守護者に見守られながら、マリーは月光花を数輪、慎重に摘み取った。その花弁は、指先に触れると淡い光の粒子を放つ。不思議な温もりと芳しい香りが伝わってきた。
一行は急いで岩窟へと戻った。ここが、最後の戦いの場となる。
他の薬草や調合道具は、全て準備を整えてきた。あとは月光花を加えるだけだ。「アラン様。少しだけ、血をいただきます」
マリーはアランの腕を取り、小さなナイフで彼の指先をほんの少しだけ傷つけた。滴り落ちた血の中には、呪いの根源である微小な黒い結晶が混じっている。それをガラスの小皿に受け止めると、マリーは調合に取り掛かった。
岩窟の中は、息を呑むような静寂に包まれていた。リオネルも他の騎士たちも、固唾を飲んでマリーの手元を見守っている。
すり鉢に月光花を入れ、ゆっくりとすり潰していく。花弁は銀色の光を放ちながら、甘く清らかな香りを漂わせた。そこへ、アランの血を数滴加える。
ジュッ、と黒い煙が上がり、二つの物質が激しく反発し合う。マリーは眉一つ動かさず、そこに浄化作用のある聖なる泉の水を一滴ずつ垂らし、丹念に練り上げていった。
まるで神聖な儀式のようだった。マリーの緑の瞳は尋常ではない集中力に満ちて、手つきに一切の迷いはない。薬師として培ってきた全ての知識と技術、そしてアランへの愛が、一つ一つの動作に注ぎ込まれている。
やがてすり鉢の中身は、まばゆい光を放つ黄金色の液体へと変化した。満月の色を持つ、特効薬の完成だった。
「アラン様……」
マリーが差し出す小瓶を、アランは静かに受け取った。彼の青い瞳には、マリーへの絶対の信頼が宿っている。彼は迷うことなく、黄金色の液体を一気に飲み干した。
次の瞬間、信じられないことが起こった。「ぐっ……あああああっ!」
アランの体から、これまでとは比較にならないほどの黒い瘴気が激しく噴き出したのだ。それは断末魔の叫びを上げるように渦を巻き、彼の体を内側から破壊しようと暴れ狂う。
「団長!」
リオネルたちが悲鳴を上げる。しかし、マリーは叫んだ。
「大丈夫です! これは、呪
王都へ帰還したアランとマリーを、騎士団の仲間たちは、まるで英雄の凱旋のように熱狂的に出迎えた。「団長! ご無事で!」 「マリー様も、よくぞご無事で!」 アランが呪いから完全に解放されたという事実は、騎士団にとって何よりの吉報だった。詰所は喜びに包まれて、誰もが二人の無事を心から祝った。 その喜びは、すぐに確信へと変わる。 数日後に行われた模擬戦で、アランは部下たちを赤子扱いするかのように圧倒した。呪いから解放された彼の剣技は、人間の限界を超えて冴え渡る。美しく気品あふれる一挙手一投足は、見る者を魅了した。 時を同じくして、国境で魔獣の大発生が勃発した際には、自ら先陣を切って出陣。わずか一日で完璧に鎮圧し、「王国最強」の伝説を改めて王国中に知らしめた。騎士団の士気は、かつてないほどに高まっていた。 一方、マリーの存在もまた、騎士団にとって不可欠なものとなっていた。 彼女の提案で、詰所の裏庭には本格的な医務室と、陽当たりの良い薬草園が新設された。責任者はもちろんマリーだ。彼女が調合する回復薬や特製の傷薬は、騎士たちの任務における生存率を劇的に向上させた。 いつしかマリーは、団員たちから畏敬と親しみを込めて「騎士団の至宝」「俺たちの守護天使」と呼ばれるようになっていた。かつて「平民風情」と侮蔑された少女は、今や騎士団という新しい家族の中で、誰よりも愛され、信頼される存在となっていたのだ。 やがて季節が巡り、柔らかな日差しが降り注ぐ春の日。 