LOGIN陸軍元帥・神城蒼真は、ある夜、街角で妖しい笑みを浮かべる男娼・小夜と出会う。わずか一分、言葉も交わさず見つめ合っただけの男が、なぜか忘れられない。再び巡り合った二人は、やがて互いに惹かれていく。しかし、身分も生きる世界も違う二人の恋は、決して許されるものではなかった――。
View More時は大正。世も、人も、新しき時代へと移り変わろうとしていた。
西洋の文化が街を彩り、華やかな灯りが夜を照らす。けれど、そんな時代の片隅には、今なお古きしがらみに囚われ、生きる者たちがいた。
華やかに照らされた街に、今宵も夜桜が淡い薄紅色の花弁を散らす。
その花弁に誘われるように、人々が夜の空蝉を楽しみに練り歩くのであった。華やかな灯りが照らす街は今日も賑やかで、繁盛していた。
「あら、佐怒田様、今日は寄ってかれませんよ?」
「あら、今宵はうちとでしょう? ねぇ、北野様」数名の軍服を着た者たちに声をかける、華やかに着飾った女性たち。
「すまぬな、美代。今宵は少し仕事があるのだ」
「今宵は軍上層部の方々との会合がありまして。また、明日にでも」そんな彼女たちに断りを入れる二人。
「まぁ、それなら仕方ありまへんなぁ」
「明日は絶対ですえ」二人は女性たちに約束を取りつけると、後ろを振り返り、
「すみません、元帥」
「急ぎ、会合の間までお連れ致します」数人の軍人の中で、ひときわ目を引く人物が一人。
その軍服の胸元には、これまでの功績を物語るいくつもの勲章が並んでいる。彼は言葉を発することなく、ジェスチャーで答えた。
佐怒田と北野は小さく頭を下げ、声をかけてきた女性たちに挨拶をし、先へ急いだ。
賑わう街の人混みを避けながら、先へと進む軍人たち。
「ねぇ、寄って行きなよ、軍人さんたち」
と何度も声をかけられるが、佐怒田と北野は断り、会合の行われる場所へと急いだ。
「ふぅ」
小さな溜め息が後ろから聞こえ、
「どうかなさいましたか、元帥」
歩みを進めたまま、北野が声をかけた。
「大丈夫だ、なんでもない。気にしないでくれ」
元帥と呼ばれた男は、自分が漏らした溜め息を拾った部下である北野に、気にするなと答えた。
元帥こと神城は賑やかな場所が苦手だ。極力避けて通りたいと思うほどに。
声をかけられるのが嫌いなのだ。だが、今宵行われる会合の場所は、そういった華やかな場所にあるのだ。
「あー、元帥はこういった華やかな場所が苦手でしたね」
「元帥はお若いし、顔もいい。この街の女たちが放っておきませんからね」神城の溜め息の理由に気が付いた二人に、苦笑いが浮かぶ。
「呑むのなら静かに呑みたいだけだ」
と呟いた元帥の瞳には、すでに疲労の色が浮かんでいた。
若くして、その頭脳を発揮し、異例の速さで出世し、最年少で元帥という地位についた。
その分、色んな苦労もしてきた。特に苦労したのは、上官との飲み会である。上官たちは酒は飲む、女とも遊ぶ、そんな人たちばかりだった。
楽しみを覚えろという教えなのかもしれないが、神城にはそんな生き方は出来なかった。「元帥は一人、静かに呑んでいる姿が似合いますからね」
「周りの者が騒いでても静かに呑んでる姿がかっこいいですからね」二人は普段、仲間たちと一緒に呑む神城の姿を思い浮かべながら、小さく笑う。
「普段はみんなを労うためだからいいんだ」
神城はふぅっと、もう一度小さく溜め息をついた。
佐怒田と北野はもう一度小さく笑った。
自分たちの上司は苦手だと言いながらも、ちゃんと部下の面倒をよく見るし、飲みにだって付き合ってくれる、気さくな人だということを、二人はよく知っていた。だが、時々こうした会合だけはどうしても避けられぬ仕事ゆえに、苦手意識が強いのだろう。
会合が始まってしまえば、その頭脳は他者をも圧倒するほどに冴えわたり、その地位を揺るぎないものへと変えてしまう。「難儀な方だ」と評する同僚も多い。若くして元帥になったその分だけ、同じ年齢の者たちよりも人一倍苦労しているだろう。
だが、神城という男はそれを他者には微塵も見せないのだ。だからこそ、ついたのが『冷徹な司令官』という異名だった。
彼自身が普段からあまり会話をしないからこそ、余計に『冷徹』という異名が先走っているのかもしれない。神城の直属の部下である佐怒田と北野にしてみれば、彼はただ寡黙なだけだと笑うだろう。
賑わう街をどれだけ進んだのだろうか?
