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第7話:選択肢

last update Dernière mise à jour: 2025-05-14 20:12:52

目覚めたとき、部屋の空気はわずかに変わっていた。

あの夜から、何かが少しだけ動き出していた気がする。

リリウスは手を見つめた。指先には、昨夜触れた熱がまだ残っているようだった。

誰かの感情が、自分の内側に少しだけ残っている。

それは、心を揺らす重さでもあり──不思議な心地よさでもあった。

しばらくして扉が開く音がした。

現れたのはカイルだった。軍服姿のまま、いつものように無表情で。

「体調はどうだ」

「悪くはないです。けれど……魔力が深いところで塞がれてる感じがします」

カイルは少しだけ目を細めた。

「……沈黙の封印、か」

「……それは?」

「異国系の魔術だ。“声”や“魔力”といった影響力を根ごと奪う。痕跡の性質からして、それが使われた可能性が高い」

リリウスは短く息を吸った。

「やはり……あれは、そういう類の……」

カイルは頷く。

「時間はかかる。だが、手段はある」

「え?」

「解除はできる。ただし、完全に元通りになるとは限らない」

カイルは淡々と言った。

「……なるほど……何事も都合よくは行かない、か……」

リリウスはうなずき、視線を外す。

彼の言葉には慰めも脅しもない。ただの事実だけがある。

だが、それが今は少しだけありがたかった。

「……君は、僕をどうするつもりですか?」

リリウスは聞いた。

カイルは答えるまでに少しだけ間を置いた。

「ここにいるかどうかは、お前が決めろ」

「は……?」

「お前が決めろ。残るか、去るか」

「……去る?」

リリウスは微かに笑った。

「それはつまり、この国の外に放り出すってこと?」

「そうだ。連邦の街に降ろしてもいい。望むなら馬も渡す」

その提案は、まっすぐだった。

だからこそ、少しだけ怖かった。

ここを出たら、今度こそ本当にひとりになる。

誰にも拾われず、誰にも求められず、ただ“棄てられたΩ”として雪のなかに消えるだけ。

それを、彼は選ばせようとしている。

「……どうして、僕に選択肢を?」

「お前は、“選べなかった人生”を送ってきた顔をしていた」

静かに、けれど決定的な声だった。

リリウスは息を詰めた。

その言葉は、鎧の奥のどこか──まだ傷が生々しく残っている部分に触れた。

「……誰も、そんなこと言わなかった」

「だろうな。だから言っておく。俺は、命令するのが面倒なんだ」

「……ずいぶん勝手な……」

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