LOGINヘンリーに導かれ足を踏み入れた離宮は、陽光に満ち、花の香りが風に乗って運ばれてくる、夢のように穏やかな場所だった。故国の、天に聳える威圧的な神殿とはまるで違う。豪奢だが、住まう者のための温かみが感じられる調度品。そして何より、侍女たちの眼差しが違っていた。
「マリアンヌ様、長旅でお疲れでございましょう。お部屋へご案内いたします」
侍女たちは「聖女様」とは呼ばなかった。畏怖でもなく、憐憫でもない。ただ心からの敬意と優しさで、一人の貴婦人として接してくれた。
通された部屋は、陽光がレースのカーテンを透かして柔らかく降り注ぐ、居心地の良い空間だった。隣の浴室に用意された湯船には花びらが浮かべられている。身に着けるよう渡されたドレスは、儀式用の重たいものではなく、ふわりと肌を撫でる絹でできている。
マリアンヌは生まれて初めて、誰かに「大切にされている」という感覚を味わっていた。(ここは、牢獄じゃない……)
窓辺に立ち、色とりどりの花が咲き乱れる庭園を眺める。常に全身を縛り付けていた鉛のような重圧が、少しずつ溶けていくのを感じる。張り詰めていた心の糸がぷつりと切れて、大きく深呼吸をした。花と緑の良い香りが胸を満たした。
その日から、穏やかな時間が流れ始めた。
ヘンリーは多忙な公務の合間を縫って、毎日必ずこの離宮を訪れた。その手にはいつも、彼女を喜ばせるための贈り物が抱えられている。美しい髪飾りやアクセサリー、異国の甘い菓子、退屈しないようにと選ばれた物語の本。「君の笑顔を見ることが、僕の一番の喜びだからね」
そう言って微笑む彼は、侍女任せにせず、自らマリアンヌの世話を焼こうとした。
その日の午後も、ヘンリーはマリアンヌの部屋を訪れていた。彼は手にした柘植(つげ)の木の櫛で、慈しむようにゆっくりと梳かしている。
マリアンヌの銀の髪は、ここしばらくの生活で輝きを取り戻しつつあった。月光を集めたかのような波打つ銀の髪は、高価な櫛でするすると梳かされていく。ヘンリーの指使いはどこまでも優しく、マリアンヌは心地よさにそっと目を閉じた。 ふと彼の動きが止まる。不思議に思って目を開けると、鏡に映ったヘンリーが、うっとりとした、それでいてどこか危うい光を宿した瞳で自分を見つめていた。「この美しい髪も、潤んだ瞳も、震える唇も……」
彼は梳かしていた髪を一房指に絡め、まるで宝物のように囁く。
「もう誰にも触れさせない。すべて、僕のものだ」
熱烈な愛の告白。強すぎる思いに、マリアンヌは戸惑う。彼の深い愛情は嬉しい。でも。
あまりの献身ぶりに、マリアンヌは思わず問いかけた。「ヘンリー様はなぜ、これほどまでに、私に良くしてくださるのですか?」
ヘンリーは一瞬、遠い昔を懐かしむように目を細めた。
「もちろん、君を深く愛しているからだ。初めて神殿で君の姿を見かけたあの日から、ずっと、僕の心は君の姿で占められている」
優しい微笑み。しかし、その言葉には続きがあった。
「……だが、それだけではないのかもしれない。君のような真の聖女を守り、支えることは、我が一族に流れる血が命じる、遠い昔からの宿命なのだ」
「血が命じる、宿命……?」
彼女は真意を測りかねた。王族としての強い責任感を比喩的に表現しているだけなのだろうか。それとも、彼のこの燃えるような愛情の裏には、自分の知らない、もっと別の理由が存在するのだろうか。
ヘンリーが公務に戻ったので、一人になったマリアンヌは心を落ち着けるために離宮の庭園を散策することにした。色とりどりの薔薇が咲き誇り、噴水が涼しげな水音を立てている。宙に舞い散る水しぶきが、小さな虹を描く。
彼女が噴水の縁に腰を下ろし、水面に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた、その時だった。
どこからともなく、一匹の美しい白猫が姿を現した。雪のように白い毛並みを持つ猫は、ためらうことなくマリアンヌの隣にぴょんと飛び乗る。ただの動物とは思えないほど理知的な青い瞳で、じっとマリアンヌを見つめてきた。愛らしくも神秘的な雰囲気に、マリアンヌは思わず手を伸ばす。すると白猫は、まるでその手を待ちわびていたかのように、親しげに自らの頭をマリアンヌの指先に擦り付けた。ゴロゴロと喉を鳴らす音と、柔らかな毛の感触が心地よい。
