美沙子の身体が、ゆっくりと藤並の上から離れた。
ぬるりとした感触が、内側から抜ける。 熱はもうない。ベッドの上で、藤並は動かなかった。
背中にシーツの冷たさが広がっていく。 額には汗が浮かび、それがこめかみを伝って流れ落ちた。 でも、拭おうとは思わなかった。 手を動かす気力すらなかった。美沙子は、濡れた髪をかきあげると、藤並の胸元に手を置いた。
指先が、ゆっくりと胸を撫でる。 そして、爪が立てられた。 微かに、肌に痕が残る程度の圧。 けれど、それは藤並にとって、紛れもない「所有の証」だった。「もう、あなたは私のものよ」
美沙子が囁いた。
その声は甘く、夜の湿った空気に溶けていく。 爪がゆっくりと肌を滑る。 藤並は何も言わなかった。 ただ、天井を見つめていた。天井の模様は、淡いベージュ色の幾何学模様だった。
同じパターンが、いくつも並んでいる。 それを、ひとつずつ数えることで、心が壊れるのを防いでいた。「一、二、三…」
唇の裏側を噛んだ。
痛みを感じるためだった。 そうしなければ、涙が溢れそうだった。「これが、俺の生きるための役割だ」
心の中で、何度も繰り返した。
「家のためだ」「父のためだ」「俺は、こうやって生きるんだ」けれど、その言葉は、もう自分の中に落ちていかなかった。
胸の奥で、何かがずっときしんでいた。野村のことを思い出した。
学ランを着て、無邪気に笑った顔。 肩が触れたあの日のこと。 あの時、言えなかった言葉が、今も喉の奥に残っている。「あの時、好きだと、言えればよかった」
そう思った瞬間、喉が締めつけられた。
胸の奥が、ひりひりと痛んだ。 けれど、涙は出なかった。 泣いてしまったら、何かが崩れてしまう気がした。美沙子は、まだ藤並の胸を撫でていた。
その手の動きは優しかった。 でも、それはただの習慣のようなものだった。 優しさではなく、所有の確認だった。「ねえ、蓮くん」
美沙子が囁いた。
「これからも、私のそばにいてね」
「…はい」
唇が勝手に動いた。
その声は、まるで他人のもののようだった。天井の模様を、また数え始めた。
同じパターンが、視界の中で繰り返される。 それを見つめながら、藤並は心の中で、野村の名前をもう一度だけ呼んだ。「野村…」
小さな声が、心の奥で響いた。
けれど、その名前は誰にも届かなかった。 ただ、静かに夜が過ぎていくだけだった。藤並は、美沙子の前でゆっくりと膝をついた。バスローブの裾が、柔らかな絨毯の上に広がる。指先を美沙子の足首に触れた。その動きは、丁寧で滑らかだった。まるで高級店のホストが、客をもてなすような手つき。指の腹で軽く撫で、爪を立てることなく、ただ肌の上を滑らせる。「今日もお綺麗ですね」声は低く、甘い。美沙子が好むトーンを、藤並は知り尽くしていた。会話の間も、視線の角度も、肌に触れる速度も。すべては完璧だった。唇の端には微かな笑みを浮かべ、しかし目だけは遠かった。美沙子は、その奉仕を受け入れる。目を細め、喉の奥で小さく息をついた。「蓮くんは、本当に上手になったわね」美沙子がそう言うと、藤並はまた柔らかく微笑んだ。その笑みは、何の感情も持たない仮面だった。唇は艶やかに光り、肌は滑らかだった。けれど、心はどこにもなかった。藤並の指先が、美沙子の膝から太ももへと滑る。軽く爪を立てるふりをして、すぐに指の腹で撫で直す。皮膚が敏感に震えるのを知っている。美沙子が欲しいのは、ただの性行為ではない。自分を所有しているという「確認」だ。だから藤並は、それを丁寧に与える。「気持ちいいですか?」囁くと、美沙子は頷いた。バスローブの隙間から覗く肌は、汗ばんで艶めいていた。「ええ。あなたは本当に、可愛いわね」その言葉も、もう何度も聞いた。藤並は、微笑みを保ったまま、美沙子の内腿に唇を落とす。湿った舌先が、肌をなぞる。美沙子の身体が、わずかに震えた。その反応を見ながら、藤並は心の中で呟いた。「もう何も感じない方が楽だ」快感も、嫌悪も、すべてをシャットアウトする。身体だけが、機械のように動けばいい。欲望を持たない機械のように、与えることだけを考える。それが一番楽だった。藤並は、美沙子の身
