LOGIN最初に感じたのは消毒液の匂い。目を開くと、白い天井が映った。
そろそろと手を伸ばし、白く薄いシーツの上から腹部をなでた。やけに淋しかった。
ふと、ベッドサイドの椅子に気配を感じた。目だけを動かして横を見やる。そこに座っているのは、千尋ではなかった。
「……鈴之宮くん?」
そこにいたのは、大学時代に美琴と千尋と同じサークルに所属していた、鈴之宮司沙。少し開けた膝の間で両手を組み、感情の読み取れない表情で美琴を見つめていた。壁には黒い傘が立てかけられている。
司沙は学生の頃から表情が乏しく、冷たい奴だとサークル仲間から敬遠されることもあった。しかし美琴は、学園祭で親とはぐれた子どもを受け付けに連れて行く司沙の姿を見たことがあった。
なぜ、自分はここ——病院にいるのか。なぜ司沙がここにいるのか。訊きたいことはたくさんあったが、最初に美琴の口から出た問いは
「わたし……わたしの、子は——?」
司沙は表情を崩さない。しかしわずかなその間が答えを示していた。司沙はゆっくりと口を開いた。
「助けられなかった」
美琴は唇を噛んだ。胸までかかっているシーツを引っぱり上げ、顔を覆った。司沙は何も言わず、シーツの端を握る震えた美琴の手に、じっと自分の手を重ねていた。
やがて美琴はまだ赤い目を覗かせ、無理にほほ笑んだ。
「ありがとう。鈴之宮くんが病院まで連れてきてくれたんだね」
「……今、気にすることじゃない」
「ううん。ありがとう」
司沙は目を伏せた。指を組み直す。
「ここは鈴之宮のメディカルセンターだ。だが、救えなかった。申し訳ない——」
司沙が頭を下げたとき、病室のドアがノックされた。入ってきたのは若い女性だった。白衣をまとい、きっちりとした所作で静かにスライドドアを閉めたあと、美琴に近づいて来る。
司沙が椅子を立って場所を譲った。女性はそこにしゃがみ、起き上がろうとした美琴を制止して目線を合わせた。
「小川美琴さん。産婦人科医の大槻麻衣です」
オオツキという苗字に美琴の目が揺れた。麻衣はうなずく。
「はい。jewelry otsukiの社長、大槻千尋のいとこです」
首から下げた名札を持ち上げて見せる。確かに『大槻』の文字があった。
身体が強張るのが分かった。言葉の出ない美琴に、麻衣は今度は首を振った。
「大槻家の代わりに謝らせてください」
立ち上がり、悲しげに美琴を見つめてから、深く頭を下げた。
「大槻家はあなたに、一生償えないことをしました。申し訳ありません。本当に、本当に申し訳ありませんでした……!」
美琴は唖然としてその頭を見つめた。そのまま顔を上げる気配がないので、慌てて声をかけようとしたが、何て言えばいいのか分からなかった。
「あ、あの……」
やっとのことで絞り出す。
「あなたは悪くないです。わたし、まだ、飲み込めていないことが多いけれど——それだけは確かです」
「いいえ」
麻衣は片手で目もとを拭ってから顔を上げた。
「許しや慰めを請うために謝ったのではありません。謝罪だけで足りるはずもない。でもせずにはいられなかった、完全にわたしのエゴです」
麻衣は再び美琴に深い礼をし、司沙にも会釈したあと、病室を出て行った。スライドドアが壁に跳ね返らないよう、最後まで丁寧に閉めた。
病室には再度、美琴と司沙だけになった。
美琴の目がまた熱くなったのは、麻衣が——大槻の人間が頭を下げた、その事実がやっと脳に染みてきたからだった。謝られたところで子どもは帰ってこないし、千尋や優子の冷たい視線が胸から消えることはない。それでも……。
今回だけではない。千尋と結婚してから、美琴に求められてきたのは「大槻家の嫁」としての顔だった。お手伝いも雇ってはいたが、家事はもちろんのこと、会社のために働くことも必要とされた。
仕事のなかで、美琴の考案したジュエリーのデザインは顧客や社外から高い評価を得ていた。それが新たな仕事に繋がったこともあった。それに関して、千尋は何も言わなかった。「ありがとう」も「お疲れさま」も。
不倫の噂を耳にするようになり、出来るだけ角の立たないよう尋ねてみても、潔白を証明する確かな言葉ではなく、千尋は夫を疑う美琴を責めた。
