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抱きしめて、そして放して

抱きしめて、そして放して

作家:  魚ちゃん完了
言語: Japanese
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概要

ドロドロ展開

切ない恋

ひいき/自己中

強制愛

「天野さん、海洋散骨の申込書を受け取りました。もう一度確認しますが、海洋散骨の後は何も残りません。ご家族も、あなたのことを思い出でしか偲べなくなります」 天野夕月(あまの ゆづき)は淡々と、しかし揺るぎない口調で答えた。「分かっています」 電話を切った途端、扉の向こうから使用人の声が響く。 「奥様、榊原社長がお待ちです。パーティーが始まりました」 今日は夕月と榊原隼平(さかきばら じゅんぺい)の三周年結婚記念日だ。

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第1話

第1話

「天野さん、海洋散骨の申込書を受け取りました。もう一度確認しますが、海洋散骨の後は何も残りません。ご家族も、あなたのことを思い出でしか偲べなくなります」

天野夕月(あまの ゆづき)は淡々と、しかし揺るぎない口調で答えた。「分かっています」

電話を切った途端、扉の向こうから使用人の声が響く。

「奥様、榊原社長がお待ちです。パーティーが始まりました」

今日は夕月と榊原隼平(さかきばら じゅんぺい)の三周年結婚記念日だ。

階段を下りた瞬間、目の前に大きなバラの花束が差し出された。

「夕月、三周年おめでとう」隼平が彼女を見つめる瞳には、溢れそうなほどの優しさが宿っていた。

夕月が何か言う前に、周囲から冷やかしの声が飛ぶ。

「おお、主役のご登場だ!」

「いい夫婦といえばこの二人だよな。学生時代から今まで、変わらぬ愛だ」

「そうそう、夕月さんが数年間海外に行ってても、榊原社長はずっと待ってたんだ」

褒め言葉が夕月の耳に刺さる。

変わらぬ愛?

