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愛情値は満点でも、心はもう戻らない

愛情値は満点でも、心はもう戻らない

By:  ミントソーダCompleted
Language: Japanese
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「攻略者様、北条京平(ほうじょう きょうへい)様のあなたへの好感度は依然として100パーセントのままです。それでも本当にこの世界から離脱なさいますか?」 北条英理(ほうじょう えり)の胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。それでも彼女は、迷うことなく静かに頷いた。 「……ええ、決めたわ」 「承知いたしました。離脱ゲートは15日後に開放されます」 システムの声がふっと途絶え、部屋は再び静寂に包まれた。 英理の視線は、目の前のテーブルにぽつんと置かれたケーキへと落ちる。好感度100パーセント。そんな言葉が、頭の中を何度も駆け巡って離れない。 本来であれば、この上ない幸福をかみしめるべき言葉のはずだ。しかし今の英理にとって、これほど皮肉に響く言葉はほかに存在しなかった。

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Chapter 1

第1話

10年前、英理はシステムに導かれてこの世界へと降り立った。与えられた任務は、幼い頃に両親を目の前で喪い、その深い絶望から心を閉ざしてしまった京平を攻略することだった。

彼女は3年もの間、片時も離れることなく京平のそばに寄り添い続けた。両親の死という暗い影から彼を引きずり出し、ついには好感度を100パーセントにまで引き上げることに成功したのだ。

だが、3年という長い歳月をともに過ごすうちに、英理自身の胸の内にも本物の想いが芽生えていた。気づけば京平に深く恋をしていて、だからこそ彼女は元の世界へ帰らず、この世界に留まる道を選んだのだ。

京平もまた、英理のその想いに応えた。

北条グループに戻ってからというもの、周囲がどれほど政略結婚の相手を押し付けようとしても、彼はすべて冷たく突っぱねた。果ては秘書を全員男性に入れ替えるという徹底ぶりで、彼女への覚悟を示してみせたのだ。

だが、ふたりが結婚を決めたとき、北条の一族はこぞって反対の声を上げた。遊び相手ならともかく、正式に妻に迎えるなら家柄の釣り合う令嬢を選ぶべきだ。英理のような何も持たない女では到底ふさわしくない、と。

この世に唯一残された肉親である祖父でさえ、一族の無情な言い分を黙って認めた。

一族の同意を得るため、京平は後継者としての立場を懸け、家に伝わる厳しい制裁を受け入れることを決意した。

上半身裸のまま、竹刀で何度も背中を打たれる。

歯を食いしばって耐え抜いた彼の背中には、今も幾筋もの痛々しい傷跡が残っている。

そこまでしてようやく一族が示したのは、「正式な結婚は認めない。表には出さず、そばに置く程度なら黙認する」という、屈辱的な妥協案でしかなかった。

その言葉に、京平は激しい怒りを露わにした。

北条家の親族が集まる席で英理の手を固く握りしめたまま、後継者の座を捨てると宣言し、その場で家を出ることを決めたのである。

業界の人間たちはこの顛末を聞いて、京平のことを愚か者だと嘲笑った。使いきれないほどの莫大な財産を、たったひとりの女のために手放すなんて、と。中には、1年も経たずに京平が彼女に飽きるほうへ賭ける者までいた。

けれど京平は、その悪意ある賭けを見事に覆してみせた。

北条家を離れたのち、彼は自らの手で恋理グループを立ち上げ、あっという間に北条本家に匹敵する規模にまで育て上げたのだ。

結婚式の日、英理に何ひとつ不安のない確かな拠り所を用意してやりたいと、京平は恋理グループの株式をすべて彼女の名義に変更した。

結婚から2年目、ふたりの間に息子が生まれた。

出産の際、英理は大出血を起こして意識を失った。

京平は彼女の無事を願い、山の中にある神社へ続く長い石段を一段一段上りながら、何度も額が地面につくほど深く頭を下げ、必死に祈り続けたという。

英理が目を覚ますと、京平はようやく安堵したのか、それまでの恐怖が一気に押し寄せたように涙を流した。

彼女が再び同じ危険にさらされることを案じた京平は、その日の午後のうちに、迷わずパイプカットを受けていた。

息子の名前をつけるとき、京平が選んだのは「北条唯人(ほうじょう ゆいと)」だった。

自分の人生には、これから先もただひとり、英理だけがいればいい。そんな切実な想いを込めたのだと彼は言った。

世間の声も、当初の懐疑的な視線から一転し、今ではふたりの間にある本物の愛を羨む声へと変わっていた。京平のことを、上流社会でもめったにいないほどの一途な男だと、誰もが褒めそやした。

