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第百十七話

Autor: 麻木香豆
last update Fecha de publicación: 2026-11-07 07:32:42

 オーナーに案内され、二人は食堂スペースへと移動した。

「わざわざコーヒーまでありがとうございます」

 宙は礼儀正しく頭を下げた。

「いえいえ。どうぞ、ごゆっくり。では、また後ほど」

 オーナーは柔らかな笑顔を残して、その場を離れていった。

 テーブルを挟んで、圭と宙が向かい合う。

 二人の前には、それぞれコーヒーが置かれていた。

 圭はカップに手を伸ばさなかった。

 目の前にいる宙を、まともに見ることができない。

 どこを見ればいいのか分からなかった。

 窓の外か、テーブルか、それとも手元か。

 沈黙が流れる。

 先にコーヒーを口にしたのは宙だった。

「やあ、圭。偶然だね」

 まるで、久しぶりに友人と会ったかのような声だった。

「僕はね、このオーナーに少し話があって来たんだ」

 圭は返事をしなかった。

 どうしてここにいるのか。

 そう尋ねたかった。

 けれど、すぐに思い当たることがあった。

 宙は以前、圭の職場が手がけていた仕事に介入し、契約を奪うような形で自社のものにしようとした。

 この旅館の案件については、宙の会社はすでに手を引いたはずだった。

 それなのに、なぜ今になって
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  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第百十九話

     旅館を後にした圭と宙を、オーナーやスタッフたちが深々と頭を下げて見送ってくれた。「本当いい旅館だね」 門を出たところで、宙が口を開いた。「あのオーナーさんは、圭のデザインを本当に気に入っている。君を信用しているんだね」「……」「僕の入る隙もなかったよ」 どこか感心したような口調だった。「でも、宙の会社の提案も取り入れれば、もっと予算を抑えられると思う」 その言葉に、宙の足が止まった。 少し驚いたように圭を見る。「それは……一緒に仕事をする、ということでいいのかな」 圭はすぐには答えなかった。 そして、小さく頷いた。 本当なら、避けるべきだったのかもしれない。 宙と関われば、また何かが起きるかもしれない。仕事を口実に距離を詰められる可能性だってある。 それでも、これは自分と宙の問題だ。 旅館には関係がない。 昔の自分だったら、きっと逃げていた。 宙と顔を合わせることさえ避け、仕事の話をする余裕もなかっただろう。 けれど今は、プライベートと仕事を切り離して考えられるようになった。 怖くないわけではない。 むしろ、怖い。 それでも、怖いまま立ち止まっていては何も変わらない。「会社にも連絡する。あくまでも、旅館のためだから……」「なるほどね」 宙は圭を見つめ、ふっと笑った。「海外に行って、君は変わったね。強くなった」 圭は何も答えなかった。 褒められているのかもしれない。 けれど、その言葉を素直に受け取る気にはなれなかった。「……宙はどうするんだい。僕は今日はここに泊まっていくけど」「僕はもう帰るよ」「え?」 圭は思わず聞き返した。 てっきり、宙も自分についてくるものだと思っていた。 仕事の話が終われば、また二人きりになろうとするのではないか。そんなふうに身構えていたのに、宙はあっさりと帰ると言った。 宙はそんな圭の反応を見て、わずかに目を細めた。「本当はね、今すぐにでも君をホテルに連れ込んで、押し倒したいくらいだよ」「……」「会えなかった年月、君がいなかった僕は、気がおかしくなるくらい君を欲しがっていた」 宙は圭をじっと見つめた。 圭はその視線を受け止めきれず、すぐに目をそらす。 宙が自分を探し続けていたことは知っていた。 時には、周囲が心配するほどに。 何かに取り憑かれたように、