辺りは、先ほどまでの賑わっていた街とはまた違った雰囲気へと変わっていった。
ここは、上流階級の華族たちが行き交うかのように上品で、それでいて華やかさは先ほどの街以上だった。
先ほどの街のように言い寄ってくる輩はおらず、神城の表情に少しだけ安堵感が浮かぶ。とはいえ、やはり、いくら会合を行う場所とはいえ、神城には苦手な場所でしかなかった。
進む足は幾分か軽くなったが、華やかな街というだけで、いつもより足取りは重い。
「元帥、もう少し先に進んだところに目的の場所があります」
「もうしばらく我慢してください」神城の性格を知っている佐怒田と北野は、チラリと後ろを振り返る。
神城はまた、二人にジェスチャーで答えた。客と肩を並べて店へ入っていく花魁。店から満足げに出てくる客。
そんな風景を横目に、神城は歩みを進めた。
どこからか、三味線の音が聞こえてくる。
それに合わせるように、女の歌声が夜の街へと流れていた。~いろはにほへと 夜桜は
散りぬる花を 誰ぞ追う 浅き夢路の 宵なれば 君待つ袖に 月ぞ差す――~神城はその歌声を聞き流しながら、静かに歩みを進める。
足を一歩踏み出した、その時。
さぁっと風が吹き、華やかな街を囲むように咲いた桜の薄紅色の花弁が、街の中を駆け巡っていく。
ふわりと、少し甘い花の香りが神城の鼻をくすぐり、それにつられるように視線を移した。
そこには、ふわりと少し妖しい笑みを浮かべた人物がいた。
その身なりからして、店で働く男娼である。神城はその男娼と目が合った。
その瞬間、周りの華やかな雑音が遠のいていくような感じがした。
まるで、この瞬間が当たり前であるかのような、そんな妙な感覚である。男娼の妖しい笑みも、いつしか妖艶な笑みに変わり、神城を見ている。
まるで、恋をするかのような笑み。お互いが息をするのも忘れてしまうほど、見つめ合っていた。
まるで、そこは二人だけの世界だと言わんばかりに、二人は一分ほど見つめ合っていた。
「元帥?」
「行きますよ」立ち止まった神城に気が付いた佐怒田と北野が声をかけると、
「あぁ、今行く」
と神城は静かに答え、視線をゆっくりと外し、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
一方、男娼も視線を外し、小さく、けれど深く息を吐いた。
その頬は少し紅く染まっていた。「もう、暁の刻か…小夜どのとの語らいが楽しくて、ゆっくりしすぎてしまいました」神城は窓から見える外の白さに気が付いた。「堪忍ね…わちしがわがまま言うたから…」小夜の瞳が少しだけ陰る。「なにを言う。今宵は自分が小夜どのの時間をいただいたのだ。だからこれは自分のわがままだ」神城はそんな小夜の白い手をそっと取り、自分がわがままを言ったのだと告げる。「神城さま…おおきに…わちしも神城さまと語らえて、楽しゅうございました」小夜はそんな神城の手をそっと握り返し、小さく笑う。「ありがとう。では、そろそろ、お暇をしよう」神城はすっと立ち上がる。小夜はそれが少し寂しいと思いながらも、同じように立ち上がり、神城を見送るために部屋の襖を開けた。「あっ…小夜どの…少しだけ願いがあるのだが…」神城は襖を開けた小夜に声をかけた。「なんです?」小夜は静かに問い返した。「最後に一度だけ…小夜どのを抱きしめてもいいだろうか?」神城は別れる前に、一度だけ、今宵、小夜と出会い、語らったという思い出が欲しいと思ってしまった。変な意味ではない。 ただの抱擁。ただ、それがしたかったのだ。「かましませんで。わちしでいいんでしたら」小夜は静かに微笑み、そっと神城の胸へと身を寄せた。「ありがとう」と、神城は静かに呟いた。そっと、小夜の身体を包み込むように抱きしめ、「今宵、あなたと語らえたことは本当に夢のようで、幸せな時間でした。