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last update Dernière mise à jour: 2025-09-05 19:09:35

 パーティ会場を飛び出した桜は、降りしきる冷たい雨に打たれながら、当てもなく東京の街をさまよっていた。

 美しいはずの加賀友禅の裾は雨水と泥で汚れ、水を吸って鉛のように重く足にまとわりつく。行き交う人々は、ずぶ濡れの着物姿の女に奇異の目を向けるが、声を掛ける人はいない。桜の心にもまた、何も届かなかった。

 ――君を安心させてサインさせるための『おまけ』さ。僕たちの未来なんて、最初から土地の話だけだよ。協力、ありがとう。

 健斗の最後の言葉が、壊れた録音機のように頭の中で繰り返される。

 思考はとうに麻痺していた。ただここではないどこかへ行かなければ、という衝動だけで体を動かしている。ほとんど無意識のうちにたどり着いた東京駅で、金沢行きの最終列車のチケットを買い求めた。

 新幹線の車窓に映る自分の顔は、ひどくやつれて青白い。まるで幽霊のようだ。

 窓を叩く雨粒が、頬を伝う涙の代わりのようだった。長い移動時間で一睡もできず、ただ移り変わる暗い景色を虚ろに見つめ続ける。

 深夜の金沢駅に降り立つと、雨はさらに強くなっていた。慣れ親しんだはずの故郷の街が、今はひどく冷たく、よそよそしく感じる。

 桜は、ふらつく足でひがし茶屋街の石畳を踏んで、たった一つの心の拠り所を目指した。

 慣れ親しんだ工房に帰り着きさえすれば、また変わらぬ日常が待っていてくれるような気がして。

 亡くなった祖父が健在だった頃、工房は夜遅くまで明かりが灯されて、活気に満ちていた。あの頃の空気が、桜を迎えてくれるような気がして。

 けれど彼女を迎えたのは温かい光ではなかった。

 見慣れた工房の木の扉に、無機質な黄色いテープが非情に貼り付けられている。

『立入禁止』

 その四文字が、桜の最後の希望を音を立てて砕いた。これが現実。

 健斗の言葉は、悪夢ではなかった。凍えた指でテープにそっと触れる。ビニールのつるりとした冷たさが、取り返しのつかない事実を、目の前に突きつけてきた。

 桜は工房の軒下で雨を避けながら、スマートフォンを取り出した。元職人のリーダーである源さんに電話をかける。呼び出し音が、永遠のように長く感じられた。

『お嬢! どちらにおいでですかな!? ご無事でしたか!』

 やっと繋がった電話の向こうから聞こえてきたのは、心配そうな声だった。

「……もしもし、源さん……。夜分に、申し訳ありません。私……」

 声が、涙で震える。

「私のせいで、本当に、申し訳ありません……! 私が、私が馬鹿だったから、工房も、皆さんの仕事も取られてしまった」

 嗚咽で言葉が途切れる桜に対し、源さんの声は驚くほど穏やかだった。

 彼は東山健斗が工房の土地を奪ったことを、既に知っていた。今日、いつも通りに工房で作業をしていたら、東山の会社の人員がやってきて、職人たちを追い出したのだ。

 この工房は既にヒガシヤマ・ホールディングスのものだから、と。

 源さんは桜が婚約者に裏切られたと悟った。

『お嬢こそ、お体をお大事になすってください。わしらのことは、ええですから。お嬢が無事なら、それが一番です』

(なぜ、誰も私を責めないの? 罵ってくれた方が、どれだけ楽だっただろう)

 その優しさが、かえって鋭い刃となって桜の胸を締め付けた。

 電話を切り、桜は完全に一人になった。職人たちの優しさが、彼女から最後の逃げ場さえも奪い去る。怒りも悲しみも、もはや誰かのせいにはできない。残ったのは自分の愚かさに対する、底なしの絶望だけだった。

