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第1134話

Author: 楽恩
紀香は何も言わず、タクシーを降りて歩き出した。

イヤホンを耳に差していたが、実は音楽は流していなかった。清孝と運転手の会話、全部聞こえていた。

でも、別に驚くようなことはなかった。

だって、彼ってそういう人だから。

ホスピタリティもあるし、ロマンチックな雰囲気も演出できる。自分にとって正解な振る舞いはすべて心得ている。

だけど――「謝る」ことだけは、彼の辞書には存在しない。

彼は生まれたときから頂点にいた。ずっと山の頂から世間を見下ろしてきた人間。

だからこそ、彼の口から「ごめん」と聞いたときは、さすがに驚いた。

卑屈な態度、懇願、そして謝罪。

すべて見せてくれたのに、彼女の心は一ミリも動かなかった。

それは、謝罪が彼の戦略であって、本当に反省しているわけじゃないと、紀香は見抜いていたからだ。

清孝は知らなかった。

わずかにお金を払うあいだの数秒間で、紀香はどれだけのことを考えていたか。

一方で、彼の頭の中はさっきの運転手の言葉でいっぱいだった。

そう――彼は、ちゃんと謝ったことがなかった。

口先だけの謝罪なんて誰でもできる。

大切なのは、相手が「本当に反省してる」と感じられること。

清孝はすぐに針谷に指示を出し、何かを買わせに走らせた。

しかし――

オフィスに入った瞬間、耳に飛び込んできたのは実咲の驚きの声だった。

「えっ!? 錦川先生、スタジオ閉めるんですか!?」

紀香は大阪に引っ越す予定だったため、このオフィスは閉鎖するつもりだった。

まだ説明する前に、誰かに腕をぐっと引っ張られた。

顔を上げると、黒く沈んだ目で睨みつける男と視線がぶつかった。

耳元に冷たい声が落ちてくる。

「どういう意味だ?立ち上げたばかりのスタジオ、なんで急に辞めるんだ?」

紀香は腕を引こうとしたが、振りほどけなかった。

声まで冷たくなる。

「私の仕事が、あなたと何の関係があるの?」

「関係ないわけないだろ。俺はここのスタッフなんだぞ」

清孝の中で、怒りがぐつぐつと沸騰していた。

「だったら、俺にも連絡する権利があるだろ」

「いいわよ」紀香は静かに言った。「今ここで連絡するわ。このスタジオ、閉めます。あなたには、他を探してもらうわ」

「手を離して」

けれど清孝は、さらに強く腕を握りしめた。

まるで、そうしなければ彼女を失
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