ありがとう、小夜どの」もう一度、小夜にお礼を口にした。「神城さま…」小夜は呟くように名を呼び、神城の背にそっと腕を回した。ほんの数分。 ただ、お互いに何も発せず、抱き合うだけの抱擁。ふたりにはそれが心地よく、それでいて安心できる時間だった。「ほな、行きましょか」先に動いたのは小夜の方である。「えぇ、そうですね」小夜の言葉に短い返事をして、神城も帰るために自分の荷を持った。ふたりは音を立てず、そっと一階へと降りていく。階段を下りる間、部屋に入るときと同じように、小夜の手はずっと神城の腕に回されていた。それを神城も拒むことなく受け入れている。 いや、むしろそれでいいと思っていた。下へ降りれば、番頭台に女将が座っていた。「おや、小夜、お帰りかい?」階段を下りてきたふたりに気が付いた女将が声をかける。
「…っ…神城さま…冗談きついどすへ」小夜はそっと顔を逸らした。花街に生き、花街で仕事をしている自分に、そんなことを言う輩は多くない。 中には、強引に迫ってきた輩だっている。それなのに…あの日、目が合っただけで、ここまで探しに来るなど正気の沙汰ではない。 それどころか、金目当てに相手をされてもいいなどと言う神城には、驚きしかない。だが…期待はしてしまう。 それが、自分でも恐ろしかった。「冗談などではない…っ…すまない。初めて話した自分が言っていい言葉ではなかったな」神城は冗談ではないと言いかけたが、それを小夜に押し付けるべきではないと思い直し、言葉を途中で飲み込んだ。知り合いと言える関係ではない。 今日、初めて話した相手なのだ。そんな相手からこんなことを言われても、信用はできないであろう。神城は小さく息を吐き、「小夜どの…今宵はお暇をしよう」と静かに告げた。その言葉に驚いた顔をして、小夜が神城を見る。「えっ…神城さま…どないして…」小夜は神城の突然の言葉に、動揺を隠せないでいた。「このまま自分がここに留まれば、小夜どのが困ることになるかもしれぬであろう?」神城はそう答えながら、腰を上げる。「待っておくなはれ…神城さま…」小夜は咄嗟に神城の腕を掴んだ。腰を上げかけていた神城に、小夜が勢いよく掴まったものだから、二人はそのまま畳の上に倒れ込んでしまった。「…っ…小夜どの、大丈夫ですか?」小夜に声をかけた神城は、固まった。小夜が怪我をしないようにと咄嗟に抱きしめ、自分が下敷きになったのだが、自分の腕の中で、小夜がはらりと涙を流したからだ。「…っ…堪忍な…神城さま…わちしは空蝉やから…」小夜の言葉に、ハッとする神城。だが次の瞬間、小夜を己の腕の中に抱きしめ、「かまわぬ。自分はそれでもかまわぬ。小夜どのが…それでいいのなら…自分はそれでよい…」と、震える声で囁いた。「…あかん…あかんよ…神城さま…あなたはあかんよ…」小夜は神城の腕の中で、小さく首を振る。神城をこの世界に留めてはいけないという思いと、もっと一緒にいたいというふたつの想いが、小夜の中で渦巻いていた。最初から、そんなつもりなどなかったのだ。あの日、会ったあの瞬間、確かに何かに導かれるように目が離せずにいた。 それでも、忘れ
「綺麗だ…」小夜の笑みを見て、ポツリと神城が呟く。「えっ?」あまりにも突然の呟きに、小夜が固まった。「あぁ、すまない。あなたの笑みが綺麗だと思ったのだ」神城は少しだけ困ったように頭を搔く。あの日、初めて見たときも思ったが、こうして話をしながら笑う小夜は綺麗だと、純粋に思った。「あっ…おおきに…そないなこと言われたの初めてですわ…」神城の言葉に、小夜は少しだけ頬を染め、嬉しそうに笑う。「小夜どの…簪が歪んでいる。直してもいいだろうか?」先ほどよりも位置がずれている簪に気が付き、神城は小夜に向かって静かに問いかけた。「おおきに、直してくれはりますか」小夜はその申し出に素直に返事をした。