東京の最高級ホテル、パーティ会場であるホールは成功と野心の匂いで満ちていた。
眩い光を乱反射させるシャンデリア、シャンパンの泡が弾ける微かな音、業界の有力者たちが交わす自信に満ちた会話。そのすべてが、桜にとっては別世界のものだった。祖母が遺してくれた加賀友禅の訪問着は、金沢の工房にいる時とは違う意味で、彼女の鎧になっていた。きらびやかなドレスの海の中で、伝統的な着物姿はどこか場違いで、桜は所在なく婚約者である健斗の腕に寄り添う。
「すごい……健斗さんの世界は、こんなにキラキラしているんだ」
「当たり前だろ? 僕の会社なんだから。そして君は、そのパートナーになるんだ」
健斗は誇らしげに答え、桜の不安と疑問をいとも簡単に希望で上書きしていく。桜は、ただこくりと頷いた。
やがて会場の照明がすうっと落ちた。一本のスポットライトがステージ上の健斗を照らし出す。
喧騒が静寂に変わり、桜は固唾をのんで彼を見守った。期待で心臓が早鐘を打つ。「皆様、本日は『Higashiyama Holdings(ヒガシヤマ・ホールディングス)』創業記念パーティにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
マイクを通した健斗の声は、自信とカリスマに満ちていた。彼は巧みな話術で自社の成功と未来のビジョンを語り、聴衆を魅了していく。
「そして今夜は、我が社の未来をさらに加速させる、新たなパートナーシップを発表します!」
その言葉に、桜の心臓がどきりと跳ねた。いよいよだ。私たちの未来が、ここで始まる。彼女はステージに立つ健斗の横顔を、熱い想いを込めて見つめた。
健斗は会場が期待の眼差しで満ちたのを確認すると、満面の笑みで続けた。
「ご紹介します! 僕の新しいビジネスパートナー、新進気鋭のデザイナー、青山ミキさんです!」
完璧な演出だった。――桜以外の聴衆には。
スポットライトがステージ袖へと移動し、メディアで話題の若い女性デザイナーを照らし出す。割れんばかりの拍手と、どよめき。
(え……?)
桜の世界だけが、音を失った。時間が凍り付く。頭が真っ白になって、何が起きているのか理解できない。人違い? 何かの間違い?
必死に健斗の顔を見るが、彼は桜の方を一瞥だにせず、ステージ上の青山ミキと固い握手を交わしている。ステージでの華やかなセレモニーを終えた健斗が、何事もなかったかのように桜の元へ戻ってくる。パーティの喧騒が、再び現実の音として耳に届き始めた。
「ああ、西園寺工房さんとの提携も検討はしたんだけどね」
彼はステージでのスピーチの続きのような口調で言った。しかしよく聞けば、ひどく冷たい声だった。
「残念ながら、僕の会社の投資に見合う価値は生み出せなかった」
桜が呆然と彼を見つめる中、健斗はさらに顔を近づける。酷薄な笑みを浮かべながら、残酷な真実をささやいた。
「桜さん、契約書にあった通りだよ。事業の清算として、工房の土地を含む全資産の所有権は、僕の会社に移させてもらう」
(資産……譲渡……? 土地……?)
契約書にあった、意味の分からなかった言葉たちが、鋭い刃となって心臓に突き刺さる。血の気が引き、指先が急速に冷えていく。信じていた全てが、足元から音を立てて崩壊していくのが分かった。
声も出せずに震える桜が、かろうじて息を吸い込んで、かすれた声で呟いた。ひゅうっと喉が鳴った。
「どうして……」
健斗は、そんな彼女を心底つまらなそうに見下ろした。そして最後の追い打ちをかけるように、顔を桜の耳元に寄せる。吐き出された言葉は、氷のように冷たかった。
「君を安心させてサインさせるための『おまけ』さ。僕たちの未来なんて、最初から土地の話だけだよ。協力、ありがとう」
ありがとう――その言葉が、引き金になった。
健斗は桜の腕をさり気なさを装って振り払うと、彼女を一人、喧騒の中に置き去りにして人混みへと消えていく。突き放された桜の周りだけが、真空のように無音になった。
我に返った瞬間、桜の体を支配したのはパニックだった。息ができない。ここにいてはいけない。
「可哀想に。捨てられたのかしら」
「赤字続きの伝統工房だろ? 未来はないよな」
囁かれる好奇と憐憫の言葉、視線。桜はそれらから逃れるように駆け出した。
美しいはずの加賀友禅が、今はひどく重い。招待客にぶつかりながら、謝る余裕もなく、ただひたすらにボールルームの出口を目指す。きらびやかな光と音楽、嘲笑のようなざわめきを背に、桜は冷たく静かなホテルの廊下へと転がるように逃げ出した。
