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last update تاريخ النشر: 2025-09-06 11:46:40

 灰色の夜が明けると、街は湿った冷たい空気に包まれていた。

 工房の軒下で夜を明かした桜の体は、芯から冷え切っていた。降り続いた雨は止んだが、心の中の絶望の雨はまだ止む気配もない。

(寒い。でも、どこに行けばいいのか分からない。何をすればいいのか、分からない……)

 ホテルを探すとか、源さんを頼るとか、当たり前の思考すら出てこなかった。

 帰る場所も守るべきものも、もう何もない。思考は鈍く麻痺し、ただ右手にかたく握りしめられた一本の蒔絵筆を、ぼんやりと見つめていた。使い込まれた木の感触だけが、この世に自分を繋ぎとめる唯一の現実だった。

 無意識に、親指で筆の軸をそっと撫でる。祖父の指が長年かけて作った、滑らかなくぼみ。その指先に馴染んだ感触が、固く閉ざされていた記憶の扉を静かに開いた。

 ふわりと、漆の甘い香りが鼻先をかすめたような気がした。金粉が光の中で舞う、静かな午後の工房。

『桜、筆は職人の魂そのものだぞ』

 耳の奥で、祖父の少ししゃがれた、優しい声が響く。初めて図案を描いた時、自分の小さな手を包んでくれた、大きくて節くれだった温かい手のひらの感触。

『……うん、上出来だ。桜は筋がいい』

 滅多に褒めない祖父が、あの時見せた誇らしげな眼差し。

 あの言葉があったから、桜も蒔絵職人を目指したのだ。祖父の工房を守っていくのだと、子供心に決心した。

 温かい記憶が蘇るたびに、凍り付いていた心がちりちりと痛む。失った日々の尊さが今更ながら胸に迫り、涙がこぼれた。けれどそれは昨夜流した絶望の涙とは、少しだけ違っていた。

 涙の向こうで、工房の壁に掛かっていたはずの、あの言葉が心に響く。

『本物の仕事は、時代を超える』

(おじいちゃんの言っていた『本物の仕事』って、何だったんだろう)

 桜は考える。

 私の仕事は工房という建物や、西園寺の名前を守ることだと思い込んでいた。だから健斗さんにすべてを奪われて、終わりだと思った。

 桜は、握りしめた筆に視線を落とす。

(でも、これは……?)

 健斗は土地も建物も、職人たちの道具も、全部奪っていった。でもこの一本の筆と、桜のこの指先に宿る感覚だけは、奪えなかった。

 桜ははっと気づいて顔を上げる。

(そうか……『本物の仕事』って、建物や名前のことじゃなかったんだ。誰にも奪えない、誰にも真似できない、この手の中に、魂の中にある技術そのもののことだったんだ。これこそが、時代を超えていくものなんだ!)

 桜の目に、光が戻った。虚ろだった瞳に、小さいが確かな意志の炎が灯る。

 彼女は蒔絵筆を握り締めた。ただの形見としてではなく、未来を切り拓くための唯一の武器として。

「終われない」

 灰色の夜明けに向かって、桜はかすれた声で、しかしはっきりと呟いた。

「ここから、始めるんだ」

 桜は立ち上がった。冷え切った体は重く、着物は泥で汚れている。けれど彼女の瞳は、未来だけをまっすぐに見据えていた。

 桜は、既に過去のものとなった工房に背を向けた。

(さようなら、大事な場所。おじいちゃん、私をどうか見守っていて)

 街へと続く道を歩き始める。振り返らなかった。振り返ればきっと、未練が生まれてしまうから。

(まずは貯金をありったけ、かき集めよう。それから場所を借りて、もう一度仕事を始めるんだ)

