朝、いつもの時間に目が覚めた。カーテンの向こうに薄い光。枕元のスマホを見て、しばらく迷う。こちらから電話、してもいいかな。忙しい時間を邪魔しないかな。
「もしもし」
『起こしたか?』
まだ朝の匂いがする、低くて落ち着いた声。思わず笑ってしまう。
「いえ、今ちょうど起きたところです。おはようございます」
『おはよう。こっちは午前の打ち合わせを済ませたら戻れそうだ。恐らく夕方には戻れるだろうな。遅くても15時の新幹線には乗るつもりだ」
「ほんとですか。よかった……」
『今日は家でひかりのご飯が食べたい。なにか作って欲しい』
「わかりました。用意します」
『じゃあ――今夜は一緒に食べよう』
胸の内側で、小さく灯りがともる。たったそれだけの約束なのに、世界が一段明るくなる気がした。
「うれしいです。気をつけて帰ってきてくださいね」
東京駅は人の流れそのものが大きな生き物みたいにうねっていた。入場切符を購入し、新幹線のりばへ。蓮司に会えると思うと、胸の高鳴りが止まらない。 自動改札を抜けると、ホームへ吹き上げる冷たい風が頬を撫でた。掲示板には「のぞみ98号 東京」の文字、その右に17:57:の時刻。私はホームの表示を頼りに、8号車から10号車のグリーン車のあたりまで歩く。床の足元に描かれた号車番号、柱の青いプレート、緑のクローバーマーク。9号車の少し手前で立ち止まり、マフラーの端を指で整えた。手袋を外し、リップを軽く塗り直す。息が白い。 新幹線到着のチャイムが鳴り、続いてアナウンスが流れる。 ホームの床が、ごくごく小さく震え出す。先に風が来て、遅れて光が来る。ヘッドライトが線路の銀を走り、白い車体が音を纏って滑り込んでくる。髪がふわりと持ち上がり、瞼が一度だけ瞬いた。 ブレーキの擦れる音、足元に伝わるわずかな揺れ。目の前でドアが開く。溢れ出す人波はみんな忙しそうで、それでもそれぞれに「おかえり」と「ただいま」を胸に抱えているのが分かる。私はその波の端に立って、背伸びをせず、ただ目を澄ませた。 ――いた。 降りた瞬間、肩に乗っていた緊張がすっと抜け落ちて、目尻の線がやわらぐ。私と視線が合う。彼
散歩は川沿いの遊歩道まで。朝の冷気はきりっとしていて、シリウスの足取りも軽い。信号で止まると、私の顔を見上げて尾をふわり。はいはい、わかってる。今日は蓮司が帰ってくるからね。いい日になるよ。 最後は軽くランニングして戻った。シリウスにご飯をあげて、お水を替えて、ペットシーツも取り替えた。 私は簡単にトーストを焼いてかじる。あと、今日は考えていることがあるから、夜ご飯を仕込んだ。 帰ったらさっと炒めるだけ。野菜を切って、ご飯をセットする。後は簡単な野菜スープ。それからお手製のソース(簡易版)。「よしっ」 手際よくやればすぐできる。主婦やってたから、ご飯造りはお手のもの。 今はそれしか取り柄が無い。もっと蓮司と肩を並べても見劣りしないようなレディになりたいけど…もとが庶民だからムリかなぁ。 頑張る前から諦めるのはどうかと思うけれど…。「シリウス、行ってくるね」「ワンっ」 シリウスにバイバイして会社に向かった。出社してからは、いつも通り。ただ、蓮司がいないというだけ。午前はメールの返しと段取り確認、午後は見積の詰め。余計な噂話はまだ漂っていたけれど、亜由美がうまく壁になってくれているのが分かる。昼休み、スマホが震えた。《15時半 新大阪発。戻りは18時》《了解です》 今日はぜったい迎えに行きたい。 仕事は根性で終わらせる!! だって私が会いたいんだもん!! サンドイッチをかきこみ、昼休み返上。午後は時計とにらめっこしながらフルスロットル。タスクを一つずつ潰して、やれるだけのことはやる。亜由美に「定時ダッシュする!」と宣言。すぐ親指スタンプが返ってくる。蓮司と結婚したからには、ちゃんと夫婦になっていきたいから、まずは
朝、いつもの時間に目が覚めた。カーテンの向こうに薄い光。枕元のスマホを見て、しばらく迷う。こちらから電話、してもいいかな。忙しい時間を邪魔しないかな。 親指が通話のところで止まったその時、画面がふっと震えた。発信者の名前に、胸がやわらかくほどける。「もしもし」『起こしたか?』 まだ朝の匂いがする、低くて落ち着いた声。思わず笑ってしまう。「いえ、今ちょうど起きたところです。おはようございます」『おはよう。こっちは午前の打ち合わせを済ませたら戻れそうだ。恐らく夕方には戻れるだろうな。遅くても15時の新幹線には乗るつもりだ」「ほんとですか。よかった……」『今日は家でひかりのご飯が食べたい。なにか作って欲しい』「わかりました。用意します」『じゃあ――今夜は一緒に食べよう』 胸の内側で、小さく灯りがともる。たったそれだけの約束なのに、世界が一段明るくなる気がした。「うれしいです。気をつけて帰ってきてくださいね」