Se connecter母の翠は拘束されたまま、いまだ戻ってきていない。このところ青木家の姉弟たちは、母を助け出そうとあらゆる手を尽くしていたのだが、何をしても無駄だった。今回ばかりは青木家の力をもってしても、どうにもならない。そのせいで、夢香は奈緒を今すぐにでも殺してやりたいほど、心底憎んでいた。それなのに、あろうことか奈緒は娘のたの百日祝いを開いている。しかも、深津市でも指折りの高級ホテルで。青木家には招待状どころか、知らせひとつ寄越さなかった。あまりにも青木家を蔑ろにしている。青木家の人間は全て死んだと思っているのだろうか?夢香は怒りに顔を歪め、奈緒を睨みつけた。唾を飛ばす勢いで、怒鳴り始める。「奈緒、この恥知らず!うちのお母さんを警察に突き出しておいて、よく平気な顔でその父親も分からないような子の百日祝いなんてできるわね!そんなことして、恥ずかしくないわけ?美紀、この人たちに寄ってたかっていじめられたんでしょ?でも、怖がることなんて何一つない。今のあなたには、佐野家だけじゃなくて、青木家と盛岡家までついてるの。こんな人たちに好き勝手なんてさせないから!」夢香にそう言われた途端、美紀は背筋を伸ばした。味方を得て、すっかり強気になったのだ。「そうなの、夢香さん。私たちのところでオーケストラの生演奏するからって嫉妬してるのか、下品な音楽を大音量で流して邪魔してくるの!だから少し音を下げてって言いに来ただけなのに……みんなで寄ってたかって、ひどいことを言ってきて」話しているうちに、美紀の声は次第に震え始めた。目元までうっすら赤くなる。夢香はそんな美紀を気の毒そうに見つめ、慰めるように肩を叩いた。その頃には、充と胡桃もそばまで来ていた。だが充の目は、奈緒でも美紀でもなく、真っすぐ仁哉に向けられている。二人の視線がぶつかったその瞬間、周囲の空気が一気に張り詰めた。充の目には、探るような色と、押し殺した怒りが滲んでいる。まるで――お前は何のつもりでここにいる、と無言で問い詰めているかのようだった。対する仁哉は、どこまでも冷めた顔をしていて、そこにはわずかな侮蔑すら滲んでいた。まるで充など眼中にないと言わんばかりの態度が、かえって充の神経を逆撫でする。一方、夢香からあれほどひどい罵声を浴びせられても、奈緒は手元の贈り物を整理す
その声に、その場にいた全員が一斉に振り返った。宴会場の入口に立っていたのは、仕立てのいい黒いスーツに身を包んだ仁哉。その顔はひどく険しく、見るからに機嫌が悪そうだった。大股で会場に入ってくる彼の全身から放たれる威圧感に、周囲の空気まで張り詰めていく。仁哉は冷ややかに美紀を見つめ、嫌悪感を露わにした。「美紀、また君か。今日は奈緒さんの娘の百日祝いなのに、こんなところまで来て何を騒いでるんだ?」仁哉が現れた途端、それまで威勢のよかった美紀の表情が固まった。だが、それもほんの数秒で、仁哉の目に浮かぶ露骨な嫌悪に気づくと、美紀はすぐに歪んだ笑みを浮かべる。「あら、あなたもここにいたのね。ずいぶん彼女たちに肩入れしてるじゃない。そんなにビシッと決めてどうしたの?知らない人が見たら、あなたがあの子の父親だと勘違いしそうね」美紀は口元を押さえ、わざとらしく甲高い笑い声を上げた。仁哉の顔がさらに険しくなり、彼の握り締めた拳の関節が白く浮き上がっていた。その時、弘樹も会場から出てきて、状況を察すると、すぐさま二人の間に割って入る。「美紀、いい加減なことを言うな。俺も仁哉も、自分から手伝いに来ただけだ。お前が考えてるような関係じゃない」弘樹の姿を見た瞬間、美紀の胸に激しい嫉妬がこみ上げた。美紀は幼い頃から、ずっと充の後ろをついて回っていたし、仁哉、弘樹、拓也は充の幼馴染。もともと淡泊な性格だった仁哉はともかく、弘樹と拓也は昔から美紀を妹のように可愛がり、多少のわがままなら何でも聞いてくれた。それなのに今では、美紀が招待状を送ったにも関わらず、都合が悪いと参加を断り、あろうことか二人ともが奈緒の娘の百日祝いの手伝いをしている。これでは、自分とはもう関わりたくない――そう言われているようなものだ。そう思うと美紀の嫉妬の炎はさらに激しくなり、思わず皮肉混じりに嘲笑した。「本当のところなんて、本人たちにしか分からないでしょ?弘樹、あなたも余計なことに首を突っ込まないほうがいいわよ。いいように利用されてるとも知らずに、最後までこき使われたって知らないからね」弘樹は呆れて言葉も出なかった。仁哉もとうとう我慢の限界に達し、冷たく言い放つ。「言いたいことはそれだけか?気が済んだなら、もう出ていってくれ。客を迎え