けれど、誰も知らなかった。外から見れば非の打ちどころのない一途な男、その京平が、家に居候させていた奨学生の関野郁子(せきの いくこ)と体の関係を持っていたことを。

命がけで産んだはずの息子でさえ、とうにその事実を知りながら、あろうことか京平に加担し、それを英理の前で隠す側に回っていたのだ。

その残酷な事実を知ったとき、英理はシステムに頼んで、京平の自分への好感度をもう一度調べてもらった。

システムの答えは、変わらず100パーセントだった。

納得できず結果を疑う英理に、システムは幾度となく再検証を重ねた末の数値だと、淡々と繰り返すだけだった。

けれど英理には、どうしても理解できなかった。好感度が100パーセントだというのなら、どうして京平は他の女を抱くことができたのだろう。

まさか本当に、体と心を完全に切り離せる人間がいるとでもいうのだろうか。

京平の裏切りを知ってからというもの、英理は毎日を底なしの苦痛と葛藤の中で過ごしてきた。

そして今日、彼女はついに覚悟を決めた。この世界を去り、京平と唯人、あの見せかけだけの白々しい父子に、二度と自分を見つけさせはしないと。

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第1話
10年前、英理はシステムに導かれてこの世界へと降り立った。与えられた任務は、幼い頃に両親を目の前で喪い、その深い絶望から心を閉ざしてしまった京平を攻略することだった。彼女は3年もの間、片時も離れることなく京平のそばに寄り添い続けた。両親の死という暗い影から彼を引きずり出し、ついには好感度を100パーセントにまで引き上げることに成功したのだ。だが、3年という長い歳月をともに過ごすうちに、英理自身の胸の内にも本物の想いが芽生えていた。気づけば京平に深く恋をしていて、だからこそ彼女は元の世界へ帰らず、この世界に留まる道を選んだのだ。京平もまた、英理のその想いに応えた。北条グループに戻ってからというもの、周囲がどれほど政略結婚の相手を押し付けようとしても、彼はすべて冷たく突っぱねた。果ては秘書を全員男性に入れ替えるという徹底ぶりで、彼女への覚悟を示してみせたのだ。だが、ふたりが結婚を決めたとき、北条の一族はこぞって反対の声を上げた。遊び相手ならともかく、正式に妻に迎えるなら家柄の釣り合う令嬢を選ぶべきだ。英理のような何も持たない女では到底ふさわしくない、と。この世に唯一残された肉親である祖父でさえ、一族の無情な言い分を黙って認めた。一族の同意を得るため、京平は後継者としての立場を懸け、家に伝わる厳しい制裁を受け入れることを決意した。上半身裸のまま、竹刀で何度も背中を打たれる。歯を食いしばって耐え抜いた彼の背中には、今も幾筋もの痛々しい傷跡が残っている。そこまでしてようやく一族が示したのは、「正式な結婚は認めない。表には出さず、そばに置く程度なら黙認する」という、屈辱的な妥協案でしかなかった。その言葉に、京平は激しい怒りを露わにした。北条家の親族が集まる席で英理の手を固く握りしめたまま、後継者の座を捨てると宣言し、その場で家を出ることを決めたのである。業界の人間たちはこの顛末を聞いて、京平のことを愚か者だと嘲笑った。使いきれないほどの莫大な財産を、たったひとりの女のために手放すなんて、と。中には、1年も経たずに京平が彼女に飽きるほうへ賭ける者までいた。けれど京平は、その悪意ある賭けを見事に覆してみせた。北条家を離れたのち、彼は自らの手で恋理グループを立ち上げ、あっという間に北条本家に匹敵する規模にまで育て上げたのだ。
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第2話
