王都の心臓部に位置する王国騎士団の詰所は、石造りの重厚な建物。マリーが想像していた以上に厳格で威圧的な空気に満ちていた。鍛錬を終えた騎士たちが行き交い、武具がぶつかり合う硬質な音と、規律正しい命令の声が響き渡る。
質素なワンピース姿のマリーは、明らかに異質な存在だった。
好奇と驚き、あからさまな猜疑の視線が容赦なく突き刺さる。「あの娘は誰だ?」
「団長が連れてこられたらしいが、平民じゃないか?」ひそひそと交わされる囁き声が、マリーの耳に届いた。怯えて身を縮こませる彼女の様子に前を歩いていたアランが気づき、ぴたりと足を止めた。
「紹介する。こちらはマリー。私の婚約者だ。今日から私と共にここで暮らす。未来の団長夫人として、敬意をもって接するように」
彼の威厳に満ちた声に、あれほど騒がしかった囁き声が嘘のようにぴたりと止んだ。騎士たちは驚きに目を見開きながらも、慌てて背筋を伸ばして一斉に敬礼する。その光景に、マリーは自分がとんでもない場所に来てしまったのだと、改めて実感した。
彼がマリーに与えたのは、清潔だが冷たい雰囲気の客間だった。
「ここを君の部屋として使え。私かリオネルの許可なく、詰所内を勝手に歩き回るのを禁ずる。君の存在は、まだ外部には極秘だ」
アランは事務的な口調で告げた。広い部屋でポツンと佇むマリーの小さな背中を見て、彼の胸にわずかな罪悪感がよぎる。だがそれを顔に出すことはなかった。
マリーは寂しさと不安を感じながらも、ここが彼の呪いを解くための最前線なのだと決意を新たにしていた。アランに向き直り、尋ねる。「あの……薬を調合するための場所をお借りすることはできますか?」
彼女の頭の中は、すでに治療のことでいっぱいだった。
+++ 翌日の昼、リオネルが昼食を運んできてくれた。「いやあ、団内は大騒ぎですよ。団長のお相手は、誰もがクラリッサ様だと信じてましたから」
気さくな口調で言いながら、彼はマリーの反応を探っていた。ふと真剣な表情になると、声を潜める。
「マリー様、クラリッサ嬢は、侯爵家が誇る大変プライドの高いお方です。どうか、お気をつけください」
「クラリッサ」という名前に、マリーの心臓が小さく跳ねる。自分がその人の立場を奪ってしまった。何も起こらないはずがない。
その夜、マリーはアランが用意してくれた物置部屋を一心不乱に掃除していた。
客間とは別にもらったその部屋は、薬の調合のためのもの。埃を払って床を磨き、持ってきた薬草や薬学書を整然と並べていく。(噂や身分なんて、どうでもいい。私の仕事はあの人の呪いを解くこと。助けるって決めたんだ)
逆境がマリーの緑の瞳に、真剣な輝きを与えていた。
+++ 深夜。アランの執務室のドアに、控えめなノックの音が響いた。「マリーです。薬湯をお持ちしました」
「……入れ」マリーが淹れたての薬草茶を盆に乗せて、部屋に入ってくる。
アランは山積みの書類と格闘している最中だ。書類から目を離さずに黙ってカップを受け取る。薬草の穏やかな香りが部屋に広がった。 一口お茶を飲む。温かい液体が喉を通り、呪いによる苦痛がすっと和らぐのを感じた。薬臭さは薄い、心が安らぐような味と香り。 ふと顔を上げると、彼を見つめているマリーと視線が合った。薬師として、心からアランを思いやっている瞳。 アランは礼の言葉の代わりに、静かに告げた。「一週間後、王城で夜会が開かれる。君には、私の婚約者として出席してもらう」
突然の宣告にマリーは息を呑んだ。夜会――貴族社会との初対峙であり、おそらくクラリッサ本人との遭遇を意味する。
