登入この日が、とうとう訪れてしまった。
私はパーティー会場の端で、ワインを片手に静かに佇んでいた。 煌びやかなシャンデリアの光が眩しく、笑い声とグラスの音が絶え間なく響く中、心だけが冷たく孤立している。 扉が開いた瞬間、亮介が園田家の令嬢を伴って登場する。 その姿はまるで見せつけるための演出のようで、私の胸を鋭く抉った。 周囲から「お似合いだわ」という声が漏れ聞こえ、華やかな祝福の空気が広がる。 この場にいること自体が罰なのだと、痛感せずにはいられなかった。 「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。皆さまに改めてご報告申し上げます。私どもはこのたび、婚約いたしました」 その言葉が響いた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。 彼の声は堂々としていて、会場の人々は笑顔で拍手を送る。 けれど私にとっては、愛した人が自分ではない誰かと未来を誇らしげに語る残酷な宣告にしか聞こえなかった。 ワインの赤がグラスの中で揺れ、涙を押し殺す心の波が重なって見える。私はただ端に立ち尽くし、声を失ったままその場に釘付けにされていた。 「皆さま、本日はこのように温かくお迎えいただき、心より感謝申し上げます。まだ未熟な私ではございますが、彼と共に歩む未来を大切に育んでまいりたいと存じます。どうか今後ともご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」 彼女の言葉は柔らかく、控えめで、場にふさわしい華やかさを帯びていた。 周囲はさらに拍手を重ね、祝福の空気が広がる。 未来への希望を語っているだけなのに、私にはその未来が永遠に閉ざされたことを突きつけるものだった。 「彼女は聡明で気品に満ち、これからの人生を共に歩むにふさわしい方でございます。どうか温かくお見守りいただき、今後とも変わらぬご厚情を賜れれば幸いに存じます」 彼の言葉は誇らしげで、この選択に満足しているようだった。 ワインの赤が揺れるたび、涙が込み上げ、喉が詰まるような苦しみが広がっていった。 「そこの方、ワインをお願いできますか」 その言葉は、場の空気に溶け込むように丁寧で穏やかだった。 「…かしこまりました」 その声が響いた瞬間、私の心臓は強く締め付けられた。 華やかな笑い声と拍手が絶え間なく続く会場の中で、私だけが凍りつく。 「え…」 思わず声が漏れた。 信じられない光景が目の前に広がっている。 どうしてお母さんが、そんな格好をして、彼の命令に従わなければならないのか。 母は誇り高く、私にとって唯一の支えだったはずなのに、今は人前で「使用人」として扱われている。 周囲の人々はそれを当然のように受け止め、誰も疑問を抱かない。 「お母さん…」 その名を呼んだ瞬間、胸の奥から込み上げる衝動に突き動かされ、私は思わず足を踏み出した。 人前で使用人の衣服を着せられ、命令に従う母の姿を見ているだけでは耐えられなかった。 せめて傍に行き、支えたい。その思いが私を突き動かす。 けれど、母は私の視線に気づくと、静かに首を横に振った。わずかな仕草だったが、確かに「来るな」と告げていた。 私は足を止め、ただその場に立ち尽くすしかなかった。 「なお、本日は昔からの知人もお越しくださっております。彼女にもぜひ祝福していただければと存じます」 確かに、彼には知人として参加するように言われていた。だから私は、ただ端に立ち、二人の婚約を見届ける役割を果たすつもりだった。 もしもこれが彼の目的なのだとしたら。 元婚約者の婚約者を見せつけ、母が使用人として扱われる現実を突きつけ、そして最後に婚約を祝う言葉を私自身に言わせる。 これ以上残酷な仕打ちがあるだろうか。 「いや、まさかそんなわけ…」 心の中で必死に否定する。 こんな屈辱を受け入れるはずがない、受け入れてはいけない。けれど現実は容赦なく迫り、私の名前が呼ばれるのを待っている。 否定の言葉は空しく、ただ自分を慰めるための抵抗に過ぎなかった。 「桜井ひよりさん。前へ」 名前を呼ばれた瞬間、血の気が引いた。人々の視線が一斉に私に注がれる。 「はい…」 足が重く、前へ進むたびに心が削られていく。 このまま消えてしまいたいと思った。 