王都の空には、まだ戦の痕が残っていた。焼け焦げた石畳。崩れた塔。それでも人々は、そこに立っていた。肩を並べて、泥のついた手で、破れた布で、街を修復しようとしていた。誰の命令でもない。──それは、意志だった。リリウスは広場の隅に立って、それを見ていた。神子としてではなく。王子としてでもなく。ただの“人間”として。※「リリウス様、少しお時間を」呼び止めたのは、ヴァルドの戦略顧問。その背後には、臨時政務会議の布陣が控えていた。占領ではなく、統治。その第一歩を、いまここから始めるために。だがリリウスは、小さく首を振った。「その場には、僕は必要ありません。カイルと……クラウディアからの代表がいれば、それでいい。僕は、“王”にならない」ざわめきが走る。それでも、彼の声は揺れなかった。「僕の役目は、祈ることではなかった。導くことでも、命じることでもない。……手を伸ばすことだけだった。だからこれからは、ちゃんと届く距離で、話をしたい。“国”に必要なのは、“信仰”じゃない。──“対話”だよ」その言葉に、周囲が静まりかえる。「クラウディアとヴァルド──この王都を中心に、中立の“自治領”を設ける。共同統治の形で、どちらにも属さず、両国の橋渡しになる場所にしたい。争いの果てじゃなく、未来の始まりとして」神官がひとり、涙ぐみながら頭を下げた。兵士が、拳を握りしめて頷いた。斥候たちが、無言のまま礼を取った。誰も拒まなかった。それは、“祈り”ではなく──“人の選択”として受け入れられていた。午後の光が、石の広場を照らす。かつて玉座があった場所から伸びる道に、今は新たな壇が作られていた。祝辞でも演説でもない。ただ、“はじまり”を見つめるための、ひとつの台。そこに立ったリリウスは、白い衣ではなく、民と同じ布の上着を着ていた。すれ違った老女が「あのとき布をもらった」と涙ぐんだ。子どもが「リリウス様って呼びたかったんだ」と声をかけた。そして誰もが、彼を“神子”とは呼ばなかった。「ただの人間として──ここにいるだけです」そう、彼は笑って答えた。壇の下。カイルが、腕を組んでその様子を見ていた。「……神子に戻る気は?」ふいに尋ねると、壇上から降りてきたリリウスは首を横に振った。「戻らない。けど……もし“希望”とか“信じる力
──王都の天蓋に、今はもう、鐘の音すら響かない。かつて整っていた中庭も、砕けた回廊も、静けさに沈んでいた。剣戟も、叫びも止んだ。あとは──玉座の間に立ち込める沈黙だけが残っている。その中央。崩れた玉座に、レオン・アルヴァレスは座り込んでいた。血に濡れた裾。砕けた王冠。それでもなお背筋を伸ばすのは、誇りか、恐怖か、あるいは──悔しさか。扉が開く。そこに現れたのは、ヴァルド連邦軍総帥・カイル・ヴァルド。その隣に立つのは、神子の名を背負い、けれど今は“導き手”として歩む者。──リリウス・クラウディア。「……寄り添ってご登場か」玉座に寄りかかるようにして、レオンが笑う。その声には、皮肉も怒りも、もはや力もない。ただ、積み上げてきた嘘と敗北の上に立つ者の乾いた音がした。リリウスは、ゆっくりと前に出る。けれどその瞬間、レオンの目がぎらりと光を宿す。「俺の“番”だったくせに!!」──その叫びが、玉座の間に響いた。「お前は……クラウディアの王子として、俺に差し出された。“儀式”の番として、俺の傍にいた。──お前は“俺のもの”だったはずだ!!」リリウスは、ゆっくりと目を伏せる。「ええ。最初は、そうでした。僕は、本気であなたを“番”だと思おうとした。祈って、寄り添って、生涯を共にするつもりで、あなたを見ていた」「……じゃあ、なんで……っ」レオンの声が低く震える。リリウスはゆっくりと息を吐き出す。その目に、怨みも怒りもなかった。「あなたが、僕を捨てた……いえ,もっと前。僕の発情期を『穢らわしい』と吐き捨てたとき……僕の中で、すでに“番”は終わっていた」レオンの顔色が変わる。「違う……っ、違う……! あれは──」カイルがレオンの元へと一歩踏み出す。「お前、アルファじゃないな?」カイルの声は冷たかった。だがそれ以上に、静かだった。「……お前に、何がわかる」レオンの声は掠れていた。「お前は、“本物”だから。アルファとして生まれ、王家に名を連ね……全てを与えられた者に、俺の……この痛みが、わかるものか……!」レオンの声は嗄れていた。怒りとも、哀願ともつかない、濁った叫び。「“偽物”として即位した痛みのことか?」静かに、カイルが一歩、踏み出した。その声には怒りも嘲りもない。ただ、事実を指すような冷たさだけがあった