大槻麻衣は、美琴の受けてきた扱いに直接には関係のない人間だ。傷は癒えない。消毒液や絆創膏にはならない。だが今の美琴にはガーゼのように思えた。治す力はなくとも傷口を優しく包む、その柔らかさがありがたかった。
「君は」
司沙が椅子に戻ってきた。
「少し、優しすぎるんじゃないか」
病室のドアに目をやる。
「学生の頃から変わらない」
「そんなこと、ないよ」
美琴は涙をこすり、首をひねって司沙のほうを向いた。
「鈴之宮くんこそ昔から優しかった。どうして助けてくれたの?」
司沙はつかの間目を逸らした。すぐに戻したその瞳からも、唇からも、やはり感情を読むことはできない。細い目に映っているのは美琴だけだった。
「……せめて、と」
沈黙ののち、司沙は口を開いた。
「せめて、今なら……そう思った。今なら助けられるんじゃないかと。この手で……」
美琴には司沙の言っている意味がよく分からなかった。声も途切れ途切れななか、唯一はっきりと聞き取れた言葉があった。
「俺は礼を言われるような人間じゃない。今回も、結局は助けられなかったんだから——」
そのとき、司沙のポケットでスマホが振動した。着信があったらしい。片手で美琴に断り、病室を出て行く。
一人残された美琴は、清潔で高い天井を眺めながらつぶやいた。
「今回『も』——?」
「ごめんなさい、千尋さん。赤ちゃん大丈夫かな……」 病室のベッドの上でしおらしく頭を垂れるこのはに、千尋はその薄い背中を撫でた。「お前は悪くない。な? 大丈夫だ、大丈夫」 木目のクロスが張られた扉を開け、優子が部屋に入ってきた。「このはさん、少し検査入院になるのでしょう? 入院中に必要そうなものを買ってきたわ」「お義母さま……わざわざありがとうございます。私のためなんかに」「何を言っているの」 優子は大きな紙袋を2つ、ベッドの足もとにおいた。「このはさんはもう大槻家の一員も同然よ。遠慮はしないでちょうだいね」 袋を改めながら、優子は「あっ」と声を出した。「羽織るもの、ひとつしかなかったわ。ごめんなさいね。今買って来させるから」「いいえ、大丈夫です。お義母さまのお心だけで、私は幸せです」 母とこのはの会話を聞きながら、千尋はかすかにうなずいた。こういうところが、このはの美点だ。まだ社会人としての幼さを残しているが、慎み深く、純粋な女性。 このはと親しくなったときを思い出す。美琴は大槻家の一員として家でも会社でもよく働いていたが、優秀がゆえに、千尋を頼ることはなかった。 多くの人が美琴を評価し、「あんな奥さんがいて鼻が高いでしょう」と千尋の肩をたたいた。千尋は曖昧にほほ笑んだ。 確かに美琴がジュエリーデザインを手掛けるようになってから、顧客層が変化した。若い女性が増え、jewelry otsukiの名はさらに高みに上った。そして褒め言葉はいつも美琴のデザインに向いていた。 親から受け継いだ座にいる自分と、自力で駆け上がってくる妻。美琴の実力が認められるたび、千尋の自尊心は揺らいだ。いつしかそれは、美琴への淡い恨みにまで膨らんでいった。 そんなとき、このはの大きな黒目が彼を見上げた。当たり前にこなしていた自分の業務と責務を、尊敬の眼差しで見つめる彼女に、千尋の心は満たされていった。 病室のノックで我に返った。医師が入って来て、このはと優子も喋るのをやめた。「赤井このはさん、検査のことですが」 いくつか書類を見せながら説明する。「もちろんうちで受けていただくことは可能です。しかし、より精密な検査を行うために、鈴之宮メディカルセンターに移られることを推奨しております」 医師の言葉に、千尋と優子は顔を歪めた。「どうしてもここでは