玄関先でかすかな物音がして、英理は物思いから引き戻された。片手に唯人を抱き、もう片方の手に紙袋を提げた京平が、郁子を後ろに連れて戻ってきたのだ。唯人は英理の姿を見つけるなり、京平の腕から飛び降り、紙袋を受け取って、とことこと駆け寄ってきた。「ママ、これ僕とパパと郁子ちゃんで用意した誕生日プレゼントだよ。今日は帰ってくるの遅くなっちゃったけど、怒らないでね」京平は息子の頭を優しく撫でると、とろけるような甘い眼差しを英理へと向けた。「悪い、E国の仕事でちょっとトラブルがあって遅れたんだ。飛行機を3回乗り継いで、やっと今日帰ってこられたよ」英理は思わず視線を上げ、京平の首筋に、はっきりとしたキスマークを見つけてしまった。まだ色も鮮やかで、ここ数時間のうちに付けられたものだとひと目でわかる。きっと仕事のトラブルなんかじゃなくて、女のせいだ。英理は静かに目を伏せ、何も答えずに、胸に走る刺すような痛みをやり過ごそうとした。唯人は母親の不自然な沈黙に気づくこともなく、紙袋から箱を取り出して蓋を開けた。中からは、大粒のアコヤ真珠を連ねたネックレスが現れる。「英理、誕生日おめでとう」傍らに立っていた郁子が、大げさな歓声を上げた。「わあ、こんなに大きなアコヤ真珠のネックレス、見たことない!英理さん、京平さんって本当に優しいんですね」郁子が裏で深い関係にあることをすでに知らなければ、英理は彼女の瞳の奥に潜む嫉妬の色に気づくこともなかっただろう。京平が自分の会社を立ち上げてから、英理は会社名義でたびたび慈善活動を行っていた。郁子はその活動を通じて、英理が支援していた大学生のひとりだった。郁子が卒業を控えインターンシップ先を探していると知ると、英理は迷わず彼女を会社に呼び、京平のもとで働かせることにしたのだ。学校と会社の距離が遠いことを気にかけ、自宅に住まわせてやりさえした。まさかそれが、自ら災いの種を家に招き入れることになるとは思いもしなかった。郁子が欲しかったのは英理の援助などではなく、北条夫人の座だったのだ。あと15日で、その浅ましい野望は叶うことになる。京平も唯人も、そっくりそのまま郁子に譲ってやるつもりだった。唯人がろうそくに火を灯し、無邪気にはしゃいで手を叩いた。「ママ、早くお願い
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第3話
京平と郁子は、大きな窓の前で一糸まとわぬ姿で、激しく絡み合っていた。静まり返った部屋に、艶めいた喘ぎ声だけが響いている。「んっ……京平さん、今朝も車の中でしたばっかりなのに、まだ足りないの?」京平の腰は止まることなく動き続け、片手で女の両手首を頭上に押さえつけ、もう片方の手で体を反転させて冷たい窓ガラスに押し付ける。「これ、お前が望んだことじゃないのか?さっきテーブルの下で足を絡めて誘ってきたのはどこの誰だ?自分で火をつけたんだ、最後まで付き合ってもらうぞ」郁子は大きく仰け反りながら、堪えきれない喘ぎを漏らし、ガラスに無数の手形をつけていく。「あんっ、もうちょっと優しくして……っ。英理さんを起こしちゃう」「大丈夫だ、あいつのミルクに睡眠薬を半錠混ぜておいた。起きるわけがない。それに唯人が部屋にいる。俺たちが下にいるのは知ってるから、英理が降りてこないようにしてくれる」ふたりの動きはますます激しくなり、郁子の嬌声も次第に高まっていく。階段の陰に立っていた英理は、ついに力が抜け、ずるずると床へへたり込んだ。口元を両手で覆い、涙が止めどなく溢れ出す。屋敷の中は暖房が効いて暖かいはずなのに、英理はまるで外の雪原に放り出されたかのように感じていた。心臓ごと凍りついて、二度と動かなくなってしまいそうだった。ふたりの関係をすでに知っていたとはいえ、京平が郁子とふしだらな時間を過ごすために自分に薬まで盛るとは、想像すらしていなかったのだ。おまけに、自慢だったはずの「良い息子」までもが、ふたりのために見張り役を買って出ていた。英理はよろめきながら立ち上がり、胸を引き裂くような痛みを無理やり抑え込んだ。こんな100パーセントの好感度なんて、もう二度といらない。翌朝、京平はまるで何事もなかったかのように、自ら朝食を作っていた。英理が階下に降りると、味噌汁をお椀によそい、息を吹きかけて冷ましてから彼女の前に置く。「ほら、食べてみろ。朝早く起きて作ったんだ」本当に朝早く起きたのか、それとも昨夜郁子と一晩中絡み合って、一睡もしていないだけなのか。英理は瞳に浮かんだ皮肉な色を隠し、黙って朝食を口に運んだ。郁子が頬杖をついて、感慨深げに言った。「京平さんって本当に細やかですね。でも私の彼氏も負けてませんよ。京平さんみた
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第4話
