LOGIN「ごめんなさい、千尋さん。赤ちゃん大丈夫かな……」
病室のベッドの上でしおらしく頭を垂れるこのはに、千尋はその薄い背中を撫でた。
「お前は悪くない。な? 大丈夫だ、大丈夫」
木目のクロスが張られた扉を開け、優子が部屋に入ってきた。
「このはさん、少し検査入院になるのでしょう? 入院中に必要そうなものを買ってきたわ」
「お義母さま……わざわざありがとうございます。私のためなんかに」
「何を言っているの」
優子は大きな紙袋を2つ、ベッドの足もとにおいた。
「このはさんはもう大槻家の一員も同然よ。遠慮はしないでちょうだいね」
袋を改めながら、優子は「あっ」と声を出した。
「羽織るもの、ひとつしかなかったわ。ごめんなさいね。今買って来させるから」
「いいえ、大丈夫です。お義母さまのお心だけで、私は幸せです」
母とこのはの会話を聞きながら、千尋はかすかにうなずいた。こういうところが、このはの美点だ。まだ社会人としての幼さを残しているが、慎み深く、純粋な女性。
このはと親しくなったときを思い出す。美琴は大槻家の一員として家でも会社でもよく働いていたが、優秀がゆえに、千尋を頼ることはなかった。
多くの人が美琴を評価し、「あんな奥さんがいて鼻が高いでしょう」と千尋の肩をたたいた。千尋は曖昧にほほ笑んだ。
確かに美琴がジュエリーデザインを手掛けるようになってから、顧客層が変化した。若い女性が増え、jewelry otsukiの名はさらに高みに上った。そして褒め言葉はいつも美琴のデザインに向いていた。
親から受け継いだ座にいる自分と、自力で駆け上がってくる妻。美琴の実力が認められるたび、千尋の自尊心は揺らいだ。いつしかそれは、美琴への淡い恨みにまで膨らんでいった。
そんなとき、このはの大きな黒目が彼を見上げた。当たり前にこなしていた自分の業務と責務を、尊敬の眼差しで見つめる彼女に、千尋の心は満たされていった。
病室のノックで我に返った。医師が入って来て、このはと優子も喋るのをやめた。
「赤井このはさん、検査のことですが」
いくつか書類を見せながら説明する。
「もちろんうちで受けていただくことは可能です。しかし、より精密な検査を行うために、鈴之宮メディカルセンターに移られることを推奨しております」
医師の言葉に、千尋と優子は顔を歪めた。
「どうしてもここでは出来ないのか?」
「この辺りの病院では、鈴之宮が最新の医療機器をそろえていまして。お腹の赤ちゃんにも、母体にも、そちらのほうが負担にならないかと」
またあとで聞きに来ると言って医師は病室を出た。大槻の2人が険しい顔をしている理由に、このはは気づいていた。
大槻家と鈴之宮家はメイン事業であるジュエリー商品で競い合ってきた、いわばライバルだ。そのうえここ数年では鈴之宮が勢力をつけ、ジュエリーだけでなく医療業界にも手を広げていることから、大槻家が引け目を感じているのは当然だ。
そんな鈴之宮の病院に行くのはいい気分ではないだろう。しかし、自分は大槻家から大切にされている、このはにはそれが分かっていた。声を低めて話し合っている2人を細い目で眺めた。
やがて千尋が電話をしてくる、と病室を出た。くるりと自分のほうに向きなおった優子に、このははにっこりと笑いかけた。
「頼むよ、麻衣。お前がこのはを診てくれないか。鈴之宮に雇われていても、身内ならまだマシだ」
病棟を出たエレベーターホールの隅で、千尋は、鈴之宮メディカルセンターの麻衣に電話をかけていた。
「相変わらずのライバル視ね。で、このはって誰なの?」
「俺の子どもを身ごもってるんだ。美琴と会ったときに、あいつ、このはを突き飛ばして——」
「ちょっと待って」
麻衣が遮る。
「あんたの子ども? 美琴さんはどうしたの? わたし、美琴さんが大槻家から追い出されたってことしか聞いてないんだけど」
「……なんで知ってるんだ?」
「こっちに運ばれてきたからよ! 身体が丈夫じゃないのに、家を出されて、雨の中倒れていたって! だから美琴さんは——……!」