彼女と隼平の間に愛などなかった。あるはずがない。

夕月はただそこに立ち尽くし、隼平も怒ることなく、花束を置くと彼女の腰に腕を回し、心配そうに声をかけた。「どうした、どこか具合が悪いのか?」

答える前に、また誰かが笑いながら茶化す。

「榊原社長、夕月さんを大事にしてるなあ。何年経っても愛情が全く変わらないじゃないか」

「大丈夫よ」夕月は感情を見せず、そっと身体を離した。

隼平は柔らかく微笑み、彼女の乱れた前髪を指先で整える。「じゃあ、行こう。パーティーが始まる」

そう言って、彼は手を差し出す。

夕月は一瞬だけためらったが、その手を取った。

パーティーが終わったあと。

隼平はネクタイを緩め、先ほどまでの優しさを消し、不機嫌そうに問いかけた。「パーティーの前、どこに行ってた?」

夕月は視線を落とし、静かに言った。「隼平、あと一週間で私たちの契約は終わるわ」

つまり、すぐに自分の行動は彼とは無関係になるということだ。

空気が一気に張り詰める。

「夕月」隼平の顔が険しくなり、声には押し殺した怒りが滲む。「どういう意味だ?」

夕月は顔を上げ、澄んだ瞳で告げる。「時間があるときに、離婚しましょう。もう、お互いを解放して」

隼平は笑った。「解放?自分が俺に何をしたか忘れたのか?」

夕月の胸がひどくざわめく。

大学時代、確かに二人は恋人同士だった。だが最後は、最悪の形で終わった。

彼が泣きながら別れないでくれと懇願し、膝をついてまで縋ってきた光景を、今でも鮮明に覚えている。

「お前はどうした?」隼平の声はさらに低く、拳が固く握られる。「大勢の前で俺を平手打ちし、卑しい男だと罵り、欲しい生活を与えられないと吐き捨てた。

今ならその生活を与えられる。それでも出て行くつもりか?」

夕月は静かに目を閉じた。彼女に心臓病があったことを知る者は誰もいなかった。

大学卒業の頃、それが再発し、海外での手術が必要になった。成功率は三割しかなかった。

旅立つ前、隼平に別れを告げた。崩れ落ちそうな彼の姿を見て、すべてを打ち明けたい衝動に駆られた。

けれどできなかった。

彼の未来を奪うわけにはいかなかった。

だから、わざと最も残酷な言葉で彼を傷つけ、追い払った。

三年前、彼女が手術に成功して帰国すると、隼平は国内で事業を大きく成功させ、フォーブスのトップ10入りを果たしていた。

そして、彼は今でも彼女を憎んでいる。毎日、憎しみ続けている。

再会の日、彼が言ったのはただ一言だった。

「夕月、まだ死んでなかったのか」
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コメント

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蘇枋美郷
私も後半ずっと泣きながら読んだ。それぞれの想いが交錯し、この結末まで辿り着けた。光くんも名前の通り、ある意味みんなの道標になってくれたように思う。ずっとずっと幸せでありますように…
2025-08-21 18:33:15
3
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松坂 美枝
かなり泣いてしまった
2025-08-21 10:43:04
3
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あーきよいち
辛いのと悲しいのと切なさもあるけど、とても希望を持たせてくれる話だった。
2025-08-21 03:05:24
2
25 チャプター
第1話
「天野さん、海洋散骨の申込書を受け取りました。もう一度確認しますが、海洋散骨の後は何も残りません。ご家族も、あなたのことを思い出でしか偲べなくなります」天野夕月(あまの ゆづき)は淡々と、しかし揺るぎない口調で答えた。「分かっています」電話を切った途端、扉の向こうから使用人の声が響く。「奥様、榊原社長がお待ちです。パーティーが始まりました」今日は夕月と榊原隼平(さかきばら じゅんぺい)の三周年結婚記念日だ。階段を下りた瞬間、目の前に大きなバラの花束が差し出された。「夕月、三周年おめでとう」隼平が彼女を見つめる瞳には、溢れそうなほどの優しさが宿っていた。夕月が何か言う前に、周囲から冷やかしの声が飛ぶ。「おお、主役のご登場だ!」「いい夫婦といえばこの二人だよな。学生時代から今まで、変わらぬ愛だ」「そうそう、夕月さんが数年間海外に行ってても、榊原社長はずっと待ってたんだ」褒め言葉が夕月の耳に刺さる。