次なる試練は、もう目の前に迫っていた。バルコニーから大広間へ戻ると、明らかに空気が変わっていた。 囁き声は続いているが、その内容は侮蔑的な嘲笑から、「あの娘は何者なのだ?」という強い好奇心と、ある種の畏敬へと変化している。二人が歩くと、さざ波が引くように人々が自然と道を開けた。 まだ緊張は解けないものの、アランのたくましい腕に支えられ、マリーは先ほどよりも少しだけ背筋を伸ばして前を向くことができた。彼の隣に立つ、ということの重みを実感する。 その時、人垣を割って、白髪の老紳士が二人の元へ歩み寄ってきた。王国の重鎮であり、誰の派閥にも属さないことで知られるローゼンタール公爵その人だった。周囲の貴族たちが、固唾をのんでその様子を見守っている。「フェルディナンド卿の心を射止めたご令嬢は、随分と芯の強いお方のようだ」 公爵の鋭いが、どこか温かみのある目がマリーに向けられる。「マリー殿とやら、あなたの趣味は何かな?」 突然の問いにマリーは一瞬戸惑ったが、正直に答えた。「趣味、と呼べるほどのものではございませんが……。薬草を育て、その効能を調べるのが好きです」 その答えに、公爵は満足そうに深く頷いた。周囲に聞こえるように言う。「ほう、薬草とな。見かけの美しさよりも、人を癒す実践的な知識の方が、よほど価値がある。フェルディナンド卿は、実に良いお相手を見つけられたな」 この一言が、マリーに対する評価を決定づけた。大物貴族からの「お墨付き」を得たことで、もはや誰も彼女を公然と侮辱できなくなる。アランの青い瞳に、安堵とマリーへの誇らしさが浮かんだ。 公爵は続ける。「若者たちよ。只々人を貶めるだけでなく、自らの力を役立てるよう、心しなさい。このお嬢さんは平民だが、よい心構えをしている」 公爵はクラリッサの行いを見て、貴族にあるまじきことと眉をひそめていた。とはいえこの貴族社会で、少々の嫌がらせ程度で折れるような者は必要ない。 クラリッサのいじめを跳ね返したアランとマリーを、公爵は気に入ったのだった。 その光景を、クラリッサが遠くから苦々しく見つめていた。
アランは、まだ驚きが残るマリーをダンスの輪へとエスコートしていく。曲は優雅でゆったりとしたワルツ。周囲の囁き声は続いているが、その内容は嘲笑から驚きと好奇心へと変わっていた。「足が動かない……」 マリーは緊張と恐怖で俯いてしまう。一週間しか練習していないのだ。失敗したらどうしよう。 そんな彼女の耳元で、アランが囁いた。「足元ではなく、私を見ろ。信じろ」 その声は穏やで、安心感を与えてくれた。マリーがおそるおそる顔を上げると、彼のサファイアのような青い瞳が、まっすぐに自分だけを見つめていた。 アランのリードに身を任せるうちに、不思議と体から力が抜けていく。最初はぎこちなかったステップが、次第に彼の導きに合っていく。周りの世界が遠ざかり、音楽と、二人だけの空間になる。 見つめてくる青い瞳の強さに、恐怖とは違う理由で心臓が高鳴った。 アランもまた、驚いていた。マリーは思った以上に上手くついてくる。彼女を腕の中に抱いていると、不思議としっくりくる感覚があった。髪から香る、微かな薬草の匂い。マリー自身の匂いと交じって、心が落ち着いていく香りだ。いつの間にか、婚約者の「役」を演じているのではなく、心からこの瞬間を楽しんでいる自分に気づいた。 ふと回りを見渡せば、他の男たちがマリーを見ていた。先ほどまでの侮蔑の目ではなく、好奇と興味の視線だ。 ――マリーが男の目を引いている。 そう思った瞬間、アランの胸に鋭い痛みが走った。嫉妬心だと気づいたのは、少ししてからのこと。今まで覚えたことのない感情だった。 無意識に、マリーを抱く腕に力がこもる。 やがて曲が終わる。誰かが声をかける前に、アランは素早くマリーを人混みから連れ出して、月明かりが差し込む静かなバルコニーへと向かった。蒸し暑い舞踏会場から一転、涼しい夜風が心地よい。「す、すみません。もう少しで、足を踏み外すところでした」 息を切らしながら言うマリーに、アランはいつもより柔らかな声で答えた。「いや、見事だった。……よく、頑張った
王城の大広間は、マリーが見たこともない豪奢さで彩られていた。 豪華絢爛なシャンデリアが星のように煌めき、宮廷楽団が奏でる優雅な音楽が満ちている。きらびやかなドレスを纏った貴族たちが、扇を片手に上品に談笑している。 全てマリーがこれまで生きてきた世界とはあまりにもかけ離れていて、隣に立つアランの存在だけがかろうじて彼女をこの場につなぎとめている。 やがて、朗々とした声で二人の名前が呼ばれた。「アラン・フェルディナンド騎士団長、並びに婚約者のマリー様!」 その瞬間、会場が水を打ったように静かになった。すべての視線が二人へと注がれる。「あれが団長を射止めたという平民か」 「クラリッサ様はどうなったのだ?」 