登入「あら。私たちが幼馴染みだということ、お聞きになっていらっしゃらなかったの?」
彼女のその思いがけない言葉に、私は完全に虚を突かれてしまった。ひどく乾燥した喉を動かし、ごくりと息を呑んで、私はようやく声を絞り出す。「いえ……今、初めて……」私が言葉を濁し、明らかに動揺している様子を見て、彼女は少しだけ気の毒そうな表情を浮かべた。「あの方は昔から、ご自分のことについては多くを語りたがらない性格でしたから」ただ純粋に、私が作り出してしまった気まずい空気を、彼女の方から積極的に和らげようとしてくれているのが伝わってくる。「そうですか」消え入りそうなほどの声しか出せなかった。それでも、声が震えるのを防ぐには、こうして短く返すのが精一杯だった。「私も驚きましたのよ。婚約者がいらっしゃるなんて、一言も伺っておりませんでしたから」丁寧に手入れされた美しい指先が、彼女の白い頬にそっと触れる。「あら。私たちが幼馴染みだということ、お聞きになっていらっしゃらなかったの?」彼女のその思いがけない言葉に、私は完全に虚を突かれてしまった。ひどく乾燥した喉を動かし、ごくりと息を呑んで、私はようやく声を絞り出す。「いえ……今、初めて……」私が言葉を濁し、明らかに動揺している様子を見て、彼女は少しだけ気の毒そうな表情を浮かべた。「あの方は昔から、ご自分のことについては多くを語りたがらない性格でしたから」ただ純粋に、私が作り出してしまった気まずい空気を、彼女の方から積極的に和らげようとしてくれているのが伝わってくる。「そうですか」消え入りそうなほどの声しか出せなかった。それでも、声が震えるのを防ぐには、こうして短く返すのが精一杯だった。「私も驚きましたのよ。婚約者がいらっしゃるなんて、一言も伺っておりませんでしたから」丁寧に手入れされた美しい指先が、彼女の白い頬にそっと触れる。「あの時は…婚約発表の席で、あんなこと、すみませんでした。お詫びをするのも遅くなってしまって」あの日の光景が、まぶたの裏に鮮明に蘇り、どうしようもない羞恥心で顔が赤くなる。「どうかお謝りにならないで。ひよりさんもご不本意だったことでしょう。人目のある場所であのような……」彼女の声はどこまでも柔らかく、深い同情と哀愁を帯びていて、私の心の武装をいとも簡単に解除してしまった。「時々強引な時がありますので」その言葉を口にした瞬間、私の唇の端に自嘲気味な苦笑いが浮かぶのを止められなかった。強引、という言葉では到底足りない。けれど彼女に向かってそう言い訳をしながら、私は自分がその「強引さ」を都合のいい盾として利用していることに気づいていた。私たちの婚約がいかに歪で、スキャンダラスな嘘にまみれているかという事実から目を逸らさせるための、格好の隠れ蓑として。「ところで、お二人はいつ頃、どのようなご縁で?」
深呼吸を一つして、幾重にもかかっている頑丈な鍵を開け、重いドアをゆっくりと手前に引く。「どうぞ」「突然のお伺い、お許しくださいませ。お邪魔いたします」彼女が足を踏み入れると、ふわりと上品なフローラルの香りが鼻先をかすめた。画面越しでも伝わっていた彼女の纏う洗練された空気は、対面するとより一層際立って感じられ、私の胸の奥に小さな劣等感をチクリと刺す。私は来客用のスリッパを差し出し、そのまま広々としたリビングの方へと案内しようと身を翻した。「あ……どうか、お構いなく。私、こちらで失礼いたしますので」背後からかけられた静かな声に、私はハッとして足を止める。「え…でも、立ち話というわけにもいきませんし」慌てて振り返る私に対し、彼女は靴を脱ぐことなく、玄関のたたきに立ったまま控えめに微笑んだ。「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、不躾に伺ってしまいましたし、これ以上長居をしてはかえってご迷惑になりますから。