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last update تاريخ النشر: 2025-09-07 20:31:22

 灰色の空の下、桜はまず銀行へと向かった。

 昨夜から着の身着のままの泥で汚れた加賀友禅姿は、清潔で静かなロビーの中ではひどく浮き立って見える。窓口の若い女性行員が一瞬だけ訝しげな視線を向けたが、桜はまっすぐに彼女を見つめ返した。その瞳には、もはや昨日のような虚ろさはない。

「全額、お願いします」

 通帳を出し、所定の用紙に口座から引き出す金額を記入する。落ち着いた声で告げると、行員は手続きを進めた。

 通帳から引き出された現金は、帯のついた束にすらならないささやかなもの。けれど今の桜にとって、未来を繋ぐための全財産だった。

(これが私のすべて。でもゼロじゃない。ここから始められる)

 指に力を込めて、紙幣を封筒へ入れた。その足で不動産屋へ向かう。保証人もいない自分が借りられる、一番安い物件を尋ねた。

「そのご予算で、その条件となりますと……」

 紹介されたのは、金沢の古い住宅街に埋もれるように立つ、木造アパートの一室だった。日当たりだけが取り柄の、六畳一間の和室。築年数はこの際、気にしないことにする。

 扉を開けると、古い畳の匂いが鼻をついた。桜は部屋の真ん中に立って、がらんとした空間を見渡した。かつて多くの職人たちの活気に満ちていた、あの広い工房との対比が胸に迫る。だが不思議と涙は出なかった。

(小さくたって、ここは私の城)

 ここでようやく、桜は加賀友禅の着物を脱いだ。

(こんなに汚してしまった。おばあちゃん、ごめんなさい)

 クリーニングに出す資金は、今はない。桜は普段着に着替えると、汚れた着物を丁寧に畳んで、たとう紙に包んで押し入れに大事にしまい込んだ。

 なけなしの資金で最低限の漆や金粉、それから新しい道具を買い揃える。

 馴染みの道具屋は桜の事情を知っているようだったが、変わらぬ態度で接してくれた。ありがたかった。

 手に入れたばかりの真新しい筆やヘラは、祖父の使い込んだものとは違って、どこかよそよそしく、彼女の指にまだ馴染まない。

 それでも、部屋の一番日当たりの良い窓際に作業スペースを作り、荷物を解いた。そして泥を丁寧に拭った祖父の蒔絵筆を、新しく買った筆立ての中心に置いた。その一本があるだけで、小さな空っぽの部屋が神聖な「工房」へと変わった気がした。

 新しい作業台に向かい、桜は一度目を閉じる。浮かび上がってくるのは、祖父から教わった豪華絢爛な伝統意匠。だが彼女はそのイメージを振り払った。

(今の私に、あれは作れない。作るべきじゃない)

 今の自分にしか作れないもの。絶望の底から見つけた、あの小さな光を形にしたい。

 桜は解き放たれたように、自由に手を動かし始めた。モチーフは現代を生きる女性が日常の中で身に着けられるような、モダンでミニマルなもの。

 試行錯誤の末、一つのデザインにたどり着く。漆黒の小さな円盤に、金粉で描かれた夜明けの光を思わせる繊細な幾何学模様。

 今日の夜明けに見た、暗い空から一筋の朝日が差し込む意匠だった。

(これは私の過去との決別。そして、未来への祈り)

 息を止めて、祖父の形見の筆を手に取る。すべての想いを指先に集中させ、最後の仕上げとなる一本の線を、寸分の狂いもなく引いた。

 作品が、完成した。

 手のひらに乗せた一対のピアスは、静かで、凛とした美しさを放っていた。

 桜は、完成したピアスをスマートフォンで丁寧に撮影した。写真の中のピアスは、実物に劣らない輝きを放っている。

 それから新しいSNSのアカウントを開設した。

 ブランド名をどうするか、一瞬迷う。『西園寺工房』の名は、もうない。今の自分は何者なのか。答えは、すぐに出た。

 私の仕事、私の魂そのもの。

 桜は誇りと覚悟を込めて、自分の名前を打ち込んだ。

『SAKURA SAIONJI』

 撮った写真に「私の新しい一歩です」とだけ書き添えて、投稿ボタンを押す。世界に向けて、自分の魂を解き放った瞬間だった。

 心臓がドキドキとうるさく鳴り、期待と恐怖がないまぜになる。

 けれど何の反応もなかった。

 時間はただ静かに流れて、スマートフォンの画面は暗いまま、何の通知もない。

(やっぱり、ダメなのかな……。私の仕事なんて、誰の目にも留まらないのかもしれない)