「では、失礼して」神城はそっと手を伸ばし、乱れた簪を直していく。 小夜はそっと目を伏せた。初めてではないはずなのに、何故か小夜の胸はドキドキと激しく脈打っていた。 もしかしたら神城に聞こえてしまうのではないだろうかというほどに…。「小夜どののおぐしは、とても柔らかくて、手触りがいいのですな」神城は自然な手つきで、小夜の髪をそっと梳いた。「か、神城さま!」小夜は、あまりにも自然にそんなことをする神城に驚き、声を上げた。「あっ、すまない。小夜どのが嫌がることはしないと決めていたのに…。本当に申し訳ないことをした」神城はすぐに手を引き、小夜に頭を下げた。 神城という男は、どこまでも実直な男である。「あっ…堪忍してくださいまし、神城さま…その…そないなこと言われたの初めてで…」小夜は頬を赤く染め、着物の袖で顔を隠してしまう。「そうなのか? 小夜どのは…素敵な人だと自分は思うのだが…」神城の言葉に、小夜はますます赤くなってしまう。この界隈では、容姿を褒められることは多い。 容姿を褒め、おだて、そして女を、男を買うのだ。だから、小夜も容姿を褒められることは多い。 だが…神城のように見たくれだけではなく、人そのものを見て褒める人間は、そうはいない。だからこそ、小夜は恥ずかしいのだ。「あぁ、すまない。どうも自分は思ったことを口にしやすいようだ。特に小夜どの…あなたに対しては…」神城にとって、これがどういう感情なのかはわからない。 だが、小夜には嘘をつきたくないと思ったのだ。だからこそ、自分の思ったことを口
男は今、来た道を引き返し、橋を渡りきった先、三軒先のひときわ大きな店の前へと来た。 そこは、あの日、神城が会合を行った店の真隣にある店だった。「わちしがつこうてる店はここどす」男はそう言いながら、店の中へと入った。「おや、小夜。今宵は来ないかと思うとりましたよ」店に入るなり声を掛けてきたのは、この店の女将である。「堪忍な、女将さん。偶然、この方とお会いしてもぉて…ついうれしゅうのぅて、連れて来てしもうたんどす」男は…いや、小夜は少しだけ頬を染め、神城の腕にそっと自分の腕を絡めた。 神城はペコリと頭を下げた。「あら、素敵な殿方やない。それに…その紋章は元帥はんやね」女将は小夜が連れてきた神城を見て、彼が元帥だと口にした。「よく…わかりましたね」神城が少し驚きながら聞けば、「この界隈、あんさんみたいな殿方やて来ますさかいな。えろう若くしてなりなはったみたいやね」女将は愚問だと言わんばかりに笑った。女将の言葉に固まったのは小夜である。 神城が元帥だと知ったからだ。「すまない、やはり、自分と語らうのは嫌だろうか?」小夜の身体が強ばったことに気が付いた神城は、小夜の顔を覗きこみ、聞いてみる。もしそうならば、このまま帰ればいいだけだと己に言い聞かせる。「あっ…堪忍な…少し嫌なこと思い出しただけやねん…せやから…気にせんといて」小夜は小さく首を振り、大丈夫だと答えた。「ほら、そないな所におったら、他のお客はんに迷惑になるさかい、早う部屋へゆきぃ、小夜」女将はそんな二人を追い出すように、部屋へ行くよう促した。小夜は神城の腕に腕を絡めたまま、「いきましょか、元帥さま」普段使わせてもらっている部屋へと、神城を案内する。小夜が連れてきた部屋は、三階の奥の部屋。 窓の外には、巨木の桜が近くに見える。「この部屋は特別なんどすえ」小夜は神城を窓辺へと案内する。「特別とは?」神城はつい聞いてしまった。 聞いてから、しまったなと思う。深く聞くべきではない。そう思ったのだ。「この部屋は…わちしだけがつかえるんどす…せやから今宵は元帥さまとここで、語らいとうございます」小夜は小さく笑い、神城を座らせ、自分も向かい合わせに座った。「お酒、飲みなはります?」小夜は神城に聞いてみた。「イヤ…あなたが困るなら…