LOGINその日の放課後。私は1人、風紀委員室で頭を抱えていた。もう風紀委員の仕事は終わっている。ここにいる必要はない。だが、私はここから動けずにいた。「…はぁ」本日何度目かわからないため息が私から漏れる。ふと窓に視線を向ければ、オレンジ色に染まった空が見え、時間の流れを感じた。別れを…本当の気持ちを…私は結局、悠里くんに言えなかった。朝、体操服を返した時も、昼、一緒に昼食を食べた時も、校内でたまたま会った時も。いつでも言える機会はあったというのに。言おうとするたびに喉の奥が熱くなって、言葉が出なかった。今この瞬間も、悠里くんは私と真剣に向き合い、まっすぐとした好意を抱き、私の彼氏でいてくれている。そんな悠里くんを黙ったまま、裏切り続ける私は、なんて最低なのだろう。ーーー言う、言う、絶対に言う。心の中で何度も何度も言い聞かせるようにそう呟き、荷物をまとめると、私はやっと風紀委員室から出た。*****いつもより早く委員会活動が終わったため、帰るまでまだまだ時間がある。普段なら図書室で本を読んだり、教室で勉強したりするところなのだが、今日の私は気がつけば体育館の扉の前に立っていた。まるで何かに引き寄せられたかのように。開け放たれた扉の向こうでは、もちろんバスケ部が部活をしている。部員たちの声やボールの弾む音、床を蹴る音を耳に、私は体育館内をただぼんやりと見つめていた。「て、鉄子だ…」そんな突然現れた私の存在に気がついたバスケ部の1人が、持っていたボールを落とし、驚愕の表情を浮かべる。そしてこの声を皮切りに、体育館内にざわめきが広がった。「彼氏を見に…?」「いや、偵察じゃね?」不思議そうに首を傾げる者もいれば、緊張の色を浮かべている者もいる。私を見つけた部員たちは、様々なリアクションをしていたが、その瞳には私への〝恐怖〟が確かにあった。正直、慣れたものなので、特になんとも思わないが。「柚子!」しかしその中で、悠里くんだけは違った。私を見つけて、こちらに微笑む悠里くんの瞳には、嬉しさと好意があった。他の人とは違う視線。私を鬼の風紀委員長ではなく、普通の女の子として見て、愛してくれている視線。あの視線に射抜かれるたびに胸が苦しくなる。私は悠里くんと同じではなかったのだ、と。悠里くんは周りの部員に軽く声をかけると
side柚子びしょ濡れのまま、なりふり構わず玄関からお風呂場へと向かう。私が通ったあとがどんなに濡れても、私は気にならなかった。いや、今の私には気になるほどの余裕がなかった。洗面所に着き、乱暴に体操服を脱いでいく。それからそれらを洗濯機に入れると、私は浴室へと駆け込んだ。雨で冷たくなった体に、ザァーっと温かいシャワーが当たる。少しずつ戻ってきた体温と共に、真っ白だった思考も徐々に色を取り戻していった。…私、ここまでどうやって帰ってきたっけ。取り戻した思考で私はそんなことを思った。おそらく電車で普通に帰ってきたことはわかる。だが、千晴に路地裏へと連れられてからの記憶が曖昧なのだ。好きだと言われて、キスされた。しかし、そこから先の記憶がもうない。ただただ無心でここまで帰ってきた。「…はぁ」やっと私から吐かれた息に、呼吸の仕方を思い出す。ここまで私は自然な息の仕方も忘れていた。ふわふわの金髪から雨が滴り落ちて、私の顔に当たる。綺麗な千晴の瞳には、怒りや悲しみ、恋焦がれるようなものがあり、複雑でぐちゃぐちゃだった。おかしそうに笑い、けれど、切実そうに私を射抜いた千晴の眼差しが忘れられない。あの瞬間、私は初めて千晴の想いの本質を知ってしまった。千晴は私にちゃんと恋をしていたのだ。そしてそれに気づいたと同時に、私はわかってしまった。千晴への胸の高鳴り、謎の動悸、全てが病気ではなく、恋だったのだということを。千晴に好きだと言われて、一瞬、嬉しさで心臓が跳ねた。キスをされて、愛おしくて愛おしくて、苦しくなった。私は恋を知っているつもりだった。相手を想うだけで幸せで、相手の存在が自分の世界を照らしてくれる。そこにいてくれるだけでよかった。悠里くんへの感情こそがまさにそれだった。だが、この光溢れる優しい感情は、恋ではなかったのだ。愛おしくて、苦しくて、胸が張り裂けそう。けれども、愛さずにはいられない。これがきっと、恋…いや、愛だ。私は千晴を愛していたらしい。そして悠里くんを愛していなかった。愛でも、恋でもない。憧れという感情を私は悠里くんに向けていた。その事実に気づいた時、私の胸にズキッと鈍い痛みが走った。出し続けていたシャワーを止め、視線を伏せる。私から滴る雫は先ほどとは違い、温かい。私、最低だ。愛
