LOGIN「お迎えの車が来ました」
玄関からの報告に、実里の身体が震えた。
とうとう、この日が来た。
計画は何度も確認した。
何をするのか。
どこで何が起こるのか。
失敗した場合、どうするのか。
すべて頭に入っている。
それなのに。
いざそのときが来ると、足が竦む。
「実里」
友梨が手を取った。
「行こう」
その手を握り返す。
「うん、ありがとう」
実里は立ち上がった。
友梨がスーツケースを持ち、そのあとに続く。
玄関を出る。
眩しい日差しに目を細めた。
門の前には、二台の車が停まっていた。
一台目の白い車には、側面に実里が予約した病院の名前がある。
そして、その後ろには見覚えのない黒い車がある。
「あなたは、あっちに乗ってくるの?」
実里は黒い車を指さしながら、傍に立って
三日後。実里たちは大阪を離れた。移動手段はフェリー。大阪から博多まで、海を渡って移動する。大阪から博多までなら新幹線移動が一般的でフェリーは盲点。しかも、時間はかかるが実里の身体への負担も少ない。そう説明されれば納得できた。何より。「揺れない……安全安心……」大船に乗った気持ちに、実里は大きく息を吐いた。「失礼じゃない?」向かいに座った友梨が頬を膨らませる。「何が?」「私の運転と比較してるでしょ」「当たり前でしょう」「即答しないでよ」同じテーブルに座っていた二人が笑う。船内のカフェ。窓の外には海が広がっている。波は穏やかで、実里はゆったりと温かい飲み物を口へ運んだ。大阪へ着いたときには、まだ逃げているという意識が強かった。いつバレるのか。いつ見つかるのか。そんなことを思っていたが、この三日間、何も起こらなかった。報道では、いまだに実里は行方不明になっている。『東條実里』を探す人たちははるか遠く。ここに自分を探す人はいない。「何か食べる?」「何がある――」実里の声が止まった。人が近づいてきたからだ。目線だけそちらに向けると、中年の男性だった。男は実里たちのテーブルの横で立ち止まる。一瞬、身体が強張った。『お嬢さん』(……英語?)『これ、落としましたよ』実里は男を見て、その手元を見る。男の手には見覚えのないエコバッグ。「……」自分のものではないし、見覚えすらない。それでも。『ありがとう』
実里は画面の中の広海を見つめる。救助活動に加わる広海の姿を何度見ても違和感があった。普段の広海とは、あまりにも違う。(……あ)そこで、実里は思い出した。「そういえば……」「何?」隣にいた友梨が実里を見る。「予備自衛官」記憶の中にある広海と、画面の中にいる迷彩服姿の広海。ようやく二つが繋がった。「なるほど」友梨が納得したように頷く。そして、わざとらしく真面目な顔を作った。「あれは、本物」「え?」「コスプレだと思った」間ができた。そして。「……ふふっ」実里は思わず笑ってしまった。きっと、友梨はわざと言ったのだろう。実里が深刻な顔をしていたから。それでも、笑ったことで、少しだけ身体から力が抜けた。同時に。忘れていた昔のことを思い出す。◇◇◇広海が二十歳になった頃のこと。誕生日当日は、二人でのんびりと過ごした。特別なことをしたわけではない。実里が用意したプレゼントを広海が受け取って、一緒に食事をして、のんびりと過ごした。その数日後。「ちょっと面接に行ってくる」広海はそう言った。「面接?」「うん」「アルバイトの?」「違うけど……まあ、受かったら教えるよ」広海はそう言うだけで、実里もそれ以上は追及しなかった。東條家の跡取りである広海には、実里の知らない予定も多かったから。何か東條家に関係するものだろう。その程度にしか思っていなかった。それが予備自衛官になるためのものだったと知ったのは、ずっとあと。広海が大学を休学すると言い出したときだった。「何で休学するの?」「訓練
「実里」肩を軽く揺すられる。「実里、起きられる?」「……ん……」目を開けると、そこには友梨の顔があった。ぼんやりとそれを見てから、実里は窓の外へ目を向けた。「……夜?」「うん」「私、そんなに寝てた?」「ぐっすり寝てたよ。起きられる?」頷いて、実里は身体を起こした。どれだけ緊張していたのだろう。眠ったというより、気を失ったような感覚だった。「気分は?」「大丈夫。お腹も問題ないと思う」「それならよかった」友梨は実里の顔を覗き込む。「これからどうする?」聞かれている内容が実里には分からなかった。それだけ、『これから』が未知数なのだ。「ごめん、聞き方が悪かったね。体調に問題がなければ、外に出ない?」「外……」心が揺れた。ずっと閉じ込められていた。屋敷から逃げている間も、景色を楽しむ余裕などなかった。普通に街を歩く。そんなことをしたのは、いつが最後だっただろう。でも。「やめておく」実里は首を横に振った。「私がここにいるってバレたら駄目でしょう?」すると。「ふふっ」友梨が笑った。「何?」「やっぱりそう言うと思った」意味が分からず、実里は首を傾げた。それに構わず、友梨が部屋の扉を開ける。「出番だよー」「はーい」入ってきたのは、先ほどの女性二人。その手には、大きな化粧道具のケースがある。「……何?」実里は思わず身を引いた。「変装すれば大丈夫です」
