窓の外はまだ薄闇の中だった。
濡れたビル群が、ぼんやりと霞んでいる。 夜と朝の境目。世界が一番静かになる時間帯。 午前四時。 空調の低い唸りだけが、部屋の隅で微かに続いていた。藤並は、ベッドの上で目を閉じずに天井を見つめていた。
まぶたの裏が熱いのに、涙は出なかった。 ただ、視界の中で、天井の模様がじわりと滲んでいるだけだった。横には美沙子が眠っていた。
規則正しい寝息が、薄闇に溶け込むように響いている。 肩を少しだけ出して、白いシーツを抱きかかえるように眠る姿は、ひどく穏やかだった。けれど、その隣で藤並の身体は強張っていた。
動かせない。 動かそうとも思わなかった。唇が乾いて、舌の先で何度も濡らそうとしたが、すぐにまた乾いた。
シーツの端を無意識に指先で握りしめている。 爪の先が白くなっていた。「俺は、もう戻れない」
心の中で、何度もその言葉を繰り返していた。
昨夜から何度目になるか、わからなかった。 行為の最中も、そのあとも、ずっと繰り返している。「だけど、家を守るためには仕方ない」
父の料亭は、もう限界だった。
助ける方法は、これしかなかった。 他の選択肢は、最初からなかった。 逃げられなかった。 それなら、もう、壊れてしまってもかまわない。胸の奥が、きしむように痛んだ。
けれど、痛みを感じることで、自分がまだ生きていると確認しているだけだった。天井の模様を見つめながら、再び数を数えた。
同じパターンが、幾何学模様のように並んでいる。 それを一つずつ目で追いかける。 心が壊れないように、目を逸らさないように。美沙子の寝息が、かすかに変わる。
けれど、藤並は顔を動かさなかった。 まるで自分が死体になったかのように、動かずに、ただ呼吸だけを続けていた。喉の奥が渇いていた。
けれど、水を飲む気にはなれなかった。 身体はまだ、美沙子のものになっていた感覚を抱えている。 熱と冷たさが、同時に身体の奥に残っているような、そんな感覚だった。「壊れてもいい。これが俺の生きるための役割だ」
唇の裏を噛んだ。
歯が肉に食い込む。 血の味がした。 けれど、それもどこか遠いところで起きているような感覚だった。指先が、まだシーツを握りしめている。
少し力を抜こうとしたが、できなかった。 力を抜いたら、何かが崩れてしまう気がした。目の奥に、野村の姿が浮かんだ。
中学のとき。 放課後の校舎裏で、肩が触れたあの瞬間。 あのとき、好きだと、言えればよかった。 でも、言えなかった。 言えるはずがなかった。 だから、今こうしているのだと思った。「守るために、俺は壊れる」
もう一度、心の中でそう呟いた。
それが、正しいことだと自分に言い聞かせた。窓の外には、まだ朝が来なかった。
夜明け前の身体は、濡れたまま乾かないまま、ただ時間だけが過ぎていった。ホテルのバスルームには、湿気がこもっていた。夜九時。梅雨入り前の都内は、じっとりとした蒸し暑さがまとわりついている。シャワーヘッドから流れる熱めの湯が、藤並の肩を打っていた。肌の表面を流れる湯は滑らかで、滴る水滴がタイルに落ちるたび、規則的な音を立てる。その音だけが、耳の中で反響していた。鏡の前に立つと、曇り止め加工された一部だけが、はっきりと自分の姿を映していた。そこに映るのは、五年前よりもさらに整った顔だった。学生時代にはまだ残っていた幼さは、もうどこにもない。輪郭は少しだけシャープになり、頬骨のあたりに影が落ちる。髪はきちんとセットされ、濡れたままでも艶がある。唇はリップクリームを塗ったばかりで、微かに光っていた。けれど、その目だけは、どこか遠くを見ていた。鏡の中の藤並は、完璧に整っている。なのに、目が乾いている。まばたきをしても、潤いは戻らなかった。「これは日常だ」心の中で呟いた。五年前、初めて美沙子に抱かれた夜。あのときから、こうして身体を整えることが習慣になった。バスルームで自分を磨き上げるのも、艶やかな肌を保つのも、唇をしっとりと保つのも、全部「役割」の一つだった。「呼ばれれば、機械のように抱かれる」シャワーの湯を止めると、バスルームの湿度がいっそう重たくなった。タオルで水気を拭き取りながら、藤並は鏡の中の自分を見た。微笑む練習をする。唇の端を少しだけ上げる。営業スマイルと同じ。でも、目は笑わなかった。バスローブを羽織り、前を合わせる。タオルで髪を押さえながら、もう一度鏡に向かう。濡れた前髪が額に張りついている。それを、指先で整えた。指先はしなやかに動く。美沙子が好む「艶」のある仕草を、自然にできるようになっていた。肌は、手入れを欠かさないから滑らかだ。爪もきちんと整えてある。唇には、もう一度リップクリ
