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第7話

Author: 魚ちゃん
翌朝、夕月は最後の荷物をまとめ終えると、階下へ降りた。ダイニングでは、千世が朝食を取っている。

「夕月さん!」

出かけようとする夕月を見て、千世はすぐに立ち上がって追いかけてきた。

夕月は彼女の声を無視し、そのまま玄関へ向かう。

「昨日のこと、見たでしょ?空気を読んで、自分から身を引いたほうがいいわよ」

背後から澄んだ声が響く。夕月は一瞬だけ足を止め、振り返って千世を見つめた。「それで?人の家庭を壊すのがそんなに誇らしいことなの?」

千世の顔がみるみる青ざめ、そして真っ赤になる。「愛されてないほうが身を引くべきよ!」

「愛されてないほうが?」夕月はその言葉を繰り返し、くすっと笑った。「じゃあ、大学の先生にでも聞いてみようか。本当にそう思うかどうか」

「ちょっと」千世はカッとなったが、ふと夕月の背後を見やり、口元に笑みを浮かべた。「本気で忠告してるとでも思った?」

夕月は眉をひそめる。

それなら、何のために?

「あなた、長年子どもがいないでしょ?榊原夫人も気を揉んでるの。あなたさえ身を引けば、次の女主人は私よ」

榊原夫人はたびたび隼平にプレッシャーをかけ、「夕月が産めないなら他に産める女を」と迫っていたが、そのたびに隼平が突っぱねてきた。

一部のセレブ妻たちは、そんな夕月を羨ましがっていた。それほど夫に甘やかされているのだと。

夕月が一瞬、考えに沈んだその瞬間、千世の目が光った。突然、夕月を軽く押し、自分の身体を後ろに投げ出す。

「きゃっ!」

千世は階段を転げ落ちていった。

夕月が反応する間もなく、脇を黒い影がすり抜け、真っすぐ千世のもとへ駆け寄った。

「隼平さん……」

千世は涙をぽろぽろこぼし、可憐に泣きじゃくった。

「夕月さんもわざとじゃなかったと思うの。全部私が悪いから。もう帰るわ、二人の邪魔はしない」

隼平は何も言わず、千世を横抱きにして立ち上がった。

「夕月」彼は言った。

「離婚しよう」

周りに誰もいなくなってから、夕月は痛む胸を抑えながらゆっくり立ち上がった。

千世が自作自演で転んだ。ただそれだけの理由で、隼平が離婚に同意した。

それもいい。

どうせ、もうどうでもいいことだ。

……

「天野様、このダイヤの指輪はとても質がいいですが……本当にお売りになるんですか?」

ジュエリー店のスタッフが、恭しく問いかける。

夕月はうなずく。「ええ」

「もったいないですね……榊原様、かなり時間をかけて選ばれていたのに」

夕月は聞き取れなかった。「今、何と?」

「い、いえ、何でもありません」スタッフは慌てて口を押さえた。

他人夫婦のことに口出しするんじゃない!でも後で店長には報告しておこう。

夕月はきらめくダイヤの指輪を見下ろした。これは二人が結婚した時の婚約指輪だ。

隼平は「適当に選んだ」と言っていた。だから売っても気にしないだろう。

売らなければ、海外での治療費も工面できない。

明日には、すべてから解放される。

「天野様、ご入金が完了しました」

銀行残高を確認した夕月は、智に振込先を聞き、昨日借りた金をすぐに返した。

屋敷へ戻ると、周りは静まり返っていた。夕月は階上へ上がり、スーツケースを引きずりながら、この3年間を過ごした場所を最後に見回した。もう二度と戻ってくることはない。

ちょうどいい、あの仲良し二人のための場所を空けてあげるとしよう。

皮肉な笑みを浮かべ、夕月は踵を返した。

……

その前夜、隼平は会社で徹夜し、朝帰りしてシャワーを浴び着替えるところだった。通りかかった夕月の部屋のドアが大きく開いている。

昨夜、帰らなかったのか?

いや、違う。

あまりに片付いていて、不気味なほどだ。

彼は胸騒ぎを押さえながらも、中を確かめたくなる衝動に駆られる。

だが昨日の出来事を思い出し、怒りが再び込み上げた。

あの女は、最初から心なんてなかった。

かつての裏切りも、三年前の契約結婚も、そして今の不倫も。

千世の下手な芝居にすら、弁解しようとしなかった。

隼平は視線をそらし、自分の部屋へ戻る。だが苛立ちは消えず、仕事を片付けると常連のバーへ直行した。

「おや隼平さん、やけ酒かよ」

現れた男は隼平の腿をバンと叩くと、テーブルのグラスを手に取って乾杯を求めた。

「うるさい」隼平は一気に酒をあおった。

本多弘人(ほんだ ひろと)が眉を跳ね上げ、悟ったように言った。「また奥さんと喧嘩?

お前ってやつは口が堅いんだよ。気にしてるくせに、平気なふりをするからさ。そんなに意地張ってどうすんだよ」

隼平が無言で酒を飲み続け、弘人は深いため息をついた。

その時、ウェイターが近づき弘人に告げた。「本多様、お薬の時間です」

隼平はちらりとその薬を見て、鼻で笑う。「そんな薬を飲んでるのか」

弘人は一瞬固まり、手にした薬を見て顔を赤らめて言い返す。「何言ってんだ、これは心臓病の薬だぞ!」

隼平の笑みが徐々に消え、姿勢を正した。

「今、何の薬だと言った?」

「心臓病だよ、知ってるだろ?シルデナフィルは心臓病の治療にも使われるんだ。お前……」

シルデナフィルが心臓病治療に使われる。

この事実が頭を駆け巡り、隼平は全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。

数日前、夕月が苦しそうに膝をつき、救急車を呼んでくれと訴えた場面が蘇る。

あの薬は他の男のものではなく、夕月自身が心臓病を患っていた可能性がある!

隼平はがたんと立ち上がり、ふらつきながら出口へ向かう。

ちょうど誰かがドアを開けて入ってくる。

男が隼平の顔を見るなり、にやっと笑いながら言った。「おい隼平、奥さんに小遣いやってないのか?うちの質屋に結婚指輪持ち込んで売ってったぞ」

男はポケットから指輪ケースを取り出す。「これ、特注だったんじゃないのか?昨日の店員が奥さんを覚えてたから良かったが、そうじゃなきゃデザイン台無しだったな」

震える手で指輪を受け取ると、隼平は他のことなど気にも留めず、そのまま駆け出した。

「おい!どこ行くんだよ!」

男は苦笑いしながら首を振り、ソファーの弘人を見て舌打ちした。

「榊原社長、また奥さんのご機嫌とりかよ」

……

一方そのころ、夕月は国内での用事をすべて片付け、空港にいた。

「天野様、ご搭乗の時間です」

夕月はうなずき、大きな窓越しに外の景色を見つめる。

隼平、あなたの幸せを願ってる。どうか平穏で、思い通りの人生を。

そして……この先二度と会うことがないように。
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