好奇と侮蔑が入り混じった囁き声が、さざ波のようにマリーの耳に届いた。彼女の緊張に気づき、アランがその腰に添えた手を力強く支え、耳元で囁く。「気にするな。私のそばを離れなければいい」 その声に少しだけ勇気づけられたマリーだったが、運命の対面はすぐに訪れた。 人の輪からすっと現れた一人の女性に、マリーは息を呑んだ。夜のように艶やかな黒髪は、複雑に結い上げられ宝石のように輝いている。そして、その瞳はまるで溶かした黄金のように、見る者を射抜く強い光を放っていた。真紅のドレスを纏い、完璧な笑みを浮かべたその姿は、この世の美をすべて集めて作り上げたかのよう。彼女こそが、クラリッサ侯爵令嬢だった。「アラン様、ごきげんよう。そして、こちらが噂の……新しいお相手ですの?」 クラリッサの声は甘く美しい。けれど表面の美しさと裏腹に、マリーを頭のてっぺんからつま先まで品定めするように見下していた。「クラリッサ嬢。紹介しよう。私の婚約者のマリーだ」 アランの冷たい声に、クラリッサはわざとらしく驚いてみせる。「まあ、婚約者! いつの間に……。教えてくださらない? マリーさん。一体どんな魔法を使って、私たちの騎士団長をたぶらかしたのかしら?」 その言葉には、隠す気もない悪意と侮辱の棘が込められていた。「クラリッサ嬢。あなたとの
「夜会ですって!? 無理です! 着ていくドレスもありませんし、作法もダンスも何一つ分かりません!」 アランの突然の宣告に、マリーはパニックに陥った。森の薬師である自分がきらびやかな王城の夜会に出るなど、想像しただけで目眩がする。 彼女の必死の訴えに、アランは表情一つ変えない。「そんなものは、今から用意すればいいだけのことだ」「そんな……!」「明日、すぐにリオネルに言いつけて手配をしよう。私の婚約者として、誰にも侮られぬように、完璧に仕上げるんだ」 有無を言わせぬ命令に、マリーは顔色を悪くした。婚約者という立場を甘く見ていたと実感してしまった。 その命令の裏には、マリーに恥をかかせたくないという彼なりの不器用な配慮が隠れていることを、マリーはまだ知る由もない。 +++ その日からマリーの悪戦苦闘の日々が始まった。 リオネルが手配したのは、王家御用達だという見るからに厳格そうな女性家庭教師。慣れないヒールで足を踏み外し、フォークとナイフの順番を間違えては叱られる。カーテシーの角度に至っては、ミリ単位で注意された。「マリー様! 背筋が曲がっておりますわ! もっとぴんと伸ばして!」「まあ! そのような歩き方では、皆の笑いものになりますことよ!」 厳しい声が飛ぶたびに、マリーは泣きそうになった。何度もくじけそうになる心を、「これはアラン様の治療を続けるために必要なこと」と自分に言い聞かせ、必死に食らいついていくしかなかった。 どれほど昼間のレッスンで疲れ果てていても、彼女は夜の研究に手を抜かない。 ランプの灯りを頼りに、薬学書を読みふける。今までの手が出なかった高価で貴重な書物も、アランは惜しみなく買い与えてくれた。おかげでマリーの薬師としての腕はめきめきと成長している。 マリーが今作っているのは、ただの薬ではない。長時間にわたる夜会で、アランの呪いの発作を確実に抑え込み、彼の体力を維持するための「特別な薬草茶」だ。(私のドレスやダンスよりも、こちらの方がずっと大事。アラン様が、あんな場所で苦しむことがありませんように……) 最優先事項は常にアランの治療にある。それは決して揺るがないのだ。 +++ そして、運命の夜会当日。 リオネルが手配したドレスが部屋に届けられた。派手さはないが、深い森の緑色のドレス。マリーの瞳の色を引き立てる上