そこまで叫んで、麻衣は口をつぐんだ。患者のことを軽々しく口にするわけにはいかないからだ。
そのとき、ふっと影が落ちてきた。麻衣の後ろから、司沙が覗いている。
驚いていると、司沙は麻衣のスマホを指さした。
「すまない、聞いてしまった。……その人を診てやってくれ」
「え?」
耳を疑った。司沙が救急車を呼び、必死な様子で付き添っていたことを、麻衣は知っていた。細い目で、心配そうに美琴を見つめていたことを。
大槻家が美琴を追い出したのだというのは、倒れた美琴がうわ言を言っていた、と司沙から聞いて知った。美琴からお腹の子を奪った元凶の1人を診察しろと、今、司沙は指示しているのだ。
相変わらず、彼の目と唇は何も語らない。ただ、院長ではないが、司沙は鈴之宮グループの有力者だ。
「……分かりました」
いろいろな感情を飲み込み、麻衣は電話に戻った。
「分かった。その、このはって人は診るから」
「助かるよ、じゃあな」
千尋は満足な答えを得ると、すぐに通話を切った。麻衣がため息をつき、さっきの意図を尋ねようとしたときには、司沙はもうその場を立ち去っていた。
「ごめんなさい、千尋さん。赤ちゃん大丈夫かな……」 病室のベッドの上でしおらしく頭を垂れるこのはに、千尋はその薄い背中を撫でた。「お前は悪くない。な? 大丈夫だ、大丈夫」 木目のクロスが張られた扉を開け、優子が部屋に入ってきた。「このはさん、少し検査入院になるのでしょう? 入院中に必要そうなものを買ってきたわ」「お義母さま……わざわざありがとうございます。私のためなんかに」「何を言っているの」 優子は大きな紙袋を2つ、ベッドの足もとにおいた。「このはさんはもう大槻家の一員も同然よ。遠慮はしないでちょうだいね」 袋を改めながら、優子は「あっ」と声を出した。「羽織るもの、ひとつしかなかったわ。ごめんなさいね。今買って来させるから」「いいえ、大丈夫です。お義母さまのお心だけで、私は幸せです」 母とこのはの会話を聞きながら、千尋はかすかにうなずいた。こういうところが、このはの美点だ。まだ社会人としての幼さを残しているが、慎み深く、純粋な女性。 このはと親しくなったときを思い出す。美琴は大槻家の一員として家でも会社でもよく働いていたが、優秀がゆえに、千尋を頼ることはなかった。 多くの人が美琴を評価し、「あんな奥さんがいて鼻が高いでしょう」と千尋の肩をたたいた。千尋は曖昧にほほ笑んだ。 確かに美琴がジュエリーデザインを手掛けるようになってから、顧客層が変化した。若い女性が増え、jewelry otsukiの名はさらに高みに上った。そして褒め言葉はいつも美琴のデザインに向いていた。 親から受け継いだ座にいる自分と、自力で駆け上がってくる妻。美琴の実力が認められるたび、千尋の自尊心は揺らいだ。いつしかそれは、美琴への淡い恨みにまで膨らんでいった。 そんなとき、このはの大きな黒目が彼を見上げた。当たり前にこなしていた自分の業務と責務を、尊敬の眼差しで見つめる彼女に、千尋の心は満たされていった。 病室のノックで我に返った。医師が入って来て、このはと優子も喋るのをやめた。「赤井このはさん、検査のことですが」 いくつか書類を見せながら説明する。「もちろんうちで受けていただくことは可能です。しかし、より精密な検査を行うために、鈴之宮メディカルセンターに移られることを推奨しております」 医師の言葉に、千尋と優子は顔を歪めた。「どうしてもここでは
最初に感じたのは消毒液の匂い。目を開くと、白い天井が映った。 そろそろと手を伸ばし、白く薄いシーツの上から腹部をなでた。やけに淋しかった。 ふと、ベッドサイドの椅子に気配を感じた。目だけを動かして横を見やる。そこに座っているのは、千尋ではなかった。「……鈴之宮くん?」 そこにいたのは、大学時代に美琴と千尋と同じサークルに所属していた、鈴之宮司沙。少し開けた膝の間で両手を組み、感情の読み取れない表情で美琴を見つめていた。壁には黒い傘が立てかけられている。 司沙は学生の頃から表情が乏しく、冷たい奴だとサークル仲間から敬遠されることもあった。