 降りしきる雨はいつの間にかやんでいる。

 灰色だった空に明るい朝日の切れ目が入り、桜の進む先を照らしていた。

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أحدث فصل

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   31:エピローグ

     ショーの成功から半年後の、春。 金沢のひがし茶屋街には、うららかな陽光が降り注いでいた。 桜と玲遠は、改修を終えた『西園寺工房』の前に立っている。かつて無情にも貼られいた『立入禁止』のテープは既になく、藍色の真新しいのれんが春風に揺れていた。 桜はきれいにクリーニングされた加賀友禅を身にまとっている。健斗に裏切られた絶望の夜に、雨と泥とに汚してしまった祖母の形見だ。 ショーでの成功で得たお金で、桜はまずこの着物のクリーニングを行った。 時間が経ってしまったせいで落ちない汚れもあったが、桜は大切に着物を使い続けている。 工房の中からは、職人たちの楽しそうな話し声と、道具が木を打つ小気味良い音が聞こえてくる。 春の草花の香りにまじって、馴染んだ漆の匂いがした。 桜は、磨き上げられた古い木の門柱にそっと手を触れる。昔と変わらない温かな感触に、万感の思いが込み上げた。(ただいま、おじいちゃん。私、帰ってきたよ) 心の中で語りかければ、祖父が笑ってくれている気がした。「行こうか、桜」「ええ、玲遠」 二人が工房に足を踏み入れると、そこは以前とは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。 源さんたちベテラン職人の隣で、地元の高校を卒業したばかりの若い弟子たちが、緊張した面持ちで筆を動かしている。源さんが、若い弟子の一人の手を取り、筆の持ち方を根気よく教えていた。 その光景は、かつて祖父が幼い桜にしてくれたことと、全く同じだった。 壁には桜がパリで制作したモダンな作品と、源さんたちが作る伝統的な意匠の作品が、互いを引き立て合うように美しく飾られている。 どちらも甲乙つけ難く、若い弟子たちは憧れの目で作品を眺めていた。「お嬢、旦那様。おかえりなさいまし」 二人に気づいた源さんが、顔をほころばせた。自然な「旦那様」という呼び方に、桜の頬が熱くなる。「源さん、邪魔するよ。弟子たちの筋は、どうかな」 玲遠はもはや来客ではなく、家族のような穏やかな口調で応えた。「悪くねえ

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   30

     ショーの後のアフターパーティは、熱狂の渦の中にあった。会場はファッション業界の頂点に立つ人々で埋め尽くされて、桜は賞賛の言葉を次々と投げかけられていた。「マドモアゼル・サイオンジ、あなたの仕事は伝統への最高の敬意であり、同時に最も美しい裏切りだ。伝統と最先端との融合を、ここまで見事にやってのけるとは。素晴らしい……!」「ありがとうございます」 著名な評論家が興奮した様子で彼女の手を取った。焚かれるフラッシュが眩しく目を焼く。 夢のような光景に、桜は気圧されそうになる。そのたびに隣に立つ玲遠が、彼女の腰を支える手に力を込めた。  彼は桜に殺到する人々を、時に「氷の皇帝」の鋭い視線で、時にスマートな会話術で巧みに捌いていく。彼女が疲弊しないよう、静かな盾となっていた。桜は彼の大きな背中に、大きな安心感を覚えていた。「桜、疲れただろう。そろそろ行こう」 喧騒の合間に、玲遠が桜の耳元で囁いた。  二人は退出の挨拶をして、華やかなパーティの場を離れていった。  これからは二人だけの時間。  ショーの成功の余韻を抱えて、桜は玲遠の存在だけを感じていた。 ◇  数日後、パリのホテルの静かなカフェで、桜と玲遠は穏やかな朝食を取っていた。「まだ夢のようだわ。私たちの蒔絵が、あれほど華やかな舞台で輝いたなんて」「これは始まりに過ぎない。これからもっと多くのチャンスが待っている」 二人は視線を見交わして、微笑み合った。「おはようございます、ムッシュー、マドモアゼル」 声を掛けてきたのは、秘書のイザベルだ。彼女はタブレット端末を玲遠に差し出した。  焼きたてのクロワッサンの香ばしい匂いと、カチャリと響く銀食器の音。  穏やかな朝の空気を破るように、タブレットの画面に表示された見出しが、桜の目に飛び込んできた。『東山ホールディングス、破産申請へ。旧西園寺工房の土地は債権者の手に渡り、近日中に競売予定』「ムッシュー。東山ホールディングスの件、最終報告です。

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   29

     バックステージのモニターに、フィナーレを歩くトップモデルの姿が映し出されている。桜、玲遠、源さんたち職人は、その画面を食い入るように見つめていた。 会場に響くのは、心臓の鼓動を思わせるような重いビートの音楽だけ。ランウェイを照らす一本のスポットライトが、漆黒のドレスを纏ったモデルを追う。桜は呼吸さえも忘れてしまっていた。冷たくなった両手を、胸の前で強く握りしめる。(お願い、届いて! おじいちゃんの、私たちの魂。世界中の人たちに、届いてほしい!) モデルがランウェイの最先端で静止し、ポーズを取る。全ての照明が彼女一人に集中し、ドレスとアクセサリーの全貌が明らかになった。 深い闇を思わせるドレスのシルクが、光を吸い込む。その漆黒をキャンバスとして、ドレスの裾やカフス、そしてモデルの髪に挿された鼈甲の櫛に施された蒔絵が、まるで夜空にまたたく星々のように、眩い光を放った。 特に、櫛に描かれた曙光の意匠は、暗闇から生まれる希望そのものだった。 漆黒の星空と、生まれ出る朝日。 最新のデザインで編まれた完璧なドレスと、日本の古い伝統の美。 その対比。 カメラのフラッシュが嵐のように焚かれる。 一瞬、時間が止まったかのような、完全な静寂が会場を支配した。誰もが言葉を失い、その荘厳な美しさに圧倒されていた。 やがて客席の一人から始まった拍手が、瞬く間に熱狂的なスタンディングオベーションへと変わり、会場全体を揺るがす轟音となった。◇ その光景を、東京の薄暗いビジネスホテルの一室で、健斗は見ていた。部屋には安い酒の匂いが立ち込めている。画面のひび割れたスマートフォンで、ショーのライブ配信を見ていたのだ。 小さなスピーカーから、割れた音質の喝采が響き渡る。画面には喝采の中心に立つドレスと、その作者として『SAKURA SAIONJI』の名が大きく映し出されていた。 健斗は、かつて自分が「古臭いガラクタ」と嘲笑した蒔絵のクローズアップを見て、絶句する。 ――美しかった。薄汚い彼の心でさえ、一条の光を感じられるほどに。

