その瞬間、透真の体から濃い香水の匂いが漂ってきた。

――そうか。あの女の香りをごまかすためだったのか。

胸を締めつける痛みを押し込みながら顔を上げると、透真のシャツの襟元から、薄く赤いキスマークがのぞいていた。

もう涙は、とっくに枯れてしまった。だから今回は、一目見ただけで視線を逸らし、静かに言う。

「大丈夫よ。これからは何時に帰ってきてもいいし、帰ってこなくても構わない。私のことは気にしなくていいから」

彼もまだ知らない。

この世界で彼女に残された時間が――あと15日しかないことを。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
25 Chapters
第1話
「システム――私は所有者ナンバー12138の娘です。この世界からの離脱を申請します」真冬の夜、暖炉の炎がぱちぱちと音を立て、白い壁に揺れる影を残す。伊賀崎千春(いがさき ちはる)は、窓の外で降り積もる雪を見つめながら、首元のシルバーのネックレスを静かに外し、小さく呟いた。しばらくすると、静まり返った寝室に無機質な機械音が響いた。「申請を受理しました。処理を開始します。15日後、あなたを本世界から離脱させます」その声が消えた瞬間、手のひらに乗せていたはずのネックレスが、跡形もなく消えていることに、千春は気づいた。そのとき、テレビではちょうど伊賀崎透真(いがさき とうま)のインタビューが始まっている。「今回発表された新作ジュエリーシリーズ『スプリング・ラブ』ですが、この名前には特別な意味があるのでしょうか?」司会者の問いに、メインゲストの透真は柔らかく微笑む。その眼差しには、惜しみない愛情が宿っている。「『スプリング』はすなわち『春』。妻の名前から取っています。このシリーズには、『一生彼女だけを愛し続ける』という想いを込めました」あまりにも自然な惚気に、司会者は思わず頬を緩める。「お二人は初恋同士で、大学卒業後、すぐにご結婚されたそうですね。結婚4周年を迎えようとした今も変わらず仲睦まじいご夫婦ですが、その秘訣は何でしょう?」「秘訣ですか……強いて言うなら、何でも妻を優先することですね。連絡は必ずすぐ返しますし、毎日何かしら喜んでもらえることを考えるようにしています」その答えに、会場から羨望のため息と歓声が一斉に上がる。「ああ、神様、こんなに一途な旦那さん、私にもください!」「伊賀崎さんみたいな男って本当に珍しい!私も伊賀崎さんの心を攫ってしまいたいわ!」いつまでも鳴り止まない歓声を聞きながら、透真は穏やかに笑って言った。「すみません。私の心は、いつだって千春だけのものです」割れんばかりの拍手が会場を包み込み、インタビューは終了した。透真の姿が消えるのを見届けると、千春は静かにテレビの電源を切り、自嘲するように口元を歪めた。――「私の心は、いつだって千春だけのものです」って?昔は、そうだったかもしれない。二人は幼なじみとして育ち、15歳で恋人になり、22歳で結婚した。制服を着ていた頃
Read more
第2話
千春の口調があまりにも冷たく、透真の胸は不意にざわついた。「千春……ごめん。怒らないでくれ。これからはもっと早く帰る。約束するよ。君が許してくれるなら、俺は何だってする」ただ帰りが遅くなっただけ――それだけのことなのに、透真は千春を抱き寄せ、必死に機嫌を取ろうとする。まるで、この世でいちばん大切なのは彼女の気持ちだと言わんばかりに。千春には、それが分からなかった。そこまで自分を愛しているというのなら、どうして裏切ったのだろう。その答えを知りたくても、あと15日間は何も知らないふりをして、この芝居を続けなければならない。胸を締めつけるような痛みを必死に押し殺し、千春は静かに首を横へ振った。「本当に怒ってないの。ただ……私のこと、そんなに気を遣わなくてもいいんじゃないかって思っただけ」透真は困ったように笑う。「そんなふうに言わないでくれ。