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重たい瞼をゆっくりと持ち上げた時、天井は白かった。染みひとつない石膏の天井。そこに焦点が合うまで、リリウスはしばらく身じろぎもできなかった。身体が異様に重い。熱がこもったように呼吸が浅く、皮膚の内側がじりじりと焼けつく感覚がある。(……ここは、医療棟……?)かすれた息とともに目を動かすと、視界の端に白いカーテンが揺れていた。その奥には規則正しく並ぶ寝台。見慣れた軍施設の簡素な治療室だった。扉の外に気配があった。間もなく、入ってきたのは副官だった。薄い書類の束を脇に抱え、リリウスの顔を見るなり、肩をすくめる。「起きてるか。まったく……お姫様扱いもいいところだな。警備兵が三人張り付いてて、用件言ったら二重に許可とらされたぞ」リリウスは微かに笑おうとしたが、喉が乾いて声にならなかった。「……熱、下がってなくて」「医者は“魔力の過剰使用による発熱”って言ってたが、それだけじゃなさそうだな。顔が真っ赤だ」副官はいつもの調子で軽口を飛ばしたが、リリウスの反応を見てすぐに言葉を引っ込めた。「ま、ゆっくり休め。何かあったらすぐ呼べ」それだけ言い残して、静かに部屋を後にする。──そして、独りになった午後。部屋の時計が静かに時を刻む中、リリウスの瞳はぼんやりと天井を映していた。(……夢、なのかな)まぶたを閉じると、白い神殿が現れる。濡れた石の床。祭壇の前に立ち尽くす自分。「これで、お前は俺のものだ」という声と共に、腕に浮かんだ蒼い契約の文様。寝台。熱を持つ身体。「うっとうしいな。薬でも飲んどけよ」──そう吐き捨てる、番であるはずの彼。リリウスは、目を開けた。天井が、また白く戻る。「……なんで、今さら」かすれた声が零れる。扉が開いたのは、その直後だった。誰かが入ってきた気配に、リリウスは反射的に身を起こそうとしたが、思うように力が入らない。それでも、わかる。空気が変わった。──カイルだった。リリウスが目を向けると、彼はもう傍らに立っていた。カイルはしばらく、言葉を発さず彼の寝顔を見下ろしていた。到着した時、リリウスはまだ眠っていた。熱に浮かされたように額には汗がにじみ、唇がわずかにうわ言を呟いていた。それは、軍人としての緊張も、自我の鎧も、すべて取り払われた“素の彼”だった。今は目覚めていたが、その身体は未だ
その命令が下されたのは、使者が帰って間もないことだった。「移送ではない。保護、だ」カイルはそう言って、地図を一枚リリウスの前に置いた。指先が示す先、都市外れの封鎖区域には、赤く囲われた施設の名が記されていた。「ここに、件の少女が隔離されている」その声音に苛立ちはなかった。けれど、誰もが察していた。これは命令ではない。責任を持って押しつけるものでもない。「行くかどうかは、お前が決めろ」カイルの言葉に、リリウスは迷いなく頷いた。「……行きます。僕が、彼女を迎えに」その一言に、副官が視線を逸らしながら、薄く笑った。「まあ、止めろと言っても聞かん顔だな。準備しておけ」※移動には馬車が使われた。警備兵が数名、そして副官が付き添う。封鎖区域へは午後を回ってからの到着になる見込みだった。道中、リリウスは窓から景色を見ていた。けれど、瞳は景色を捉えず、内側の記憶に潜っていた。(少女の“感情”が……今も残ってる)あの日、拘束されたまま涙を流していた姿。何も知らされず、名前すら呼ばれず、それでも誰かに縋ろうとしていた存在。(……助けたい。あの子を助けたいのは、僕自身のためかもしれない)力を使うことに恐怖がないとは言えなかった。だが、それ以上に“何もできなかった自分”を繰り返したくなかった。その時、不意に隣の副官が口を開いた。「なあ、お前の力は──誰かを壊すだけじゃない。救える時もあると、思わないか?」思わずリリウスは顔を向けた。副官はそれきり何も言わず、前を見ていた。※施設は、外から見ればただの古びた建物に見えた。だが魔力結界と複数の防衛術式が張られ、まるで“中身”を外へ漏らさぬように造られていた。リリウスが近づくと、胸の奥でざわめきが起きた。(この中に──いる)鍵を開け、扉を抜け、何層もの通路を越えた先。最後の扉の前で、立ち止まった。「入れるか?」と副官が問う。リリウスは静かに頷いた。部屋の中、檻の奥に、少女はいた。壁に寄りかかるようにうずくまり、目を閉じていた。リリウスが数歩踏み出した瞬間──「──ッ」頭の奥に、強い光と音が走る。少女の意識が反応した。彼女の“恐れ”と“祈り”がリリウスの神経を突き抜けた。魔力制御具が、ガチガチと不穏な音を立てる。少女の目が虚ろに揺れていた。だが、その奥には、確かに感