 健斗の甘い言葉。期待に輝いていた職人たちの顔。そして、あの契約書にサインをした自分の姿。次々と脳裏に浮かんでは、彼女の心を苛んだ。

(私が、全部壊したんだ)

(おじいちゃんが命を懸けて守ってきたものを、私の手で)

(もう、何もない。私には、何も残っていない……)

 思考が、途切れた。桜の体を支えていた力が抜けて、雨に濡れた冷たい石畳の上に座り込んだ。顔を上げる気力もなく、ただアスファルトの冷たさを感じながら、降り注ぐ雨に打たれ続ける。世界から色が消え、すべてが灰色の絶望に染まっていくようだった。

 意識が遠のきかけた、その時。

 カタン、と。雨音に混じって、小さな音がした。

 見れば工房の扉の脇に、いくつかの箱が無造作に積んでいる。古い道具箱は、健斗らが無価値として捨てていった『ガラクタ』だった。

 その一番上の小さな箱が、雨風に吹かれて転がり落ちたのだ。

 箱は落ちた衝撃で蓋が開いて、中身がころころと転がり出てきた。

 それは祖父が愛用し、桜が昨日まで手入れをしていた、一本の古びた蒔絵筆だった。

 泥に汚れ雨に打たれる一本の筆を、桜はゆっくりと拾い上げる。指先に伝わる、使い込まれた木の感触。

 それは健斗にも誰にも奪うことのできなかった、彼女の魂そのものだった。

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  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   31:エピローグ

     ショーの成功から半年後の、春。 金沢のひがし茶屋街には、うららかな陽光が降り注いでいた。 桜と玲遠は、改修を終えた『西園寺工房』の前に立っている。かつて無情にも貼られいた『立入禁止』のテープは既になく、藍色の真新しいのれんが春風に揺れていた。 桜はきれいにクリーニングされた加賀友禅を身にまとっている。健斗に裏切られた絶望の夜に、雨と泥とに汚してしまった祖母の形見だ。 ショーでの成功で得たお金で、桜はまずこの着物のクリーニングを行った。 時間が経ってしまったせいで落ちない汚れもあったが、桜は大切に着物を使い続けている。 工房の中からは、職人たちの楽しそうな話し声と、道具が木を打つ小気味良い音が聞こえてくる。 春の草花の香りにまじって、馴染んだ漆の匂いがした。 桜は、磨き上げられた古い木の門柱にそっと手を触れる。昔と変わらない温かな感触に、万感の思いが込み上げた。(ただいま、おじいちゃん。私、帰ってきたよ) 心の中で語りかければ、祖父が笑ってくれている気がした。「行こうか、桜」「ええ、玲遠」 二人が工房に足を踏み入れると、そこは以前とは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。 源さんたちベテラン職人の隣で、地元の高校を卒業したばかりの若い弟子たちが、緊張した面持ちで筆を動かしている。源さんが、若い弟子の一人の手を取り、筆の持ち方を根気よく教えていた。 その光景は、かつて祖父が幼い桜にしてくれたことと、全く同じだった。 壁には桜がパリで制作したモダンな作品と、源さんたちが作る伝統的な意匠の作品が、互いを引き立て合うように美しく飾られている。 どちらも甲乙つけ難く、若い弟子たちは憧れの目で作品を眺めていた。「お嬢、旦那様。おかえりなさいまし」 二人に気づいた源さんが、顔をほころばせた。自然な「旦那様」という呼び方に、桜の頬が熱くなる。「源さん、邪魔するよ。弟子たちの筋は、どうかな」 玲遠はもはや来客ではなく、家族のような穏やかな口調で応えた。「悪くねえ

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   30

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  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   29

