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第73話:喪われた光

last update Last Updated: 2025-07-19 20:14:45

──セラフィア教アルヴァレス教区 中央大神殿内。

朝の陽も届かぬ石造りの回廊に、祈りの声が静かに響いていた。

リリウスは、ろうそくの灯りに照らされた薄暗い礼拝堂の中で、幾人かの神官と対面していた。

その後方には、アルヴァレス兵の制服を着た者たちが立っている。

だが、彼らの表情には硬さはなく、むしろどこか、戸惑いすら滲んでいた。

「……あなたたちは、なぜここに?」

リリウスの問いに、一人の青年兵が答えた。

「命令では、神殿を“制圧”せよと言われていました。でも……俺たちは、どうしてもできなかった。……ここには、俺たちの家族が祈った場所がある。俺たち自身も、ずっと……」

彼は言葉を詰まらせた。

「俺たちはアルヴァレス兵です。でも、“セラフィアの信徒”でもある。……この神殿を、ただの戦場にしたくなかったんです」

その言葉に、神官たちも静かに頷く。

リリウスは小さく目を閉じた。

「ありがとうございます。……それだけで、来た意味がありました」

その瞬間だった。

外で、空気が割れるような音が響いた。

一瞬後、神殿の壁が揺れ、外壁の一部が崩れ落ちる。

「爆撃……!? 嘘だ、ここにはまだ──!」

神官の叫びが終わらぬうちに、第二波の衝撃が襲う。

石の天井が一部崩れ、火の粉が降り注いだ。

「全員伏せろ!」

アルヴァレス兵たちが即座に信徒たちをかばうように動く。

リリウスも、とっさに近くにいた子供を庇った──

だが、その直後、彼の背中に瓦礫が降ってきた。

「殿下ッ──!」

セロの声が、神殿の外で響く。

──夕刻。王都郊外、臨時救護所。

白布で覆われた簡易ベッドの上、リリウスは静かに横たわっていた。

肩から背にかけて深い裂傷。意識はまだ戻らない。

マリアンが駆け込んだのは、日が落ちる直前だった。

「リリウス様……!」

駆け寄った彼女の手を、ヴェイルが制する。

「眠ってるだけだ。……命に別状はない」

「でも……っ」

マリアンはその場に膝をつき、リリウスの手を握る。

言葉にならない思いが喉を塞ぎ、涙がこぼれた。

その背後に、重い足音。

カイルが、無言のままベッドの傍に立った。

誰にも何も言わず、ただ、しばらくその顔を見つめていた。

──夜。神殿跡地。

そこに、もはや建物の影はなかった。

炎は全てを焼き尽くし、祈りの象徴は、灰と化していた。

立ち尽くす兵士たちの間で、誰かが呟く。

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