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    「でも、デザインは昔と変わらないね。いや、あの頃よりずっといい。君らしい線だ。僕には分かるよ」「……」「君の仕事を見れば、すぐに分かる。やっぱり君には才能がある」「でも、宙は言ったよね」 圭は言葉を遮った。「右手が使えなくなった僕には、もう無理だって。何度も言った。僕には以前のような仕事はできないって」「それは……」「君のところにいたら、僕は変われなかった」 宙の表情から、わずかに笑みが消えた。「……だから先輩と海外に逃げたのか」 少し間を置いて、宙は皮肉っぽく笑った。「せいぜい可愛がってもらったかい?」 圭の表情が強張る。 その言い方には、明らかな侮蔑があった。「……圭。それはどういう意味で?」 宙は首を傾げる。「海斗……時田先輩は、僕のことを肯定してくれた人だよ」 圭はゆっくりと言葉を選んだ。「優しくしてくれた。右手が思うように動かなくても、デザインを続けたいという僕の気持ちを否定しなかった。僕が自分の可能性を諦めそうになったときも、ずっと希望を持たせてくれた」「……僕だって、君を支えていたけどね」 宙は不思議そうに首を傾げた。圭は静かに首を横に振った。 その反応を見て、宙の目が少し細くなる。「……その先輩は、君を満たしてくれたのかい?」「……」「君はいつも、僕に何かを求めていた。僕のそばにいたくて、僕に触れてほしくて仕方がなかっただろう?」 宙の声が、少しずつ低くなる。「そんな君が、何年も僕なしで我慢できたなんてね。ふふ……」 その瞬間、圭の頭の中に、かつての記憶が蘇った。 宙と過ごした時間。 自分の意思を伝えることもできず、ただ相手の望むままに振る舞っていた夜。 身体が限界を迎えても、終わりにしてもらえなかったこと。 意識を失うほど追い詰められたこともあった。 そこに愛情はなかった。 少なくとも、圭にはそう思えた。 思い出すだけで、目の奥が揺れる。 かつて宙のもとに出入りしていた医師の言葉が、ふいに蘇った。『宙さん。あなたがしていることは、愛ではありません』 あの医師は、圭の身体の状態を確認するたび、宙に厳しい言葉を向けていた。 必要以上に負担をかけないように。 本人の意思を無視しないように。 何度も忠告していた。 けれど、あるときから、その医師は来なくなった。 宙が別の医

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第百十七話

     オーナーに案内され、二人は食堂スペースへと移動した。「わざわざコーヒーまでありがとうございます」 宙は礼儀正しく頭を下げた。「いえいえ。どうぞ、ごゆっくり。では、また後ほど」 オーナーは柔らかな笑顔を残して、その場を離れていった。 テーブルを挟んで、圭と宙が向かい合う。 二人の前には、それぞれコーヒーが置かれていた。 圭はカップに手を伸ばさなかった。 目の前にいる宙を、まともに見ることができない。 どこを見ればいいのか分からなかった。 窓の外か、テーブルか、それとも手元か。 沈黙が流れる。 先にコーヒーを口にしたのは宙だった。「やあ、圭。偶然だね」 まるで、久しぶりに友人と会ったかのような声だった。「僕はね、このオーナーに少し話があって来たんだ」 圭は返事をしなかった。 どうしてここにいるのか。 そう尋ねたかった。 けれど、すぐに思い当たることがあった。 宙は以前、圭の職場が手がけていた仕事に介入し、契約を奪うような形で自社のものにしようとした。 この旅館の案件については、宙の会社はすでに手を引いたはずだった。 それなのに、なぜ今になって。「オーナーとはね、以前から仲良くさせてもらっているんだ。今回の改装そのものは君たちの会社にお願いするけれど、それだけでは補えない部分もあるだろう? そこを、うちの会社からも提案しようと思ってね」 宙は何でもないことのように話す。 圭はようやくカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。 苦味が口の中に広がる。 それでも、何も言葉が出てこなかった。 そんな圭を見て、宙は小さく笑った。「……君も偶然ここに来たんだろう?」「……」「こうして偶然出会うなんて、運命みたいじゃないか」 ふふ、と宙が笑う。 圭はカップを置いた。「……運命なんかじゃない」 ようやく出た声は、自分でも驚くほど静かだった。「運命じゃなかったら、何だい? 僕が君を追いかけてきたとでも? ストーカーみたいに?」 宙は冗談めかして肩をすくめた。「そんなことはしないよ。でも、こうして会えた。会えたということは、そういうことなんじゃないかな」 宙は脚を組み替え、少しだけ身を乗り出した。 圭は無意識に椅子を後ろへ引いた。「……斗真から止められていたんだよ。今は圭に近づくなってね」「……」「僕も

