LOGIN「勝手に信じたお前が悪い」
その言葉は胸を鋭く突き刺す。 自分の愛が一方的な思い込みだったのかと考えると、心臓が締め付けられ呼吸が浅くなる。 「もういい。私は、ここを出ていきます」 決意は苦しくも確かなものだった。 裏切られた愛にすがるより、自分を守るために離れるしかない。 震える声で別れを告げると、胸の奥にわずかな自由への希望が芽生えた。 「出ていくなら、その前に借金を返済して行け」 突然突きつけられた借金という言葉に、頭が真っ白になる。 「借金…?」 私は、彼にお金を借りたことなんて一度もない。 「お前の母親は、俺に5000万円の借金をしている」 母が…? 母が彼に5000万円もの借金をしているなんて、信じられるはずがない。だって母は堅実で、無理をしてまで借金をするような人ではないから。 彼の言葉は現実味を帯びず、ただ私を追い詰めるための嘘にしか思えなかった。 「そんなわけ、」 そんなわけない。はずなのに、彼の冷たい瞳が私を見下ろすたびに、まるで自分が罪人にされたような錯覚に陥る。 「何も聞かされていなかったんだな」 彼の冷笑が、無知である自分を嘲るように響く。母を信じていたのに、何も知らされていなかった事実が自分を無力に感じさせる。 「母がどうしてあなたにお金を?」 必死に問いかける。 母がなぜ彼に頼らなければならなかったのか。なぜ私に隠していたのか。 真実を知りたい一心で、声が震える。 「本人に直接聞くんだな。まぁ、教えてくれるかは分からないが。それと、来週のパーティーで婚約者を紹介する。お前は昔からの知人として同席しろ」 彼の婚約者を紹介する場に、自分が知人として立たされる屈辱。愛していたはずの人の隣に立つことも許されず、ただ利用される存在に落とされる。 「どうして私が」 抵抗の声は弱々しい。自分の意思など無視され、彼の都合で操られることへの怒りと悲しみが混じる。 「それなら、お前が代わりに5000万円払うか?」 突きつけられた金額に息が止まる。到底払えるはずもない。 「それは…」 頭の中で必死に反論を探すが、どれも現実の前では無力だと悟る。 彼が突きつけた条件は残酷で、逃げ道はどこにもない。 「俺が皆の前で、園田家の令嬢を婚約者として紹介するのを、その目で見ていろ」 「どうしてそんな残酷なことが言えるの…?あなたは少しでも心が痛まないの?」 愛した人がここまで冷酷だとは信じられない。信じてきた時間が嘘に変わり、未来が暗闇に沈んでいく。 「そうかもしれないな。でも、お前の絶望する顔を見るのは面白いからな」 彼の瞳には一片の迷いもなく、本当に私の絶望を楽しんでいるように見える。愛と信頼が粉々に砕け散り、胸の奥に残るのは深い絶望と屈辱だけだった。 「…最低ね」 怒りと悲しみが混じり、震える声で吐き捨てる。 「ここに残れば、お前の母親は今のままでいられる。だが出ていけば、俺はあいつを生き地獄に落としてやる」 母を人質に取るような言葉に、恐怖が全身を支配する。 自分の自由と母の未来が天秤にかけられる。 「母に手は出さないで。私に何をしてもいい、でも母だけは巻き込まないで」 「ならここに残れ。それ以外の選択肢はない」 愛も自由も奪われ、母を守るために自分を差し出すしかない。 私は、いつから間違えてしまったのだろうか。あの最悪な夜から、智哉さんは私と一切の口を利かなくなってしまった。私が彼の逆鱗に触れるような、取り返しのつかない何かをしてしまったのは確実なのに。それが何なのかがどうしても分からない。智哉さんはご自身の父親を深く尊敬していて、親を侮辱するような私の態度がどうしても許せなかったのだろうか。それとも、他の言葉に彼だけの地雷が埋まっていたのだろうか。考えれば考えるほど思考は泥沼にハマり、冷え切った邸宅の重苦しい空気に耐えられなくなった私は、逃げるように家の近くの喫茶店へと足を運んでいた。冷めたコーヒーの表面を見つめながら、私は無意識のうちに独り言を呟いていた。「分からない…」「何が分からないの?」私の目の前、テーブルを挟んだ向かい側の席に、朝倉さんがゆったりと腰を下ろした。ここは智哉さんの家から歩いてこられる距離にある、ごく普通の静かな喫茶店だ。外の世界の空気を吸いたいと、私がほんの少しだけ羽を伸ばすために選んだこのささやかな逃避場所に、なぜ彼が現れるのか。「……っ、どうして、あなたがここにいるんですか」息を呑み、硬直する私の顔を面白そうに眺めながら、彼は勝手にメニュー表を引き寄せる。