俺は君を愛してるし、君のことは、何よりも大切だと思ってるよ」そう囁きながら、甘い言葉を耳元へ落としていく。千春は何も答えなかった。そのとき透真の視線がふと彼女の首元へ向く。「あれ……千春、ネックレスは?」あのネックレスは、佳代子が姿を消す前に残してくれた唯一の形見だ。千春が何よりも大切にしていて、一日たりとも外したことがないことを、透真も知っている。千春の肩がわずかに強張る。視線を伏せたまま、小さく答えた。「壊れちゃって……修理に出してるの」その表情を見た透真は、彼女の元気のなさは母親を思い出したせいだと勘違いしたらしく、優しく彼女を宥める。「大丈夫、きっと直るよ。だからそんな顔しないで。それに、お義母さんだって、きっといつか君のそばに戻ってくる。突然姿を消したとはいえ、俺は一度だって探すことを諦めなかった。人が何の理由もなく消えるなんてあり得ない。きっとどこかで生きているはずだ。だから信じてくれ。必ずもう一度お義母さんに会わせてあげるから」千春は苦々しく笑った。――その通りだ。自分はもうすぐ母に会える。「……お父さんは?最近、調子はどう?」千春はそう聞くと、透真は少しだけ言葉を詰まらせ、小さく息を吐いた。「特に変わりはないよ。入院してから、意識ははっきりしないし、毎日、お義母さんの名前ばかり呼んでる」「そう、自業自得ね」千春は噛
Read more
第3話
透真の言葉が終わると同時に、動画の中で美夏が嗚咽を漏らした。「そうだよ……全部、私の独りよがりだった。透真さんが結婚していて、愛してるのは千春さんしかいないって分かってた。それでも諦めきれなくて、毎日こうして都合よく扱われても、あなたに縋りついて……!透真さんが好きじゃなかったら、こんな惨めなこと、できるわけないじゃない!」涙をぽろぽろと零す彼女を見た途端、透真の体がぴたりと固まった。口調こそ相変わらずぶっきらぼうだが、腰の動きは明らかに優しくなる。「いちいち泣くなよ。俺を誘ったのはお前だろ?『体の関係だけでいい、好きじゃなくてもいい』って言ってたくせに」美夏は答えず、涙がさらに溢れ出した。透真は困ったようにため息をつくと、身をかがめ、頬を伝う涙を一つずつ唇で拭っていった。「分かったよ、俺が悪かった。もう泣くな。欲しいものがあるならなんでもやるから」美夏はしゃくり上げながら、小さくねだった。「……じゃあ、千春さんに買ったネックレス。それと、さっき買ったクロワッサンも」透真は眉をひそめた。「それ以外にしろ」「なんで?私はそれが欲しいの!」また涙を浮かべ始めた彼女を見て、透真はとうとう折れた。「……分かった。全部やるからもう泣くな。ほら、おいで」そう言って、甘やかすように再び口づけを落とした。――透真が自分を裏切った。その事実を、千春はとっくに知っていた。それでも、自分の目でその光景を見た瞬間、胸は引き裂かれるように痛んだ。心臓がぎゅっと締めつけられ、息もできないほど苦しい。千春は身体を折るようにうずくまり、額には脂汗が滲んでいく。唇を強く噛み締めても、喉の奥から漏れる嗚咽だけはどうしても抑えられなかった。――透真。15歳の時。たどたどしく告白しながら、「千春しか好きになった人はいない」と言ってくれたのは、あなただった。22歳の時。指輪を手に跪き、「生涯、君だけを愛する」と誓ったのも、あなただった。――あなたの言う「生涯」は、たったの数年間だけだった。握り締めた拳に爪が食い込む。皮膚が裂け、血が滲んでも、彼女は力を緩めなかった。そうでもしなければ、胸を蝕む痛みに耐えられなかった。千春は食卓の前で呆然と座り続けた。涙だけが、静かに頬を伝い落ちていく。どれほど時間が過ぎたのだろう
Read more
第4話