けれども逃げることは許されない。私はただ、一歩ずつ前へ進むしかなかった。 そのとき、重厚な扉がゆっくりと開かれた。 「遅れてすまない」 低く落ち着いた声が響いた瞬間、会場の視線が一斉に彼へと注がれた。 彼は…篠原智哉。 その名は噂でしか知らなかった。 血も涙もない冷徹な人間、情を持たぬ謎めいた存在。けれど、実際に姿を現した彼は、噂以上に人を圧倒する雰囲気を纏っていた。 冷徹と呼ばれる男が、なぜこの場に現れたのか。なぜ今、この瞬間に。 答えのない問いが頭の中で渦を巻き、ただ彼の動きを見守るしかなかった。 「篠原様じゃないですか。お越いただき…」 亮介は彼に話しかけようとするが、その言葉をまるで耳に入れていないかのように、迷いなく歩みを進めた。 彼の足取りは重厚で、周囲のざわめきを切り裂くように響き、誰もが息を呑んでその姿を見守った。 噂通り冷徹な人間なのか、それとも別の顔を隠しているのか。誰もが答えを探そうとするが、彼の表情は謎めいたまま。 そして、そのまっすぐな視線が私に向けられた瞬間、心臓が跳ね上がった。 …え、私?いや、そんなわけ。 周囲の視線が突き刺さる中、彼は迷いなく私の目の前で立ち止まった。 まるで最初から私を目指していたかのように、その足取りには一切のためらいがない。 私は息を呑み、足がすくんで動けなくなる。なぜ私なのか理解できないまま、ただ彼の存在に圧倒された。 場のざわめきが遠のき、世界が静まり返ったように感じられる。 そして、彼はゆっくりと顔を近づけ、耳元に顔を寄せて低く囁いた。 「────ひより、俺にキスしろ」また、あの夢を見た。 父が死んだ、あの最悪な一日の夢。 しばらくは見ないで済んでいたのに。 心が悲鳴をあげ、体が重く沈み込むような夜になると、私は決まってあの日に引き戻される。 結局、私はあの日から一歩も前に進めていないんだろうか。それとも、ただただ寂しくて、夢でいいからお父さんに会いたいなんて、心のどこかで思ってしまっているんだろうか。 けれど、こんな残酷な再会ならいっそ見せないでほしい。 「夢なら、夢らしくしてよ」 何度も、何度も、壊れたように叫ぶ。 どうせ私の頭が見せている幻影なら、現実の通りになぞる必要なんてないじゃないか。夢の世界なら、夢らしく私の願いを一つくらい叶えてくれたっていいじゃないか。 ねえ、お願いだから、目を覚ましてよ。 機械の音が鳴り響く絶望の中で終わるんじゃなくて、そこから奇跡みたいに目を開けて、起き上がってよ。 冷たくなっていく指先に血が通って、力強く私の手を握り返して。戸惑う私を見て「どうしたんだ」って、呆れたみたいに、優しく笑ってよ。 そんな叶わぬ願いを抱きながら、深い闇の中で私はただもがき続けていた。息をするのすら苦しくて、冷たい涙が頬を伝っていく感覚だけがやけにリアルに迫ってくる。 真っ暗な視界の中で、もう二度と触れることのできない父の温もりを探して、あてもなく虚空へ手を伸ばす。 これ以上私を苦しめないで。 底なしの絶望に向かって声にならない声で懇願し続けていた、そ
「長くお仕えしておりますから。……ですので、どうかあの方の不器用な優しさを許して差し上げてください」秘書のその言葉には、長年あの方に仕えてきたからこその深い理解と、静かな信頼が込められていた。確かにその通りだ。冷徹で感情を見せないあの人の行動の裏にある不器用な優しさを、私は知ってしまった。私は、彼へ向けて小さく首を横に振った。許すだなんて、そんなおこがましいこと、思えるはずがない。「許すも何も本当は感謝してるんです。私一人じゃ……きっと何もできなかったはずなので」私のその言葉に嘘はなかった。今回のことだけじゃない。お母さんの借金のことだってそう。途方に暮れていた時、契約という冷たい名目の元で、確実に私を救い上げてくれたのは他でもないあの人だった。そんなふうに思っていると、ふいに冷たい空気が肌を刺した。雨芯まで冷え切った体が、ブルッと無意識に震えた。「……くしゅっ」静まり返ったリビングに、私の間の抜けた小さなくしゃみの音が響き渡った。途端に羞恥心が込み上げてきて、私は慌てて両手で口元を覆い隠す。鼻をすする私を見て、秘書の端正な顔立ちにふっと心配そうな影が差す。「お体が冷え切ってしまっていますね。今日はもう、お部屋でゆっくりお休みになってください」私は素直に頷いた。温かいベッドに潜り込んで、とにかく今は眠りたい。「はい、そうします」私は彼に軽く頭を下げると、部屋へと向かうために一歩を踏み出そうとした。右足にぐっと体重を乗せた、まさにその瞬間だった。「……っ、」足首の奥底から、まるで鋭い針で深く刺されたかのような強烈な痛みが。足首の痛みを庇おうにもうまくバランスが取れず、ふっと膝からすべての力が抜け落ちていく。冷たい床に叩きつけられる衝撃を覚悟して、私は思わずぎゅっと両目を閉じた。けれど、いくら待っても予想していた鈍い痛みはやって来なかった。ハッとして目を開けると、咄嗟に腕