 灯したはずの希望の炎が、再び不安の風に揺らぎ始めた、その時。

 ぽつり。

 暗い画面に、一件の通知が灯った。

 それは見知らぬ海外のアカウントからついた、たった一つの「いいね」だった。

 がらんとした六畳一間の工房で、桜はその小さな光を、広大な夜空に輝く最初の星を見つけたかのように、じっと見つめていた。

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أحدث فصل

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   31:エピローグ

     ショーの成功から半年後の、春。 金沢のひがし茶屋街には、うららかな陽光が降り注いでいた。 桜と玲遠は、改修を終えた『西園寺工房』の前に立っている。かつて無情にも貼られいた『立入禁止』のテープは既になく、藍色の真新しいのれんが春風に揺れていた。 桜はきれいにクリーニングされた加賀友禅を身にまとっている。健斗に裏切られた絶望の夜に、雨と泥とに汚してしまった祖母の形見だ。 ショーでの成功で得たお金で、桜はまずこの着物のクリーニングを行った。 時間が経ってしまったせいで落ちない汚れもあったが、桜は大切に着物を使い続けている。 工房の中からは、職人たちの楽しそうな話し声と、道具が木を打つ小気味良い音が聞こえてくる。 春の草花の香りにまじって、馴染んだ漆の匂いがした。 桜は、磨き上げられた古い木の門柱にそっと手を触れる。昔と変わらない温かな感触に、万感の思いが込み上げた。(ただいま、おじいちゃん。私、帰ってきたよ) 心の中で語りかければ、祖父が笑ってくれている気がした。「行こうか、桜」「ええ、玲遠」 二人が工房に足を踏み入れると、そこは以前とは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。 源さんたちベテラン職人の隣で、地元の高校を卒業したばかりの若い弟子たちが、緊張した面持ちで筆を動かしている。源さんが、若い弟子の一人の手を取り、筆の持ち方を根気よく教えていた。 その光景は、かつて祖父が幼い桜にしてくれたことと、全く同じだった。 壁には桜がパリで制作したモダンな作品と、源さんたちが作る伝統的な意匠の作品が、互いを引き立て合うように美しく飾られている。 どちらも甲乙つけ難く、若い弟子たちは憧れの目で作品を眺めていた。「お嬢、旦那様。おかえりなさいまし」 二人に気づいた源さんが、顔をほころばせた。自然な「旦那様」という呼び方に、桜の頬が熱くなる。「源さん、邪魔するよ。弟子たちの筋は、どうかな」 玲遠はもはや来客ではなく、家族のような穏やかな口調で応えた。「悪くねえ