騎士団の仲間たちに見守られながら、アランとマリーのささやかな結婚式が執り行われた。国王や大貴族を招いた盛大なものではなく、気心の知れた「家族」だけが集う、温かな誓いの場だった。「マリー。君に改めて、永遠の愛を誓おう。私の全ては、君のもの」 「ええ、アラン様。私の全ても、永遠にあなたのものです」 純白のドレスを纏ったマリーの隣で、アランが誇らしげに微笑む。リオネルが涙ながらに祝福の言葉を述べ、騎士たちが口々に二人を祝う。「おめでとう、団長、マリー様!」 「おめでとう! お幸せに!」 「み
守護者に見守られながら、マリーは月光花を数輪、慎重に摘み取った。その花弁は、指先に触れると淡い光の粒子を放つ。不思議な温もりと芳しい香りが伝わってきた。 一行は急いで岩窟へと戻った。ここが、最後の戦いの場となる。 他の薬草や調合道具は、全て準備を整えてきた。あとは月光花を加えるだけだ。「アラン様。少しだけ、血をいただきます」 マリーはアランの腕を取り、小さなナイフで彼の指先をほんの少しだけ傷つけた。滴り落ちた血の中には、呪いの根源である微小な黒い結晶が混じっている。それをガラスの小皿に受け止めると、マリーは調合に取り掛かった。 岩窟の中は、息を呑むような静寂に包まれていた。リオネルも他の騎士たちも、固唾を飲んでマリーの手元を見守っている。 すり鉢に月光花を入れ、ゆっくりとすり潰していく。花弁は銀色の光を放ちながら、甘く清らかな香りを漂わせた。そこへ、アランの血を数滴加える。 ジュッ、と黒い煙が上がり、二つの物質が激しく反発し合う。マリーは眉一つ動かさず、そこに浄化作用のある聖なる泉の水を一滴ずつ垂らし、丹念に練り上げていった。 まるで神聖な儀式のようだった。マリーの緑の瞳は尋常ではない集中力に満ちて、手つきに一切の迷いはない。薬師として培ってきた全ての知識と技術、そしてアランへの愛が、一つ一つの動作に注ぎ込まれている。 やがてすり鉢の中身は、まばゆい光を放つ黄金色の液体へと変化した。満月の色を持つ、特効薬の完成だった。「アラン様……」 マリーが差し出す小瓶を、アランは静かに受け取った。彼の青い瞳には、マリーへの絶対の信頼が宿っている。彼は迷うことなく、黄金色の液体を一気に飲み干した。 次の瞬間、信じられないことが起こった。「ぐっ……あああああっ!」 アランの体から、これまでとは比較にならないほどの黒い瘴気が激しく噴き出したのだ。それは断末魔の叫びを上げるように渦を巻き、彼の体を内側から破壊しようと暴れ狂う。「団長!」 リオネルたちが悲鳴を上げる。しかし、マリーは叫んだ。「大丈夫です! これは、呪
マリーの不眠不休の看病と、二人の魂の誓いが奇跡を起こしたのか。夜が明ける頃には、アランを苛んでいた激しい発作は嘘のように治まり、彼の呼吸は穏やかな寝息へと変わっていた。 マリーの調合した薬が、彼の生命力をかろうじて繋ぎとめている。その綱渡りのような状態のまま、一行は谷のさらに奥深くへと進んだ。 そして、運命の夜が訪れる。 谷の瘴気を振り払うかのように、満月が煌々と夜空を照らし始めた。その青白い光が、一行の進む先に信じられないほど幻想的な光景を映し出す。 谷の最深部、小さな泉が湧く開けた場所に、それはあった。 淡い銀色の光を放つ花々が、一面に咲き誇っている。月光を花弁に吸い込んだかのような、儚く美しい光景。 マリーが古文書で見た、幻の薬草『月光花』の群生地だった。「なんて、美しい……」 マリーが息を呑む。その神々しいまでの光景に、リオネルたちも言葉を失っていた。 花々に駆け寄ろうとした瞬間。