「…え、でも、ここにいるよう指示されたって」 家に私を一人にさせないのは、私を逃がさないための見張りなのだと思っていた。私の疑心暗鬼に満ちた視線を真っ向から受け止めても、彼は表情一つ崩すことはなかった。 「家にひより様を1人にはしておけないので、傍で守るよう」 守る。そのたった二文字の言葉が、私の頭の中で何度も反響し、これまでの世界を根本からひっくり返していくような強烈なめまいを覚えた。 私を監視し、縛り付けるためではなく、危険から遠ざけ、安全を確保するためにそばに置いていたというの? あの時の智哉さんの冷え切った視線と、突き放すような冷たい口調が脳裏に蘇る。 「守る…私を?」 自分の口からこぼれ落ちた言葉は、どこか現実味を帯びていなかった。 私の呆然とした呟きに対し、彼はゆっくりと、力強く頷いてみせた。 「智哉様は、彼が来ることも見越しておられました」 その瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。 智哉さんは、涼介の狂気じみた行動をあらかじめ予測していたからこそ、私を無理やりにでも自分の手の届く範囲に置いて…。 「涼介のことを理解していたから…」 だからあのとき、チャイムが鳴った時、秘書は私に部屋に戻るように言ったのか。よく考えれば、この家の主である彼が自分の家でわざわざチャイムを鳴らすはずがない。 智哉さんが帰ってきたのだとばかり思い込んでいた自分の鈍感さが呪めかしい。 そして秘書は、私が涼介と接触しないように、必死で防波堤になってくれていたのだ。 それなのに、私は……。 母の現状を知らされて自ら彼の前に出てしまった。 「ここへ来たのも、彼からひより様を遠ざけるためだったのです」 「私のためにここに…?」 震える声で紡いだ私の言葉は、静かな部屋の空気に溶けていった。 智哉さんが私のためにそこまでしてくれていたという事実が、これまでの私の凝り固まった価値観を優しく打ち砕いていく。 「智哉様は万が一を警戒しておいででしたが、私はここなら安全だろうと…。まさか、ここにいることまで突き止めてしまうほど執着質だったとは」 涼介の執着心。その言葉の響きだけで、皮膚の下をぞわぞわと不快な虫が這い回るようなおぞましさを感じた。 「それならそうと言ってくれれば」 私だって子供ではないのだから、事情を説明されれば黙って従ったし、何
「手を煩わせてしまってすみません」申し訳なさで胸がいっぱいになり、私は消え入るような声で謝罪を口にした。私のせいで、本来なら必要のない労力を使わせてしまっている。「いえ」秘書は表情を崩すことなく、事務的な、けれど拒絶ではない短い言葉を返した。「智哉さんにも迷惑をかけてしまって、」彼はただ黙々と包帯を巻くばかりで、何も言わなかった。…気まずい。耐えがたいほどの静寂が、部屋の中に膜を張ったように居座っている。衣擦れの音だけが耳に障り、手当てを受ける自分の足首に視線を落とすと、秘書の指先が驚くほど正確に動いているのが見える。どうすればいいのか分からず、私はただ呼吸を浅くして、この息苦しい時間が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。「そんな風には思っていないかと」秘書が顔を上げず、包帯を固定しながら沈黙を破った。意外な言葉に、心臓が跳ねる。智哉さんの意思を代弁するかのようなその響きには、確かな重みがあった。「え?」私の耳が信じられなかった。智哉さんが私を迷惑だと思っていないなんて。「ただ、帰りの遅いひより様を心配されておられました」心配という、智哉さんとは最も無縁だと思っていた単語が、秘書の唇から滑り出した。「心配?私を?」そんなはずがない。私はただ、彼の所有物の一つとして管理されているだけだ。「……ええ。お帰りにならないあなたを待つ間、智哉様は仕事も手につかないご様子で。最後にはいてもたってもいられなくなったようで、家を飛び出して行かれましたよ」「そんなふうには…」私は首を弱々しく振り、否定しようとした。だって、私を見つけた時の彼の目は、凍りつくほど冷たかった。あの視線は心配しているのではなく、ただ、死なれたら困るから仕方なく探しに来たような、そんな感じがしたのだけれど。「あんなに取り乱した智哉様を拝見したのは、私