夜になった。実家の二階、自室の明かりは消していた。カーテンの隙間から、街灯の薄い光が差し込んでいる。白い天井に、それがぼんやりと広がり、輪郭を失った影を作っていた。藤並はベッドの上で、仰向けになっていた。掛け布団は胸元までかかっているが、温度は感じなかった。手のひらが、掛け布団の下でゆっくりと動いた。自分の身体に触れる。下腹部に手を滑らせる。性器に指先がかかった。指が触れると、反応はあった。ゆっくりと、熱が集まり、形を主張し始める。けれど、その感覚は、自分のものではないようだった。身体だけが、勝手に動いている。心はどこか遠い場所に取り残されていた。「何やってんだろ、俺」小さく呟いた声が、部屋の中で吸い込まれた。快感はある。けれど、それはただの生理現象に過ぎなかった。心の奥に、何も届かない。興奮も、欲望も、そこにはなかった。目を閉じた。瞼の裏側が、じんわりと痛かった。眠れていない目の奥が、鈍く疼いている。それでも、手は動きを止めなかった。自分が、まだ「生きている」ことを確かめるためだった。「もし、あの時、好きだと言えたら」野村のことが浮かんだ。中学三年、放課後の校舎裏。肩が触れたあの日。野村は、何も知らなかった。ただ笑って、部活の話をしていた。あのとき、自分は一歩踏み出せなかった。胸の奥に湧き上がる気持ちを、飲み込んだ。「普通じゃない」と思われるのが怖かった。「おかしい」と言われるのが怖かった。だから、黙った。笑ってごまかした。もし、あの時、好きだと言えていたら。この手で、自分の身体を慰める夜はなかったかもしれない。こんなふうに、心と身体がずれたまま、生きることもなかったかもしれない。だけど、もう遅い。美沙子に抱かれた夜が、自分の中
実家の玄関前に立つと、朝の光がゆるやかに石畳を照らしていた。雨は上がっていた。昨夜降った雨が、まだ地面に残る水滴をまとわせ、庭の植え込みにも、木の葉の先にも、透明な粒をいくつも揺らしていた。藤並は、玄関扉の前で深く息を吸った。その呼吸は、胸の奥で詰まった。空気が湿っている。雨上がりの匂いと、ほんの少し土の匂い。それを感じながら、ポケットの中で手を握りしめた。「ただいま」小さな声で呟いて、扉を開けた。軋む音が耳に届く。それは毎朝の、変わらない音だった。「おかえり、蓮」母親が玄関に出てきた。朝の光が、母親の白髪混じりの髪に反射している。眠たげな目をこすりながら、けれど微笑んでいる。「朝まで仕事だったの?」「うん。急な仕事が入って」藤並は、靴を脱ぎながら答えた。スーツの裾に、まだ昨夜の湿気が残っている気がした。ネクタイを緩める指先が、かすかに震えた。けれど、その震えを隠すのは、もう慣れていた。「大変ね。ご飯、用意してあるけど、食べる?」「…あとで。少しだけ横になるよ」母親は何も聞かずに頷いた。それが救いだった。問い詰められることも、心配されることも、今は必要なかった。玄関の匂いは、昔から変わらない。木の香りと、少し湿った畳の匂い。それを感じながら、藤並はふっと目を閉じた。母親の手が、藤並の肩に触れた。その手は、いつも通り温かかった。けれど、藤並には、その温度を感じることができなかった。感覚が、どこか遠い場所にあった。触れられているのに、まるでガラス越しのようだった。「身体、壊さないようにね」「うん。大丈夫だよ」言葉だけが口から出た。それは、自分のものではないようだった。階段を上がるとき、足が重かった。でも、ゆっくり
ホテルのロビーは、まだ朝の支度が始まる前の静寂に包まれていた。フロントのスタッフが低い声で朝刊を受け取り、ベルボーイが無言でカウンターを拭いている。天井のシャンデリアは、昨夜と同じ柔らかな光を落としているが、その輝きも、どこか乾いたものに見えた。藤並は、ロビーの一角に立っていた。スーツの襟を整え、ネクタイを締め直す。それはもう、習慣のような動作だった。鏡の中に映る自分の顔は、いつもの藤並だった。営業スマイルも、完璧に作れる。だが、頬の奥で、筋肉が微かに引きつるのが自分にはわかっていた。「蓮くん」美沙子が後ろから声をかけた。足音は軽い。ヒールのかかとが、絨毯に沈み込む音が、柔らかく耳に届いた。振り返ると、美沙子は黒いワンピースを着ていた。完璧な化粧。