しかし美琴は、学園祭で親とはぐれた子どもを受け付けに連れて行く司沙の姿を見たことがあった。 なぜ、自分はここ——病院にいるのか。なぜ司沙がここにいるのか。訊きたいことはたくさんあったが、最初に美琴の口から出た問いは「わたし……わたしの、子は——?」 司沙は表情を崩さない。しかしわずかなその間が答えを示していた。司沙はゆっくりと口を開いた。「助けられなかった」 美琴は唇を噛んだ。胸までかかっているシーツを引っぱり上げ、顔を覆った。司沙は何も言わず、シーツの端を握る震えた美琴の手に、じっと自分の手を重ねていた。 やがて美琴はまだ赤い目を覗かせ、無理にほほ笑んだ。「ありがとう。鈴之宮くんが病院まで連れてきてくれたんだね」「……今、気にすることじゃない」「ううん。ありがとう」 司沙は目を伏せた。指を組み直す。「ここは鈴之宮のメディカルセンターだ。だが、救えなかった。申し訳ない——」 司沙が頭を下げたとき、病室のドアがノックされた。入ってきたのは若い女性だった。白衣をまとい、きっちりとした所作で静かにスライドドアを閉めたあと、美琴に近づいて来る。 司沙が椅子を立って場所を譲った。女性はそこにしゃがみ、起き上がろうとした美琴を制止して目線を合わせた。「小川美琴さん。産婦人科医の大槻麻衣です」 オオツキという苗字に美琴の目が揺れた。麻衣はうなずく。「はい。jewelry otsukiの社長、大槻千尋のいとこです」 首から下げた名札を持ち上げて見せる。確かに『大槻』の文字があった。 身体が強張るのが分かった。言葉の出ない美琴に、麻衣は今度は首を振った。「大槻家の代わりに謝らせてください」 立ち上が
自然と軽くなる足取りが、百貨店のショーウィンドウに映る。ガラス越しに目が合った自分の顔は久しぶりに晴れやかで、家までの道のりがじれったい。 3回目の結婚記念日が今までで1番のものになる気が、美琴にはしていた。やっと、待ちわびた日が来た。きっと千尋もお義母さんも喜んでくれるはず、きっと……。 そう、長かった。大槻千尋と結婚して以来、家業—— 『jewelry otsuki』の跡継ぎはまだかと催促される日々。会社の宝石デザイナーとして活躍しながら不妊治療を続けて、ようやく宿った命。これまで美琴を冷たくあしらってきた義母も、認めてくれるかもしれない。 やっと報われるのだ、そんな期待を込めて、身長を超える大きな鉄製の門を開ける。「ただいま帰りました!」 弾むような足取りでリビングに覗かせた美琴の笑顔は、一瞬のうちに凍りついた。 夫・千尋の横にいたのは、赤井このは。jewelry otsukiの宣伝部の新人だった。それまで笑い合っていたのであろう二人の表情が固まる。ぎこちなく視線を逸らしながら「お、おかえり美琴」千尋はそれだけ口にした。 美琴はゆっくり二人を見比べた。千尋はjewelry otsukiの若き社長だ。何か理由があって社員を家に招くこともあるのかもしれない。だが、肩が触れ合うほどのこの距離感は——。 「あら、帰ったのね」 背後から声がした。ふり向くと、千尋の母・優子が立っていた。「ずいぶん遅かったじゃないですか」「す、すみません。少し病院に……」「そう。なら連絡のひとつでもくださればよかったのにねえ。これだからあなたは」 美琴を一瞥しただけで、千尋とこのはのほうに歩み寄る。言葉を失う美琴の前で、優子は追い打ちをかけるように、このはに微笑みかけた。「このはさん、ずっと立っていては疲れない? どうぞ座ってちょうだい」 美琴には決して向けたことのない穏やかな声。このはも上目遣いに優子を見上げ、片手を握って口もとに当てた。「大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます」 彼女のもう片方の手がすっとお腹を撫でたのを、美琴は見逃さなかった。 手が震える。千尋とこのはの関係は、社内でも噂になっていた。もちろん美琴の耳にも入っていたし、同僚から、二人がホテルに入っていく写真を見せられたこともあった。 それでも信じていた。千尋が「誤