王都の心臓部に位置する王国騎士団の詰所は、石造りの重厚な建物。マリーが想像していた以上に厳格で威圧的な空気に満ちていた。鍛錬を終えた騎士たちが行き交い、武具がぶつかり合う硬質な音と、規律正しい命令の声が響き渡る。 質素なワンピース姿のマリーは、明らかに異質な存在だった。 好奇と驚き、あからさまな猜疑の視線が容赦なく突き刺さる。「あの娘は誰だ?」「団長が連れてこられたらしいが、平民じゃないか?」 ひそひそと交わされる囁き声が、マリーの耳に届いた。怯えて身を縮こませる彼女の様子に前を歩いていたアランが気づき、ぴたりと足を止めた。「紹介する。こちらはマリー。私の婚約者だ。今日から私と共にここで暮らす。未来の団長夫人として、敬意をもって接するように」 彼の威厳に満ちた声に、あれほど騒がしかった囁き声が嘘のようにぴたりと止んだ。騎士たちは驚きに目を見開きながらも、慌てて背筋を伸ばして一斉に敬礼する。その光景に、マリーは自分がとんでもない場所に来てしまったのだと、改めて実感した。 彼がマリーに与えたのは、清潔だが冷たい雰囲気の客間だった。「ここを君の部屋として使え。私かリオネルの許可なく、詰所内を勝手に歩き回るのを禁ずる。君の存在は、まだ外部には極秘だ」 アランは事務的な口調で告げた。広い部屋でポツンと佇むマリーの小さな背中を見て、彼の胸にわずかな罪悪感がよぎる。だがそれを顔に出すことはなかった。 マリーは寂しさと不安を感じながらも、ここが彼の呪いを解くための最前線なのだと決意を新たにしていた。アランに向き直り、尋ねる。「あの……薬を調合するための場所をお借りすることはできますか?」 彼女の頭の中は、すでに治療のことでいっぱいだった。 +++ 翌日の昼、リオネルが昼食を運んできてくれた。「いやあ、団内は大騒ぎですよ。団長のお相手は、誰もがクラリッサ様だと信じてましたから」 気さくな口調で言いながら、彼はマリーの反応を探っていた。ふと真剣な表情になると、声を潜める。「マリー様、クラリッサ嬢は、侯爵家が誇る大変プライドの高いお方です。どうか、お気をつけください」「クラリッサ」という名前に、マリーの心臓が小さく跳ねる。自分がその人の立場を奪ってしまった。何も起こらないはずがない。 その夜、マリーはアランが用意してくれた物置部屋を一心不乱に掃
契約を結んだ翌朝、アランはマリーに「王都へ行く。準備をしろ」と、簡潔に告げた。彼の体調はまだ万全ではないはずなのに、その声には騎士団長としての威厳が戻りつつある。 マリーはこくりと頷くと、最低限必要な薬草、古びた薬学書だけを小さな鞄に詰めた。長年暮らした愛着のある小屋を振り返れば、胸に寂しさが込み上げる。けれど、すぐに首を振ってその感傷を振り払った。(あの人を、救うんだ) 彼女の緑色の瞳に、新たな決意の光が宿る。 その様子をアランは黙って見ていた。彼女の穏やかな生活を奪ってしまったことに対し、わずかな罪悪感を覚える。だが、表情に出すことはしない。できない。 森を抜けた先で待っていたのは、マリーが見たこともないほど豪華な馬車だった。フェルディナンド家の紋章が入っている。「アラン様! ご無事で!」「心配をかけた。この通り無事でいる。この女性に助けられた」「なんと、そうでしたか」 御者に恭しく扉を開かれ、促されるままに中へ入る。ふかふかとしたビロードの座席。自分の粗末な服と豪奢な内装とのあまりの差に、マリーは居心地の悪さを感じて身を縮こまらせた。アランとの世界の隔たりを、改めて突きつけられた気がした。 馬車が静かに走り出す。向かいに座るアランとの間に、気まずい沈黙が流れた。 しばらくして、アランがぶっきらぼうに上質なブランケットを差し出した。「体を冷やすな。君が倒れたら、私の治療に差し支える」 素直ではない物言いだったが、不器用な優しさが感じられる。マリーは驚き、少しだけ心が温かくなった。 しばらく馬車に揺られていると、街道の合流地点で一騎の馬が追いついてきた。「団長! ご無事で何よりです!」 快活な声と共に馬車の窓を覗き込んだのは、茶色の髪を無造作に伸ばした、人懐っこい笑顔の青年騎士だった。「リオネルか」「団長こそ、お一人で先行されるなんて心配したんですよ。……それで、こちらの可憐なご令嬢は?」 好奇心に満ちた目がマリーに向けられる。アランは面倒くさそうに、しかしはっきりと告げた。「私の婚約者、マリーだ」「こ、婚約者!?」 リオネルが驚きの声を上げるのと、マリーの心臓が大きく跳ねたのは、ほぼ同時だった。契約だとわかっていても、「婚約者」という言葉の響きに頬が熱くなる。 リオネルは目を見開いたが、すぐにいつもの人懐っこい笑