「いやぁ、本当に奇遇だね。こんなところで会えるなんて思わなかったよ」そんな都合のいい言葉で、この異常な事態を片付けられるはずがない。「本当に、ただの偶然なんですか」私の刺々しい追及を受け、朝倉さんは大袈裟に目を見開いてみせた。そして、まるで罪のない善人が理不尽な疑いをかけられて傷ついたかのように、わざとらしく眉尻を下げてみせる。「……嫌だなぁ。もしかして俺のこと疑ってる?」そう言うとテーブルの上に両肘を突き、両手で顎を支えるようにして私の顔を覗き込んでくる。智哉さんの警告がなくても、異常な接触の頻度を考えれば、誰だって疑念を抱くはずだ。「疑いたくもなります。私が外に出るたびに、まるで監視でもしているかのようにあなたに遭遇するんですか
私が自嘲気味に吐き出したその言葉に対し、智哉さんは私の頬を拭っていた左手の指先をピタリと止めた。「格好悪い?」父親の人生を偉大だったと認めてしまえば、そんな素晴らしい仕事のために切り捨てられた自分という存在が、たまらなく惨めで無価値なものに思えてしまう。だからこそ、私は父親の遺したものを徹底的に貶め、価値のないものだったのだと思い込む必要があった。誰の記憶にも残らず、薬を完成させるという夢も果たせず、ただ家族を不幸にしただけの無駄な人生だったのだと。自分に言い聞かせるように放った私の声は、どうしようもなく震えていた。「自分の人生のすべてを注ぎ込んで研究に没頭した挙句、結局は何一つの成果も成し遂げられないまま、あんなふうにあっけなく事故で死んでしまうなんて……。格好悪いじゃないですか」「……そんなことはない」智哉さんのその強い否定を、私は単なる哀れな遺族に対する気休めの同情だと勘違いしてしまっていた。他人の痛みなど意に介さないはずの彼が、私のために必死に父親を肯定しようとしてくれている。その不器用な優しさが嬉しくもあったが、同時に、これ以上無惨な現実から目を背けたくないという思いが私の口を動かした。父が心血を注いでいたのは、現代医療では治癒が極めて困難とされる特定の難病に対する画期的な再生医療薬だった。莫大な資金と途方もない年月を要し、それでも成功する保証などどこにもない、まさしく茨の道。そんな呪いのような研究に没頭していた父の姿を思い出し、私は自嘲の笑みを深くした。「いいんですよ。難病の再生医療薬の開発なんて……初めから無理な話だったんです。叶いもしない夢物語に憑りつかれていただけなんです」自分を見捨てた父親への怨嗟と、それを理解しようとして結局何も得られなかった自分自身の惨めさ。そのすべてを、バカという陳腐な言葉で一括りに切り捨てた時、私の胸の奥には泥のような暗い快感が広がっていた。父親の人生を愚かだったと嘲笑うことで、私はようやく、愛されなかった過去の自分を慰めることができるのだと錯覚していた。彼がどれほどの思いでその研究に向き合っていたかなど、残された私には知る由もないし、知る価値もない。 ただ家族を犠牲にして破滅していっただけの、独りよがりで滑稽な男だったのだと。私は智哉さんの胸元から顔を上げ、同意を求めるように、引き攣った
「……どうでしょうね。今となってはもう、その答えを聞くことすらできませんから」智哉さんが私を慰めるために紡いでくれたその言葉は、冷え切っていた私の心の奥底にじんわりと染み渡り、固く閉ざしていたはずの感情の蓋を大きく揺さぶった。けれど、いくら彼が私の父親の愛情を代弁してくれたところで、その真実を証明する術はもうこの世界のどこにも残されていない。突然の事故は、未来の可能性だけでなく、過去の真意を確かめる機会すらも奪い去ってしまった。だからこそ、期待するのはやめたのだ。もしかしたら愛されていたかもしれないという淡い希望を抱いたまま、二度と会えない現実に打ちのめされるくらいなら、最初から何もなかったと思い込んだ方がずっと楽だった。「お前は、父親のことが嫌いか」その瞳は、私のわずかな表情の変化すらも見逃さないと言わんばかりに、至近距離で私をじっと見据えている。「嫌い、とかではありません。ただ…」嫌いや憎いという激しい感情が持てるほど、私は父親との接点を持っていなかった。嫌いになれるのは、相手が自分に向き合ってくれているという実感があってこそだ。彼に対する感情は憎しみではなく、ただ途方もない空虚さと、寂しさだけだったのだ。「なら、どうして親父と同じ仕事を選んだ? 