それを聞いた美紀は、すぐさま買って出た。「お父さん、私が行ってくる。こんな些細なこと、お父さんが出ていくまでもないから」そう言うと、美紀は数人のボディーガードを呼び、両手を腰に当てて、息巻いて隣の会場へと向かった。その頃、奈緒と蛍は受付のそばでプレゼントを整理していた。入り口に背を向けていたため、美紀が近づいてくることには全く気づかない。二人の後ろ姿を目にした瞬間、美紀の胸の中で怒りが一気に燃え上がった。口を開くなり、いかにも上から目線の口調で命じる。「ねえ!もっとお洒落な曲に変えてくれない?それに、音量下げてよ。こっちまで聞こえてきてうるさいんだけど!」耳障りで、かつ聞き覚えのある声。そこに立つ美紀の傲慢な顔を見た瞬間、二人は一瞬驚いたものの、すぐに表情を冷たくした。蛍が真っ先に食ってかかる。「え、美紀さんじゃん?私たちが借りている会場で好きな曲を流しているだけなんだから、そっちに関係ないでしょ?」美紀は数秒固まり、ここを借りているのが奈緒たちだとようやく理解した。入口の案内板へ目をやる。そこに書かれた「百日祝い」の文字を見ると、美紀の瞳に納得したような光がよぎり、すぐにこの上なく軽蔑した表情を浮かべた。「子供の百日祝いだったんだ。道理で、こんな品のない曲がかかっているわけね」美紀は顎を高く上げた。その裾を長く引くピンクのドレス姿は、得意げに胸を張るフラミンゴのようだった。「今日は私が盛岡家の娘であることを皆に知ってもらう、華やかなお披露目パーティーなの。私の父は盛岡グループの社長なんだから。あんたたちの音楽があまりに品がないから、せっかくのお披露目パーティーが台無し。だから、私に止める権利があるに決まってるでしょ?」蛍は怒りのあまり、今にも駆け寄って美紀の頬を張り飛ばしそうになった。奈緒がすぐに腕を掴んで止める。「美紀、あなたは自分のお披露目パーティーをやればいいし、こっちはこっちでやるから。お互い関わらないようにしよう」美紀は奈緒側の簡素な会場を見渡し、鼻で笑った。「あのね、余計なお世話かもしれないけど、身の丈に合わないことはしないほうがいいわよ。雲際ホテルみたいな一流のとこを選んで、見栄を張る必要がある?ここの会場は最低でも50テーブルからでしょ?あなたとあなたの母親だけで、
奈緒も視線を落とし、蛍の携帯の画面を覗く。画面には、派手で大げさなピンク色のボリュームドレスを着た美紀が映っていた。頭には眩いティアラを載せ、得意満面で中年男性の腕へ自分の腕を絡ませ、隣の宴会場の入口に立っている。顔には眩しい笑み。まるで世界中の人間を足元に従えたような、勝ち誇った表情だった。隣にいる中年男性に、奈緒は見覚えがあった。それはヤジン・デザインの大口顧客の一人であり、盛岡グループの社長――保雄。どうしてこの二人が、これほど親密そうにしているのだ?奈緒が眉をひそめ、さらによく見てみると、看板に大きく書かれた文字が目に飛び込んできた。【お披露目パーティー――盛岡家の娘・美紀】全身の血が一瞬止まったような感覚に襲われた。すぐに奈緒は鼻で笑った。「じゃあ、隣のお披露目パーティーの主役は美紀ってこと?その父親が、盛岡社長?」蛍は力強く頷くと、悔しそうに言った。「そうよ!私も信じられなかった!あの女ったら、どれだけ運がいいの?裕福な佐野家に養子に入って、青木家で育てられて、栗原さんと結婚して離婚したと思ったら、今度は金持ちの本当の親が見つかるなんて!どうしてあの女ばっかり、そんな幸運に恵まれているわけ?!」蛍は苛立たしげに吐き捨てた。奈緒もまた内心動揺していた。確かに美紀は、最初からかなり恵まれた手札を持っている。波瀾万丈とはいえ、確かに神様は美紀に味方しているようだった。ただ、あいにく彼女は、その最高のカードをことごとく最悪の形で切ってきた。今更、実の父親の権威を盾にしたところでどうなるというのだ?表面ばかりを気にし、感情を抑えられず、目先の勝ち負けにしか興味を持てない美紀の性格では――たとえ神が味方しても、形勢をひっくり返すことなどできないだろう。「美紀にどれほどのことができるのか、見せてもらおうよ」と奈緒は平然と言い放った。「そうだよ!盛岡社長が父親だったからって何?今の私たちは、もうあの女なんて怖くないんだから!」蛍は憤然と言った。「調子に乗るようなら、さっさと叩き潰してやるだけね!違う違う!今日は黎ちゃんのための日なんだから、こんな縁起の悪い話も、あんな女の話もやめよう!」そう言うと、蛍は深呼吸して気持ちを切り替え、再び会場の準備へ戻っていった。酒井家がこれ