マリアンヌがその温もりに微笑むと、猫は顔を上げ、彼女の目をまっすぐに見つめた。そして、可憐だがはっきりとした声で言った。「ようやく会えたわね、アリアの末裔。あたしはルナ。初代聖女アリアの、ただ一人の友人よ」
全てを白く染め上げていた光が、ゆっくりと収まっていく。 最初にマリアンヌが感じたのは、耳に届く穏やかな風の音だった。恐る恐る目を開けると、空を覆っていた黒紫色の瘴気は完全に消え去り、どこまでも澄んだ青空が広がっている。黒く汚染されていた大地には、うっすらと緑の若芽が芽吹き始めていた。 かつて厄災の核があった場所には、天を突くほど巨大で、美しい水晶の樹が立っていた。救済された無数の精霊たちの、純粋な感謝の心が結晶化したものだった。太陽の光を浴びて七色に輝き、穏やかで清浄な力を周囲に放っている。 その水晶の樹の根本で、マリアンヌはまぶたを開けた。隣にはヘンリーが穏やかな寝顔で眠っている。浄化の光によって、彼の肩の傷は跡形もなく消えていた。「良かった。無事で……」「マリアンヌ」 そこへ元の愛らしい白猫の姿に戻ったルナが、歩み寄ってきた。「終わったわ。全部ね」「ええ」 ルナは多くを語らず、ただマリアンヌの手にそっと頭を擦り付け、その永い役目が終わったことを示す。 やがてヘンリーが目を覚ました。目の前のマリアンヌの無事な姿を認めると、力強く彼女を抱きしめた。二人は互いの温もりを確かめ合う。長い戦いが終わったことを実感した。 時は流れる。世界はゆっくりと、確実に再生へと向かっていた。「ダナハイムの奇跡」の報は世界中を駆け巡り、水晶の樹は「再生の樹」と呼ばれて、新たな聖地とされた。 マリアンヌとヘンリーは、世界を救った英雄としてリーンハルト王国に凱旋。民衆から熱狂的な歓迎を受けた。 祝賀の喧騒が過ぎ去った、静かな夜。離宮のバルコニーで、マリアンヌはヘンリーと寄り添って立っていた。「きれいな月」 夜空を見上げるマリアンヌの横顔は、どこまでも美しい。儚げな立ち姿ながらも、強い意思に満ちあふれている。 かつてダナハイムの神殿で、悪夢と疲労に苛まれながら泣いていた少女の面影は、もうどこにもない。苦しみの聖務から解放され、愛する人の隣で、一
聖剣ルナリスはマリアンヌの手の中にあって、陽光と月光のきらめきを放っている。 聖女アリアの想い。永い時を生きたルナの心。彼らの想いに応えた、精霊たちの願い。(負けられない) 強大な聖剣を手にして、マリアンヌは厄災を振り仰いだ。 聖剣の刀身がさらに複雑な輝きを増した。 ――王国に安寧を。 ――ダナハイムに永遠の平和を。 耳に馴染んだ祈りに、マリアンヌははっと耳を澄ます。祈りは聖剣から聞こえてきた。(そうか……この祈りは、代々の聖女のもの。ダナハイムの誤った伝承の元、虐げられてきた聖女たちの……) 伝承も最初は正しく伝わっていた。大いなる厄災を真に癒やす者の出現を信じて、結界で封じていた。 それがいつしか歪んでしまった。国の利益だけを追い求めて、聖女たちは搾取されるようになった。 歴代聖女たちの祈りは純粋で、それだけに強い。 マリアンヌは一人では支えきれず、よろめいた。そのか細い肩に、温かい手が重ねられる。「一人で背負うな、マリアンヌ。僕も共に」 負傷した身を押して立ち上がったヘンリーが、マリアンヌの手に自分の手を重ねる。彼の精霊使いの血が聖剣の力と共鳴し、二人の魂が同調する。 聖剣の光は、マリアンヌの白銀の輝きとヘンリーの森のような緑の輝きを帯び、より一層強く、そして安定した光を放ち始めた。 二人で聖剣を手に取って、厄災の中心へと進む。 生半可な攻撃が通じないと悟った厄災は、その本質である「絶望」そのものを、二人に叩きつけてきた。それは、厄災を構成する無数の精霊たちが味わった、裏切りと苦痛、憎悪の記憶の濁流だった。「――っ!」 マリアンヌの世界が暗転する。目の前に広がったのは、ダナハイム王国の冷たい謁見の間。軽蔑と嘲笑を浮かべたジュリアス、アニエス、そして父が、幻影となって彼女を取り囲んでいた。『偽りの聖女め!お前のような欠陥品が、私の妃にふさわしいと思ったか!』『やはり傍流の血では荷が重かったのですわ