透真の言葉は、一つひとつが真摯で、切実で、少しの迷いも感じられなかった。危うく信じてしまいそうになるほどに。けれど、今朝見たあの映像が脳裏をよぎった瞬間、胸に込み上げたのは、ただ皮肉な思いだけだった。透真の自分への愛は、きっと偽りではない。それなのに、どうして彼が、ここまで自分を傷つけられるのだろう。千春は静かに涙を流し、顔の半分を枕へ埋めた。意識は次第に遠のき、そのまま眠りへと落ちていった。次に目を覚ました時、時計の針は深夜零時を回っていた。隣へ手を伸ばすと、ベッドは冷え切っていて、透真はいない。千春はぼんやりと身を起こし、喉の渇きを覚えてコップを手に部屋を出た。だが寝室を出た時、隣の書斎から、軋むような音が断続的に聞こえてくる。扉はわずかに開いていた。足音を殺して近づいた千春は、その隙間から中を見てしまう。書斎のデスクの上で、二人の身体が絡み合っていた。照明に照らされた美夏の肌は雪のように白く、頬を赤く染め、熱い吐息を漏らしながら、指先で机の縁を何度も掻きむしっている。「透真さん……千春さん、生理痛で苦しんでるんでしょう……?一緒にいてあげなくていいの?どうしてまた私と――」「黙れ!」透真は声を潜めて制した。しかし、その手も身体も止まることはなかった。千春は固まった。何の前触れもなく視界に飛び込んできたその光景は、重たい鉄の塊を胸へ叩きつけられたようだった。息を吸うたび、胸が裂けそうに痛む。――美夏のことがそんなに好きなの?一日たりとも、一瞬たりとも、こうして彼女を抱かずにはいられないほどに……千春は視線を逸らした。もう水を飲む気力すら残っていなかった。足元がおぼつかないまま、寝室へ戻っていく。それから30分ほどして、部屋のドアが静かに開いた。シャワーを浴び終えた透真がベッドへ潜り込み、後ろから彼女を抱き寄せる。「千春……安心して、俺がついてるから、もう痛くないよ」千春は何も答えなかった。目を閉じ、眠っているふりをする。けれど、閉じた瞼の奥から溢れた涙は頬を伝い、こめかみを静かに濡らしていった。透真は彼女が眠っていると思い込み、手で優しく彼女の下腹部をさすり続ける。その指先の熱が伝わるたび、千春の身体から力が吸い取られていくようで、残るのは、終わりのない苦
Read more
第5話
その言葉が千春の耳に届いた次の瞬間、通話はぷつりと切れた。暗くなったスマホの画面を見つめながら、千春は手紙を握りしめる。その指先は、小刻みに震えていた。涙で滲む視界の向こうに、不意に17歳の透真の姿が見えた気がした。制服をまとい、木の下に立つ少年。目を赤くしながら、悲しそうに彼女を見つめ、何かを訴えかけている。涙が視界を覆い、その表情までは見えない。それでも唇の動きだけを必死に追い続け、何度も確かめた末に、ようやく彼が伝えたかった言葉を理解した。「千春、許すな。あいつを絶対に許すな」その瞬間、胸の奥で何かが一気に崩れ落ちた。鋭い痛みが心臓を貫き、息ができない。肩を震わせ、大きく喘ぎながら体を折り曲げる。そしてついに耐えきれなくなり、手紙を握りしめたままその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。――わかった。透真を許さない。一生許さない。……それから数日間、透真は家へ戻ってこなかった。そして迎えた、二人の結婚4周年記念日。朝、目を覚ました千春の前には、透真が用意したドレスとジュエリーが並べられていた。傍らで待機していた秘書が深々と頭を下げる。「奥様。社長はこの数日、記念パーティーの準備をしておられました。本日はぜひご出席くださいますようお願いいたします」千春は静かにその言葉を聞くだけで、何も答えなかった。この数日間、透真が姿を消していたのは――結婚記念日のサプライズを準備していたからなのか。それとも、誰かとベッドで甘い時間を過ごしていたからなのか。彼女にはわからない。知りたいとも思わなかった。夕方になると、千春は用意されていたドレスとアクセサリーを身につけ、秘書に伴われて会場へ向かった。入口では透真が待っていた。彼は千春の姿を見るなり、自分のコートを脱いで肩に掛けると、そのまま腰を抱いて足早にホールへと向かう。来賓に挨拶をする暇もないほど千春を気遣うその姿に、友人たちから次々とからかう声が飛んできた。「奥さんが来た途端、周りが見えなくなるなんて、ほんと愛妻家だよな!」「毎年の結婚記念日が結婚式並みの豪華さだもんな。透真、お前がそこまで嫁を甘やかすと、俺たちの立場がないだろ?」「俺なんかは、いっつも嫁に『透真さんを見習って』って言われてるんだぞ。でも俺、