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第百十六話

     このまま少し建物を見て、周辺も歩いてみようか。 そんなことを考えていたときだった。「そういえば、降谷さん」 オーナーが思い出したように声をかけた。「本日、東京からお越しになる方がいらっしゃるんです。今回の件で、お話があるそうで」「……え?」 圭は思わず聞き返した。「東京から、ですか?」「はい。先ほど到着されたと聞いています。こちらへご案内しますね」「あ、あの……僕、今日はプライベートで来ていまして……」 そう言いかけたものの、オーナーは申し訳なさそうに微笑んだ。「少しだけで構いませんので。せっかくですから、ご挨拶だけでも」 提携している会社の人だろうか。 それとも、自分の知らないところで打ち合わせが進んでいたのか。 圭は戸惑いながらも、オーナーのあとについてフロントへ向かった。 スタッフたちが圭の姿に気づき、次々と挨拶をしてくれる。「降谷さん、こんにちは」「お久しぶりです!」「こんにちは。お邪魔しています」 圭も笑顔で応じた。 案内されたのは、スタッフルームだった。 中へ入ると、お茶が用意される。 見覚えのあるスタッフが、菓子皿を差し出してくれた。「よかったら、どうぞ。八つ橋です」「あ、ありがとうございます」 ここへ来るたびに、こうしてお菓子を出してもらっている気がする。 きっと今回も、帰りにはお土産まで持たせてくれるのだろう。 そんなことを考えながら、圭は室内を見回した。 スタッフルームは少し薄暗く、空間がうまく活用されていない印象だった。 収納の配置を変えれば、もっと動きやすくなるかもしれない。 照明を工夫すれば、部屋全体が明るくなる。 休憩用のスペースも、もう少し落ち着ける場所にできそうだ。 気づけば、圭の頭の中ではすでに小さな改装案が組み立てられ始めていた。 圭は鞄から手帳を取り出す。 簡単な間取りを描き、気づいた点を書き留めていく。「あの、降谷さん……?」 スタッフの女性が、不思議そうに声をかけてきた。「あっ、すみません。勝手に見てしまって」「いえいえ、そんな。どうかされたんですか?」「ここも、少し手を入れたら使いやすくなるんじゃないかなと思って……」 圭は手帳を見せながら、慌てて付け加えた。「もちろん、まずはお客様が過ごす場所が最優先です。これは僕が勝手に考えているだけ