泉の奥の暗がりから、巨大な影がゆっくりと姿を現した。 それは獅子だった。だが、ただの獅子ではない。体躯は馬の何倍も大きく、たてがみは月光を編み込んだ銀糸のように輝いている。そして何より、琥珀色の瞳には凶暴な獣性ではなく、悠久の時を生きてきた者だけが持つ、深い知性と威厳が宿っていた。 古の魔獣、『月詠みの獅子』。伝説に謳われる、谷の守護者である。 その場にいる全員の頭の中に直接、重々しい声が響き渡った。『この花は、清らかなる魂を持つ者にしか触れることは許されぬ』 魔力による念話。極めて高度な魔法だ。マリーはゴクリと喉を鳴らした。『お前たちの中に、その資格を持つ者はいるか。いるならば、その覚悟を、ここで示せ』 守護者の言葉に、アランがマリーの前に立ちはだかるように剣を抜いた。彼の体はまだ万全ではない。それでも、その青い瞳には愛する者を守るという騎士の誇りが燃えていた。「この花は、我々の未来に必要不可欠なもの。もし力ずくで奪わねばならぬのなら、この命に代えても!」 「お待ちください、アラン様」 アラ
「嘆きの谷」の入り口に立った瞬間、マリーは全身の肌が粟立つのを感じた。 空気が違う。これまでの荒野とは比べものにならないほど、濃密で冷たい瘴気が淀んでいる。まるで生きた巨大な獣の体内に入り込んでしまったかのような、不快な圧迫感。天を突くようにそびえる牙のような岩肌は、訪れる者すべてを拒絶している。「全員、気を引き締めろ! ここからは何が起きてもおかしくない!」 リオネルが鋭く叫び、騎士たちが緊張した面持ちで頷く。 その時だった。先頭を進んでいたアランの馬が、苦しげにいなないて立ち止まった。「どうしましたか、アラン様?」 マリーが声をかけるより早く、アランの体がぐらりと大きく傾いだ。彼は咄嗟に手綱を掴み直して体勢を立て直そうとしたが、その顔からは見る見るうちに血の気が引いていく。「ぐっ……ぅ……!」 歯を食いしばる彼の額に、脂汗が噴き出した。マリーが毎日淹れていた抑制薬の効果を、谷の瘴気が打ち消して、さらに呪いを活性化させているのだ。「アラン様!」 マリーは悲鳴を上げて馬から飛び降りた。リオネルたちも慌てて駆け寄り、苦悶の表情で馬から落ちそうになるアランの体をなんとか支える。 彼の体は火のように熱く、それでいて肌を通して伝わってくるのは、死を思わせる氷のような冷たい気配だった。胸元の呪いの痣が、服の上からでもわかるほど禍々しい色を放ち、脈打っている。「いけない……このままでは呪いに体を喰い尽くされる……!」「マリー様、どうすれば」「とにかく、少しでも瘴気の薄い場所へ! 岩陰を探して!」 マリーの指示で、騎士たちは近くの岩窟へアランを運び込んだ。彼はもはや意識も朦朧とし、荒い呼吸を繰り返すばかり。その苦しそうな様に、マリーの心はナイフで抉られるように痛んだ。 リオネルが騎士たちに周囲の警戒を命じ、岩窟の入り口を固める。その間、マリーは一人、必死にアランの看病にあたった。 持ってきた鞄から薬草を広げ、
王都を離れて数日、一行は人の手が入っていない荒野を進んでいた。 夜の冷気の中、騎士たちが硬い干し肉をかじりながら野営の準備を進める。 マリーは周囲の荒れ地を散策し、食べられる野草や、疲労回復効果のあるハーブを摘み集めていた。「マリー様、それは……?」 リオネルが訝しげに尋ねる。マリーはにっこりと微笑んで、摘んだ野草と持参した僅かな食料で、温かいスープを作り始めた。薬師としての知識が、こんな場面でも役立つことが嬉しかった。 やがて焚き火の鍋から優しい香りが立ち上る。