本日は、こちらの招待状を直接お渡しできれば十分ですので」そう言って、彼女は両手で丁寧にあの封筒を差し出してきた。「……そうですか。わざわざ、ありがとうございます」私は戸惑いながらも手を伸ばし、美しい装飾が施された封筒を受け取った。上質な和紙のざらりとした感触が指先に伝わる。そして彼女はふと思い出したように言葉を紡いだ。「智哉には、もう渡してありますの」「え……智哉さんに、ですか?」思いがけない名前に、私は思わず目を丸くして聞き返した。私のその反応を見て、彼女は小さく息をつき、困ったように微笑む。「やっぱり、あの人ったら何も言わなかったのね」智哉さんは、このパーティーのことを意図的に隠したのだろうか。それとも、ただ忘れていただけ?「……はい。パーティーのことなら、何も伺っていません」私が誤魔化すことなく正直に事実を告げると、彼女の整った
午後を少し回った頃、絶対に外へは出ないようにと何度も念を押して、秘書はようやく出かけて行った。私が一人で留守番をする間、少しでも退屈して余計なことを考えないようにという、彼らなりの配慮なのだろう。リビングの壁を占拠する巨大なモニターには動画配信サービスの画面がすでに映し出され、高級感のあるローテーブルの上には最新のゲーム機が。お菓子や飲み物まで手の届く範囲に完璧にセットされており、そのあまりにも不自然で過保護すぎる光景に、私は思わず深い溜息をついてしまった。「至れり尽くせり……」誰もいない広すぎるリビングで、私の皮肉交じりの呟きは虚しく空気を震わせただけで吸い込まれていった。私がこの部屋から逃げ出すと疑っているのだろうか。お互いの利害が完全に一致した上での、納得のいく契約だったはずなのに、彼らに信用されていないらしい。ふかふかのソファに深く身を沈め、適当な映画でも再生して時間を潰そうとリモコンに手を伸ばしたその時だった。ピンポーン静寂を切り裂くような無機質なインターホンの電子音が鳴り響き、心臓が大きく跳ね上がった。ひどく嫌な予感が胸の奥からせり上がってくる。忘れ物でもした秘書が戻ってきたのかと安堵しかけたが、すぐにその考えを打ち消す。いまドアの向こうにいるのは間違いなく部外者だ。私はごくりと固唾を呑み込んだ。大丈夫、私が内側から鍵を開けない限り、誰であろうと絶対に入ってこられないのだから。震える足を叱咤し、恐る恐る壁に備え付けられたモニターへと近づく。「亮介の、婚約者……?」画面の向こう側に立っていたのは、私が最も警戒していた亮介ではなく、あろうことか彼の婚約者だった。完璧にセットされた髪に、一目で高級ブランドのものだとわかる上品なベージュのワンピース。亮介の差し金…?自分が直接来ても、私が絶対にドアを開けないと分かっているから、警戒心を解くために婚約者を利用した……? 背筋にべっとりと冷たい汗が伝うのを感じる。考えを巡ら
カーテンの隙間から差し込む陽光が、床の上に綺麗な四角い光の模様を描いている。それを眩しそうに見つめながら、私はゆっくりとベッドから足を下ろした。寝室の天井にある木目の数を数えることくらいしかできなかった私にとって小さな解放だった。智哉さんからようやく「家の中なら歩き回ってもいい」と許可が降りたのは、あの夜から五日が経った頃だった。それまで頑なにベッドから出ることを禁止されていたのは、熱が下がったばかりの私がまた体調をぶり返したら困るから。それから、あのとき捻挫した足首がまだ動かすたびにピリッと痛んだからだった。「今日はいい天気…」ドアを開け、廊下を渡ってリビングへと向かう。この家に連れてこられてからというもの、ずっと二階の寝室にこもりきりだったから、一階の生活スペースに足を踏み入れるのはこれが初めてだった。気晴らしに外に行こうか。ずっとベッドの上にばかりいたから、自分の体力が砂のようにサラサラと零れ落ちて、どんどん衰えているような焦りがあった。