「ちょっ、友梨! 前! 前!」「見てるって!」「絶対見てない! 今、横見てたでしょ!」「実里、細かい! 一秒くらいじゃん!」「運転中の一秒を軽く考えないで!」実里は助手席の取っ手を握りしめた。大阪に入ってからというもの、何度こうしたか分からない。車線変更。合流。次々と現れる車。その間を友梨の運転する車が走っていく――ヨロヨロと。「大阪の運転って怖い……道交法はどうなっているの?」友梨が呟く。「私は友梨が怖い。どうして免許を取れたの?」実里は真顔で返した。死んだ振りではなく、本当に死ぬのではないか。せっかく広海から逃げられそうだというのに、ここで交通事故で死んだら笑えない。「大丈夫だって。私、無事故無違反のゴールドだから」「それ、運転する機会が少ないだけでしょ」「失礼な! 東京のルールなら余裕よ」「ルールは共通よ」口をとがらせる友梨に実里は抗議した。.やがて天王寺周辺へ入り、コインパーキングへ車を停めた。駐車券を確認した友梨が満足そうに頷いた。「よし、完璧」「駐車場に入れるだけで三回切り返したけどね」「ぶつけてないから完璧なの」その基準でいいのだろうか。実里は呆れながら大きな紙袋を身体の前で持ち、車を降りた。その瞬間。「――実里」聞き慣れない女性の声に、実里の身体が強張った。反射的に振り返る。そこには、実里たちと同じくらいの年代の女性が二人立っていた。(誰……?)『久し振り』『会えてうれしい』(……中国語)二人とも笑顔だ。実里は二人を警戒したが。
友梨の運転で、二人は空港を目指していた。「疲れたでしょう? 空港までは二時間くらいかかるから、少し寝ていたら?」「ありがとう。でも、気を張っているからか眠れないの」実里の言葉に友梨は頷いた。そして、友梨はハンドルを切って車線変更した。「それなら、大船に乗ったつもりで、私の華麗なドライブテクニックを見ていてよ」「ウインカー、点けっ放し」「あ……」友梨はウインカーを消す。「安心できない大船だね」実里は笑った。.(……台湾、か)実里は腹部をそっと撫でる。いま妊娠二十週。妊娠二十二週に入れば、少なくとも通常の人工妊娠中絶はできなくなる。だから、最初は国内に潜伏することを考えた。(でも、原則というだけ)二十二週を過ぎれば絶対に安心、というわけじゃない。原則、だ。そんな曖昧な線引きに、子どもの運命を賭けられない。(だから、台湾に逃げる……)台湾は決して広い国ではない。それでも、多くの人が暮らす街の中に紛れてしまえば、簡単に一人の人間を探し出せるわけではない。何より――。(東條家にとって、台湾はアウェーだ)。日本ほど自由に探すことはできないだろう。そうなれば、出産まで身を隠せるに違いない。それが高橋誠の計画だった。 ◇◇◇友梨のスマートフォンが鳴ったのは、空港まであと二キロという標識が出た頃だった。友梨は画面を見たあと、通話ボタンとスピーカーボタンを続けて押した。『計画変更だ』高橋誠の声。そして、計画変更という言葉に実里の心臓が嫌な音を立てた。『トラブルが起きた』「何があったの?」『土砂崩れだ』電話の向こうの高橋誠の呼吸は荒い。まさか。実里と友梨
誠が運転する車はサービスエリアへ入った。満車ではないが駐車場は混雑している。そんな中、タイミングよく目の前の車が出ていった。誠は空いたスペースへ車を停める。バックミラー越しに、実里と目が合った。何も言わない。互いに目を見ただけだが、それだけで十分だった。誠は先に車を降り、後部座席の扉を開けた。「ありがとう」「お気をつけて」実里は車を降りる。そして、トイレへ向かいながら駐車場を見回し、東條家の黒い車を探す。(……いた)また十台ほど離れた場所。護衛の男はこちらを見ている。けれど、前回のように近づいてはこない。実里が歩いていると、不意に男の視線が横へ逸れた。その視線を追うと、サービスエリアの警備員がいた。実里は納得した。(騒がれたらまずいって分かっているんだ)先ほどのサービスエリアで、実里は大騒ぎした。トイレにも行かせてもらえない。監視されている。そう訴えれば、周囲の人間は護衛ではなく実里の味方をした。ここで同じことをされれば、今度こそ警備員が介入するかもしれない。だから近づけない。(それはつまり……)自分のしていることが、他人から見れば非難されるようなことだと、護衛自身も分かっているということ。そして――命じたのは広海。胸の奥に苦いものが広がったが、実里は前を向いた。(今は考えない).トイレの中も駐車場と同様に混んでいた。手を洗う人。化粧を直す人。子どもの手を引いている人。忙しなく用事を済ませる女性たちの間を、実里はゆっくりと歩いた。そんな実里に目を向ける人もいるが、膨らんだ腹部を見れば、歩みが遅い理由にも納得するのだろう。すぐに自分の用事へ戻っていった。