     バックステージのモニターに、フィナーレを歩くトップモデルの姿が映し出されている。桜、玲遠、源さんたち職人は、その画面を食い入るように見つめていた。 会場に響くのは、心臓の鼓動を思わせるような重いビートの音楽だけ。ランウェイを照らす一本のスポットライトが、漆黒のドレスを纏ったモデルを追う。桜は呼吸さえも忘れてしまっていた。冷たくなった両手を、胸の前で強く握りしめる。(お願い、届いて! おじいちゃんの、私たちの魂。世界中の人たちに、届いてほしい!) モデルがランウェイの最先端で静止し、ポーズを取る。全ての照明が彼女一人に集中し、ドレスとアクセサリーの全貌が明らかになった。 深い闇を思わせるドレスのシルクが、光を吸い込む。その漆黒をキャンバスとして、ドレスの裾やカフス、そしてモデルの髪に挿された鼈甲の櫛に施された蒔絵が、まるで夜空にまたたく星々のように、眩い光を放った。 特に、櫛に描かれた曙光の意匠は、暗闇から生まれる希望そのものだった。 漆黒の星空と、生まれ出る朝日。 最新のデザインで編まれた完璧なドレスと、日本の古い伝統の美。 その対比。 カメラのフラッシュが嵐のように焚かれる。 一瞬、時間が止まったかのような、完全な静寂が会場を支配した。誰もが言葉を失い、その荘厳な美しさに圧倒されていた。 やがて客席の一人から始まった拍手が、瞬く間に熱狂的なスタンディングオベーションへと変わり、会場全体を揺るがす轟音となった。◇ その光景を、東京の薄暗いビジネスホテルの一室で、健斗は見ていた。部屋には安い酒の匂いが立ち込めている。画面のひび割れたスマートフォンで、ショーのライブ配信を見ていたのだ。 小さなスピーカーから、割れた音質の喝采が響き渡る。画面には喝采の中心に立つドレスと、その作者として『SAKURA SAIONJI』の名が大きく映し出されていた。 健斗は、かつて自分が「古臭いガラクタ」と嘲笑した蒔絵のクローズアップを見て、絶句する。 ――美しかった。薄汚い彼の心でさえ、一条の光を感じられるほどに。

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   28

     健斗が連行された後、玲遠は桜をアトリエまで送り届けた。「お嬢、大丈夫だったか? あの男に何もされんかったか?」「大丈夫ですよ。玲遠さんが守ってくれましたから」 源さんたちが心配そうに駆け寄るが、桜は安心させるように微笑んでみせた。 玲遠はアトリエの隅にあるキッチンに立つと、心を落ち着かせる効果のあるカモミールのハーブティーを淹れて、桜の手にそっと握らせた。 源さんたちは気をきかせて、いつの間にか部屋からいなくなっている。 温かいマグカップの感触が、強張っていた桜の指を優しくほぐしていく。柔らかな香りが、ロビーでの醜い記憶を綺麗に洗い流してくれるようだった。 桜と玲遠は向かいった椅子に座って、互いに見つめ合う。「……本当に、もういいのか?」 桜を見守るようにしている玲遠に、彼女は数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。「はい。もう大丈夫です。私の過去は、清算できました。玲遠さんのおかげです」 玲遠の唇の端にごくわずかな、偽りのない笑みが浮かんだ。「私は手助けをしただけだ。過去を振り切ったのは、君の力だよ。……パリ・コレクションまであと三日だ。ここからは君の時間になる」「はい。力を尽くします」◇ そしてパリ・コレクション当日。 会場のバックステージは、美の創造のための戦場と化していた。国籍も言語も様々なプロフェッショナルたちが、ぴりぴりとした緊張感をまとって飛び交っている。ヘアスプレーと香水の匂い、シルクが擦れる音、ショーディレクターがフランス語と英語で飛ばす鋭い指示。 その喧騒の中心から少し離れた一角に、桜と職人たちだけの静かな空間があった。 彼らはこれからランウェイに登場するモデルが纏うドレスやアクセサリーに、最後の調整を施している。源さんは、外科医もかくやという精密な手つきで、ドレスにあしらわれた蒔絵のブローチの角度をミリ単位で調整していた。 一人のトップモデルが、自分のカフスに施された蒔絵をうっとり