side千晴俺の大好きな先輩。俺だけの先輩。小さくて、でも中身はずっと大きくて広い先輩が、俺と一緒に歩いてくれている。俺は本当は今、傘を持っていた。電車ではなく、普通に車で帰る予定だった。だが、少しでも先輩と一緒にいたくて、俺は先輩に嘘をついた。それでも先輩は、俺の嘘に気づいていない。疑おうとさえしていない。まっすぐ俺を見て、例え困ったように一度、俺から目を逸らしても、やっぱり助けてくれる。誰にでも平等で、優しくて、正義の人。そんな先輩が愛おしくて、愛おしくて、仕方ない。しかし、そんな先輩を愛おしく思うたびに、仄暗い感情が俺を支配した。誰にでも優しくしないで。俺だけを見て。俺だけに手を差し伸べて。ーーーその愛らしい瞳に俺以外、映さないで。そういった欲望が当たり前のように俺の中に渦巻く。だから俺はその欲望を叶えるために、先輩の外堀を埋めることにした。そして少しずつでも異性として意識してもらえるように、俺が先輩に恋焦がれる男であることを行動で示した。その結果、外堀は埋められ始め、先輩は確かに俺に惹かれ始めた。先輩をずっと見てきたのだ。先輩の変化なら、ほんの少しのものでもわかる。少しずつ先輩の心が俺に揺れ、その眼差しに、俺と同じ熱が帯び始めていることに、俺は気づいていた。何もかも完璧で順調。あともう少しで先輩は俺だけの先輩になる。ーーーそう思っていたのに。先輩の形だけの彼氏、沢村悠里が本気で先輩のことを好きになってしまったのだ。さらにアイツは俺と同じように、先輩の外堀を埋め始めた。憧れと恋の区別がつかない先輩。そんな先輩を囲って、真実を見せないようにして。アイツのせいで、先輩が俺に堕ちてくれない。チラリと横を歩く先輩を見れば、胸元には不愉快な名前がその存在を主張していた。〝沢村〟と書かれた体操服をわざわざ先輩に着せているのも、自分の彼女だと主張したいがためだろう。ただそれだけのために、アイツはああしているのだ。沢村悠里には、もう以前のような余裕がないように見えた。きっと先輩を本気で好きになり、気づいてしまったのだろう。先輩が自分に向ける視線の正体に。先輩は今も〝憧れの推し〟の彼女だ。沢村悠里との関係に、一切疑問を持つことなく、幸せそうだ。だが、俺はもう限界だった。彼氏になる、ということ以外
その日の帰りももちろん雨が降っていた。その為、傘のない私は学校の置き傘を借り、1人で下駄箱にいた。私の隣に悠里くんの姿はない。いつもよりも部活が長くなるとのことで、今日は悠里くんと一緒に帰れないのだ。たくさんの生徒たちが行き交う下駄箱で、私は1人、どんよりとした空を見上げた。暗い空からザァザァと勢いよく雨の降る様が目に映る。やはり今日は天気予報通り、もう雨は止まなさそうだ。空から傘へと視線を落とし、そっと傘を押し広げる。小さく鳴った開閉音を耳に、そのまま私は下駄箱からゆっくりと外へと踏み出した。ーーーその時だった。私の視界の端に、ふわふわの金髪が入ってきた。千晴だ。一瞬、視界の端をかすめただけだったが、あの金髪が千晴だと私はすぐにわかった。この学校であんな派手な頭で堂々としているやつなど、千晴しかいないからだ。全く何度注意すれば、あの頭をやめられるのか。私は大きくため息を吐いて、広げていた傘を一旦畳んだ。それからあの金髪頭を探し、見つけると、ずんずんと力強い足取りで、そこへと向かった。「千晴」「あ、先輩じゃーん」私に低い声で呼び止められ、千晴が嬉しそうにこちらを見る。ふわふわの金髪に、ゆるゆるのネクタイ。首元のボタンは止められていないし、学校指定のセーターも着ていない。さらに耳にピアスまで光っており、全身あまりにも自由すぎる千晴に、私は眉間にシワを寄せた。