変わらぬ愛?彼女と隼平の間に愛などなかった。あるはずがない。夕月はただそこに立ち尽くし、隼平も怒ることなく、花束を置くと彼女の腰に腕を回し、心配そうに声をかけた。「どうした、どこか具合が悪いのか?」答える前に、また誰かが笑いながら茶化す。「榊原社長、夕月さんを大事にしてるなあ。何年経っても愛情が全く変わらないじゃないか」「大丈夫よ」夕月は感情を見せず、そっと身体を離した。隼平は柔らかく微笑み、彼女の乱れた前髪を指先で整える。「じゃあ、行こう。パーティーが始まる」そう言って、彼は手を差し出す。夕月は一瞬だけためらったが、その手を取った。パーティーが終わったあと。隼平はネクタイを緩め、先ほどまでの優しさを消し、不機嫌そうに問いかけた。「パーティーの前、どこに行ってた?」夕月は視線を落とし、静かに言った。「隼平、あと一週間で私たちの契約は終わるわ」つまり、すぐに自分の行動は彼とは無関係になるということだ。空気が一気に張り詰める。「夕月」隼平の顔が険しくなり、声には押し殺した怒りが滲む。「どういう意味だ?」夕月は顔を上げ、澄んだ瞳で告げる。「時間があるときに、離婚しましょう。もう、お互いを解放して」隼平は笑った。「解放?自分が俺に何をしたか忘れたのか?」夕月の胸がひどくざ
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第2話
そうだ、彼女はしぶとく生き延びた。あの日以来、二人はもう関わることはないと思っていた。だが、それから間もなく、夕月は自分の薬を受け取りに病院へ行った際、また隼平と鉢合わせした。彼女は慌てて診療記録を隠し、「母の薬を取りに来ただけ」と嘘をついた。隼平はまず彼女を皮肉り、それからこう言った。「俺と結婚しろ」夕月は一瞬、言葉を失った。「今、何て言ったの?」「俺と結婚すれば、母親を助ける手を打ってやる」夕月の母はもともと体が弱く、この数年は夕月の心臓病のせいで奔走し続け、持病を抱えていた。治療には莫大な金が必要だった。こうして夕月は彼と三年間の結婚契約を結んだ。「夕月、あの時お前に受けた屈辱は、一つずつ返してもらう」感情が高ぶると、隼平は目尻を赤くし、「なぜ俺を捨てた」と問う。夕月は何も言わず、彼の手を強く抱きしめるだけだった。たとえこの結婚が偽物でも、たとえ彼が自分を憎んでいても、今は少しでもそばにいたかった。丸三年、夕月は隼平の冷たい視線と嘲笑に耐え続けた。彼は言葉通り、あらゆる方法で彼女を侮辱した。そして、彼女の体はもう限界を迎えていた。疲れ切っていた。隼平が立ち上がる。「三年前の仕打ちに比べれば、まだ足りない」夕月は深く息を吸い、無理に声を張った。「構わないわ。時間が来れば、あなたとは自然に関係が切れる」隼平はその言葉に笑った。次の瞬間、彼は夕月を乱暴に引き寄せ、歯を食いしばる。「お前の心はやっぱり冷たいな!」そう言って、怒りを孕んだ口づけが落ちようとする。夕月は必死に押しのけた。「隼平……やめて!」「まだ婚姻関係は終わってない。なら夫婦の務めを果たしてもらってもおかしくないだろ?」次の瞬間、夕月はソファに押し倒され、首筋に痺れるような感触が幾重にも走る。「離して……」夕月は隼平を押しのけようとしたが、逆に両手を頭上で押さえつけられた。隼平は乱暴に唇を重ねていたが、そのとき、彼の腕に熱い涙が落ちた。その動きが止まり、彼は手を放した。夕月の目には涙が溜まり、こぼれ落ちる前に手の甲で慌てて拭う。隼平は苛立ったように髪をかき上げ、低く呟いた。「悪かった」そう言い残し、大股で部屋を出て行った。夕月は赤くなった目で彼の背中を見つめ、胸の奥が痛んだ。も
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第3話
オフィスフロアに上がると、まだ足を踏み入れる前から、社員たちの噂話が耳に入ってきた。「私は岡村(おかむら)秘書に賭けるわ!」「でも、社長って奥さんのことが一番好きなんじゃないの?」「何もわかってないな……」話していた社員が、ふと視線を横にやると、そこに夕月の姿が。途端に顔色を変え、慌てて背筋を伸ばす。「……奥様」夕月は彼らの会話を聞かなかったふりをして、静かに口を開いた。「隼平は?」そこへ、隼平の秘書、笠原智(かさはら さとし)が歩み寄ってきた。「奥様、社長は会議中です。こちらへどうぞ」智は夕月を休憩室まで案内し、恭しく頭を下げた。「どのくらいかかる?」問いかけに、智は一瞬目を泳がせ、口ごもる。