父親に無関心なら、わざわざ同じ医療薬の研究職になど就く必要はなかったはずだ」父親を何とも思っていない、嫌いでもない。そう言いながら、実際には父親と同じ大学に進み、同じ分野の専門知識を学び、同じ白衣を着る道を選んだ私。「……ただ、どうしても気になったんです。父が私たち家族を放ってまで情熱を注ぎ込んでいた研究という世界が、一体どれほど面白いものなのかって」心の奥底に澱のように溜まっていたひどく幼い本音を、ぽつりぽつりとこぼし始めた。 私はずっと、その見えないライバルのようなものに対して、強烈な嫉妬心と、それと同時に抑えきれない好奇心を抱いていた。父親の目を自分に向けさせることができないのなら、せめて彼が見ていたのと同じ景色を見れば、彼が何を考え、何を愛していたのかが少しでも理解できるのではないか。そんな縋るような思いで、私は気がつけば父親の後を追うように同じ職業を選択していた。「それで? 実際に同じ景色を見て、どうだったんだ」私の泥臭く情けない吐露を、智哉さんは鼻で笑うこともなく、た
信じられないほど密着したこの状況に、私の頭は完全に真っ白になってしまった。「智哉さん、近いです…っ」私が慌てて身を捩り、彼から離れようともがくと、背中に回された彼の腕の力がさらに強まった。「動くな。傷に響く」そう言いながらも、私を抱きしめる彼の腕からは全く力が抜ける気配がなかった。「あ、すみません。……じゃなくて!」私がまだ少し混乱したまま言葉を濁していると、智哉さんは私の背中を包み込んでいた手をゆっくりと動かし、子供をあやすかのようにポン、ポンと叩き始めた。それは、常に完璧で冷酷な彼からは想像もつかないほど、優しくて温かい行為だった。「俺はちゃんと生きてる。……だから、そんなに震えるな」「心配……します。心配しますよ、当たり前じゃないですか」 私の抗議を受け止めながら、智哉さんは静かに息を吐き出した。彼の胸の上下運動が心地よく伝わってくる。「俺は案外しぶといんだ」その言葉に含まれた奇妙な力強さに、私は彼の胸元から少しだけ顔を上げた。「え……?」私が不思議そうに問い返すと、智哉さんは視線を真っ直ぐ前へ向けたまま、私に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。「簡単に死んだりはしない。お前が思っているよりずっと、長く生きるってことだ」その言葉を聞いて、彼がなぜ私のパニックの理由を瞬時に理解し、なぜ急に不器用な慰めを与えてくれているのか、点と点が線で繋がった。「もしかして……いえ、もしかしなくても。私の父のこと、調べられたんですよね」私の核心を突く問いに対し、智哉さんは明確な肯定も否定もしなかった。徹底した身辺調査。彼は自分の領域に入れる人間の背景を隅々まで調べ上げる。それが彼のやり方だ。「……さぁな」私の父が不慮の交通事故で命を落とし、それが私の人生を大きく狂わせる引き金になったことも、彼はとっくの昔に把握していたのだ。「それで、
VIP専用病棟の最上階。重厚な扉を押し開けた瞬間、鼻を突くツンとした消毒液の匂いが、肺の奥まで冷たく入り込んできた。無機質で広々とした個室の中心に置かれた白いベッド。そこには、身を横たえた智哉さんの姿が。右腕には痛々しいほど真っ白で分厚いギプスが巻かれ、首のあたりにも擦り傷の手当てがされている。呼吸の仕方を忘れたように息を呑み、足元が縺れそうになるのを必死に堪えながら、私は彼の元と駆け寄った。「智哉さん……!」私の悲痛な叫び声を聞き、目を閉じていた智哉さんがゆっくりと瞼を開けた。「どうしてお前がここに……」秘書は智哉さんのベッドの傍らで深く頭を下げ、苦渋の色を滲ませながら、自らの落ち度を報告しようと口を開いた。「申し訳ございません、社長。私が」秘書の彼がその先の言葉を紡ぐ前に、私は彼を庇うようにして半歩前へ飛び出した。「私が無理を言ってお願いしたんです。今すぐ会いに行かせて欲しいと」私の決死の訴えを聞いても、智哉さんの表情から険しさが消えることはなかった。「お前はまだ家にいなけ──────」リスクを理解した上で、私はここに来た。彼に怒られるのは当然の報いだった。けれど、彼がいくら正論を並べて私を責め立てようと、私の視線はどうしても彼の右腕に巻かれた分厚いギプスから離れなかった。痛々しく固定されたその腕が、彼が決して無敵の存在ではないのだという現実を残酷なまでに突きつけてくる。「そんなことより、腕は大丈夫なんですか」私の悲痛な問いかけに対し、智哉さんは呆れたように小さく息を吐き出した。「騒ぐな。ただの骨折だと……そう伝えたはずだが?」彼は私から視線を外し、部屋の隅に控えている秘書の方へと鋭い眼光を向けた。「ええ、何度もそのようにお伝えして引き止めたのですが」「事故に遭ったって聞いて…いてもたってもいられなくて…