だが、そのシワはすぐに緩められた。こんなにも雨が降っているのに、千晴の手には傘がなかったからだ。「千晴、傘忘れたの?」私の突然の問いかけに、千晴は一瞬だけキョトンとした。そして少し考える素振りを見せ、「うん」と、無表情に頷いた。どうやら千晴も私と同じらしい。お気の毒に。「傘なら職員室に行けばあるよ」おそらく傘がなく、困っているであろう千晴に、同情しつつも、そう伝える。しかし千晴はゆるゆると首を横に振った。「なかった。傘」「え、でも…」そんなはずは…と、一瞬思うが、もしかすると本当になかったのかもしれない、と言葉を一旦止める。私のように天気予報を見ずに登校し、制服ではなく、体操服で、1日を過ごす生徒を、私は今日、何人も見てきた。さらに私が傘を借りに行った時も、何人かの生徒が傘を借りていた。タイミングが悪ければ、千晴の主張通り、傘はもうなかった
その日の三限目は日本史だった。私は椅子に姿勢よく座り、先生の話を真剣に聞きながらも、ノートをとっていた。もちろん今の私の格好は、悠里くんの体操服だ。胸元にある〝沢村〟と刺繍された二文字が、あまりにも眩しすぎる。恥ずかしさ、尊さ、眩しさ、喜び。いろいろな感情を抱えて、それでも私は平然と学校生活を送っていた。「…で、ここはこうなったわけだ。じゃあ、質問するぞー、お前らー」黒板の前に立ち、気だるげに喋り続けていた、30代前半くらいの男性教師、秋田先生がチョークを持ったまま、クラス中に視線を向ける。その視線に生徒たちは、背筋を伸ばした。うちのクラスは進学科だ。誰が当てられても、まあ、答えられるだろう。当然、私も、だ。秋田先生に質問されても、すぐに答えられるように気を引き締める。すると、たまたま秋田先生と目が合った。「じゃあ、鉄崎…」そこまで言って、秋田先生の視線がどこかへ移動する。「…あ?沢村?お前、いつ沢村になったんだよ?結婚したんか?アイツと」そして、私の胸元を見て、おかしそうに笑った。「ち、違います!借りているだけです!」秋田先生からのまさかの指摘に、私はガターンッ!と勢いよく席から立ち、全力で否定する。そんな私に秋田先生は、「じゃあ、未来の沢村に質問するぞー」と、ゆるく私に質問を始めたのだった。 *****「…はぁ」三限目での出来事を思い出し、深いため息をつく。四限目は移動教室なので、私は1人で廊下内を移動していた。雪乃は何やら用事があるらしく、別行動中だ。疲れからトボトボと歩きたい気持ちでいっぱいなのだが、そんな歩き方では鬼の風紀委員長としての威厳は守れないので、私は意識して背筋を伸ばし、歩いていた。心はヘトヘトだが、パッと見はいつもの強そうな鬼の風紀委員長、鉄子…なはずだ。確かな足取りで廊下内を進んでいると、今日ずっと聞こえてくる生徒たちの話題が耳に入ってきた。「て、鉄子が悠里の体操服着てる…っ。さすが、正妻…っ」小さく、だが、興奮気味にそう言ったのは、男子生徒だろうか。彼に続く形で周りの生徒たちは、好き勝手にいろいろなことを言い始めた。一応、私には聞こえないように小さな声で話す、という配慮をして。…全部聞こえているので、あまりその意味は成してはいないが。「千晴くんがいるのに鉄子先輩酷い
朝、私は駅で1人絶望していた。先ほどまで晴れていた空が、どんよりとした雲に覆われていたからだ。しかもその雲からザァザァと勢いよく雨まで降っていた。最悪だ。傘持って来てない。天気予報も見ず、のうのうとここまで来た先ほどまでの自分を恨む。「…」空を睨んでみたはいいものの、もちろんそれだけで天気が変わるわけもなく。仕方なくスマホを見れば、今日は一日中雨予報で、この雨が止むことはないようだった。…仕方ない。心の中でそう呟き、私は駅から学校へと駆け出した。*****「はぁ、はぁ」やっとの思いで学校までたどり着いた私は、下駄箱前で両膝を押さえていた。雨の中ここまで駆け抜けてきた為、全身びしょ濡れだ。さ、寒い…。三月とはいえ、まだまだ気温は低いので、普通に寒い。私は寒さに震えながらも、とりあえずスカートの端を掴み、水を絞った。続けてブレザーを脱ぎ、同じように絞る。