パーティ会場を飛び出した桜は、降りしきる冷たい雨に打たれながら、当てもなく東京の街をさまよっていた。 美しいはずの加賀友禅の裾は雨水と泥で汚れ、水を吸って鉛のように重く足にまとわりつく。行き交う人々は、ずぶ濡れの着物姿の女に奇異の目を向けるが、声を掛ける人はいない。桜の心にもまた、何も届かなかった。 ――君を安心させてサインさせるための『おまけ』さ。僕たちの未来なんて、最初から土地の話だけだよ。協力、ありがとう。 健斗の最後の言葉が、壊れた録音機のように頭の中で繰り返される。 思考はとうに麻痺していた。ただここではないどこかへ行かなければ、という衝動だけで体を動かしている。ほとんど無意識のうちにたどり着いた東京駅で、金沢行きの最終列車のチケットを買い求めた。 新幹線の車窓に映る自分の顔は、ひどくやつれて青白い。まるで幽霊のようだ。 窓を叩く雨粒が、頬を伝う涙の代わりのようだった。長い移動時間で一睡もできず、ただ移り変わる暗い景色を虚ろに見つめ続ける。 深夜の金沢駅に降り立つと、雨はさらに強くなっていた。慣れ親しんだはずの故郷の街が、今はひどく冷たく、よそよそしく感じる。 桜は、ふらつく足でひがし茶屋街の石畳を踏んで、たった一つの心の拠り所を目指した。 慣れ親しんだ工房に帰り着きさえすれば、また変わらぬ日常が待っていてくれるような気がして。 亡くなった祖父が健在だった頃、工房は夜遅くまで明かりが灯されて、活気に満ちていた。あの頃の空気が、桜を迎えてくれるような気がして。 けれど彼女を迎えたのは温かい光ではなかった。 見慣れた工房の木の扉に、無機質な黄色いテープが非情に貼り付けられている。『立入禁止』 その四文字が、桜の最後の希望を音を立てて砕いた。これが現実。 健斗の言葉は、悪夢ではなかった。凍えた指でテープにそっと触れる。ビニールのつるりとした冷たさが、取り返しのつかない事実を、目の前に突きつけてきた。 桜は工房の軒下で雨を避けながら、スマートフォンを取り出した。元職人のリーダーである源さんに電話をかける。呼び出し音が、永遠のように長
東京の最高級ホテル、パーティ会場であるホールは成功と野心の匂いで満ちていた。 眩い光を乱反射させるシャンデリア、シャンパンの泡が弾ける微かな音、業界の有力者たちが交わす自信に満ちた会話。そのすべてが、桜にとっては別世界のものだった。 祖母が遺してくれた加賀友禅の訪問着は、金沢の工房にいる時とは違う意味で、彼女の鎧になっていた。きらびやかなドレスの海の中で、伝統的な着物姿はどこか場違いで、桜は所在なく婚約者である健斗の腕に寄り添う。「すごい……健斗さんの世界は、こんなにキラキラしているんだ」「当たり前だろ? 僕の会社なんだから。そして君は、そのパートナーになるんだ」 健斗は誇らしげに答え、桜の不安と疑問をいとも簡単に希望で上書きしていく。桜は、ただこくりと頷いた。 やがて会場の照明がすうっと落ちた。一本のスポットライトがステージ上の健斗を照らし出す。 喧騒が静寂に変わり、桜は固唾をのんで彼を見守った。期待で心臓が早鐘を打つ。「皆様、本日は『Higashiyama Holdings(ヒガシヤマ・ホールディングス)』創業記念パーティにお集まりいただき、誠にありがとうございます」 マイクを通した健斗の声は、自信とカリスマに満ちていた。彼は巧みな話術で自社の成功と未来のビジョンを語り、聴衆を魅了していく。「そして今夜は、我が社の未来をさらに加速させる、新たなパートナーシップを発表します!」 その言葉に、桜の心臓がどきりと跳ねた。いよいよだ。私たちの未来が、ここで始まる。彼女はステージに立つ健斗の横顔を、熱い想いを込めて見つめた。 健斗は会場が期待の眼差しで満ちたのを確認すると、満面の笑みで続けた。「ご紹介します! 僕の新しいビジネスパートナー、新進気鋭のデザイナー、青山ミキさんです!」 完璧な演出だった。――桜以外の聴衆には。 スポットライトがステージ袖へと移動し、メディアで話題の若い女性デザイナーを照らし出す。割れんばかりの拍手と、どよめき。(え……?) 桜の世界だけが、音を失った。時間が凍り付く。頭が真っ白になって、何が起きているのか理解できない。人違い? 何かの間違い? 必死に健斗の顔を見るが、彼は桜の方を一瞥だにせず、ステージ上の青山ミキと固い握手を交わしている。 ステージでの華やかなセレモニーを終えた健斗が、何事もなかったか