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   30

     ショーの後のアフターパーティは、熱狂の渦の中にあった。会場はファッション業界の頂点に立つ人々で埋め尽くされて、桜は賞賛の言葉を次々と投げかけられていた。「マドモアゼル・サイオンジ、あなたの仕事は伝統への最高の敬意であり、同時に最も美しい裏切りだ。伝統と最先端との融合を、ここまで見事にやってのけるとは。素晴らしい……!」「ありがとうございます」 著名な評論家が興奮した様子で彼女の手を取った。焚かれるフラッシュが眩しく目を焼く。 夢のような光景に、桜は気圧されそうになる。そのたびに隣に立つ玲遠が、彼女の腰を支える手に力を込めた。  彼は桜に殺到する人々を、時に「氷の皇帝」の鋭い視線で、時にスマートな会話術で巧みに捌いていく。彼女が疲弊しないよう、静かな盾となっていた。桜は彼の大きな背中に、大きな安心感を覚えていた。「桜、疲れただろう。そろそろ行こう」 喧騒の合間に、玲遠が桜の耳元で囁いた。  二人は退出の挨拶をして、華やかなパーティの場を離れていった。  これからは二人だけの時間。  ショーの成功の余韻を抱えて、桜は玲遠の存在だけを感じていた。 ◇  数日後、パリのホテルの静かなカフェで、桜と玲遠は穏やかな朝食を取っていた。「まだ夢のようだわ。私たちの蒔絵が、あれほど華やかな舞台で輝いたなんて」「これは始まりに過ぎない。これからもっと多くのチャンスが待っている」 二人は視線を見交わして、微笑み合った。「おはようございます、ムッシュー、マドモアゼル」 声を掛けてきたのは、秘書のイザベルだ。彼女はタブレット端末を玲遠に差し出した。  焼きたてのクロワッサンの香ばしい匂いと、カチャリと響く銀食器の音。  穏やかな朝の空気を破るように、タブレットの画面に表示された見出しが、桜の目に飛び込んできた。『東山ホールディングス、破産申請へ。旧西園寺工房の土地は債権者の手に渡り、近日中に競売予定』「ムッシュー。東山ホールディングスの件、最終報告です。

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   29

     バックステージのモニターに、フィナーレを歩くトップモデルの姿が映し出されている。桜、玲遠、源さんたち職人は、その画面を食い入るように見つめていた。 会場に響くのは、心臓の鼓動を思わせるような重いビートの音楽だけ。ランウェイを照らす一本のスポットライトが、漆黒のドレスを纏ったモデルを追う。桜は呼吸さえも忘れてしまっていた。冷たくなった両手を、胸の前で強く握りしめる。(お願い、届いて! おじいちゃんの、私たちの魂。世界中の人たちに、届いてほしい!) モデルがランウェイの最先端で静止し、ポーズを取る。全ての照明が彼女一人に集中し、ドレスとアクセサリーの全貌が明らかになった。 深い闇を思わせるドレスのシルクが、光を吸い込む。その漆黒をキャンバスとして、ドレスの裾やカフス、そしてモデルの髪に挿された鼈甲の櫛に施された蒔絵が、まるで夜空にまたたく星々のように、眩い光を放った。 特に、櫛に描かれた曙光の意匠は、暗闇から生まれる希望そのものだった。 漆黒の星空と、生まれ出る朝日。 最新のデザインで編まれた完璧なドレスと、日本の古い伝統の美。 その対比。 カメラのフラッシュが嵐のように焚かれる。 一瞬、時間が止まったかのような、完全な静寂が会場を支配した。誰もが言葉を失い、その荘厳な美しさに圧倒されていた。 やがて客席の一人から始まった拍手が、瞬く間に熱狂的なスタンディングオベーションへと変わり、会場全体を揺るがす轟音となった。◇ その光景を、東京の薄暗いビジネスホテルの一室で、健斗は見ていた。部屋には安い酒の匂いが立ち込めている。画面のひび割れたスマートフォンで、ショーのライブ配信を見ていたのだ。 小さなスピーカーから、割れた音質の喝采が響き渡る。画面には喝采の中心に立つドレスと、その作者として『SAKURA SAIONJI』の名が大きく映し出されていた。 健斗は、かつて自分が「古臭いガラクタ」と嘲笑した蒔絵のクローズアップを見て、絶句する。 ――美しかった。薄汚い彼の心でさえ、一条の光を感じられるほどに。