ダナハイム王国の王都は、今や人の気配が完全に消え失せた無人の廃墟と化していた。崩れ落ちた城壁、瓦礫に埋もれた街路。瘴気に蝕まれ黒く変色した建物群。そこにあるのは、風が廃墟を吹き抜ける不気味な音と、大地から響く精霊の嘆きだけだった。 その悲惨な光景の中心、かつて王宮があった場所。巨大なクレーターから具現化した厄災の本体が、姿を現す。定まった形を持たない、黒紫色の影と嘆きの集合体。無数の精霊たちの苦しむ顔が浮かび上がっては消え、存在自体が周囲の希望を吸い尽くすような、どす黒い絶望のオーラを放っていた。 厄災から、無数の闇の触手や嘆きの怨霊たちが津波のように押し寄せてくる。「マリアンヌ、ルナ、聖剣の準備を! 僕が時間を稼ぐ!」 ヘンリーは彼女の前に立ち、剣を抜いた。祖先である精霊使いの力がその身に宿り、剣が森のような緑の光を放つ。彼はその剣で、迫りくる怨霊を切り払い、触手を的確にいなしていく。勇猛果敢な戦いぶりは、彼がただの王子ではなく、厄災と戦う宿命を背負った戦士であることを如実に示していた。 しかし、厄災はただの力任せの獣ではなかった。ヘンリーが前方の敵に集中している隙を突いて、背後から凝縮された絶望の槍をマリアンヌめがけて放つ。 その殺気にヘンリーは気づくが、振り返って防御していては間に合わない。「マリアンヌッ!」 一瞬の迷いもない動きだった。ヘンリーはマリアンヌを突き飛ばし、自らがその一撃を受ける。絶望の槍は彼の肩を深く抉り、激しく地面に叩きつける。傷口に邪悪な瘴気が食い込んで、彼の生命力を蝕んでいった。「ヘンリー様!」 マリアンヌが悲痛な叫び声を上げた。駆け寄る。自分のために彼が戦い、傷ついた。その事実が心を苛んだ。 だが、それも一瞬だけのこと。ヘンリーの苦しむ姿と、厄災から響く精霊たちの終わらない悲鳴が、彼女を奮い立たせる。(ここで負けていられない。私は、私たちは必ず未来を掴む!) マリアンヌは立ち上がり、厄災をまっすぐに見据えた。 それから胸の前で指を組み、祈り始めた。 だがそれは、ダナハイムで強いられてきた自己犠牲の祈りではない
最初の手がかりの地を目指して旅立ってから、早半年。 古文書の謎と聖女の足跡を追う旅は、終盤に入ろうとしていた。 とうとうマリアンヌたちは、雲海に隠された天空の遺跡――「聖地」にたどり着いた。 そこは人の手では作り得ない、巨大な水晶と石で構成された荘厳な場所だった。空気は清浄な力に満ちている。だが同時に、訪れる者の覚悟を問うような、静寂と威圧感とが漂っている。遺跡の中央には、固く閉ざされた巨大な祭壇が鎮座していた。 マリアンヌがアリアの血を引く者として遺跡の中心に足を踏み入れた瞬間、聖地全体が共鳴するように光を放ち、地面が激しく震え始める。祭壇の周囲の岩石や水晶が意志を持ったように集結し、巨大な守護ゴーレムを形成していく。それは悪意のない、純粋な「試練」としての存在だった。「マリアンヌ、僕の後ろへ!」 ヘンリーが即座に剣を抜き、ゴーレムに斬りかかるが、魔力で強化された身体には傷一つ付かない。マリアンヌが精霊に呼びかけても、ゴーレムは心を持たない魔法生命体。共鳴の力は全く通じなかった。 このままでは試練を乗り越えられない。 絶体絶命の中、ヘンリーが祖先の文献にあった記述を思い出し、叫んだ。「この試練は、力ではなく信頼を問うものだ! ゴーレムが最大の攻撃を放つ一瞬、胸のコアが無防備になる! マリアンヌ、君を信じる!」 その言葉に、マリアンヌの覚悟が決まる。彼女は自らの危険を顧みず、ゴーレムを引きつける「囮」となった。巨大な腕が振り下ろされる直前、彼女はヘンリーを信じ切って身を翻す。その一瞬の隙を突き、ヘンリーの剣がむき出しになった魔力コアを正確に貫いた。 轟音と共にゴーレムは崩れ落ち、沈黙した。 崩れ落ちたゴーレムの背後で、床が動いた。祭壇への道が開かれる。 地下への階段を下っていけば、やがて祭壇の間にたどり着いた。壁が淡く発光し、地下とは思えない不思議な雰囲気を描いている。 マリアンヌはヘンリーと視線を合わせると、祭壇に向かって手を伸ばす。彼女の指が触れた途端、アリアが遺した思念が心に直接流れ込んできた。 目の前に、初代聖女アリアの姿が浮かび上がる。