「えっと……もう少しかと」その様子に何か引っかかるものを感じながらも、夕月は気に留めず待つことにした。そうやって30分も待ったが、彼女は我慢できずに外に出て聞こうとした瞬間、突然目の前に人影が現れた。高く結い上げたポニーテール、元気いっぱいの若い女性だった。その顔を見た瞬間、夕月は息を呑んだ。自分に六割ほど似ている。彼女こそ、隼平の新しい秘書大城千世(おおしろ ちせ)だ。笑える話だが、この女性について夕月が知っていることは、すべて親切な奥さんたちからの情報だ。隼平はこの秘書にだけ態度が違うから、気をつけた方がいい、今どきの若い子は手口が巧妙だ、と。だが夕月は気にしなかった。いや、気にする資格すらない。この数年、隼平の周りから女が途切れたことはない。それはすべて、彼女を苦しめ、後悔させるため。そして、その目的は見事に果たされていた。他の女と親しげにしている姿を見るたび、夕月は胸が締めつけられる。そう思うと、ますます胸の苦しみが募っていく。夕月は立ち上がり、洗面所に向かった。冷たい水をすくって顔に浴びせた。再び顔を上げた時、鏡の中には若く美しい顔が映っていた。千世は夕月が気付いたのを見ると、たちまち笑顔を浮かべた。「あなたが夕月さん?よく人から聞くよ、私たちってすごく似てるって」夕月は笑みを返すだけで、何も言わない。千世は髪を整えながら、ため息をついた。「羨ましいね、毎日お金持ちの奥様ライフなんて。私たちは、毎日必死に働かないといけないから」「ただ……」一度言葉を切
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第4話
夕月はそのままさらに三十分待ち続けたが、ついに胸の痛みに耐えきれず、ゆっくりと立ち上がって出口へ向かった。カチャ。ドアが開く。隼平と千世が、ふざけ合いながら出てきた。「本当にイタズラ好きだな」隼平が笑みを浮かべる。夕月は振り返り、この目に刺さるような光景を見つめ、手にしたスマホをぎゅっと握りしめた。隼平は彼女に気づくと、その笑顔をすっと消す。「金が欲しいなら、経理の手続きが終わるまで待て」声は冷たく、さっきまで千世に向けていた柔らかさは欠片もない。夕月は深く息を吸い、静かに頷くと踵を返した。エレベーターを待っていると、再び二人の声が耳に入る。「やだ、このバッグ欲しいってずっと思ってたの。たった320万円だよ?隼平さん、ケチケチしないでいいでしょ?」隼平は少し呆れたように、「わかった、わかった……お前の言うとおりだ」夕月は無意識に唇を噛み、胸の痛む箇所を押さえた。320万円のバッグを即決で買う男が、正妻である自分には経理の手続きを待てと言う。彼女の口元にかすかな苦笑が浮かび、首を横に振った。……夜が降りる頃、夕月は荷物をまとめて部屋の隅に置いた。玄関から、突然物音が響く。隼平が酒の匂いを漂わせて入ってきた。少し迷った末に、夕月は口を開く。「あのお金、経理はいつ通してくれるの?」彼女の身体は日に日に弱っている。もう時間の猶予はない。隼平は彼女を見下ろし、鼻で笑った。「そんなに金に困ってるのか?金がなきゃ死ぬとでも?」「そうよ」夕月は頷く。「だからいつくれるの?くれないなら、本当に死ぬ」男の顔がたちまち曇り、周囲に重苦しい空気が立ち込めた。思わず背筋が凍りつくような威圧感だった。「夕月、やっと本性を見せたな。やっぱり頭に金しかない女だったか」その背丈の影が彼女をすっぽり覆い、息が詰まるような威圧感が迫る。夕月は掌を握りしめ、淡々と返した。「そうね。隼平だって困ってないでしょ?少なくとも私は、あんたと一緒に苦しい時期も過ごしたわ。結婚もした。その私が、少しぐらい金を使ったっていいじゃない」ドンッ。隼平の拳が、夕月の背後のワイン棚にめり込む。「夕月、そんな見栄っ張りな女、地獄に落ちろ!」男の目が赤く充血している。夕月の心臓は、まるで見えない手に鷲掴みにされたよう
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第5話