この5年、京平から数えきれないほどのジュエリーを贈られてきた英理には、ひと目でわかった。このブレスレットは、昨晩のネックレスと本来一揃いのものだ。英理は皮肉げに口の端を上げた。「郁子、あなたの彼氏も、その息子さんも、随分あなたのことを大事にしてるのね」京平と唯人は、本来一揃いだったジュエリーをふたつに分け、半分を彼女に、もう半分を郁子に贈っていたのだ。まるで彼らの心もまた、ふたつに都合よく割り切れるものだとでもいうように。郁子は目を細めて嬉しそうに笑った。「そうなんです、ふたりとも私のことが一番好きだって言って、可愛がってくれるんですよ」何かを勘づかれるのを恐れてか、その後も京平と唯人は英理のことを過剰なまでに気遣い続けた。英理が軽く咳をすると、京平はすぐに自分の上着を脱いで肩にかけ、温かい飲み物を手渡した。唯人も自分のマフラーを外し、いっちょまえな手つきで彼女に巻いてやりながら、大人のように「暖かくしてね」と言い聞かせた。けれど英理は、香水の匂いが染みついたそれらに触れる気にもなれず、ただ「ホテルで休みたい」とだけ告げて、その場を後にした。京平と唯人は顔を見合わせると、示し合わせたように彼女に付き添ってホテルへ戻ることにした。夕方になって、京平のスマホが鳴った。彼はとっさに手を伸ばして音を消すと、ベッドで身じろぎもしない英理を確かめてから、ほっと息をついた。画面には郁子の名前が点滅し続けている。傍らの唯人が京平の袖を引き、声を潜めた。「パパ、郁子ちゃんに会いたい」京平は慌てて唇に指を立てて合図すると、ふたりは目配せを交わし、足音を忍ばせて部屋を出て行った。ドアが閉まった瞬間、英理は目を開け、上着を羽織ってふたりの後を追った。京平と唯人は急ぎ足で廊下を進み、やがて郁子の部屋の前へとたどり着いた。ドアが開くやいなや、郁子がひどく甘えるような声で京平の胸に飛び込んだ。「京平さん、やっと来てくれたんですね。今日はひとりでホテルにいて、すごく怖かったんですよ。英理さんみたいに1日中一緒にいてほしいなんて、わがままは言いません。ただ、毎日2時間だけでいいから、私のそばにいてくれたら……」そう言いながら、郁子は小鹿のように潤んだ瞳で京平を見上げた。京平は郁子の涙にはからきし弱かった。それ
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第5話
翌朝、英理が目を覚ますと、ちょうど京平と唯人が朝食のトレイを手に、部屋へ入ってくるところだった。目覚めた英理を見つけると、京平はごく自然な仕草でトレイを差し出し、とろけるような眼差しを向けた。「もう少し寝かせてやりたくて、俺たちで早起きして、朝食をもらいに行ってきたんだ」唯人も短い手足でベッドへよじ登り、英理の肩に寄りかかる。「ちょっと離れてただけなのに、もうママに会いたくなっちゃった」隣の冷え切ったシーツに触れながら、英理の瞳に自嘲の色が浮かぶ。一晩中部屋に戻ってこなかったくせに、たった今郁子のベッドから抜け出してきたばかりだというのに。この父子にかかれば、「朝食をもらいに行っていた」のひと言で済んでしまう。これほど演技が上手いとは、今の今まで気づきもしなかった。朝食を終えるなり、ふたりは急かすように英理をスキー場へ連れ出した。郁子はすでにスキーウェアに着替え、入口で待ち構えていた。けれど英理には、スキーを楽しむ気力など残っていなかった。京平が心配そうに彼女を見つめ、探るような口調で切り出した。「なあ、ここ数日どうしたんだ?俺か唯人が、何かお前を怒らせるようなことでもしたか?」英理は首を横に振る。「ううん、ただ前に見たあのニュースで、少し気が滅入ってるだけ」京平はほっと息をつくと、英理の額にそっと口づけを落とした。「安心しろ、俺たち家族に限って、そんなことは絶対に起きないから。滑りたくないなら、それじゃあ……」言い終わらないうちに、わざとらしく言い淀む郁子の声が割り込んだ。「京平さん……」郁子の期待に満ちた眼差しを見た京平は喉仏を上下させ、口にしかけた言葉を変えた。「なら、ここでおとなしく待っててくれ。俺たち3人で少し滑ってすぐ戻ってくるから」唯人は何も言わなかったが、英理は、息子の手がこっそりと郁子の裾を掴んでいるのを見逃さなかった。よほど3人だけの水入らずの時間を望んでいるのか、もはやその親しげな素振りを英理に見られることすら気にしていない。英理は黙って頷いた。京平はホテルのスタッフに英理の世話を頼み、鞄から手袋を取り出して丁寧にはめてやった。「ここは寒いから風邪をひかないか心配だ。具合が悪くなったらすぐ電話しろよ」唯人もいっちょまえな手つきで、英理の服
