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last update Last Updated: 2025-09-04 11:43:02

 パーティを翌日に控えて、『西園寺工房』にはここ数年なかったような明るい空気が流れていた。

 桜は工房の床を丁寧に掃き清めた。残ってくれた数少ない老職人の一人、源さんは鼻歌混じりに木地の調整をしている。健斗がもたらした希望は、沈んでいた工房の空気を確かに変えていた。

 昼下がり、工房の前に一台の黒いセダンが静かに停まった。

 降りてきたのは、イタリア製のスーツを粋に着こなした東山健斗だった。手にはモダンな革のブリーフケースが握られている。伝統工芸工房の未来を決める書類が納められるものとしては、少々そぐわないほどのお洒落さだった。

「源さん、ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」

 健斗は工房に入ってくるなり、職人たち一人ひとりににこやかに声をかける。そのスマートな立ち居振る舞いに、源さんたちの顔も自然とほころんだ。

(なんて頼もしいんだろう)

 桜の目にはスーツ姿の健斗が、伝統しかないこの場所に新しい風を運んでくれる救世主のように映っていた。彼の存在が眩しく、誇らしかった。

 健斗は職人たちを作業台の中央に集めると、ブリーフケースから分厚い書類の束を取り出した。

 金文字で『共同事業契約書』と記された表紙が、午後の光を鈍く反射する。

「皆さん、お待たせしました。これが、僕たちの未来の設計図です!」

 健斗は情熱的な身振りを交えて語り始めた。

「西園寺工房が持つ世界最高の伝統技術と、僕の会社のマーケティング力、そしてIT技術を掛け合わせる。そうすれば、この工房は必ず蘇る。いや、以前よりもっと大きな存在になるんです!」

 彼は「伝統のDX化」「海外富裕層向けECサイトの構築」など、職人たちには理解が難しいが、きらびやかに聞こえる言葉を並べ立てた。

 難しい言葉の意味は分からずとも、健斗の熱意と語られる輝かしい未来像に、源さんたちの目にみるみる希望の色が灯っていく。

「それで、これが具体的な契約書になります」

 健斗は、契約書を桜の前に広げた。そこには、難解な法律用語や金融用語が小さな文字でびっしりと並んでいる。

(M&A? 資産譲渡における優先交渉権……事業清算時のアセット担保??)

 全く意味が分からない。不安がさざ波のように胸に広がる。

 しかし、皆の期待に満ちた視線が突き刺さっている今、「分からない」とはとても言えない空気が、そこにはあった。

「私には、少し難しくて……」

 桜が戸惑いの声を漏らすと、健斗は彼女の手を優しく両手で包み込んだ。その目はどこまでも真摯で、桜の不安を溶かすように微笑んだ。少なくとも、桜にはそのように見えた。

「難しいことは、全部僕が引き受ける。桜さんは、ただ僕を信じてくれればいい。ここにサインするだけで、すべてうまくいくんだ」

 その言葉に、源さんが懇願するように口を開いた。

「お嬢、健斗さんを信じましょうや。わしらの未来も、この工房の未来も、お嬢のその一筆にかかっておりますで」

 職人たちの切実な眼差し。

 皆の生活と、おじいちゃんが遺したこの場所を守らなければ。桜の中で、迷いは覚悟へと変わった。

 彼女は、健斗が差し出したブランド物の万年筆を静かに受け取る。

 背筋を伸ばして契約書の署名欄に、凛とした美しい筆跡で「西園寺 桜」と書き記した。万年筆のペン先が紙の上を滑る、カリカリという音だけが工房に響く。

 署名を終えた桜に、職人たちは安堵と感謝の笑みを向けた。健斗は満足げに――しかし目の奥に一瞬だけ冷たい光を宿して、完璧な笑顔を作った。

「ありがとう、桜さん。これで全てが上手くいくよ」

 パーティ当日、東京へ向かう車中。

 加賀友禅の訪問着に身を包んだ桜は、窓の外を流れる景色を眺めながら、今夜の「重大な発表」に胸をときめかせていた。

 隣に座る健斗が、窓の外に視線を向けたまま、桜には聞こえないほどの声で不穏に呟いた。

「今日の桜は、世界で一番きれいだよ。…最後の晴れ姿に、ふさわしい」

 その言葉の本当の意味を、桜はまだ知らなかった。

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