最初に感じたのは消毒液の匂い。目を開くと、白い天井が映った。 そろそろと手を伸ばし、白く薄いシーツの上から腹部をなでた。やけに淋しかった。 ふと、ベッドサイドの椅子に気配を感じた。目だけを動かして横を見やる。そこに座っているのは、千尋ではなかった。「……鈴之宮くん?」 そこにいたのは、大学時代に美琴と千尋と同じサークルに所属していた、鈴之宮司沙。少し開けた膝の間で両手を組み、感情の読み取れない表情で美琴を見つめていた。壁には黒い傘が立てかけられている。 司沙は学生の頃から表情が乏しく、冷たい奴だとサークル仲間から敬遠されることもあった。しかし美琴は、学園祭で親とはぐれた子どもを受け付けに連れて行く司沙の姿を見たことがあった。 なぜ、自分はここ——病院にいるのか。なぜ司沙がここにいるのか。訊きたいことはたくさんあったが、最初に美琴の口から出た問いは「わたし……わたしの、子は——?」 司沙は表情を崩さない。しかしわずかなその間が答えを示していた。司沙はゆっくりと口を開いた。「助けられなかった」 美琴は唇を噛んだ。胸までかかっているシーツを引っぱり上げ、顔を覆った。司沙は何も言わず、シーツの端を握る震えた美琴の手に、じっと自分の手を重ねていた。 やがて美琴はまだ赤い目を覗かせ、無理にほほ笑んだ。「ありがとう。鈴之宮くんが病院まで連れてきてくれたんだね」「……今、気にすることじゃない」「ううん。ありがとう」 司沙は目を伏せた。指を組み直す。「ここは鈴之宮のメディカルセンターだ。だが、救えなかった。申し訳ない——」 司沙が頭を下げたとき、病室のドアがノックされた。入ってきたのは若い女性だった。白衣をまとい、きっちりとした所作で静かにスライドドアを閉めたあと、美琴に近づいて来る。 司沙が椅子を立って場所を譲った。女性はそこにしゃがみ、起き上がろうとした美琴を制止して目線を合わせた。「小川美琴さん。産婦人科医の大槻麻衣です」 オオツキという苗字に美琴の目が揺れた。麻衣はうなずく。「はい。jewelry otsukiの社長、大槻千尋のいとこです」 首から下げた名札を持ち上げて見せる。確かに『大槻』の文字があった。 身体が強張るのが分かった。言葉の出ない美琴に、麻衣は今度は首を振った。「大槻家の代わりに謝らせてください」 立ち上が
自然と軽くなる足取りが、百貨店のショーウィンドウに映る。ガラス越しに目が合った自分の顔は久しぶりに晴れやかで、家までの道のりがじれったい。 3回目の結婚記念日が今までで1番のものになる気が、美琴にはしていた。やっと、待ちわびた日が来た。きっと千尋もお義母さんも喜んでくれるはず、きっと……。 そう、長かった。大槻千尋と結婚して以来、家業—— 『jewelry otsuki』の跡継ぎはまだかと催促される日々。会社の宝石デザイナーとして活躍しながら不妊治療を続けて、ようやく宿った命。これまで美琴を冷たくあしらってきた義母も、認めてくれるかもしれない。 やっと報われるのだ、そんな期待を込めて、身長を超える大きな鉄製の門を開ける。「ただいま帰りました!」 弾むような足取りでリビングに覗かせた美琴の笑顔は、一瞬のうちに凍りついた。 夫・千尋の横にいたのは、赤井このは。jewelry otsukiの宣伝部の新人だった。それまで笑い合っていたのであろう二人の表情が固まる。ぎこちなく視線を逸らしながら「お、おかえり美琴」千尋はそれだけ口にした。 美琴はゆっくり二人を見比べた。千尋はjewelry otsukiの若き社長だ。何か理由があって社員を家に招くこともあるのかもしれない。だが、肩が触れ合うほどのこの距離感は——。 「あら、帰ったのね」 背後から声がした。ふり向くと、千尋の母・優子が立っていた。「ずいぶん遅かったじゃないですか」「す、すみません。少し病院に……」「そう。なら連絡のひとつでもくださればよかったのにねえ。これだからあなたは」 美琴を一瞥しただけで、千尋とこのはのほうに歩み寄る。言葉を失う美琴の前で、優子は追い打ちをかけるように、このはに微笑みかけた。「このはさん、ずっと立っていては疲れない? どうぞ座ってちょうだい」 美琴には決して向けたことのない穏やかな声。このはも上目遣いに優子を見上げ、片手を握って口もとに当てた。「大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます」 彼女のもう片方の手がすっとお腹を撫でたのを、美琴は見逃さなかった。 手が震える。千尋とこのはの関係は、社内でも噂になっていた。もちろん美琴の耳にも入っていたし、同僚から、二人がホテルに入っていく写真を見せられたこともあった。 それでも信じていた。千尋が「誤