あとはある程度絞り終えた制服をハンカチで拭きながらも、私は考えた。とりあえず、この後保健室へ行って、体操服を借りなければ。このままでは風邪を引く。「…柚子?」そんな私に後ろからとんでもなく素敵なイケボが声をかけてきた。このイケボは間違いなく、私の推し、悠里くんの声だ。 「あ、悠里くん。おはよう」声の方へと振り向けば、そこにはやはり練習着姿の悠里くんがいた。どうやら朝練前のようだ。私と目の合った悠里くんはぎょっと目を見開いた。ん?何故?「ゆ、柚子…っ!?どうしたの、それ!?」首を傾げる私に、慌てて悠里くんが駆け寄ってくる。そしてそのまま手に持っていたタオルを私の頭にかけ、わしゃわしゃと髪を拭き始めた。あー。私がびしょ濡れだったから悠里くんはあんな顔をしたのか。…じゃなくて!「や、やめて!悠里くん!悠里くんの貴重なタオルが私のせいで使い物にならなくなっちゃう!」柔らかくいい匂いに包まれながらも、私は必死で抵抗する。悠里くんのタオルは悠里くんの尊い汗を拭くものであって、決して私を拭くものではない!断じて違う!首を一生懸命横に振り、悠里くんの腕に手を伸ばすが、それでも悠里くんはその手を止めなかった。「やめないよ。このままだと柚子風邪引いちゃうじゃん」タオルで両頬を包まれて、悠里くんが真剣な表情で私の瞳を覗く。そのあまりにもまっすぐな視線に、
その日の夜。私はベッドの上でゴロゴロしながら、口角を上げていた。理由はもちろん、悠里くんにチョコを直接渡せたからだ。千晴と別れた後、悠里くんと駅までの道中、私たちはずっと揉めていた。私がチョコを悠里くんの家に渡しに行くか、悠里くんが私の家にチョコを受け取りに行くか、で。本当にお互いに一歩も引かず、話は平行線だったのだが、最後の最後に、悠里くんが折れてくれた。そして私は念願叶い、この手で直接悠里くんにチョコを渡せたのだ。…もう食べてくれたかな、チョコ。天井を見上げながらもそう思う。私からチョコを受け取った悠里くんは、本当に嬉しそうに笑っていた。サラサラな黒髪から覗く、悠里く
「…ふぇ!?」突然奪われた視界に、変な声を出してしまう。しかし反射的に反撃しようとしなかったのは、その何者かが、私の推しである悠里くんだとわかったからだった。鼻に届いた柔らかくも優しい香りが、悠里くんだと教えてくれた。後ろから何故か抱きしめるように、悠里くんが私の目を覆い隠している。わけのわからぬご褒美すぎる状況に、私はどうしたらいいのかわからず、固まった。「…そんなかわいい顔、俺以外に見せないで」悠里くんがそう私の耳元で囁く。懇願するような切なげな声に、私の心臓は小さく跳ねた。か、かわいい…?私の今の顔が…?怒りで震え上がっている般若顔が…?バクバクとうるさい心臓を
千夏ちゃんとバレンタインチョコ作りをした、次の日。バレンタイン当日の放課後。今日もお互いの予定が合ったので、寒空の下、下駄箱前で悠里くんのことを待っていると、とんでもなく大きな袋を二つも下げた悠里くんが現れた。その袋からは溢れんばかりのチョコらしきものが見えている。チョコを大量に抱える悠里くんに、私は思った。私の推し、すごい。さすがバスケ部の王子様だ。人気者すぎる。「す、すごいね、悠里くん…!さすがすぎる…!」みんなから愛されている推しに、私は何だか誇らしい気持ちになった。まるで自分のことのように嬉しいと思える。私以外にも、こんなにもたくさんの人に愛される悠里くんは、やは
やっとの思いで生チョコタルトを完成させ、いよいよラッピングの工程へと入った。最初の生チョコタルトこそ、元気いっぱい欲張りタルトになったが、残り二つは千夏ちゃんのアドバイスのおかげで、少しはマシになった。千夏ちゃん曰く、二つ目のタルトは、〝恐れすぎ、貧相タルト〟で、三つ目が、〝バランス最悪、アンバランスタルト〟なのだが。そんな辛辣な千夏ちゃんだが、最後には「でも頑張りは認めるわ。さすがお義姉様、苦手なことにも、逃げず立ち向かう姿は圧巻だったわ」と、どこか上から目線な笑顔で拍手を送ってくれた。大きなテーブルの上には、もう生チョコ作りに使われた調理器具たちはない。それらは先ほど片付け、今