向こうからは絶え間ないざわめきと、男の怒鳴り声がかすかに混じって聞こえてきた。隼平は眉をひそめ、「どうした?ゆっくり話せ」と促す。「闇金の人たちが来て、私を売り飛ばすって、隼平さん……お願い、助けてきゃっ!」泣きじゃくる女の声は、突然ぷつりと途切れた。隼平がスマホの画面を見ると、通話はすでに切れている。彼の表情が一変し、立ち上がるとすぐさま外へ向かおうとする。「……隼平」夕月は、ほとんど残りの力を振り絞って彼のズボンの裾を掴んだ。「お願い、先に救急車を呼んでくれない?」男は見下ろし、わずかに苛立ちを帯びた目を向ける。「夕月、いい加減にしろ。そんな芝居、俺には通じない。お前が本当に死ぬっていうなら、それも悪くないな」冷たく笑って、彼は彼女の手を振り払い、大股で部屋を出ていった。背中が遠ざかっていくのを見つめながら、夕月は絶望的に目を閉じた。あの女は闇金に追われているなら、警察に頼めばいい。でも私は、本当に死ぬ。涙が一粒、頬を伝い落ちる。全身が痺れるほどの痛みに、もはやどこが痛いのかすらわからない。身体を小さく丸めたまま、彼女の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。……翌日、病院。夕月はゆっくりと目を開ける。鼻先を消毒液のツンとした匂いがかすめた。「起きましたね。心臓病なのに、一人で家にいたらだめですよ?清掃の人が見つけてくれて、すぐに運んでくれたんです」カルテを閉じながら看護師が言う。「ご家族にも連絡しましたから、問題なければ退院できますよ」夕月は苦笑した。家族?隼平が来るわけがない。むしろ死ねばいいと思っているだろう。案の定、やって来たのは智だった。「奥様、社長がお忙しいので、代わりに様子を見に来ました」夕月はまだ手に入れていない薬のことを思い出し、唇を動かす。「経理のほう、お金はもう下りましたか?」「それが……」智は視線を落とす。「まだです」この表情を見ると、隼平がサインしなかったのだと、夕月はすぐに悟った。彼女が聞いた。「隼平はどこに?」智は息を詰める。隼平と夕月の愛憎を長年そばで見てきた。今の状況はまさに共倒れに近い。しかし自分はあくまで部下、口を挟む立場ではない。「それは……ご本人にお聞きください」夕月がスマホを開くと、電話をかける
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第6話
夕月の表情はほとんど変わらず、淡々と告げた。「そう。じゃあおめでとう。用がないなら出て行ってくれない?休みたいの」千世はその反応に不満げな顔を見せたが、ふと机の上の錠剤に目を留め、二歩進み出て手に取ると、驚いたように口元を押さえた。「シルデナフィル?夕月さん、これ使ってるの?」その声はわりと大きく、廊下にいた隼平の耳にも届いた。シルデナフィル、いわゆるバイアグラだ。隼平は大股で部屋に入り、錠剤のシートを奪い取ると中身を確認し、鋭い視線を夕月へ向けた。「隼平さん、まさか夕月さんの部屋でこんな物を見つけるなんて……」千世は申し訳なさそうにうつむき、隼平の背後に立った。だが、その唇の端に浮かぶ得意げな笑みを、夕月はしっかりと見逃さなかった。隼平は彼女を見ず、冷ややかな目を夕月へ向けた。「夕月……お前の金は、こうやって愛人にこんな物を買ってやるためか?」シートは夕月の顔めがけて投げつけられ、鋭い角が頬を切り、すぐに赤い血が滲んだ。夕月はほんの一瞬だけ動きを止めたが、ゆっくりと身をかがめ、床に落ちた薬を拾い上げ、手の中で握りしめた。伏せた瞳が、その感情を隠している。「あなたが他の女と遊ぶのはよくて、私が駄目な理由は?」その声は小さく、何も気にしていないようで、それでいて覚悟を決めた者の響きがあった。隼平の胸に、説明できない怒りが燃え上がる。彼は夕月の顎を乱暴につかみ、ひとことずつ噛み締めるように言った。「そんなに気骨があるなら、金ももうやらない。お前のヒモが養えるか見ものだな」顔を乱暴に放られた夕月の頬は、掴まれた跡で赤く染まった。重苦しい空気の中、千世が口を開く。「隼平さん……」夕月がそちらを見ると、千世の手には写真立てがあった。怒りが一気にこみ上げた。「誰が触っていいって言った?返して!」千世は怯えたふりをして隼平の背に隠れ、震える声を作る。「隼平さん、ただ昔のあなたを見てみたかっただけで……」昔。その言葉は、目に見えぬ刃となって二人の胸を貫いた。隼平は写真立てを受け取り、指先にかすかな震えが走った。それは、大学時代の彼と夕月のツーショットだった。あの頃は、未来を共にすると本気で信じていたのに。だが、この女はもうとっくに、自分から去る覚悟を決めていた。隼平の表情が陰り、瞳に冷たい光
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第7話