──黎明は、まだ訪れていなかった。けれど、王都の西の空に立つ砦から見える風景は、確かに“夜明け”を予感させていた。炎の煙ではなく、焚き火の灯り。怒号ではなく、歌うような号令。絶望ではなく、決意。その静かな緊張の中で、リリウスは、前線の丘に立っていた。かつて“神子”として祈りの言葉を捧げた場所ではない。ただの人間として、仲間たちと同じ土を踏みしめる場所に。その背には、ヴァルド軍の騎士たち。その肩には、クラウディア出身の旧兵士たち。そしてその足元には、鍬を剣に持ち替えた市井の民兵たちがいた。誰もが、静かにその背を見つめていた。それは、王や神に向けるような畏怖ではない。自分と同じ痛みを知る者を、信じる眼差しだった。「……緊張なさっていますか?」静かにそう声をかけてきたのは、セロだった。以前と変わらぬ軽装姿だが、その目は戦場に生きる者の鋭さをたたえていた。背筋を伸ばし、肩にわずかに力が入っている。「ええ。緊張してます。神子のくせに、ですね」リリウスが笑うと、セロはわずかに目を伏せた。だが、その口元はかすかに笑んでいた。「……殿下は、神子です。けれど僕が信じたのは、“リリウス・クラウディア”という方です。あの牢で、自分を諦めなかった目をしていた殿下を、僕は……信じた」リリウスの目が揺れる。過去の痛みと、そこに差し伸べられた手が蘇る。けれど、すぐにそっと口元を引き結ん
──王都西区、焼け残った石壁のそば。半壊した家々の間に、誰かが作った簡素な焚き火台があった。火の周りには、くたびれた毛布にくるまった子どもたちと、薪をくべる老女がひとり。その明かりだけが、夜の街に残された温もりだった。「……それでね、その神子さまは、王宮から逃げたんだよ。命からがら、窓を割って」老女の語り口は静かで、どこか物語を読むようだった。けれど、その言葉を聞く者たちは誰も瞬きすら忘れていた。「傷だらけだった。けれど、逃げなかった。祈りの布を握って、誰かのために立ち上がったんだってさ」少年が小さく口を開く。「ほんとに……神子さまだったの?」「神の声なんか聞こえないって、ご本人が言ってたってさ。ただの人間なんだって。……でもね、“それでも信じてくれた”って」火がはぜる。「そばにいた者は、みんな“救われた気がした”って言ってた。だからさ──きっと、神じゃないほうがよかったのかもしれないね」その言葉に、子どもたちがそっと息を吸い、布を握る。「名前、なんて言ったっけ……」「リリウス、だよ。リリウス・クラウディア。セラフィアの神子」その名は、まるで祈りのように焚き火の輪を回った。「……俺、祈りの布もらった。広場で泣いてたとき、何も言わずに、笑ってくれてさ」「私も。ほんとに短い時間だったけど、あったかい手だった。覚えてる」語るでもなく、ただ言葉が零れていく。──そして、その焚き火の輪の外。それを聞いていたのは、子どもたちだけではなかった。通りを掃除していた女兵士が足を止め、市場の荷運び人が、腕を組んで耳を澄ます。その中に、ひときわ目立たぬフードを深く被った婦人の姿があった。――リーネ・ヴァルド。ヴァルド家の“目”として情報を操る、カイルの母である。彼女は、石畳の陰に腰を下ろしたまま、その会話を黙って聞いていた。(……リリウス。あなたは、ここでも名を残してる)その思考の隅で、ふと別の名が上がる。「……そういえば、砦で踏みとどまった将軍がいたって噂、聞いた?」「うん。ヴァルドの将軍だって」「“神子様を信じたから”戦ったって」「民を、兵を、諦めなかったんだって」「砦が落ちる寸前、誰より先に立ってたって」「神子様だけじゃなくて、その将軍も……」その言葉に、リーネのまなざしが揺れる。民の口から自然と語られる、