Read more
第6話
会場の外には、大きな噴水があった。周囲では梅の花がちょうど見頃を迎え、咲き誇る花々が冬の夜を鮮やかに彩っている。枝いっぱいに咲く梅を眺めていると、重く沈んでいた千春の心も、ほんの少しだけ軽くなった。歩き疲れ、近くのベンチで休もうとしたその時だった。顔を上げると、美夏がこちらへ歩いてくるのが見えた。透真が千春のために用意した盛大なサプライズが、よほど堪えたのだろう。美夏はついに取り繕うことをやめ、隠していた本性をむき出しにした。「千春さん、この前の電話で透真さんが何を言ってたか、ちゃんと聞こえたでしょう?どうして彼を問い詰めないの?どうしてまだ彼のそばにいるの?今日のサプライズは確かにすごかった。でも、あれは全部、透真さんに罪悪感があったから。本当にあなたを愛してるなら、最初から私なんて眼中に入らないはずでしょ?」美夏は挑発するように笑った。「いいことを教えてあげるよ。私、もう透真さんと何千回も寝たの。言ってる意味、わかる?あなたが知らないところで、あの人はずっと私を抱いてきたってことだよ。あなたは、ただ私より少し早く透真さんに出会っただけ。いい気にならないでね。透真さんの体も心も、結局は私のものだって、いつか必ず証明してみせるから」千春は美夏の話を最後まで聞いていたが、表情ひとつ変えず、そのまま立ち去ろうとする。その態度が、美夏には何より癪だったのだろう。彼女は勢いよく千春の腕をつかむ。「待って!千春さん、一つ賭けをしない?透真さんがいったいどっちを大切にしてるのか、確かめてみようよ」言い終えるや否や、美夏は千春の腕を引っ張り、彼女を噴水池に突き落とすと、自分も中へ飛び込んだ。真冬の水は、氷点下寸前の冷たさだった。豪華なドレスは水を吸った瞬間、鉛を詰め込まれたように重くなり、千春の体を容赦なく水底へ引きずり込んでいく。必死にもがいても、沈もうとする力には抗えない。寒さで体は震え、手足から少しずつ力が奪われていった。意識が遠のき始めた、その時――騒ぎを聞きつけた透真が、慌てて駆けつけた。水中でもがく二人の姿を見た瞬間、彼の顔色が変わる。次の瞬間には、ためらうことなく池へ飛び込んでいた。美夏もすでに冷え切り、泳ぐ力を失っていた。透真が自分へ向かってくると思い込み、涙声で叫ぶ。
Read more
第7話
美夏はようやく泣きやみ、涙声のまま口を開いた。「じゃあ、お願い事を三つ聞いて」透真は冷たい口調のままだが、その声には隠しきれない甘さが滲んでいた。「……わかった。言ってみろ」「一つ目。この数日は千春さんのところへ行っちゃだめ。ずっと私のそばにいて」「いいだろう」「二つ目。数日後にダンスパーティーがあるの。恋人として私と一緒に出席して」「わかった」「三つ目。私にプロポーズして、私の手に婚約指輪をはめて、『一生愛する』って言ってほしい」その瞬間、透真は黙り込んだ。美夏は再び涙をこぼし始める。「別に本気じゃなくてもいいの。千春さんと別れないことくらい、私だって分かってる。でも、大好きな人に一度だけでいいからプロポーズしてほしいの。形だけでもいいって思ってる。それすらだめなの?」その涙は、とうとう透真の最後の理性までも崩してしまった。長い沈黙のあと、千春の耳に届いたのは、どこまでも甘く優しい声だった。「……わかった。全部、お前の望みどおりにするよ。だから、こっちへおいで」ほどなくして、病室の中では二人の唇が再び重なり合う。その先に何が起きるのかなど、千春にはもう想像するまでもなかった。震える足で背を向けると、静かにその場を立ち去った。……それから数日間、透真は一度も千春の見舞いに行かなかった。