翌朝、夕月は最後の荷物をまとめ終えると、階下へ降りた。ダイニングでは、千世が朝食を取っている。「夕月さん!」出かけようとする夕月を見て、千世はすぐに立ち上がって追いかけてきた。夕月は彼女の声を無視し、そのまま玄関へ向かう。「昨日のこと、見たでしょ?空気を読んで、自分から身を引いたほうがいいわよ」背後から澄んだ声が響く。夕月は一瞬だけ足を止め、振り返って千世を見つめた。「それで?人の家庭を壊すのがそんなに誇らしいことなの?」千世の顔がみるみる青ざめ、そして真っ赤になる。「愛されてないほうが身を引くべきよ!」「愛されてないほうが?」夕月はその言葉を繰り返し、くすっと笑った。「じゃあ、大学の先生にでも聞いてみようか。本当にそう思うかどうか」「ちょっと」千世はカッとなったが、ふと夕月の背後を見やり、口元に笑みを浮かべた。「本気で忠告してるとでも思った?」夕月は眉をひそめる。それなら、何のために?「あなた、長年子どもがいないでしょ?榊原夫人も気を揉んでるの。あなたさえ身を引けば、次の女主人は私よ」榊原夫人はたびたび隼平にプレッシャーをかけ、「夕月が産めないなら他に産める女を」と迫っていたが、そのたびに隼平が突っぱねてきた。一部のセレブ妻たちは、そんな夕月を羨ましがっていた。それほど夫に甘やかされているのだと。夕月が一瞬、考えに沈んだその瞬間、千世の目が光った。突然、夕月を軽く押し、自分の身体を後ろに投げ出す。「きゃっ!」千世は階段を転げ落ちていった。夕月が反応する間もなく、脇を黒い影がすり抜け、真っすぐ千世のもとへ駆け寄った。「隼平さん……」千世は涙をぽろぽろこぼし、可憐に泣きじゃくった。「夕月さんもわざとじゃなかったと思うの。全部私が悪いから。もう帰るわ、二人の邪魔はしない」隼平は何も言わず、千世を横抱きにして立ち上がった。「夕月」彼は言った。「離婚しよう」周りに誰もいなくなってから、夕月は痛む胸を抑えながらゆっくり立ち上がった。千世が自作自演で転んだ。ただそれだけの理由で、隼平が離婚に同意した。それもいい。どうせ、もうどうでもいいことだ。……「天野様、このダイヤの指輪はとても質がいいですが……本当にお売りになるんですか?」ジュエリー店のスタッフが、恭しく
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第8話
隼平は時速100キロを超える勢いで家に戻った。車を降りるなり、夕月の部屋へ向かう。「夕月!」空っぽ。原隼平は体を震わせながら、一歩一歩とクローゼットへと近づいていった。ガラッ。そこも空っぽ。頭の中でブンという音が響き、意識が真っ白になる。夕月、また何も言わずに、俺の前から消えるつもりか?いや、絶対に、させない……隼平はスマホを取り出し、番号を押すと歯ぎしり混じりに命じた。「夕月の行き先を調べろ。この数日間、何をしていたか、誰に会ったか!」通話を切ると、隼平は暗い目で画面を見つめる。夕月、二度と逃がしはしない。……「社長、奥様が先日購入された航空券が見つかりました。ただそこが最終目的地ではないようで……」智は小さく身をすくめ、存在感を消そうとする。ガシャッ!隼平の大きな手がデスク上の書類を払い落とす。「結果だけ言え。今、どこにいる!」「まだ、見つかっていません……」「はっ」隼平は怒りで笑った。「見つけられないなら、何のためにいる!探し続けろ!」「は、はい!」智は慌ててドアへ向かったが、何か思い出したように引き返してきた。「社長、こちらは奥様が最近病院で購入された記録です。かなりの量の心臓病治療薬と診察記録が……」隼平はそれを受け取り、手で追い払うような仕草をした。夕月が心臓病?しかも先天性?いや、そんなはずはない。隼平はすぐにその考えを打ち消した。もしそんな持病があったなら、知らないはずがない。大学時代の二人はあれほど深く愛し合っていた。隼平はソファに崩れ落ち、何日も力の抜けた状態が続いた。大きな手で目を覆い、そうでもしなければ、滲む涙を隠せそうになかった。「隼平、隼平」うとうとと眠っていた彼は、ぼんやりと目を開け、女性の姿を見た。「夕月……」その名を聞いた瞬間、千世の瞳が暗く揺らぐ。それでも笑顔を作った。「隼平さん、私、千世よ」隼平の目が一瞬で冴え渡る。顔をはっきり確認すると、苛立ちを隠さず言った。「誰がここに入れと言った」「隼平さん、私は……」「会社では俺を社長と呼べ!」鋭い声が響く。「今すぐ出て行け!」千世はその様子にたじろいだ。「もしかして、夕月さんが何か言った?隼平さん、教えて」彼女の声には焦りが滲んでい
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第9話