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第6話
再び意識を取り戻したのは、あの日からすでに1週間が過ぎた後のことだった。目を覚ました英理を見て、看護師は驚いたように目を見開き、すぐに医師を呼びに走った。「北条さん、気がつかれたんですね!ご主人と息子さん、ずっと心配されてたんですよ。いろんな病院に相談して、腕のいい先生にも来てもらって……北条社長なんて、少しでも早く回復しますようにって、慈善団体に2億円も寄付されたそうですよ。目を覚まされたと知ったら、きっとお喜びになりますよ」言い終わるか終わらないかのうちに、京平と唯人がドアを押し開けて入ってきた。目を覚ましている英理を見るなり、ふたりは安堵と恐怖の入り混じった表情で彼女を強く抱きしめ、瞳には痛ましげな色が滲んでいた。「やっと目を覚ましたか……この1週間、俺がどれだけ心配したかわかるか!」唯人も目を真っ赤にして声を震わせた。「ママ、目を覚まさなかったらどうしようって、すごく怖かったよ……」その時、英理の手の甲に、京平の目から熱い雫がひとつ落ちた。唯人の目にも、涙が今にもこぼれ落ちそうに揺れている。けれどふたりの涙は、英理の心に何の波風も立てることはなかった。ただただ、皮肉なものだとしか思えなかった。危険が迫ったあの瞬間、ふたりが咄嗟に庇ったのは郁子だったのだから。あの光景を目にした時、心が痛まなかったと言えば嘘になる。英理は持てる愛情のすべてを注いで、京平を愛してきたつもりだったし、唯人だってこの手で大切に育て上げてきた。それなのに郁子は、たった数ヶ月前に現れただけで、いともたやすくそのすべてを塗り替え、英理の居場所を奪い取ってしまった。京平と唯人は英理の様子を見て慌てたように、すぐに弁解し始めた。「あの時は本当に余裕がなくて、どっちがお前なのか一瞬分からなくなったんだ。それで、間違えて郁子のほうを庇ってしまった」「ママ、ごめんね。僕もパパも、もう二度とママを危ない目に遭わせない。今回は本当に僕たちが悪かった」目覚めたばかりの体はまだ弱く、今の英理にはただ疲労感だけがのしかかっていて、この稚拙な嘘を追及する気力すら残っていなかった。あと1週間さえ耐えれば、この仮面をつけた父子から離れることができる。その後の数日、ふたりはうしろめたさからか、片時も離れず病室で英理に付き添
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第7話
長らく放っておかれたことへの焦りからか、郁子はついに仮面を脱ぎ捨て、本性を剥き出しにした。翌朝、目を覚ました英理を待っていたのは、昨夜のうちに郁子から立て続けに送りつけられた挑発的なメッセージの数々だった。【英理さん、見てたの知ってますよ。どうでした?自分の旦那が目の前で他の女にキスして、そのうえ息子まで一緒になって隠してるなんて。どんな気分ですか?】【京平さん、私が泣く顔が一番好きなんですって。たまらないって言ってましたよ。特に……ベッドの上ではね】【私が泣くと、いつもよりずっと激しくなるんです。声が枯れるくらい泣いてもやめてくれなくて、24時間ずっと私とくっついていたいって言うんですよ。あなたには、あんなふうに夢中になったこと、一度もないんじゃないですか?】【私たちが初めて関係を持ったのは、あなたの隣の部屋だったんですよ。それからは、あなたが起きないように京平さんが睡眠薬を飲ませて、毎晩私と激しく求め合ってるんですよ】【息子さんだって、私にそばにいてほしいって言って、もう「ママ」って呼んでくれてるんですよ】【北条家の奥様なのに、本当に惨めですね】その挑発的な文面を見つめながら、英理は胸に渦巻く感情を無理やり押し殺し、メッセージをすべてスクリーンショットに収めた。