LOGIN智哉さんは無言のまま、家へと運んでくれた。
玄関の重厚なドアが開くと、温かく柔らかな光が私の視界を優しく包む。 智哉さんは靴を脱ぐ間も私を降ろさず、そのままリビングへと直行し、ソファの前で足を止める。そして、壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりと私をソファに下ろした。 柔らかなクッションに体が沈み込み、ようやく自分の体重から解放された足首が、じりじりと熱い痺れを放ち始める。 泥で汚れたスニーカーが高級なソファを汚してしまうのが気になったけれど、それを察した智哉さんが私を制した。 「動くな。余計に酷くなる」 彼は私の返事を待たず、そのまま床に膝をついた。見上げる高さにいたはずの彼が、今は私の足元で、泥だらけのスニーカーに手を掛けている。 「あの……汚いですから、自分で……」 「動くなと言ったはずだ」 智哉さんの声は低く、そして午後を少し回った頃、絶対に外へは出ないようにと何度も念を押して、秘書はようやく出かけて行った。私が一人で留守番をする間、少しでも退屈して余計なことを考えないようにという、彼らなりの配慮なのだろう。リビングの壁を占拠する巨大なモニターには動画配信サービスの画面がすでに映し出され、高級感のあるローテーブルの上には最新のゲーム機が。お菓子や飲み物まで手の届く範囲に完璧にセットされており、そのあまりにも不自然で過保護すぎる光景に、私は思わず深い溜息をついてしまった。「至れり尽くせり……」誰もいない広すぎるリビングで、私の皮肉交じりの呟きは虚しく空気を震わせただけで吸い込まれていった。私がこの部屋から逃げ出すと疑っているのだろうか。お互いの利害が完全に一致した上での、納得のいく契約だったはずなのに、彼らに信用されていないらしい。ふかふかのソファに深く身を沈め、適当な映画でも再生して時間を潰そうとリモコンに手を伸ばしたその時だった。ピンポーン静寂を切り裂くような無機質なインターホンの電子音が鳴り響き、心臓が大きく跳ね上がった。ひどく嫌な予感が胸の奥からせり上がってくる。忘れ物でもした秘書が戻ってきたのかと安堵しかけたが、すぐにその考えを打ち消す。いまドアの向こうにいるのは間違いなく部外者だ。私はごくりと固唾を呑み込んだ。大丈夫、私が内側から鍵を開けない限り、誰であろうと絶対に入ってこられないのだから。震える足を叱咤し、恐る恐る壁に備え付けられたモニターへと近づく。「亮介の、婚約者……?」画面の向こう側に立っていたのは、私が最も警戒していた亮介ではなく、あろうことか彼の婚約者だった。完璧にセットされた髪に、一目で高級ブランドのものだとわかる上品なベージュのワンピース。亮介の差し金…?自分が直接来ても、私が絶対にドアを開けないと分かっているから、警戒心を解くために婚約者を利用した……? 背筋にべっとりと冷たい汗が伝うのを感じる。考えを巡ら
カーテンの隙間から差し込む陽光が、床の上に綺麗な四角い光の模様を描いている。それを眩しそうに見つめながら、私はゆっくりとベッドから足を下ろした。寝室の天井にある木目の数を数えることくらいしかできなかった私にとって小さな解放だった。智哉さんからようやく「家の中なら歩き回ってもいい」と許可が降りたのは、あの夜から五日が経った頃だった。それまで頑なにベッドから出ることを禁止されていたのは、熱が下がったばかりの私がまた体調をぶり返したら困るから。それから、あのとき捻挫した足首がまだ動かすたびにピリッと痛んだからだった。「今日はいい天気…」ドアを開け、廊下を渡ってリビングへと向かう。この家に連れてこられてからというもの、ずっと二階の寝室にこもりきりだったから、一階の生活スペースに足を踏み入れるのはこれが初めてだった。気晴らしに外に行こうか。ずっとベッドの上にばかりいたから、自分の体力が砂のようにサラサラと零れ落ちて、どんどん衰えているような焦りがあった。いや、今日はこの見知らぬ大邸宅の探検に費やすくらいが、今の私にはちょうどいいのかもしれない。そんなことを考えながら、手すりを頼りに一段一段、慎重に階段を降りていく。そして、ようやく最後の段を降りきって視界が開けた瞬間、私は思わず息を呑んだ。「広…」高い天井から降り注ぐ柔らかな光と、贅沢なほどに広々とした空間。そこに置かれた調度品のひとつひとつが、私のような人間が触れていいのか躊躇うほどの洗練された重厚感を放っている。亮介の家も十分に広かったけど、ここは次元が違った。空間の広さそのものが、住む人間の格の違いを無言で突きつけてくるようで、大理石の床にぽつんと立つ自分の存在が、やけに小さく、場違いなものに思えて仕方がなかった。あの広さでさえ家事をするのが大変だったのに、その二倍はあるこの大邸宅を維持するなんて、一体どれだけの労力が必要なのだろう。丸一日あっても、私一人の手では埃一つ払い切れないかもしれない。無意識のうちに自分の服の裾をぎゅっと握りしめて