リリウスが、あの少女の元へといくと決めたその日。静寂を切り裂くように、軍本部の応接室に足音が響いた。入ってきたのは、黒と銀の礼装を纏った使者。背筋を真っすぐに伸ばし、目だけが油断なくリリウスを捉えていた。「第六王子の命を受け、まかり越した」その声には、王家の血筋に対する“当然の接触”という傲りがあった。「王子は貴殿の素性、力、そして現在の待遇を案じておられる。本来であれば、王族としてしかるべき場所に迎えられるべき方。軍部の庇護下にあるのは、いささか不自然かと──」言葉は丁寧だった。だが、明確な“引き剥がし”の意思があった。リリウスは、声を失ったように黙っていた。何も答えられなかった。いや──答えを出す余地など、最初からなかったのかもしれない。使者は続けた。「王子は、貴殿の血と能力を、国家の安定と繁栄のために活かすべきだとお考えです。我が主の庇護のもと、正式に迎え入れる用意がある。側室……いえ、“王家の保護者”としての立場にて」空気が凍った。リリウスは、震える指先を袖の中で強く握りしめた。声に出さずとも、内側ではあらゆる拒絶と疑問が渦巻いていた。(……今度は側室、か。僕は──物じゃない。誰かの所有物なんかじゃ……)だが、それを口にする前に──「その必要はない」低い声が、空気を断ち切った。使者がハッとして振り返ると、そこにいたのはカイルだった。いつのまにか応接室の扉をくぐり、まっすぐにリリウスの傍らへと歩み寄る。そして。一歩の距離も残さず、リリウスの背中を抱き寄せた。リリウスの身体がびくりと跳ねる。だが、カイルはそのまま、彼の肩越しに使者を見つめていた。「彼は私の保護下にある。軍というより──私自身の、管轄だ」言いながら、リリウスの首筋に一つ口付ける。その言動は、曖昧さを一切許さなかった。使者の目が揺れる。「……そのような“個人的管理”が許される立場に?」「私が誰であるか、貴君は分かっているはずだ」カイルの声は冷たく静かだった。だが、部屋の温度が一気に数度下がったような威圧が満ちた。リリウスは、カイルの手に込められた微かな力に気づいていた。その手は、戦略の一部としてではなく──確かに“庇う者”の手だった。使者は口を開こうとしたが、それ以上の言葉は出なかった。やがて、低く頭を下げて退室していく。扉が
庵を発ったのは、朝日がまだ山の向こうで目を覚ましていなかった頃だった。リリウスはカイルのあとを追い、湿った山道を下っていく。夜の名残が枝葉に宿り、風が冷たく頬を撫でた。──そのときだった。視界の端に、崩れかけた天蓋がちらりと揺れた。振り返ると、何もない。だが一歩、足を進めた瞬間──焼け焦げた空間が、目前に広がった。炭になった祈祷台、灰に埋もれた聖布。焦げた空気が肌を刺す。「まだ……ここにいるの」少女の声が、空気に混じって囁かれた。「リリウス!」カイルの声が届いた瞬間、幻は崩れた。視界が戻る。カイルが腕を伸ばし、落ちかけたリリウスの体を支えていた。「また感応したのか」「……一瞬、だけ。でも……あの子の声が……」カイルは唇を引き結び、深く息を吐いた。※王都に戻る前、急報が届いた。──神殿跡地で魔力の震動を検出。封印の安定性が急速に低下。軍本部は即座に対策を始めた。再封印の儀式。ただし、封じる“対象”については明言されなかった。「彼女のことは……記録にない。ならば“存在しなかった”とする」それが、上層部の判断だった。さらに、神父マルティナの庵にも監視がつくという通達があった。「視たこと」は、すべて“記録に残らない祈り”として処理されようとしていた。※カイルは執務机の前で、拳を握っていた。「本当に、それでいいのか……」言葉にした瞬間、自分の立場が揺れるのを感じた。リリウスは、その隣で椅子に腰を下ろしていた。「封じるべきか、救うべきか……誰にも分からない。でも僕は……あの子が祈り続けていた理由を、知りたい」「知ったところで、どうする」「終わらせてあげたい。ずっとあの場所に縛られて……それでも祈っていた彼女を」カイルの目が動いた。※その夜。リリウスは眠りの中で、再び“感応”に囚われた。──炎。崩れる柱。震える少女の背中。「わたしを……終わらせて」その声は、たしかに聞こえた。リリウスは目を開けた。胸が痛いほどに速く鼓動している。(ずっと……続けてる。祈りを、誰にも気づかれず、誰にも届かないまま……)祈りの終わりを望んでいた。それは、死ではなく、“終息”を。彼女の魂が、ようやく安らげる場所を。朝になり、リリウスはカイルの部屋を訪れた。「……僕は、もう決めました」カイルが顔を上げる。