離脱まであと3日。これらは、京平と唯人へのとびきりの置き土産にしてやろう。午前中、彼女は退院を申し出て、病院からその旨が京平に伝えられた。ほどなくして京平から電話がかかってきた。声には申し訳なさが滲んでいる。「悪い、最近会社の用があって手が離せなくてな。誰かに迎えを頼むから、それで帰ってくれ。唯人は俺が見てるから、お前は家でしっかり休め」ふたりが郁子に付き添っているのだと知りながら、英理はただ淡々と「ええ」と返した。離脱を3日後に控えたその日、家に戻った英理は使用人に、自分の私物をすべて片付けて処分するよう言いつけた。使用人のひとりが不思議そうに尋ねた。「奥様、新しいものにお取り替えになるのですか?」英理は静かに頷いた。「ええ、そうよ」使用人たちは知る由もなかった。新しくなるのは物だけではなく、この家の女主人そのものも入れ替わるのだということを。離脱を2日後に控えた日、英理は彼女と京平、唯人だけが立ち入ることを許された秘密の部
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第8話
京平と唯人が声を揃えて答えた。「ちっとも疲れないよ!」唯人は英理の手を引き、瞳をきらきらさせて見つめてくる。「ママに関することなら、僕、ちっとも疲れないよ」京平は愛おしそうに英理の頬をつまんだ。「どんなに仕事が忙しくて辛くても、お前の顔を見た瞬間に、疲れなんて全部吹き飛ぶんだ。まして、今日は俺たちの結婚記念日だろう。毎年欠かさず一緒に祝ってきたんだ。会社にどれだけ用があろうと、必ず帰ってくるさ」英理はただ微笑むだけで、それ以上何も言わなかった。京平はケーキの箱を置くと、すぐさまキッチンへ向かい、忙しく動き始めた。今日は使用人全員に休みを与え、記念日を祝うために英理の好物を自ら作るつもりなのだ。唯人も負けじと小さな踏み台を持ってきて、果物を切ってジュースを作り始めた。半日がかりで支度をし、昼になってようやく料理がすべてテーブルに並んだ。京平は「7」の数字を象ったろうそくに火を灯し、英理の手を握る。その瞳には溢れんばかりの愛おしさが滲んでいる。「なあ、もしあの頃お前がそばにいてくれなかったら……」唯人が横で嬉しそうに手を叩いた。「わあ、パパとママ、すごくロマンチック!」けれど、けたたましい着信音がその空気を引き裂いた。英理は握られていた手を引き抜き、画面に郁子の名前が点滅しているスマホを彼に差し出す。京平は微笑みながら、今日は誰からの電話にも出ないと言った。けれど英理がなおも押し付けると、画面を見た彼は一瞬迷い、結局電話を手に取った。「悪い、アシスタントからだ。会社で急ぎの用かもしれないから、出るよ」そう言うと、彼は少し離れた場所へ移って電話に出た。戻ってきた彼の顔には、案の定、いつもの見慣れた申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。「悪い、会社で急な用事が起きたんだ。処理しに行かないとな」唯人は電話の内容までは知らなかったが、郁子からの電話だと分かるなり、椅子から飛び降り、京平のそばに駆け寄る。「ママ、僕も一緒に行きたい。パパをちゃんと見張って、早く仕事を終わらせて帰ってこさせるから」どこか待ちきれない様子を隠しきれずにいるふたりの姿を見つめ、英理はただ小さく頷いた。「行っていいわよ」京平はほっとした様子で唯人を抱き上げると、ふたりは左右から英理の頬に口づけを落
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第9話