夜とは違う、朝の顔。けれど、その瞳の奥は、やはり冷たかった。「車、呼んでおいたわ」美沙子が笑った。唇だけがほころぶ。その微笑みに、藤並はまた、営業用の笑顔で応えた。「ありがとうございます」「また来てね、蓮くん」その言葉は、何気ない一言のように聞こえた。けれど、藤並にはその裏にあるものがはっきりと見えていた。「また来てね」それは「繰り返す未来」の宣言だった。これが一度きりではないことを、美沙子は最初から知っている。そして、藤並も知っていた。黒塗りの車が、ロビー前に滑り込んできた。運転手が無言で降りて、後部座席のドアを開ける。その動作もまた、流れるように滑らかだった。藤並は、心の奥で何かが止まる音を聞いた。それは「諦め」と呼ばれるものかもしれなかった。あるいは「壊れる」という感覚だったかもしれない。「壊れてもいい。もう、それでいい」胸の奥で、静かに呟いた。これは自分の選んだ道だ。誰かのせいにするつもりはなかった。家を守るた
バスルームの中には、熱い湯気が立ちこめていた。ガラス扉が曇り、その向こうには自分の輪郭がぼんやりと映っている。藤並は、シャワーを浴びながら、黙って立ち尽くしていた。頭の上から降り注ぐ熱いお湯が、肩を打ち、背中を這う。けれど、肌の表面を流れる感覚は、どこか遠くのことのようだった。「流せるなら、全部流してしまいたい」心の中で、そう呟いた。けれど、流れ落ちるのは汗と湯だけだった。自分の中に入り込んだものは、流れない。美沙子の爪の痕も、身体の奥に残る違和感も、熱い湯では消えなかった。股間には、まだ微かな感覚が残っていた。昨夜の余韻。それは確かに快感だったはずだ。でも、嫌悪感とともにそこにあった。「嫌だった」唇の裏を噛む。それでも、身体は反応した。拒否したかったのに、心とは裏腹に、身体は素直に快感を受け入れてしまった。あの柔らかい感触も、熱も、まだ身体の奥にこびりついている。お湯が、首筋から胸元を流れ落ちる。指先が無意識に自分の腹を撫でた。皮膚の上を滑る手のひらが、他人のもののようだった。身体と心が、完全に乖離している。「もう、どこにも戻れない」言葉が胸の奥で重く響く。自分はもう、以前の自分じゃない。これが生きるための選択だった。だけど、その代償はあまりにも大きかった。熱いお湯が、股間を流れる。それでも、感覚は消えない。ぬるりとした記憶が、肌の奥に染みついている。「野村…」水音に紛れて、心の中でその名前を呼んだ。誰にも聞こえないように、唇だけが動く。あのとき、好きだと言えたら。肩が触れたあの日、勇気を出していたら。今、こんなふうに壊れることはなかったのかもしれない。けれど、もう遅かった。もう何もかも、遅すぎた。シャワーのお湯は、ますます熱くしてい
シーツの間から、微かな動きが伝わってきた。美沙子が目を覚ましたのだと、藤並はすぐに気づいた。呼吸のリズムが変わった。眠っていたときの深い吐息が、少し浅くなり、そして次の瞬間、ゆっくりと藤並の胸に手が置かれた。「おはよう、蓮くん」美沙子の声は、柔らかかった。まるで恋人に話しかけるような甘い声音だった。けれど、その指先は違っていた。胸元に置かれた手の爪が、わずかに立った。爪先が、藤並の皮膚を微かに押し、細い痕を残す。それは、ただの挨拶ではなかった。「もう逃げられない」その意味を、藤並は理解していた。「…おはようございます」藤並は微笑みを作った。営業スマイルと同じだ。唇の端を上げるだけの、表情の仮面。けれど、目は笑っていなかった。目だけが、どこか遠い場所を見ていた。美沙子は、シーツを片手で引き寄せ、身体を起こした。バスローブの裾が滑り落ち、白い肩が露わになる。髪は少し乱れているのに、艶やかだった。唇には、まだ微かな湿り気が残っている。「気持ちよかった?」美沙子が、指先で藤並の鎖骨をなぞった。その爪は、相手の反応を楽しむように、軽く肌を引っ掻く。傷はつかない。けれど、藤並の心には確かに痕が刻まれた。「…はい」声がかすれていた。けれど、それ以上に冷めた声にならないよう、慎重に調整した。あくまで柔らかく、素直な後輩としての声色を保った。美沙子は笑った。唇が柔らかくほころぶ。けれど、その笑みの奥には、光がなかった。瞳の奥は、冷たい湖のように静かで、何も映していなかった。「良かったわ」美沙子は、さらに指先を下ろし、藤並の腹の上を撫でた。ゆっくりと、支配を確認するような手つき。もう一度爪を立て、軽く弧を描く。「これからも、蓮くん