「それが、俺たちの契約だろう。お前を誰にも汚させず、無傷でここにいさせる」「そうでしたね。ただ、次からはちゃんと教えて欲しいです」守られているといえば聞こえはいいけれど、私は何も知らされないまま彼の敷いたレールの上を歩かされているだけだ。その孤独に似た不安を拭いたくて、精一杯の抗議を口にした。彼の瞳が、私の言葉を受けてわずかに細められた。「それは、お前が」「智哉さんの足を引っ張るような真似はしませんから」私は彼の言葉を遮るように、あえて毅然とした口調で言い放った。泥だらけの惨めな姿で、膝をついている今の私には説得力がないかもしれないけど。「…はぁ。いつまでそこにいるつもりだ」彼が投げかけたのは、私への言葉ではなかった。「すみません。盗み聞きするつもりはなかったのですが」廊下の暗がりに佇んでいた秘書が、ゆっくりと光の中に足を踏み入れた。主人の帰宅を確認し、報告事項を携えてやってきたところ、偶然にも私たちの密やかな場面に居合わせてしまったのだろう。声をかけるべきか、あるいは立ち去るべきか。その一瞬の迷いが彼をその場に留まらせ、結果として、私たちの会話を聞く形になってしまった。彼は一礼すると、感情を読ませない冷静な瞳をわずかに伏せた。「ちょうどいい。後の処置は、お前に任せる」智哉さんは、先ほどまで私の手を包んでいた熱い掌を、驚くほどあっさりと離した。立ち上がると、膝についたわずかな埃を払うようにスラックスを整える。「まだ話は終わってないじゃないですか」これから隠し事はしないと、そう言われていない。私の呼びかけに、彼が足を止めることはなかった。「急ぎの仕事が残っている」私を突き放したわけではないのだろうけれど、彼の優先順位が瞬時に仕事へと切り替わるその冷徹なまでの切り替えの早さに、私は置いてけぼりを食らったような奇妙な寂しさを覚えた。「承知いたしました。あとのことは
智哉さんは無言のまま、家へと運んでくれた。 玄関の重厚なドアが開くと、温かく柔らかな光が私の視界を優しく包む。 智哉さんは靴を脱ぐ間も私を降ろさず、そのままリビングへと直行し、ソファの前で足を止める。そして、壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりと私をソファに下ろした。 柔らかなクッションに体が沈み込み、ようやく自分の体重から解放された足首が、じりじりと熱い痺れを放ち始める。 泥で汚れたスニーカーが高級なソファを汚してしまうのが気になったけれど、それを察した智哉さんが私を制した。 「動くな。余計に酷くなる」 彼は私の返事を待たず、そのまま床に膝をついた。見上げる高さにいたはずの彼が、今は私の足元で、泥だらけのスニーカーに手を掛けている。 「あの……汚いですから、自分で……」 「動くなと言ったはずだ」 智哉さんの声は低く、そしてどこか張り詰めた糸のような緊張感があった。彼は丁寧に、私の足首に負担をかけないよう細心の注意を払いながら、泥にまみれた靴紐を一本ずつ解いていく。 私のために膝をつき、私の足を介抱するその姿を見て、私は胸の奥が焼けるように熱くなった。 言葉足らずで、不器用で、強引さの裏側にある本当の優しさに、私はこの期に及んでようやく触れた気がした。 智哉さんはスニーカーを脇に置くと、今度は私の靴下に手をかけた。 泥と土にまみれた白い生地が、彼の綺麗な指先を汚していく。私は申し訳なさで身を縮めたけれど、彼はそんなことなど気にも留めない様子で、腫れ上がった患部を露出させた。 「……っ」 露わになった足首は、元の形が分からないほどに膨らみ、どす黒い熱を放っている。 智哉さんの喉が、ひどく緊張したように動いた。 「氷を持ってくる」 智哉さんは立