一方、京平は翌朝早く、悪夢から覚めるようにがばりと体を起こした。荒い息を繰り返しながら、反射的に隣に眠る女を腕に抱き寄せた。「昨夜、恐ろしい夢を見たんだ。お前がいなくなる夢だった。必死に後を追いかけたのに、お前は一度も振り返らなかった。あぁ……ただの夢でよかった。目を開けたらお前がちゃんとそばにいてくれて、本当によかった。なあ、英理」腕の中でうっとりしていた郁子は、その呼び方を耳にした途端、一瞬顔を強張らせた。それから両手を彼の首に絡め、拗ねたような口ぶりで言う。「京平、昨夜あなたのそばにいたのは私よ」京平の表情が固まり、再び体を起こすと、手のひらでこめかみを強く押さえた。「どうして俺はお前の部屋に?昨夜、俺は唯人と家に帰るって言ったはずだ」郁子は身を寄せて腰に腕を回し、素肌を彼の背中に押し付けた。「あら、もう忘れちゃったの?昨夜、食事のあと、あなたが私を部屋に連れ込んで、それから……」郁子は言葉を続けるほどに声を小さくし、顔を赤く染めていた。京平が頭を振ると、ようやく意識がはっきりとし、昨夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。昨夜、郁子の上着の下から覗いた赤いタイトなキャミソールワンピースを見て、つい衝動的になってしまい、それで……京平は苦々しい思いに駆られた。昨日は結婚7周年の記念日だったというのに、どうしてこんな迂闊な真似をしてしまったのか。家でひとり、英理がどれほど自分たちの帰りを待ちわびていたか計り知れない。今すぐ戻らなければ。京平は郁子の手を振り払うと傍らの服を取り、英理に怪しまれるような痕跡が残っていないか入念に確かめてから、身なりを整えた。郁子は下唇を噛みしめ、瞳に嫉妬と憎悪の色を浮かべながらも、京平の手を取り、弱々しい表情で彼を見上げる。「まだこんなに早いんだから、英理さんもきっとまだ寝てるわ。もう少し眠ってから行ってよ」けれど昨夜の悪夢は、京平の頭の中でますます鮮明になっていた。英理の決然とした背中も、追いかけた時の焦りと胸の痛みも、はっきりと思い出せる。どういうわけか、京平の胸に不安がこみ上げてくる。彼は郁子の手を振り払い、警告するような目つきで言った。「いつから、俺が自分の妻の元へ帰るのに、お前の許可が必要になったんだ?」郁子はベッドに突っ伏したまま、悔しげ
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第10話
しかし、ベッドには誰もいなかった。ベッドのシーツは皺ひとつなく整えられたままで、京平が捲ってみても、ただひんやりとした感触が手のひらに伝わるだけだった。とても昨夜誰かが眠った跡には見えない。寝室に母親の姿がないのを見て、唯人は不安げに袖を引いた。「パパ、ママどこ行ったの?」道中ずっと抱えていた不安が一気に膨れ上がり、京平は唯人の問いに答える余裕もなく、慌てて階下へ駆け下りて使用人に尋ねた。「今日、英理が出かけるのを見た者はいるか?」使用人たちは顔を見合わせながら、そろって首を振った。「いえ……私どもは今日出勤してから、奥様のお姿は一度も拝見しておりません」「ええ、この時間なら奥様はまだお休みのはずですし、私どもも寝室のあるフロアには近づいておりません」誰も英理の姿を見ていないなら、彼女はきっとまだ家のどこかにいるはずだ。怒って、わざと隠れているに違いない。京平は自分にそう言い聞かせながら、スマホを取り出しメッセージを送った。【どこにいるんだ?俺たち帰ってきたぞ】【昨夜は本当に会社の用で身動きが取れなくて帰れなかったんだ。悪かった、もう二度とこんなことはしないと約束するから】【ハワイに旅行に行こう。誰にも邪魔されない場所で、3人でちゃんと記念日をやり直そう】【頼むから、俺を怖がらせないでくれ】メッセージを次々と送り続けたが、既読がつかないままだった。ついに耐え切れなくなった京平は、慌てて英理に電話をかけた。けれど電話口から流れてきたのは、無機質なアナウンスだけだった。「おかけになった電話は、ただいまつながりません……」幼い唯人も胸の中の不安が大きくなっていくのを感じていた。電話すら繋がらないのを見て、声には泣きそうな響きが混じり始める。「パパ、ママどこ行っちゃったの?僕たちが悪い子だったから?昨日の夢、本当だったの……?」これまで一度たりとも抱いたことのない考えが、抑えようもなく京平の脳裏に浮かび上がる。妻は、自分たちの元を去ったのか!?いや、違う!そんなはずはない。「大丈夫だ、ママはただ怒ってるだけだ。ちゃんと見つけて、謝ろう」京平は胸に渦巻く動揺を押し殺して息子をなだめながら、家中の部屋を開けて英理の姿を探し回った。けれど再び寝室に戻った瞬間、彼はふと気づい
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