「ありえない」千世は声を荒げた。「笠原さん、私を妬んでるだけでしょ!」智は言葉に詰まり、何とか諭そうと口を開きかけたとき、隼平が部屋から出てくるのが見えた。「社長」千世の顔がパッと明るくなる。「社長!」「笠原、さっき何て言った?」隼平は智の肩をつかみ、低い声で問い詰めた。智は面食らった。「え?あの、千世さんはただの夫婦ゲンカ……」「違う、俺が何のために、って言っただろ」苛立ちを含んだ声が遮る。「奥様を嫉妬させるために、って」隼平はしばらく黙った。その言葉が、胸の奥でどれほどの波を立てたか、誰も知る由もない。大学を卒業したあと、彼は一時期、深く荒れていた。死を考えたことさえあった。ただ、もう一度だけ夕月に会いたいその一念で日々を過ごし、いつしかその想いは、愛から憎しみに変わっていた。三年前、再び彼女に出会った瞬間、ずっと心の中に沈んでいた闇が裂け、まばゆい光が差し込んだ。夕月が現れたことで、自分がまるで生まれ変わったようだった。隼平は、その憎しみが自分を生かしていると思い込んでいた。だから彼女を妻にし、日々苦しめることで復讐を遂げようとした。だが、智の一言が、その薄い殻を壊してしまった。認めろ、隼平。お前は夕月を、愛している。心の底から、深く。恐れていたのは、彼女の瞳に自分が映らないこと。隼平は口の端を引き、苦く笑った。夕月、必ずお前を見つけ出す。二度と、俺のそばから離れさせない。S国。夕月は到着するとすぐに病院へ入り、治療を始めた。毎日、終わりのない薬と手術。その体は日に日に痩せていった。病院での暮らしは、退屈なだけでなく、心まで重くする。夕月が外に出られるのは、治療の合間の短い時間だけだった。「病気のくせにお見合いなんてして、相手に迷惑でしょ!」コンビニの前に座る男女。女の甲高い声が響き、次の瞬間、コップの水が男の顔にぶちまけられた。佐伯孝幸(さえき たかゆき)は顔をぬぐい、にこりと笑った。「お気をつけて」「バカじゃないの!病気のくせに人を騙すなんて!」女は罵りながらバッグをつかんで去っていく。夕月は孝幸を不憫に思いながら見つめた。だが、気にとめるほどでもなく、コンビニに入っていった。商品選びに集中していると、だらしない声が耳に入って
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第10話
夕月が孝幸に抱いた第一印象はとにかく話が多い。「昼は何食べる?あ、そうだ、心臓の病気っていつから?俺の話も……」夕月が思わず口を挟む。「佐伯さん、先生から安静にって言われてる」孝幸はすぐ口を閉じ、唇の前でジッパーを閉める真似をした。そのとき、小さな男の子が駆け込んできて、孝幸に飛びつく。「お兄ちゃん!」孝幸は驚いて上体を起こした。「光(ひかり)、どうしてここに!」「今日は金曜日だから、学校が終わってすぐ先生が送ってくれたんだよ。看護師さんが、お兄ちゃんが病室を移ったって教えてくれたの」光はぷくっと頬をふくらませ、不満そうに言う。「お兄ちゃん、光を迎えに来てくれないんだもん」「光、いい子だな。お兄ちゃんは化学療法中なんだ。退院したら遊園地に連れてってあげるから、な?」孝幸は弟の頭をやさしく撫でる。「ほんと?」光の目がぱっと輝く。「本当さ。お兄ちゃんが嘘ついたことある?」光は嬉しさのあまり跳び上がったが、ふと横にいる夕月に気づき、こっそりと聞いた。「ねえ、このきれいなお姉ちゃん、だれ?」「お姉ちゃんも患者さんだよ。静かにしないとお姉さんの邪魔になっちゃうよ」光は力強くうなずいたはずだったが、次の瞬間、夕月の前までトコトコと歩み寄る。小さな顔を上げ、無邪気な声で言った。「お姉ちゃん、こんにちは」二人の会話は夕月の耳に全部届いていた。「こんにちは、光くんっていうの?」光はうなずき、そのまま夕月とのおしゃべりを始めた。夕月は苦笑するしかなかった。この兄弟、そろっておしゃべりなのね。……孝幸が弟の布団をかけ直しながら、夕月に言う。「ごめんね、うちの弟、人懐っこすぎて」夕月は首を振った。「いいえ、光くん、とってもかわいいわ」「私と同じくらいの歳に見えるのに、どうしてこんなに小さな弟が?ご両親は?」その問いに、孝幸の目がわずかに陰る。「光は、俺の病気のせいで生まれたんだ」孝幸は白血病だった。元々は一人っ子だったが、白血病と診断され、適合する骨髄が見つからなかったため、年老いた両親が再び子どもを授かることを決めた。「でも、光の骨髄も俺とは合わなかった。それに両親は……」孝幸の喉がかすれる。「病院に来る途中、事故で亡くなったんだ」夕月は息をのむ。「ごめん、そん
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