時折、「出張中だ」というメッセージだけが届く。千春は一回たりとも返信しなかった。それでも彼は、何の反応も示さない。以前の透真なら、返信がないだけで異変に気づき、すぐに現れるはずだった。けれど今の彼は、美夏に付きっきりなのだ。検査のため看護師たちと院内を歩く時、彼女たちは時折、医師と病院の噂話をしていた。「6階って、ある大物が一人の女性のためにフロアごと貸し切ったらしいですよ。許可がないと誰も入れないんですって」「そうそう。しかも毎日、高級ブランドのバッグやジュエリーが山ほど届いてるみたい。いったい誰なんでしょうね。本当に羨ましいよ」そんな話を思い出しながら、千春はスマホの画面を覗いた。そこには、この数日間、美夏から送りつけられてきた写真が並んでいる。ずらりと並んだ高級バッグ。豪華なジュエリー一式。そして首筋や肌に幾重にも残されたキスマーク。ちょうどそのとき、透真からメッセージが届いた。
Read more
第8話
千春がこの世界からいなくなるまで、残り2日。透真は、今日も帰ってこなかった。けれど千春は知っていた。今日は美夏の恋人役として、ダンスパーティーに出席しているのだと。彼の行き先を尋ねることはしなかった。代わりに家事代行のスタッフを何人か呼び、家の片づけを始めた。正確には――自分の痕跡を、綺麗に消してもらった。タオルや歯ブラシ、マグカップのような小物から、服や化粧品、アクセサリーまで。値打ちのないものは処分し、まだ使えるものはすべて慈善団体へ寄付した。少しずつ空になっていく家を見つめながら、千春の心も落ち着いていく。もう二度と、自分を裏切った人間のために悲しんだりはしない。未練も、何一つない。……その夜も、雪が降った。千春は暖炉の前に座り、2本の動画を作った。1本目は、透真と過ごしたこれまでの日々。恋人だった頃から結婚後まで、二人の幸せが詰まった映像。そして2本目は――美夏がこの数日送りつけてきた、透真との情事の動画だった。編集を終える頃には、空は白み始めていた。千春はその二本の動画をセンタースクエアの大型ビジョンを管理する担当者へ送り、送金とともにメッセージを添える。【明日、私が指定する時間帯で、この二本の動画を市内すべての大型ビジョンで流してください】……最後の一日――朝、目を開けると、目の前には透真がいた。頬へ優しく口づけを落とし、満面の笑みで囁く。「千春、お誕生日おめでとう!」その言葉で、千春はようやく思い出した。今日は自分の26歳の誕生日。そして同時に――この世界から、自分が消える日でもある。飾り付けられたリビング。大きなバースデーケーキ。その光景を見て、千春は苦笑する。こんな芝居を続けるのは、疲れないのだろうかと問いかけたい。ついさっきまで美夏と抱き合っていたのに、家へ戻れば何事もなかったように自分にキスした。そんなことが、どうしてできるのだろうか。ベッドから起き上がると、千春は静かに尋ねた。「最近は忙しいんでしょう?本当に今日は一緒にいてくれるの?」透真は優しく彼女の髪をなで、目を細めて笑う。「何言ってるんだよ。俺にとって、千春は一番大事だし、今日は君の誕生日なんだから、たとえ世界が滅んでも君と過ごすよ」千春は微笑んだだけで、何も言わ
Read more
第9話
雪は静かに降り続いていた。千春が再び目を開けると、もうあの街にはいなかった。見知らぬ一軒家の前に立っている。玄関の表札には、「12138」という番号が掲げられていた。その見覚えのある数字を目にした瞬間、千春は息をのんだ。そのとき、背後からどこか懐かしく、それでいて遠い記憶の中のような声が聞こえた。「あの、どちら様でしょうか……?」千春はゆっくりと振り返る。そこにいたのは、夢の中で何度も会いたいと願い続けた人だった。20年ぶりに再会する母。穏やかな笑みを浮かべたその顔は、歳月に蝕まれる痕跡がなく、あの日のままだった。佳代子もまた、娘の姿を見た瞬間に立ち尽くした。今なお澄んだ瞳に、ゆっくりと涙があふれていく。