いや、今日はこの見知らぬ大邸宅の探検に費やすくらいが、今の私にはちょうどいいのかもしれない。そんなことを考えながら、手すりを頼りに一段一段、慎重に階段を降りていく。そして、ようやく最後の段を降りきって視界が開けた瞬間、私は思わず息を呑んだ。「広…」高い天井から降り注ぐ柔らかな光と、贅沢なほどに広々とした空間。そこに置かれた調度品のひとつひとつが、私のような人間が触れていいのか躊躇うほどの洗練された重厚感を放っている。亮介の家も十分に広かったけど、ここは次元が違った。空間の広さそのものが、住む人間の格の違いを無言で突きつけてくるようで、大理石の床にぽつんと立つ自分の存在が、やけに小さく、場違いなものに思えて仕方がなかった。あの広さでさえ家事をするのが大変だったのに、その二倍はあるこの大邸宅を維持するなんて、一体どれだけの労力が必要なのだろう。丸一日あっても、私一人の手では埃一つ払い切れないかもしれない。無意識のうちに自分の服の裾をぎゅっと握りしめて
「智哉様からは、絶対に言わないようにときつく口止めされていたのですが」 高熱で倒れた私の不甲斐なさに対する手厳しい叱責の言葉だろうか。それとも、契約したことを後悔する言葉だろうか。 嫌な想像ばかりが次々と脳裏を駆け巡り、キュッと冷たく縮み上がるのを感じる。 「そちらのお粥、実はあの方がご自身で作られたのです」 その衝撃的な言葉が耳に届いた瞬間、私の頭の中は完全に真っ白になった。 「え、智哉さんが…?」 まさか、この温かいお粥を、わざわざ自らキッチンに立って作ったと…。 到底信じられない思いで、ゆっくりとお盆の上の器へと視線を落とす。そこには卵がふんわりと柔らかくとじられ、弱った胃腸に負担をかけないようにと細かく刻まれた野菜が丁寧に煮込まれた、見るからに手間のひまかかった優しげなお粥が静かに湯気を立てていた。 「それと、ひより様が目を覚ますまでのこの三日間、ほとんど一睡もせずに、あなたのそばに付き添っておられました」 秘書の口から紡がれたその信じがたい言葉に、私は思わず息を呑んだ。 「ずっと、そばに……?」 掠れた声で呆然と問い返しながら、頭の中は激しい混乱に陥っていた。 目を覚ました時、彼がこの部屋にいたのは仕事の合間にほんの少し時間が空いたから、たまたま様子を見に来ていただけなのだと思っていたのに。 「重要な会議も商談もすべて私に丸投げしてしまうぐらい、ひより様のことが心配だったんですよ」
泥のような深い眠りから、ふと意識が浮上した。 室内に落ちる影の長さからして、おそらく三時間ほど経っているように思う。 ゆっくりと重い瞼を押し上げると、先程まで視界を覆っていた不快な熱の霞はすっかり晴れていた。 そっと息を吸い込んでも肺が焼けるような感覚はなく、身体の奥底にのしかかっていた鉛のような重だるさも随分と抜けていた。 どうやら、あのまま気を失うように眠っている間に、熱のピークは無事に越えてくれたらしい。 そして、私が目を覚ました最大の理由は、ひどく現実的なものだった。 きゅるる……。 誰もいない静かな部屋に、小さく、しかしはっきりと情けない音が響く。 不甲斐なさと自己嫌悪でどん底まで沈んでいたというのに、私の身体はそんな感情の機微などお構いなしに、しっかりと生命活動を主張している。 「……我ながら、図太いな」 ぽつりと一人ごちた声は、さっきよりもずっとクリアに出た。けれど、食欲が湧いてきたということは、確実に身体が回復に向かっている何よりの証拠でもあった。 ゆっくりと上体を起こし、ふぅと小さく息をついたその時だった。 コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、静かに病室のドアが押し開かれた。 「あ…」 入ってきたのは他でもない、秘書の彼だった。