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第百十五話

     圭が京都に着いて、真っ先に向かったのは……あの旅館だった。 改装工事は、これから本格的に着手する。 今ある建物の良さを残しながら、新しいデザインを重ねていく。歴史ある佇まいを壊すのではなく、時代に合わせて少しずつ形を変え、これから先も人々に愛される場所にする。 その計画に、オーナーをはじめ、多くの人たちが賛同してくれた。 一年後には、ここに自分の描いたデザインが形になっている。 そう思っても、まだ実感は湧かなかった。 いつものことだ。 頭の中にしかなかったものが、図面になり、模型になり、やがて現実の建物へと変わっていく。 何もなかった場所に、新しい空間が生まれる。 その過程を何度経験しても、不思議な感覚は消えなかった。 圭は旅館の外観を見上げた。 古い木材の色合い。長い年月を経て馴染んだ屋根。入口へと続く石畳。 ここに何を残し、何を変えるのか。 考え始めると、自然と頭の中にいくつもの案が浮かんでくる。「あ、降谷さん!」 声をかけられて振り向くと、ちょうどオーナーが玄関から出てくるところだった。 隣には、年配の夫婦がいる。「改装されたあと、また来ますね。今度は息子夫婦も連れて」 老夫婦はそう言って、オーナーに丁寧に頭を下げた。「ありがとうございます。お待ちしております」 オーナーも笑顔で応じ、二人を見送った。 夫婦が去っていくのを見届けてから、オーナーは圭に向き直った。「昔からの常連様なんです。改装のお話をしたときも、『今のままでも十分なのに』とおっしゃっていてね」 そう言いながら、目を細める。「でも、最後には『時代に合わせて変わっていくのも楽しみです』と。ああ、今回のことを喜んでくださっているんだなと思いました」 その表情は、とても柔らかかった。 圭は、今日ここへ来てよかったと思った。 最近はオンラインでの打ち合わせが中心だった。 画面越しでも話はできる。図面を共有し、寸法を確認し、変更点を伝え合うこともできる。 けれど、実際に現地へ足を運び、建物を自分の目で見て、そこで暮らす人や働く人の声を聞くことには、やはり別の意味があった。 図面だけでは分からないものがある。 ここを大切にしてきた人たちの思いも、その一つだ。「もし、皆さんがここに泊まりに来てくださらなかったら、この旅館は今のままだったかもしれ

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第百十四話

     気づけば、午前十時を過ぎていた。 駅へ向かう途中、圭はようやく時刻を確認した。「今からだと、着くのは昼過ぎか……」 少し考えて、苦笑する。「思いつきで動くのも、よくないな」 行き先は決めた。 けれど、細かい予定は何も立てていない。宿もまだ決めていなかった。 それでも、引き返そうとは思わなかった。休みは二日ある。何とかなるだろう。 圭はトランクを引きながら、駅へと向かった。 スマートフォンは、まだ鞄の中にしまったままだった。     「……京都!?」 昼過ぎ。 斗真の家に残っていた海斗は、スマートフォンの画面を見て声を上げた。 圭から届いたメールには、短い文章が書かれていた。『ちょっと京都に行ってきます。今日と明日は休みなので、二日ほど一人で過ごしてきます。心配しないでください』 心配しないで、と書かれている時点で、心配するなというほうが無理だった。「なんで……京都に……」 海斗は画面を見つめたまま呟いた。 その隣で、斗真がカップラーメンの蓋を剥がし、出来上がったものを海斗の前に置く。「ほら、できたぞ」「……うん」「いや、食べろよ」 海斗はようやく顔を上げた。 斗真は呆れたように息をつき、向かいの椅子に腰を下ろす。「まあ、休みなんだろ? 京都に行きたくなったんじゃないの」「いや、ノリだけで行くような性格じゃない。ちゃんと何か考えてるんだろうけど……ああ、心配だなぁ」 海斗は再びスマートフォンへ目を落とした。 斗真は、チッチッチ、と舌を鳴らしながら海斗の肩を叩いた。「はい、出ました。過保護モード」「……分かってるよ」「本当に?」「分かってるって」 海斗は不満そうに答えたが、視線はまだ画面から離れなかった。 斗真は少しだけ声の調子を落とした。「京都といえば、あの旅館のクライアントもいるだろ?」 海斗が顔を上げる。「……ああ」「仕事のことが気になって、ちょっと見に行きたくなったのかもしれない。あるいは、ただ京都を歩きたいだけかもしれない。圭が何を考えてるかは、本人にしか分からないよ」 斗真はカップラーメンを指さした。「でも、少なくとも今の圭は、自分で行き先を決めて、自分で出かけたんだろ。だったら、まずはそれを信じてやればいい」「……うん」 海斗は小さく頷いた。 圭が一人になりたいと言

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