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   28

     健斗が連行された後、玲遠は桜をアトリエまで送り届けた。「お嬢、大丈夫だったか? あの男に何もされんかったか?」「大丈夫ですよ。玲遠さんが守ってくれましたから」 源さんたちが心配そうに駆け寄るが、桜は安心させるように微笑んでみせた。 玲遠はアトリエの隅にあるキッチンに立つと、心を落ち着かせる効果のあるカモミールのハーブティーを淹れて、桜の手にそっと握らせた。 源さんたちは気をきかせて、いつの間にか部屋からいなくなっている。 温かいマグカップの感触が、強張っていた桜の指を優しくほぐしていく。柔らかな香りが、ロビーでの醜い記憶を綺麗に洗い流してくれるようだった。 桜と玲遠は向かいった椅子に座って、互いに見つめ合う。「……本当に、もういいのか?」 桜を見守るようにしている玲遠に、彼女は数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。「はい。もう大丈夫です。私の過去は、清算できました。玲遠さんのおかげです」 玲遠の唇の端にごくわずかな、偽りのない笑みが浮かんだ。「私は手助けをしただけだ。過去を振り切ったのは、君の力だよ。……パリ・コレクションまであと三日だ。ここからは君の時間になる」「はい。力を尽くします」◇ そしてパリ・コレクション当日。 会場のバックステージは、美の創造のための戦場と化していた。国籍も言語も様々なプロフェッショナルたちが、ぴりぴりとした緊張感をまとって飛び交っている。ヘアスプレーと香水の匂い、シルクが擦れる音、ショーディレクターがフランス語と英語で飛ばす鋭い指示。 その喧騒の中心から少し離れた一角に、桜と職人たちだけの静かな空間があった。 彼らはこれからランウェイに登場するモデルが纏うドレスやアクセサリーに、最後の調整を施している。源さんは、外科医もかくやという精密な手つきで、ドレスにあしらわれた蒔絵のブローチの角度をミリ単位で調整していた。 一人のトップモデルが、自分のカフスに施された蒔絵をうっとり

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   27:みじめな終わり

     コレクションの発表を数日後に控えて、パリのアトリエは緊張の中にも充実感を感じる空気で満たされていた。 桜はショーで使うための小物類に、最後の仕上げを施している。 極限まで集中した筆が、正確な線を引いていく。 原さんたちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。 静かな創作の時間を破ったのは、秘書のイザベルの来訪だった。 彼女はいつもの冷静さを失っていないが、どこか苛立ちを感じさせる口調で言う。「桜様。大変申し上げにくいのですが……東山健斗と名乗る男が、『VALENTIS』本社のセキュリティを突破し、ロビーで面会を強要しております」 東山健斗。その名前に、アトリエの空気が固まった。「あの男! お嬢にまだ何の用があるっていうんだ」 源さんが苦々しく呟いた。(来たか……) 桜は口元を引き結んだ。けれどもう、恐怖はない。 櫛をそっと台に置くと、作業で汚れてしまった手を布で拭って立ち上がった。「大丈夫です、源さん、みんな。これは私自身が片付けなければいけない、最後の仕事ですから。……行ってきますね」◇ 桜はイザベルが運転する車に乗って、『VALENTIS』本社まで赴いた。「イザベルさん、玲遠さんに伝えてください。私が自分で決着をつけるので、見守っていてほしいと」「分かりました。伝えます」 裏手の駐車場からVIP用のエレベーターに乗り、ロビーへと出る。 美しい大理石造りのロビーにふさわしくない姿で、健斗はそこにいた。高級スーツは皺だらけ。両目は落ち窪んで覇気を失っている。 両側を体格のいい警備員に押さえられていて、それがみすぼらしさを増していた。 ロビーを行き交う社員たちが、何事かと遠巻きに見ていた。 桜が近づくと、健斗は目を上げた。手を伸ばして彼女に取りすがろうとする。「桜さん……来てくれたんだね。僕が