騎士たちの顔がほころんだ。予期せぬ温かい食事に、彼らの士気は目に見えて上がった。 食事の後、アランとマリーは二人きりで焚き火のそばに座っていた。「君は、本当に何でも知っているのだな。森の薬草だけでなく、荒野の草まで」 アランが感心したように言う。「孤児院にいた頃、森や野原が私の遊び場でしたから」 マリーは少し照れながら、初めてアランに自分の生い立ちを語った。親に捨てられた孤児であることは、マリーにとって引け目だった。『自分はいらない子』そんな思いを引きずって、打ち明けることができなかった。 でも、もうそんなことは気にしない。アランであれば、全てを受け止めてくれる。 アランは彼女の言葉に静かに耳を傾けた。騎士になる前の、自身の不器用だった少年時代の話を少しだけ打ち明けてくれた。二人の間に、より深い心の繋がりが生まれていく。 その時だった。 夜の静寂を破り、闇の中から複数の影が飛び出してくる。血と呪いの気に引き寄せられる魔獣「墓場の狼(グレイブウルフ)」の群れ。狼たちの狙いは明らかだ。呪いを宿すアランに、一斉に襲いかかる。「マリー、下がっていろ!」 アランは即座に彼女を背後にかばい、剣を抜く。彼の青い瞳が、戦闘時の冷たい光を放った。圧倒的な技量で狼を斬り伏せるが、呪いの影響で、その体力は平時よりも早く消耗していく。 その一瞬の隙を突き、一匹の狼が防御をかいくぐり、彼の腕を鋭い爪で切り裂いた。「アラン様!」
夜明け前、騎士団詰所の厩舎はまだ薄暗い静寂に包まれていた。 アランは旅装束に身を包み、愛馬の準備をしていた。騒ぎを最小限に抑えるため、リオネルと数名の精鋭騎士だけを連れて、秘密裏に出発するつもりだった。 彼の懐には、マリー宛の置き手紙が忍ばせてある。必ず帰るという誓いと、彼女を危険に晒したくないという本心が綴っておいた。愛する人を守るための、彼なりの最善の策だった。 アランが馬に乗り込もうとした、その時。「お待ちください、アラン様」 凛とした声に振り返れば、マリーが立っていた。彼女もまた丈夫な旅の服に身を包んでいる。薬草や治療道具が詰まった大きな鞄を肩から下げていた。 泣いたり、懇願したりする様子はない。彼女の緑色の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。 彼女の後ろには、リオネルが困ったような、しかしどこかマリーを支持しているような顔で立っている。「マリー。ここは君が来るべきではない。危険すぎる。部屋に戻りなさい」 アランの驚きは、すぐに厳しい声に変わった。 けれどマリーは一歩も引かなかった。「『月光花』について、一番詳しいのは誰ですか? 正確に見分けられるのは? もしあなたが魔獣に傷つけられた時、その場で治療できるのは誰ですか? 私を連れて行くことが、正しい選択です」「私を誰だと思っている。必ず手に入れて戻ってくる。君はここで待っていればいい!」「あなたの誇りを傷つけたいわけではありません。ですが、あなたの命がかかっているのです。私たちの未来が。私の技を、信じてくだらないのですか?」 二人とも声を荒げているわけではない。しかし激しい意志の応酬であると、リオネルや他の騎士たちにもはっきりと伝わっていた。 アランは君を守るのが義務だと言い、マリーはあなたを救うのが使命だと言う。 見かねたリオネルが、二人の間に割って入った。「団長、マリー様のおっしゃる通りです。彼女の知識は、今回の作戦の成功率を格段に上げるでしょう。それに……正直に言って、彼女を置いていっても、きっと一人で後を追ってきますよ」