「千春……」母に名前を呼ばれた途端、千春は勢いよく彼女の胸へ飛び込み、しがみついた。佳代子は震える腕で娘を強く抱きしめる。頬を伝う涙が千春の額へ落ち、娘の涙と混ざり合って、白い雪の上へ静かに染み込んでいく。どれほどそうしていただろう。雪は激しく降り始め、ようやく佳代子は我に返った。娘の頬を伝う涙を指先でそっと拭い、その手を優しく握る。そして、今までは自分ひとりの家へ――これからは親子二人の居場所となるその家へ、一緒に帰っていった。家の中に入ると、暖房のぬくもりが凍えた体を少しずつ解かしていく。佳代子は買ってきたケーキをテーブルに置き、娘の肩へ毛布を掛けると、そのままキッチンへ向かった。千春も後を追う。母が包丁を持ち、料理を作り始める姿を見た途端、ようやく収まっていた涙がまた込み上げてきた。「お母さん、私の大好きなオムライスも作ってね!」その一言を久しぶりに聞いた佳代子の目にも、たちまち涙がにじむ。彼女はまだ信じきれずにいた。娘が本当に自分のもとへ来てくれたのか、それとも今の光景はただの夢なのか。けれど、隣で野菜を洗う娘の姿を見つめるうちに、彼女が来てくれたことは確かな現実だと感じられた。自然と手元の動きも速くなる。10分ほどして、熱々のオムライスが二人分、食卓へ並べられた。千春はケーキの箱を開け、ろうそくに火を灯す。母の歌う「ハッピーバースデー」を聞きながら、静かに目を閉じた。――お母さんがずっと元気で、長生きできますように。そして、もう二度と離ればな
Read more
第10話
未明、二日二晩降り続いた雪が、ようやくやんだ。透真も胸を締めつけるような悪夢からようやく目を覚ました。額に浮かんだ冷や汗を拭い、薄暗い窓の外を見つめながら、荒い息を何度も繰り返す。壁掛け時計の秒針だけが、静かな部屋に規則正しい音を刻んでいた。ようやく呼吸が落ち着き、スマホを手に取ると、時刻はもう午前5時を回っていた。隣で眠っていた美夏は、画面の明かりに目を覚ます。ぼんやりと目を開けると、そのまま甘えるように透真へ身を寄せた。肌が触れ合った瞬間、透真の体は反射的に火照り始める。それに気づいた美夏は、柔らかな指先で彼の体をなぞりながら、甘ったるい声で囁いた。「こんなに早く起きるなんて……透真さん、もしかして……?」しかし透真は、彼女の動きに応えなかった。その手を静かに振り払い、ベッドから降りると、そのまま浴室へ向かう。ほどなくして、シャワーの音が静かに響き始めた。その音を聞きながら、美夏は完全に目を覚ます。苛立ったように照明をつけると、部屋の惨状が目に飛び込んできた。脱ぎ散らかされた服が床一面に散乱し、甘いアロマの香りがまだ濃く漂っている。その光景を見た途端、昨夜の熱に浮かされた時間が鮮明によみがえり、美夏の口元には満足げな笑みが浮かんだ。彼女はベッドの上に置かれた透真のスマホを手に取る。暗証番号には、千春の誕生日を入力すると、あっさりとロックは解除された。メッセージアプリを開くと、透真が昨夜11時に送ったメッセージが未読のままだった。それを見て、美夏は計画が成功したと思い、唇を吊り上げる。昨日が千春の誕生日だと知っていたからこそ、透真を呼び出したのだ。最初は「2時間だけ」という約束だった。けれど、周到に準備していた彼女の策略のおかげで、透真は午後11時まで彼女のそばにいた。11時を過ぎると、透真はどうしても帰りたいと言い張った。そこで美夏は言った。きっともう千春は寝たから、今さら帰っても、お祝いには間に合わない、と。透真は半信半疑でメッセージを送った。しかし日付が変わっても返事は来ない。それでようやく、彼はここへ泊まることを決めた。もっとも――千春は眠ってなどいなかった。なにしろ美夏は30分おきに、その夜の様子を撮った写真や動画を送りつけ、一緒に「鑑賞」しようと強要した
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status