窓から斜めに差し込む夕陽が、リビングの冷たい大理石の床を鮮やかな茜色に染め上げていた。一週間に及んだ安全確保という名目の軟禁生活が、この日暮れとともにようやく終わろうとしている。「明日からは、もう外へ出ても構わないんですよね」「ええ。この一週間、窮屈な生活にご不便をおかけしました」一切の淀みなく紡がれたその声には、任務を無事に完遂した安堵のようなものがほんの僅かに滲んでいるように聞こえた。外に出てもいいと言われたところで、今の私には行く宛てなんてどこにもない。私は心の中でひっそりと、形だけの自由を手に入れた自分自身を自嘲していた。息の詰まるこの邸宅から抜け出し、気を許して気軽に誘えるような友人は悲しいことに一人もいない。私が微かに視線を落として黙り込んでいると、秘書の彼は手元のタブレットの画面をスワイプし、再び淡々とした事務的なトーンで口を開いた。「空席となっていた使用人の件ですが。来週から、新しい者がこちらに赴任することに決まりました」「…そうですか」「今度の者は、社長自らがより厳格な身辺調査と適性検査を行った上で選定したベテランです。奥様にご不便をおかけするような事態には決してなりません」秘書は誇りすら感じさせる声で付け加えた。裏切りを何よりも憎み、他者を決して信用しようとしない智哉さんらしい徹底ぶりだ。きっと新しい家政婦さんも、分厚い秘密保持契約でがんじがらめに縛り上げられた、彼にとっての安全で無害な駒の一人に過ぎないのだろう。人が入れ替わったからといって、この無機質な邸宅が人間の体温を持つような温かい場所に変わるわけではない。「智哉さんが厳重に選んだ方なら安心ですね」 「それと…重々ご承知のこととは思いますが────」「もし朝倉さんが訪ねてきても、絶対にこの家の中に入れるな。ですよね?」私が先回りしてそう告げると、秘書の彼はわずかに目を細めただけで、肯定も否定もせずにただ静かに私の言葉を聞き入れていた。
この日が、とうとう訪れてしまった。私はパーティー会場の端で、ワインを片手に静かに佇んでいた。煌びやかなシャンデリアの光が眩しく、笑い声とグラスの音が絶え間なく響く中、心だけが冷たく孤立している。扉が開いた瞬間、亮介が園田家の令嬢を伴って登場する。その姿はまるで見せつけるための演出のようで、私の胸を鋭く抉った。周囲から「お似合いだわ」という声が漏れ聞こえ、華やかな祝福の空気が広がる。この場にいること自体が罰なのだと、痛感せずにはいられなかった。「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。皆さまに改めてご報告申し上げます。私どもはこのたび、婚約いたしました」その言葉が響い
今日は私の誕生日だった。 手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じ
家から歩いて二十分ほどの距離に、そのカフェはあった。 アンティーク調のレンガ造りの外観は、スマホの小さな画面で見た以上に魅力的で、どこか隠れ家のような落ち着いた雰囲気を漂わせている。 重厚な木製のドアを押し開けて中に入ると、カランと控えめなベルの音が鳴り、同時に焙煎されたばかりのコーヒーの芳醇な香りがふわりと鼻先をかすめた。 店内は数人の客がまばらに座っているだけで、静かでゆったりとした時間が流れていた。 偵察のつもりで来たけれど、この空間なら少し羽を伸ばせそうだ。私は
冷たく閉ざされた扉と、彼の言葉が頭を巡って、結局一睡もできないまま朝を迎えてしまった。 静まり返ったリビングのソファに、深く体を沈める。 智哉さんは朝早くに家を出ていった。足音が聞こえた時、顔を合わせる勇気が出なくて、思わずベッドの中でたぬき寝入りをしてやり過ごしてしまった。 「あんな簡単に吐き捨てられ……」 無意識にこぼれた言葉に、私は慌てて首を振った。 違う。あの大雨の夜、自分の劣等感から先に「向いていない」と逃げの言葉を口にしたのは、私の方だ。 売り言葉に買い言葉