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   28

     健斗が連行された後、玲遠は桜をアトリエまで送り届けた。「お嬢、大丈夫だったか? あの男に何もされんかったか?」「大丈夫ですよ。玲遠さんが守ってくれましたから」 源さんたちが心配そうに駆け寄るが、桜は安心させるように微笑んでみせた。 玲遠はアトリエの隅にあるキッチンに立つと、心を落ち着かせる効果のあるカモミールのハーブティーを淹れて、桜の手にそっと握らせた。 源さんたちは気をきかせて、いつの間にか部屋からいなくなっている。 温かいマグカップの感触が、強張っていた桜の指を優しくほぐしていく。柔らかな香りが、ロビーでの醜い記憶を綺麗に洗い流してくれるようだった。 桜と玲遠は向かいった椅子に座って、互いに見つめ合う。「……本当に、もういいのか?」 桜を見守るようにしている玲遠に、彼女は数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。「はい。もう大丈夫です。私の過去は、清算できました。玲遠さんのおかげです」 玲遠の唇の端にごくわずかな、偽りのない笑みが浮かんだ。「私は手助けをしただけだ。過去を振り切ったのは、君の力だよ。……パリ・コレクションまであと三日だ。ここからは君の時間になる」「はい。力を尽くします」◇ そしてパリ・コレクション当日。 会場のバックステージは、美の創造のための戦場と化していた。国籍も言語も様々なプロフェッショナルたちが、ぴりぴりとした緊張感をまとって飛び交っている。ヘアスプレーと香水の匂い、シルクが擦れる音、ショーディレクターがフランス語と英語で飛ばす鋭い指示。 その喧騒の中心から少し離れた一角に、桜と職人たちだけの静かな空間があった。 彼らはこれからランウェイに登場するモデルが纏うドレスやアクセサリーに、最後の調整を施している。源さんは、外科医もかくやという精密な手つきで、ドレスにあしらわれた蒔絵のブローチの角度をミリ単位で調整していた。 一人のトップモデルが、自分のカフスに施された蒔絵をうっとり

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   27:みじめな終わり

     コレクションの発表を数日後に控えて、パリのアトリエは緊張の中にも充実感を感じる空気で満たされていた。 桜はショーで使うための小物類に、最後の仕上げを施している。 極限まで集中した筆が、正確な線を引いていく。 原さんたちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。 静かな創作の時間を破ったのは、秘書のイザベルの来訪だった。 彼女はいつもの冷静さを失っていないが、どこか苛立ちを感じさせる口調で言う。「桜様。大変申し上げにくいのですが……東山健斗と名乗る男が、『VALENTIS』本社のセキュリティを突破し、ロビーで面会を強要しております」 東山健斗。その名前に、アトリエの空気が固まった。「あの男! お嬢にまだ何の用があるっていうんだ」 源さんが苦々しく呟いた。(来たか……) 桜は口元を引き結んだ。けれどもう、恐怖はない。 櫛をそっと台に置くと、作業で汚れてしまった手を布で拭って立ち上がった。「大丈夫です、源さん、みんな。これは私自身が片付けなければいけない、最後の仕事ですから。……行ってきますね」◇ 桜はイザベルが運転する車に乗って、『VALENTIS』本社まで赴いた。「イザベルさん、玲遠さんに伝えてください。私が自分で決着をつけるので、見守っていてほしいと」「分かりました。伝えます」 裏手の駐車場からVIP用のエレベーターに乗り、ロビーへと出る。 美しい大理石造りのロビーにふさわしくない姿で、健斗はそこにいた。高級スーツは皺だらけ。両目は落ち窪んで覇気を失っている。 両側を体格のいい警備員に押さえられていて、それがみすぼらしさを増していた。 ロビーを行き交う社員たちが、何事かと遠巻きに見ていた。 桜が近づくと、健斗は目を上げた。手を伸ばして彼女に取りすがろうとする。「桜さん……来てくれたんだね。僕が