「美紀、好き勝手喋るのは構わないけど、言葉は好き勝手言っていいものじゃない。僕は今まで、君に何も言わなかった。だからといって、何度も僕を挑発していい理由にはならない」仁哉は拳を固く握り締め、湧き上がる怒りを必死に抑えた。そして息の詰まるような女から逃れるように、足早に個室を出ていく。こんな女と5年も夫婦でいたのかと思うだけで、胸が締めつけられるようだった。美紀は諦めきれず、慌ててあとを追った。だが仁哉には追いつけず、代わりに正面から歩いてきた男の胸へ勢いよくぶつかってしまう。「すみま……」謝罪を言い終える前に、男の目がぱっと輝いた。顔いっぱいに喜びが広がる。「美紀?」怪訝そうに顔を上げた美紀の目の前にいたのは、背が低く、やや小太りな角刈りの男だった。脂ぎった顔に、贅肉のついた身体。着ているスーツのジャケットは明らかに前が閉まらず、大きな腹が突き出している。美紀の身体が強張った。次の瞬間、逃げるように首を振る。「ち、違います。人違いだと思いますよ」美紀は急いで駆け出した。一刻も早くここから消えたい。男は鼻をこすりながら、異常なまでの鋭い眼光を走らせた。彼は近くにいた部下二人に目配せをし、美紀のあとを追わせた。……蘭の長年隠されていた事件は、正国の徹底した捜査によって、ついに全容が明らかになった。一人ずつ事情聴取と捜査が行われ、当時の動画に映っていた加害者は、一人残らず責任を問われた。実刑を受ける者、罰金を科される者、拘留される者……遅すぎたとはいえ、ようやく正義が果たされたのだ。宗邦の妻である芳恵までもが事件発覚後、自ら頭を下げに蘭を訪れ、当時の傍観を謝罪した。彼女は現場にはいたものの、自ら暴力や罵倒には加わっておらず、責任は最も軽かった。奈緒と蘭は話し合った末、最終的に彼女を許すことにした。奈緒は最後まで、あの動画や写真を見ようとはしなかった。というよりも、見る勇気がなかったのだ。一度目にしてしまえば、また心が壊れ、深い闇へ引きずり込まれる気がした。幸い蘭はもともとさっぱりした性格だったため、長年覆っていた雲が晴れると、すぐに気持ちを切り替えた。過去を手放し、胸を張って新しい人生へ進むことを選んだのだ。月末。奈緒と蘭は、深津市の雲際ホテルで黎の百日祝いを行った。今や黎は、一家
美紀の話など、仁哉は一片たりとも信じていなかった。彼には、奈緒という人間への信頼がある。奈緒よりも美紀との付き合いが長いとはいえ、相手を信じられるかどうかは付き合いの長さによるものではない。その人物が日々どんな行いをしているか、それを見れば分かることだ。美紀が裏で汚い真似をしていたとしても、仁哉は驚かない。そして、奈緒はそんなことをする女性ではない。自分の耳を疑った美紀は、仁哉をじっと見つめて声を震わせた。「あの人がそんな女じゃないって、本気で信じてるの?知り合ってどれくらい?どうしてそこまで確信を持てるの?どうして少しも疑わないのよ!」仁哉の瞳に宿る揺るぎない信頼が、美紀を狂わせた。自分たちは5年夫婦だった。それなのに美紀は、一度として仁哉からこれほど深く信頼されたことがない。いつだって仁哉の視線は凪のように静かで、何の感情も伝わってこなかった。だからこそ5年間、美紀はいろんな騒ぎを起こして仁哉を振り回した。たとえほんの少しでも、仁哉に自分を見てほしかったから。だが、何をしても無駄だった。仁哉の意識が、自分へ向けられることはなかったのだ。ところが今、美紀にははっきりと分かる。奈緒の話をする時だけ、まるで違っている仁哉の目。いつものように静かなだけではない。その瞳の中には、確かに何かがある……それが何なのか、美紀にはうまく言葉にできなかった。ただ、その違いが彼女を激しく傷つけた。充に同じ話をした時、彼はここまで奈緒を信じていなかった。それなのに、なぜ仁哉にはできるのか?美紀は悔しさに体が震えた。拳を強く握り、爪が皮膚へ食い込んで血が滲む。仁哉の目は澄み切っていた。「奈緒さんの娘は、間違いなく充の子供だ。この件は僕が責任を持って調べ直す。美紀、離婚の手続きが済んだ時、君に対して出来る限りのけじめはつけた。血の繋がりのない裕弥の養育費だって、18歳までの分を一括で払ったはずだ。あえてそうしたのは、君には母親としての責務を全うしてほしかったから。子供に罪はない。なのに君は今、母親の自覚など欠片もなく、奈緒さんと充の仲を壊すようなことばかりしている。裕弥の苗字は変えてくれ。二度と栗原の姓は名乗らせない。これ以上奈緒さんに泥を塗るようなことを続けるなら、裕弥の出自について事実を公表すること
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って