──空を焦がすのは、太陽ではなく、炎だった。前線の砦。ヴァルド軍が守り抜いてきたこの拠点が、崩れかけていた。砲弾が壁を穿ち、土砂が崩れ、空に赤い煙が渦巻く。カイル・ヴァルドは、血と煤に塗れたその戦場の中央に立っていた。「右、崩れかけてる! 回せ!」「砲弾はもう持たん、矢で時間を稼げ!」怒号と悲鳴、鉄のきしむ音が飛び交う中、カイルの指揮だけが、まるで鋼のように揺るがなかった。だが──状況は最悪だった。「……正面、突破されるのも時間の問題か」呟く声に、隣の副官が息を呑む。「カイル将軍、ここは撤退を……!」「退く場所があればな」振り返らず、そう返した声は乾いていた。この砦が落ちれば、王都へ繋がる街道は丸裸になる。戦況は、すでに後がない段階にあることを、彼は最初から理解していた。そのときだった。──遠く、城壁の向こうから、重たい地鳴りが響いた。何かが来る。敵か。援軍か。砦の者たち全員が、息を止めた。次の瞬間、狼煙の向こうに、旗が翻った。見慣れない、けれど見覚えのある印。それは、リリウスの“祈りの布”──そして、その下にいたのは、武器を手にした旧市民と、散発的に蜂起していた各地のレジスタンスだった。「……あれは……!」副官の声が裏返る。だがカイルは、目を細めてから、わずかに口角を上げた。「間に合ったか」火花のように駆け上がる民兵たち。瓦礫を越え、傷ついた兵士を担ぎ上げ、火中に飛び込む彼らの瞳は、ただの市民ではなかった。──「誰かを信じて立つ者」の目だった。※その日、砦は──持ちこたえた。夜。崩れかけた壁の上で、カイルは風に吹かれながらひとり立っていた。手には包帯が巻かれ、鎧の隙間には血が滲んでいる。そこに、ゆっくりと近づく足音があった。「……間に合ってよかった」その声に、カイルは振り返る。──そこにいたのは、リリウスだった。傷だらけの身体で、まだ左肩には包帯が巻かれ、血が滲んでいる。それでもその目はまっすぐで、静かに、そして確かに立っていた。しばしの沈黙。カイルは息を吐いて、ぽつりと呟く。「生きてたか」「ええ。死にかけたけど、まだ歩けます」「……俺のほうが先に倒れるかと思った」そんな冗談めいたやり取りのあと、二人はしばらく、燃え残った砦の空を眺めていた。風が吹く。火の粉の残
──王都南門、その場に残された兵たちは、誰も口を開けなかった。雨はすでに止んでいたが、空気は冷たく重たいまま。リリウスが去ったあとにも、その言葉の余韻が、石畳に染みついたように残っていた。「……あれ、本当なのか……?」誰かが低く呟いた。「番の儀式は、偽物だったって……」「けど、じゃあ……なんでずっと神子として隣にいたんだよ。王太子と……ずっと番だって……」「偽物って……リリウス様が、騙したのか? それとも……」ざわ……と、小さな混乱が兵士たちの間に広がる。否定ではない。盲信でもない。ただ、情報が足りない。「……わかんねぇよ。じゃあ、騙してたのはどっちなんだ……?」剣を握る手が、ふと緩んだ。今までは“アルヴァレス王家”に忠義を尽くしていた者たちの中に、わずかな“裂け目”が生まれた。それは怒りや裏切りではない。ただ、確かだったはずの“前提”が、一つ揺らいだだけ。それだけで、人はこんなにも静かに、動けなくなる。「……俺たち、何のために戦ってるんだろうな」誰かの独り言のような声に、誰も応えなかった。武器の手入れをする手が止まる。巡回する者の足音が鈍る。何気ない命令に、従うまでの時間が一瞬だけ遅れる。それらは些細な変化だったが、確かに“崩壊の兆し”だった。そして、火種はすぐに見つかった。王都内で、リリウスの庇護を試みた兵士が、密告によって拘束された。広場の真ん中、群衆の前で殴られ、罪状を読み上げられた。「王命に背き、反逆者に肩入れした咎により、この者を……」読み上げる声は冷たかったが、聞く側の胸には、別の熱が芽生えていた。(……なにが咎だ。祈っただけで、処罰かよ)静かに目を伏せる者。そっと、ポケットに隠し持った祈りの布を握る者。その手のひらの温もりは、言葉より雄弁だった。※その日の午後、リリウスは再び捕らえられていた。「命令だ。お前を“再教育”する。陛下が直々にお望みだ」その言葉に、そばにいたヴァルド軍の斥候がすぐに動こうとした。「待て、それは正気の沙汰じゃ──!」「リリウス様を行かせては──!」叫びかけた者たちの声を、リリウスは手で制した。その顔には、怯えも怒りもなかった。「……いい。僕は応じるよ」静かに、そう言った声は、ひどく落ち着いていて──それゆえに、周囲を黙らせた。「僕は、逃げるために