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   26

     健斗と『Higashiyama Holdings』の崩壊は、間近に迫っている。  社長室のデスクに置かれたノートパソコンのモニタが、小さな電子音を上げた。常に表示されている会社の株価が、断崖絶壁のような急落を示していた。  情報に敏感な投資家たちが、会社の未来をないものとして、次々と株を投げ売りしているのだ。「社長……こんなニュースが」 秘書が怯えた様子で、再度タブレットを差し出す。今度は日本のニュースサイトだった。『金沢の伝統文化連盟、不当な圧力をかけたとして『Higashiyama Holdings』を告発。提訴の準備も』 桜の工房に材料を売らないよう、指示した件だった。  健斗が圧力をかけたのは有力な数店だが、いつの間にかこんな話になっている。「まさか、また『VALENTIS』か」 金沢の大規模開発を手掛ける健斗は、地元に強い影響力を持つ。彼の圧力を振り切って告発するなど、協力者がいなければ不可能だ。  彼はしばし呆然と天井を見て、それから我に返った。「いい加減にしろよ、カビ臭いだけが取り柄の老舗のくせに! 俺にはまだ再開発事業がある。あれさえ成功させれば、VALENTISの影響など吹き飛ばせる! そうに決まっているッ」 恐怖に震える心を、無理矢理に強がってみせる。  けれどその強がりを、一本の電話が完全に崩壊させた。 ◇  電話の主は、健斗の再開発事業に融資していたメインバンクの支店長だった。「今後の融資計画について、一度ご相談したく思います。なるべく早くお時間を取ってください」 支店長の声は冷たい。健斗は猛烈に嫌な予感がして、取りすがった。「ニュースになっている件ですか? あの話でしたら問題ありません。すぐに収まります。ですので……」「とにかく、一度ご来店を。今から来てくださって構いませんよ」 電話が切れる。  健斗は重い体を引きずりながら、銀行へ向かわざるを得なかった。 ◇

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   02

     パーティを翌日に控えて、『西園寺工房』にはここ数年なかったような明るい空気が流れていた。 桜は工房の床を丁寧に掃き清めた。残ってくれた数少ない老職人の一人、源さんは鼻歌混じりに木地の調整をしている。健斗がもたらした希望は、沈んでいた工房の空気を確かに変えていた。 昼下がり、工房の前に一台の黒いセダンが静かに停まった。 降りてきたのは、イタリア製のスーツを粋に着こなした東山健斗だった。手にはモダンな革のブリーフケースが握られている。伝統工芸工房の未来を決める書類が納められるものとしては、少々そぐわないほどのお洒落さだった。「源さん、ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」 健斗は

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   01

     夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込んでいた。金沢、ひがし茶屋街の路地裏にひっそりと佇む『西園寺工房』。その広い仕事場は、ひとけがなくがらんとして静まり返っていた。 西園寺桜は、作業台に向かい、息を詰めて一本の古い蒔絵筆を手入れしている。祖父の指の形に馴染んだ黒漆の軸を、柔らかな鹿の皮で丁寧に磨き上げる。かつて人間国宝にまで上り詰めた祖父が、生涯手放さなかった筆だ。 部屋には、漆の甘く深い匂いだけが満ちている。(おじいちゃん、この筆の感覚、まだ指が覚えているよ) 祖父から受け継いだ技術と、この工房に宿る魂。それだけが桜の誇りだった。 しかし、誇りだけでは人の腹は満たされない。最

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   08

     あの日、海外アカウントからついた、たった一つの「いいね」。 桜はその小さな光を何度も見返して、それからまた黙々と作業に戻った。 今の彼女にできるのは、手を動かすことだけ。今まで培った蒔絵の技術を存分に活かしながら、祈りを込めて作るだけだった。 期待と不安が入り混じる中、数日が過ぎた朝のことだった。 ピロン、と。静かな部屋に、スマートフォンの通知音が響く。 画面に表示された「注文がありました」の文字を、桜は信じられない思いで何度も見返した。それは先日投稿した幾何学模様のピアスへの、国内からの注文だった。(

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   07:氷の皇帝

     その日、パリは快晴だった。 世界的ラグジュアリーブランド『VALENTIS(ヴァレンティ)』本社、その最上階にあるCEOオフィス。床から天井まで続くガラス窓の向こうには、陽光に輝く街並みが広がっている。 室内は極限まで無駄を削ぎ落としたミニマルな空間。磨き上げられた大理石のデスクの上には、次期コレクションのものとされるデザイン画が、美しい墓標のように積まれていた。 久遠寺・玲遠(レオン)・ヴァレンティは、冷徹な表情でその山を切り崩していく。最高級の紙に描かれたデザイン画を一枚手に取り、数秒見つめ、そして無言で脇の「却下」トレイに置く。カサリ、と乾

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