「智哉様からは、絶対に言わないようにときつく口止めされていたのですが」 高熱で倒れた私の不甲斐なさに対する手厳しい叱責の言葉だろうか。それとも、契約したことを後悔する言葉だろうか。 嫌な想像ばかりが次々と脳裏を駆け巡り、キュッと冷たく縮み上がるのを感じる。 「そちらのお粥、実はあの方がご自身で作られたのです」 その衝撃的な言葉が耳に届いた瞬間、私の頭の中は完全に真っ白になった。 「え、智哉さんが…?」 まさか、この温かいお粥を、わざわざ自らキッチンに立って作ったと…。 到底信じられない思いで、ゆっくりとお盆の上の器へと視線を落とす。そこには卵がふんわりと柔らかくとじられ、弱った胃腸に負担をかけないようにと細かく刻まれた野菜が丁寧に煮込まれた、見るからに手間のひまかかった優しげなお粥が静かに湯気を立てていた。 「それと、ひより様が目を覚ますまでのこの三日間、ほとんど一睡もせずに、あなたのそばに付き添っておられました」 秘書の口から紡がれたその信じがたい言葉に、私は思わず息を呑んだ。 「ずっと、そばに……?」 掠れた声で呆然と問い返しながら、頭の中は激しい混乱に陥っていた。 目を覚ました時、彼がこの部屋にいたのは仕事の合間にほんの少し時間が空いたから、たまたま様子を見に来ていただけなのだと思っていたのに。 「重要な会議も商談もすべて私に丸投げしてしまうぐらい、ひより様のことが心配だったんですよ」
泥のような深い眠りから、ふと意識が浮上した。 室内に落ちる影の長さからして、おそらく三時間ほど経っているように思う。 ゆっくりと重い瞼を押し上げると、先程まで視界を覆っていた不快な熱の霞はすっかり晴れていた。 そっと息を吸い込んでも肺が焼けるような感覚はなく、身体の奥底にのしかかっていた鉛のような重だるさも随分と抜けていた。 どうやら、あのまま気を失うように眠っている間に、熱のピークは無事に越えてくれたらしい。 そして、私が目を覚ました最大の理由は、ひどく現実的なものだった。 きゅるる……。 誰もいない静かな部屋に、小さく、しかしはっきりと情けない音が響く。 不甲斐なさと自己嫌悪でどん底まで沈んでいたというのに、私の身体はそんな感情の機微などお構いなしに、しっかりと生命活動を主張している。 「……我ながら、図太いな」 ぽつりと一人ごちた声は、さっきよりもずっとクリアに出た。けれど、食欲が湧いてきたということは、確実に身体が回復に向かっている何よりの証拠でもあった。 ゆっくりと上体を起こし、ふぅと小さく息をついたその時だった。 コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、静かに病室のドアが押し開かれた。 「あ…」 入ってきたのは他でもない、秘書の彼だった。
「お前がそうやって平気なふりをするたびに、どれだけ俺の神経が逆撫でされるか分かるか?」冷たく低いその声には、隠しきれない明らかな苛立ちが滲んでいた。高熱でひどく霞む視界の中でさえ、彼が放つ圧倒的な威圧感と怒気は肌が粟立つほど痛いように伝わってきた。自分のせいで彼の貴重な時間を奪い、あまつさえこんなにも激しく怒らせてしまったのだという事実が、ズキズキと脈打つ頭痛をさらに酷くさせた。「…すみません」私としては、これ以上彼を不快にさせまいと、熱で震える唇を必死に動かして紡いだ謝罪だったのだが、どうやらそれは彼の怒りの火に油を注ぐだけの完全な逆効果だったらしい。「謝罪など求めてない」謝ることすら許されないのだとすれば、今の私には一体何ができるというのだろう。ただでさえ高熱で思考が泥のように鈍っているというのに、彼から向けられる圧倒的な拒絶のオーラが、私のわずかな気力すらも根こそぎ奪っていく。情けなくて、悔しくて、自分の愚かさを自分自身で嘲笑うかのように、熱を持った自嘲の言葉がぽつりとこぼれ落ちる。「自分の体調不良にすら気づかず倒れるなんて、情けないですよね」自分で口にしながら、その事実がさらに心を重く暗い底へと沈ませていくのを感じた。私は自分の身体が発するSOSにすらまったく気づくことができず、無様に気を失って倒れてしまった。「たまたま秘書がそばにいたから良かったものの」その鋭い指摘に、プツリと途切れる直前の不確かな記憶がふいによみがえる。視界がぐらりと反転し、床へと崩れ落ちたあの時、遠くで秘書のひどく焦ったような声を聞いたのを最後に、私の意識は完全に暗転した。もしあの時、すぐそばに対応をしてくれる人がいなかったら。取り返しのつかないほど大きな騒動に発展し、今以上に迷惑をかけていたことは想像に難くない。「…面目ないです」熱でひび割れた唇から絞り出すようにそう告げながら、心の中で秘書にも深く頭を下げる。
「こんな山奥に病院が?」 コンビニすらない、完全に世間から隔離されたような場所に病院なんてあるのだろうか。 私の間抜けな問いかけに対して、智哉さんはわずかに眉を寄せた。 「まともな治療を受けるために下まで運んだんだよ。……ここは俺の家だ。病人を不便な場所に置いておけないだろ」 目を伏せると、自分の手首に貼られた小さな白いテープが視界に入る。それは点滴の針を固定していた痕だろうか。 うっすらと青ざめた自分の肌を見つめていると、本当に自分が深刻な状態にあったのだという実感がじわじわと湧いてくる。 「お医者様はなんと…」 どんな恐ろしい病名を告げられるのかと、心臓が早鐘を打ち始める。 「ストレスの溜め込みすぎだそうだ」 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れたように、全身から一気に力が抜けていった。 「そう、ですか」 絞り出すように発した声は、ひどく空々しく部屋に響いた。自分自身の不甲斐なさを認める言葉のようで、それ以上何かを付け加えることができない。 「点滴を打って容体は落ち着いたが、熱だけがなかなか引かなかった」 私が眠っている間、彼にどれだけの面倒を押し付けてしまったのか、考えれば考えるほど穴があったら入りたい気分