夜が明けきる前、リリウスは山道をひとり歩いていた。細く折れた枝、湿った空気、苔に沈んだ足跡。森の奥に、灯火がひとつ、微かに揺れている。それが、目指す場所だった。古びた祠を抜けた先に、小さな庵があった。屋根は斜めに傾き、扉も重そうに閉じられている。それでも、そこには人の気配があった。──あの神父が、生きている。リリウスが一歩踏み出すと、扉がわずかに軋みを立てて開いた。「……君か」静かな声だった。立っていたのは、白髪の神父だった。目は細く、皺の刻まれたその表情には、どこかで見たような祈りの残響があった。「名を」「リリウス・クラウディア」その名を聞いた瞬間、神父の目がうっすらと開かれた。「……やはり。あの時、記録に残した名だ」「記録……?」神父は扉を開け、リリウスを中へ通した。※庵の中は、祭壇こそないが、空気が神殿に似ていた。石壁にかかる古布、焼け跡の残る祈祷具。それらすべてが、彼の記憶と重なる。「君は、“視える”のだろう」「……はい。感応で、神殿の中にいた少女を視ました」神父は頷き、椅子に腰を下ろした。「彼女は、祈祷に選ばれた子だった。あの地に封じるために。いや、“彼女自身”を封じるために、あの儀式は行われた」「なぜ……そんなことを」「彼女は、視えすぎた。感情の奔流に晒され、世界を取り込むようになってしまった。あのままでは、彼女自身が壊れる……あるいは、“誰かを壊す”」リリウスは息を呑んだ。「だから封じた。彼女の“祈り”を鍵としてな」「その祈りが、今も……」「続いているのだろう。でなければ、君のような者が、こうして現れるはずがない」リリウスは拳を握る。「僕が視た彼女は、まだ“そこ”にいた。崩れる神殿で、祈りを続けていた……」「それが、封印の証だ。だが、封は弱まりつつある」神父の目が、深く沈む。「君は、彼女と“繋がった”のかもしれない。血ではなく、魂の共鳴で」「……僕の力は、彼女に由来している?」「断定はできない。ただ、君の名はあの地で既に記されていた」「それは──」問いかけようとした瞬間、外から足音が近づいた。振り返った庵の入口に、ひとりの影が立っていた。カイルだった。「……あまり勝手をするな」カイルの声は低く抑えられていた。次の瞬間、彼の腕が伸びる。リリウスの肩に触れ──その
──祈りは、終わっていない。その言葉が、リリウスの中で何度も反響していた。療養中の部屋。結局、リリウスはあの後熱を出し、数日間伏せっていた。ようやく熱も下がり、身体は多少重いなりにも動くようになっていた。けれど、心の方は静まらなかった。机には、何枚もの紙が並べられている。感応で視た神殿の構造。封印の儀式。少女の姿。そして、その場に立っていた自分の足元。「僕にしか、伝えられないなら──やるしかない」手は止まらなかった。記憶を線に変え、祈りを図にし、わずかな断片を繋ぎ合わせていく。そのときだった。扉の向こうから、重い足音。現れたのは副官。そしてその後ろに、軍の高官がいた。「リリウス・クラウディア。上層部の命令だ。本日より、神殿事件に関するすべての調査・接触を禁ずる」言い換えれば、能力の使用制限。「体調の安静を理由に、別棟での療養へ移ってもらう」それは“保護”の名を借りた、事実上の隔離だった。「理由は……?」「お前の力が、暴走の危険を含むと判断された」副官は口を噤んだまま目を伏せていた。(視た者は……縛られるのか)リリウスの中に、熱が広がった。※その夜、部屋の灯りは落とされていた。けれどリリウスは眠っていなかった。扉の下から差し込むわずかな光。机の上に残した手紙には、短くこう記してある。──見捨てることは、できません。彼は軍服ではなく、旅装に身を包んでいた。古い外套を羽織り、薄くした荷物を背負う。(祈りの続きを知るには、“あの人”に会うしかない)副官が教えてくれた名──マルティナ神父。十数年前の神殿で祈祷を司っていた最後の生き残り。今は北の山間、祠の奥に庵を構えているという。「一晩で辿り着くのは無理でも……」窓を開けて外に出る。夜風が冷たく頬を叩く。でも不思議と痛くなかった。誰かに見つかる前に──と、足を進めたそのとき。視線を感じた。振り返ると、遠くの書斎の灯りがゆらいでいた。誰かが立っている気配。けれど確かめることなく、リリウスは闇へ溶けた。※書斎の中、カイルは窓辺で立っていた。月明かりに照らされた紙の上には、リリウスの走り書きが一枚。「……行ったか」背後から副官が現れる。「追いますか?」「そうだな……しかし」カイルは静かに言った。「まずは、見せてもらう。“視た者の行