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   27:みじめな終わり

     コレクションの発表を数日後に控えて、パリのアトリエは緊張の中にも充実感を感じる空気で満たされていた。 桜はショーで使うための小物類に、最後の仕上げを施している。 極限まで集中した筆が、正確な線を引いていく。 原さんたちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。 静かな創作の時間を破ったのは、秘書のイザベルの来訪だった。 彼女はいつもの冷静さを失っていないが、どこか苛立ちを感じさせる口調で言う。「桜様。大変申し上げにくいのですが……東山健斗と名乗る男が、『VALENTIS』本社のセキュリティを突破し、ロビーで面会を強要しております」 東山健斗。その名前に、アトリエの空気が固まった。「あの男! お嬢にまだ何の用があるっていうんだ」 源さんが苦々しく呟いた。(来たか……) 桜は口元を引き結んだ。けれどもう、恐怖はない。 櫛をそっと台に置くと、作業で汚れてしまった手を布で拭って立ち上がった。「大丈夫です、源さん、みんな。これは私自身が片付けなければいけない、最後の仕事ですから。……行ってきますね」◇ 桜はイザベルが運転する車に乗って、『VALENTIS』本社まで赴いた。「イザベルさん、玲遠さんに伝えてください。私が自分で決着をつけるので、見守っていてほしいと」「分かりました。伝えます」 裏手の駐車場からVIP用のエレベーターに乗り、ロビーへと出る。 美しい大理石造りのロビーにふさわしくない姿で、健斗はそこにいた。高級スーツは皺だらけ。両目は落ち窪んで覇気を失っている。 両側を体格のいい警備員に押さえられていて、それがみすぼらしさを増していた。 ロビーを行き交う社員たちが、何事かと遠巻きに見ていた。 桜が近づくと、健斗は目を上げた。手を伸ばして彼女に取りすがろうとする。「桜さん……来てくれたんだね。僕が

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   26

     健斗と『Higashiyama Holdings』の崩壊は、間近に迫っている。  社長室のデスクに置かれたノートパソコンのモニタが、小さな電子音を上げた。常に表示されている会社の株価が、断崖絶壁のような急落を示していた。  情報に敏感な投資家たちが、会社の未来をないものとして、次々と株を投げ売りしているのだ。「社長……こんなニュースが」 秘書が怯えた様子で、再度タブレットを差し出す。今度は日本のニュースサイトだった。『金沢の伝統文化連盟、不当な圧力をかけたとして『Higashiyama Holdings』を告発。提訴の準備も』 桜の工房に材料を売らないよう、指示した件だった。  健斗が圧力をかけたのは有力な数店だが、いつの間にかこんな話になっている。「まさか、また『VALENTIS』か」 金沢の大規模開発を手掛ける健斗は、地元に強い影響力を持つ。彼の圧力を振り切って告発するなど、協力者がいなければ不可能だ。  彼はしばし呆然と天井を見て、それから我に返った。「いい加減にしろよ、カビ臭いだけが取り柄の老舗のくせに! 俺にはまだ再開発事業がある。あれさえ成功させれば、VALENTISの影響など吹き飛ばせる! そうに決まっているッ」 恐怖に震える心を、無理矢理に強がってみせる。  けれどその強がりを、一本の電話が完全に崩壊させた。 ◇  電話の主は、健斗の再開発事業に融資していたメインバンクの支店長だった。「今後の融資計画について、一度ご相談したく思います。なるべく早くお時間を取ってください」 支店長の声は冷たい。健斗は猛烈に嫌な予感がして、取りすがった。「ニュースになっている件ですか? あの話でしたら問題ありません。すぐに収まります。ですので……」「とにかく、一度ご来店を。今から来てくださって構いませんよ」 電話が切れる。  健斗は重い体を引きずりながら、銀行へ向かわざるを得なかった。 ◇

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