パーティを翌日に控えて、『西園寺工房』にはここ数年なかったような明るい空気が流れていた。 桜は工房の床を丁寧に掃き清めた。残ってくれた数少ない老職人の一人、源さんは鼻歌混じりに木地の調整をしている。健斗がもたらした希望は、沈んでいた工房の空気を確かに変えていた。 昼下がり、工房の前に一台の黒いセダンが静かに停まった。 降りてきたのは、イタリア製のスーツを粋に着こなした東山健斗だった。手にはモダンな革のブリーフケースが握られている。伝統工芸工房の未来を決める書類が納められるものとしては、少々そぐわないほどのお洒落さだった。「源さん、ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」 健斗は工房に入ってくるなり、職人たち一人ひとりににこやかに声をかける。そのスマートな立ち居振る舞いに、源さんたちの顔も自然とほころんだ。(なんて頼もしいんだろう) 桜の目にはスーツ姿の健斗が、伝統しかないこの場所に新しい風を運んでくれる救世主のように映っていた。彼の存在が眩しく、誇らしかった。 健斗は職人たちを作業台の中央に集めると、ブリーフケースから分厚い書類の束を取り出した。 金文字で『共同事業契約書』と記された表紙が、午後の光を鈍く反射する。「皆さん、お待たせしました。これが、僕たちの未来の設計図です!」 健斗は情熱的な身振りを交えて語り始めた。「西園寺工房が持つ世界最高の伝統技術と、僕の会社のマーケティング力、そしてIT技術を掛け合わせる。そうすれば、この工房は必ず蘇る。いや、以前よりもっと大きな存在になるんです!」 彼は「伝統のDX化」「海外富裕層向けECサイトの構築」など、職人たちには理解が難しいが、きらびやかに聞こえる言葉を並べ立てた。 難しい言葉の意味は分からずとも、健斗の熱意と語られる輝かしい未来像に、源さんたちの目にみるみる希望の色が灯っていく。「それで、これが具体的な契約書になります」 健斗は、契約書を桜の前に広げた。そこには、難解な法律用語や金融用語が小さな文字でびっしりと並んでいる。(M&A? 資産譲渡における優先交渉権……事業清算時のアセット担保??) 全く意味が分からない。不安がさざ波のように胸に広がる。 しかし、皆の期待に満ちた視線が突き刺さっている今、「分からない」とはとても言えない空気が、そこにはあった。「私には、少し
夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込んでいた。金沢、ひがし茶屋街の路地裏にひっそりと佇む『西園寺工房』。その広い仕事場は、ひとけがなくがらんとして静まり返っていた。 西園寺桜は、作業台に向かい、息を詰めて一本の古い蒔絵筆を手入れしている。祖父の指の形に馴染んだ黒漆の軸を、柔らかな鹿の皮で丁寧に磨き上げる。かつて人間国宝にまで上り詰めた祖父が、生涯手放さなかった筆だ。 部屋には、漆の甘く深い匂いだけが満ちている。(おじいちゃん、この筆の感覚、まだ指が覚えているよ) 祖父から受け継いだ技術と、この工房に宿る魂。それだけが桜の誇りだった。 しかし、誇りだけでは人の腹は満たされない。最盛期には十人以上いた職人たちも、今では三人だけ。その彼らに、来月の給金を払えるあてさえないのだ。 伝統工芸の分野は、年を追うごとに厳しさを増している。 人々は便利な大量生産の工業製品に目を奪われて、古臭い技術に見向きもしない。(私のせいで、みんなの生活が駄目になってしまう) 桜の胸に、ずしりと重い責任がのしかかった。 仕事場の静寂を破ったのは、不釣り合いなほど軽快な着信メロディ。作業台の隅に置かれたスマートフォンが、ぶるぶると震えている。画面には【東山 健斗】という名前と、白い歯を見せて笑う彼の写真が映し出されていた。 桜は一瞬ためらい、それからおそるおそる通話ボタンに触れた。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。「もしもし……健斗さん」『もしもし、桜さん? やっぱり声が暗いよ。心配しなくていいって言ってるだろ? 僕がついているんだから』 電話の向こうから婚約者の声が聞こえてくる。いつも通り明るく力強い自身に満ちた声だった。 その声を聞くと、不安で張り詰めていた心が少しだけ和らぐ。『工房のこと、もう悩まなくていい。僕が君と、君の大切な工房の未来を、必ず守るから。信じて』 彼の言葉は、桜には救いのように感じられた。ITベンチャーを一代で築き上げた彼の手腕は、メディアでも度々取り上げられている。時代の寵児と言われていた。 そんな彼が言うのだから、きっと大丈夫。桜は、自分に言い聞かせるように、その光を手繰り寄せた。「はい。信じています」(この人しかいない。この人がいれば、きっと工房を立て直せる) もう他に手はない。すがりつくような思いが、桜の冷静な判断を