ジュリアスがダナハイム王国へ送還されてから数日、離宮の庭には穏やかな時間が流れていた。過去のしがらみから完全に解放されて、マリアンヌの心はようやく真の安らぎを見出していた。 だが、その平和はかりそめのものだった。ヘンリーがもたらす報告は日増しに深刻さを増していく。ダナハイム王国から溢れ出した瘴気は国土の大半を汚染した。影響は国境を越え、隣接する諸国の土地さえも蝕み始めていた。世界の精霊たちが、確実に弱っているのだ。「国境を封鎖していても、瘴気の侵食は止められない。厄災の根源……あの精霊たちの悲しみを癒さない限り、いずれこの世界そのものが飲み込まれてしまうだろう」 ヘンリーの言葉に、マリアンヌは頷いた。 書庫にマリアンヌ、ヘンリー、ルナが集まる。大きな机には、ヘンリーの祖先が遺した古地図や文献が広げられていた。 ルナがうず高く積まれた書物の上から、戦いの方針を告げる。「いい? 厄災は力でねじ伏せるものじゃない。あれは悲しみの塊なのよ。あたしたちがやるべきなのは、戦いじゃなくて『救済』。それを行えるのは、世界でただ一つの『聖地』だけよ」 ヘンリーが古文書を指し示した。「記録によれば、初代聖女アリアが大いなる儀式を行った『聖地』は、ただ一つ。だが、厄災を封じた後、その場所は悪用されぬよう意図的に歴史から隠された。地図は存在しない。ただ、アリアが聖地へ至るまでに辿った旅路の記録だけが、謎めいた記述として残されている」 失われた聖地を探す、探索の旅。 計画を語った後、ヘンリーはマリアンヌを見つめる。彼の瞳には、彼女を危険な旅へ連れ出すことへの深い葛藤の色が浮かんでいた。「これは長く、危険な旅になるだろう。僕はもちろん行く。これは僕の一族の宿命だ。だが、君を再び危険に晒すことには……」 マリアンヌは微笑んだ。 庇護されるだけの存在ではいたくない。その想いは、彼女の心をすでに変えていた。マリアンヌはヘンリーの言葉を遮ると、広げられた古地図の上にそっと手を置いた。「私も行きます。いいえ、私が行かなければ、始まり
父と妹の末路が伝えられてから、数日が過ぎた。マリアンヌの心は静かだった。喜びはない。ただ終わるべくして終わった悲劇への、物悲しい感慨だけがあった。 そんな彼女の元に、招かれざる過去からの使者が訪れた。 ダナハイム王国の「使者」を名乗る一行が、リーンハルト王国に庇護を求めてきたのだ。その代表者は、見る影もなくやつれながらも、その瞳にだけは変わらぬ傲慢な光を宿す、ジュリアスだった。 リーンハルト王国の謁見の間。玉座の横に立つヘンリーの隣で、マリアンヌは静かにジュリアスを見据えていた。 ジュリアスは薄汚れている。手入れされていない衣服は汚れが目立ち、自慢の貴族然とした美貌も翳って見えた。 彼は助けを乞うのではなく、まるで今なお自分が王太子であるかのように、命令した。「マリアンヌ! いつまで意地を張っているつもりだ。お前の役目はダナハイムの聖女であろう。即刻我々と共に帰り、その力で国土を浄化しろ。それがお前の義務だ。今すぐに命令に従うのなら、許してやろうではないか」 恥知らずな要求に、ヘンリーが氷のように冷たい声で応えた。「元王太子ジュリアス。貴殿は致命的な勘違いをしているようだ。マリアンヌはもはやダナハイムの聖女ではない。我がリーンハルト王国が庇護する、大切な賓客。貴殿らの身勝手な要求に応える義務は、彼女にはない」 ヘンリーの言葉を、ジュリアスは鼻で笑う。彼の目はマリアンヌだけを見ていた。彼にとって、ヘンリーはただの障害物でしかない。「マリアンヌ、お前の答えを聞こう」 傲慢な視線を受けて、マリアンヌは無言で壇上を降りた。 かつて彼の前で、ただ俯くことしかできなかった弱い少女はもういない。マリアンヌの冬空の瞳には、自らの意志で運命を選び取った者の、強い光が宿っていた。「ジュリアス様。私はもう、あなたの知るマリアンヌではありません。そして、あなたがおっしゃる『義務』は、あなた方が私から奪ったものです。お断りします」 凛と響く、完全な拒絶。 しかし、ジュリアスはその言葉の意味を理解できなかった。いや、理解しようともしなかった。彼の歪んだ自尊心の中では、マ