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第8話

Author: そら
「雅也、好きよ」

頬を赤らめた沙雪を前に、雅也はその場に釘付けになったように、しばらく言葉が出なかった。

「付き合ってください」

「栗栖先生、早く答えてあげてくださいよー!」

実験室のあちこちから、冷やかしの声が飛んでくる。それでも雅也は口を開かなかった。

沙雪の目元は次第に赤くなり、その瞳にはうっすらと涙が光っていた。

「沙雪、外で話そう」

沙雪は雅也を見つめたまま、引き下がるまいともう一度口を開いた。

「私、あなたのことが好き。付き合ってくれない?」

ここ最近の彼女との出来事が、雅也の脳裏を駆け巡る。それに、急に増えた研究費や学部長選挙の話も。

それらすべてが、沙雪の父親の力によるものだと、雅也はわかっていた。

「……いいよ」

長い沈黙の末、雅也はようやく掠れた声で承諾の言葉を絞り出した。

「先生と先輩、おめでとうございます!」

「キス、キス!」

周囲のはやし立てる声の中、沙雪は自分からつま先立ちになり、雅也の唇に口づけた。

ひんやりと柔らかな唇が触れた瞬間、雅也の脳裏にふと藍里の姿がよぎった。

合格通知を受け取ったあの日、雅也は藍里とキスをした。狭くて蒸し暑い安アパートでの、初々しくも不器用な、初めてのキスだった。

あの日、藍里がどんな表情を浮かべていたか、雅也は今でも一つ残らず覚えている。

胸の奥に、じわりとした違和感が広がる。意識が少しずつ、遠くへ流れていく。

沙雪が雅也を見上げた。

「雅也、今夜、お父さんと一緒にご飯を食べない?私たちが付き合うことになったって、ちゃんと伝えたいの」

雅也が顔を向けると、ちょうど沙雪と目が合った。

その頬は真っ赤に染まっている。照れているからなのか、それとも実験室の暖房のせいなのかはわからなかった。

けれどなぜか、雅也の胸にはぽっかりと穴が空いたような感覚が残っていた。

「違う、沙雪じゃない」と、耳の奥で何者かが囁いた気がした。

それでもその一瞬の迷いは長くは続かず、雅也はその声を振り払うように、沙雪に笑みを返した。

「……ああ、行こう」

食事へ向かう道すがら、雅也はスマホを取り出し、藍里にメッセージを送った。

【今夜は実験室で用事がある。ご飯、ちゃんと食べて。あとで電話するから】

彼はじっと画面を見つめていた。けれど時間が過ぎていくばかりで、藍里からの返信は一向に届かない。

いつもなら、すぐに返してくるのに。

画面には、自分が送ったメッセージだけがぽつんと残されている。

言いようのない不安が雅也の胸に広がっていった。電話をかけて確かめようとしたそのとき、沙雪に声をかけられた。

「あそこのデパート、お父さんが好きな高級な玉露を売ってるの。二箱買っていきましょう」

雅也はスマホをしまい込み、胸の中のわずかな違和感を意識の外に押しやった。

きっと、何か用事で手が離せないだけだろう。あるいは新幹線の中で電波が悪いのかもしれない。

十年も一緒にいて、今さら何が起きるというんだ。

そう思い直すと、雅也は隣にいる沙雪の肩を抱き寄せた。

「行こう。お母さまにもブレスレットを買っていこう」

食事の席で、沙雪の両親は雅也をすっかり気に入った様子だった。

「雅也くん、来月大学に予算が下りるんだが、資料を出してくれれば君の研究室に回してあげるよ。

うちの沙雪と、婚約のお披露目はいつにするんだ?来年は学部長選挙もあるし、私は君に期待してるんだよ」

沙雪の父のその一言に、雅也の顔には隠しきれない喜びが浮かんだ。

「ありがとうございます。婚約のお披露目のことは全部沙雪に任せます。彼女が喜んでくれるなら、僕はどんな形でも構いません」

食事は和やかに進み、雅也は無理をして酒を重ね、少し酔いが回っていた。

沙雪は彼を車まで支え、両手を彼の肩に回すと耳元でそっと囁いた。

「雅也。私と一緒にいてくれるなら、何だってあなたにあげるわ」

沙雪は雅也を家まで送らず、そのまま自分の部屋へ連れ帰った。

雅也に細い腰を抱き寄せられ、沙雪の頬は熱く火照ったままだった。

彼女は雅也の胸に手を当て、これ以上近づかせまいと押し止めながら、唇を尖らせて甘えるように見上げた。

「雅也、私のこと、愛してる?」

けれど彼女の抵抗も、雅也の前では長くは続かなかった。

薄く硬いまめのある手が彼女のうなじへと伸び、そのまま唇が重なった。

「愛してる。もちろん愛してるよ」

手のひらに伝わる肌の感触に、雅也の声はさらに掠れていった。

「僕は君を愛してる」

雅也は確かに酔っていた。けれど完全に意識を失っていたわけではない。

彼は酒の勢いに身を委ねることにした。ここまで来るのに、どれだけの苦労があったか。

藍里にはあとで埋め合わせをすればいい。

熱を帯びた二人の体温が重なり合う。紡がれるはずだった言葉はすべて飲み込まれ、甘く熱い吐息だけが部屋に溶けていった。

朝の光がカーテン越しにベッドに差し込む頃、沙雪はぼんやりと目を覚ました。隣にはもう誰もいなかった。

スマホにもメッセージは一つも入っていない。そのとき、沙雪の胸にふと小さな不安がよぎった。

もし本当にどうしても抜けられない急用があったのなら、以前の雅也なら何かしら連絡をくれたはずだ。こんなふうに、人も連絡も何もないなんて。

けれどその不安も、すぐに消えていった。

何が起きるっていうの?

今、自分にとって最大の障害は藍里だった。でも藍里はもう出ていった。

それに今の雅也の心の中で、藍里の存在なんて自分には遠く及ばないはずだ。

そう思いながら、沙雪はゆっくりと起き上がり、身支度を整えて学校へと戻っていった。

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