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   26

     健斗と『Higashiyama Holdings』の崩壊は、間近に迫っている。  社長室のデスクに置かれたノートパソコンのモニタが、小さな電子音を上げた。常に表示されている会社の株価が、断崖絶壁のような急落を示していた。  情報に敏感な投資家たちが、会社の未来をないものとして、次々と株を投げ売りしているのだ。「社長……こんなニュースが」 秘書が怯えた様子で、再度タブレットを差し出す。今度は日本のニュースサイトだった。『金沢の伝統文化連盟、不当な圧力をかけたとして『Higashiyama Holdings』を告発。提訴の準備も』 桜の工房に材料を売らないよう、指示した件だった。  健斗が圧力をかけたのは有力な数店だが、いつの間にかこんな話になっている。「まさか、また『VALENTIS』か」 金沢の大規模開発を手掛ける健斗は、地元に強い影響力を持つ。彼の圧力を振り切って告発するなど、協力者がいなければ不可能だ。  彼はしばし呆然と天井を見て、それから我に返った。「いい加減にしろよ、カビ臭いだけが取り柄の老舗のくせに! 俺にはまだ再開発事業がある。あれさえ成功させれば、VALENTISの影響など吹き飛ばせる! そうに決まっているッ」 恐怖に震える心を、無理矢理に強がってみせる。  けれどその強がりを、一本の電話が完全に崩壊させた。 ◇  電話の主は、健斗の再開発事業に融資していたメインバンクの支店長だった。「今後の融資計画について、一度ご相談したく思います。なるべく早くお時間を取ってください」 支店長の声は冷たい。健斗は猛烈に嫌な予感がして、取りすがった。「ニュースになっている件ですか? あの話でしたら問題ありません。すぐに収まります。ですので……」「とにかく、一度ご来店を。今から来てくださって構いませんよ」 電話が切れる。  健斗は重い体を引きずりながら、銀行へ向かわざるを得なかった。 ◇

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   25:転落の始まり

     その頃、東山健斗は成功の絶頂にいた。 東京の高層ビルにあるオフィスから都心の景色を見下ろして、高級なウイスキーを嗜む。テレビでは、金沢の再開発計画を「未来への投資」と絶賛する経済番組が流れていた。 秘書が持ってきた『VALENTIS』と桜に関するレポートを一瞥し、健斗は鼻を鳴らした。「ふん。ヴァレンティだか何だか知らないが、所詮は時代遅れのカビの生えた老舗だ。僕の事業の方が、よほど革新的で未来がある。西園寺桜? ああ、いたな。僕が才能を見出してやったんだ。せいぜい頑張ればいいさ」 彼にとって、桜の成功は自分の手柄。捨てた駒が予

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   19:共鳴

     パリのアトリエは、完璧な環境だった。 セーヌ川の光が差し込む広大なアトリエ。玲遠が世界中から手間と費用を惜しまずに集めた最高品質の漆に金粉、そして使い手の魂に応えるかのような極上の筆。桜の創作のために用意されたその場所は、伝統と革新が融合する聖域のようだった。 なのに、桜の心は鉛のように重かった。 目の前に置かれた漆器が、まるで彼女の才能の枯渇をあざ笑っているように見える。玲遠から渡された前衛的で美しいデザイン画と、祖父から受け継いだ魂。二つの偉大な世界の狭間で、桜は進むべき道を見失っていた。(描けない…&helli

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   18

     数日後、桜と三人の職人たちは、初めて国際線の飛行機に乗っていた。轟音と共に巨大な機体が滑走路を駆け上がり、ふわりと浮き上がる感覚に、源さんが「おぉ……」と感嘆の声を漏らす。「お嬢、飛行機っちゅうもんは、腹に響くもんなんだなあ」 窓の外には、あっという間に小さくなっていく地上の街並みが見える。桜は不安げな源さんに微笑みかけた。「大丈夫ですよ、源さん。この先には、私たちの新しい仕事場が待っていますから」 彼女は膝の上のバッグをぎゅっと抱きしめた。中には、祖父の形見の蒔絵筆が、お守りのように入っている

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   08

     あの日、海外アカウントからついた、たった一つの「いいね」。 桜はその小さな光を何度も見返して、それからまた黙々と作業に戻った。 今の彼女にできるのは、手を動かすことだけ。今まで培った蒔絵の技術を存分に活かしながら、祈りを込めて作るだけだった。 期待と不安が入り混じる中、数日が過ぎた朝のことだった。 ピロン、と。静かな部屋に、スマートフォンの通知音が響く。 画面に表示された「注文がありました」の文字を、桜は信じられない思いで何度も見返した。それは先日投稿した幾何学模様のピアスへの、国内からの注文だった。(

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