美沙子は、ベッドの上で脚を組んでいた。足首から膝にかけて、ゆっくりと指先でなぞる。バスローブの裾が滑り落ち、素肌が夜の空気にさらされた。けれど、それは何の不快感もなかった。空調の微かな音が、部屋の静けさに溶け込んでいる。湿度の高い夜。窓の外には、濡れたビルのネオンが滲んでいた。視線の先には、藤並がいた。バスルームのドアを開けて、濡れた髪をタオルで押さえながら出てきたところだった。ローブの隙間から覗く鎖骨。細く整った顎のライン。肌は、まるで磨かれた陶器のように滑らかだ。美沙子は、その姿をじっと見つめた。飽きることはなかった。五年前、最初に手に入れたときは、まだどこか幼かった。線が細いだけの美しさだった。けれど、今は違う。歳月は、藤並をさらに美しくした。大人の艶が加わった。肌の艶も、眼差しの流し方も、立ち居振る舞いも、すべてが完成されていた。「やっぱり、間違っていなかったわね」美沙子は小さく呟いた。あのとき、仕組んで手に入れたのは正解だった。他の誰にも渡さなくてよかった。自分だけのものとして、こうして側に置いておける。それだけで、十分だった。「蓮くん」声をかけると、藤並は微笑んだ。完璧な微笑み。唇の端が、ほんの少しだけ上がる。その動きは計算されたものだった。美沙子が求める表情を、彼は正確に再現してくれる。けれど、その目の奥には何もなかった。瞳が、どこか遠くを見ていた。美沙子は、それに気づいていた。「目が、壊れてきたわね」心の中で、静かにそう思った。最初はもう少し生気があった。怖がるような、怯えるような、そんな光が目の奥に残っていた。それが、今はもうない。藤並は、完全に自分の役割を受け入れてしまった。だから、瞳は乾いている。でも、そ
ホテルのバスルームには、湿気がこもっていた。夜九時。梅雨入り前の都内は、じっとりとした蒸し暑さがまとわりついている。シャワーヘッドから流れる熱めの湯が、藤並の肩を打っていた。肌の表面を流れる湯は滑らかで、滴る水滴がタイルに落ちるたび、規則的な音を立てる。その音だけが、耳の中で反響していた。鏡の前に立つと、曇り止め加工された一部だけが、はっきりと自分の姿を映していた。そこに映るのは、五年前よりもさらに整った顔だった。学生時代にはまだ残っていた幼さは、もうどこにもない。輪郭は少しだけシャープになり、頬骨のあたりに影が落ちる。髪はきちんとセットされ、濡れたままでも艶がある。唇はリップクリームを塗ったばかりで、微かに光っていた。けれど、その目だけは、どこか遠くを見ていた。鏡の中の藤並は、完璧に整っている。なのに、目が乾いている。まばたきをしても、潤いは戻らなかった。「これは日常だ」心の中で呟いた。五年前、初めて美沙子に抱かれた夜。あのときから、こうして身体を整えることが習慣になった。バスルームで自分を磨き上げるのも、艶やかな肌を保つのも、唇をしっとりと保つのも、全部「役割」の一つだった。「呼ばれれば、機械のように抱かれる」シャワーの湯を止めると、バスルームの湿度がいっそう重たくなった。タオルで水気を拭き取りながら、藤並は鏡の中の自分を見た。微笑む練習をする。唇の端を少しだけ上げる。営業スマイルと同じ。でも、目は笑わなかった。バスローブを羽織り、前を合わせる。タオルで髪を押さえながら、もう一度鏡に向かう。濡れた前髪が額に張りついている。それを、指先で整えた。指先はしなやかに動く。美沙子が好む「艶」のある仕草を、自然にできるようになっていた。肌は、手入れを欠かさないから滑らかだ。爪もきちんと整えてある。唇には、もう一度リップクリ
夜になった。実家の二階、自室の明かりは消していた。カーテンの隙間から、街灯の薄い光が差し込んでいる。白い天井に、それがぼんやりと広がり、輪郭を失った影を作っていた。藤並はベッドの上で、仰向けになっていた。掛け布団は胸元までかかっているが、温度は感じなかった。手のひらが、掛け布団の下でゆっくりと動いた。自分の身体に触れる。下腹部に手を滑らせる。性器に指先がかかった。指が触れると、反応はあった。ゆっくりと、熱が集まり、形を主張し始める。けれど、その感覚は、自分のものではないようだった。身体だけが、勝手に動いている。心はどこか遠い場所に取り残されていた。「何やってんだろ、俺」小さく呟いた声が、部屋の中で吸い込まれた。快感はある。けれど、それはただの生理現象に過ぎなかった。心の奥に、何も届かない。興奮も、欲望も、そこにはなかった。目を閉じた。瞼の裏側が、じんわりと痛かった。眠れていない目の奥が、鈍く疼いている。それでも、手は動きを止めなかった。自分が、まだ「生きている」ことを確かめるためだった。「もし、あの時、好きだと言えたら」野村のことが浮かんだ。中学三年、放課後の校舎裏。肩が触れたあの日。野村は、何も知らなかった。ただ笑って、部活の話をしていた。あのとき、自分は一歩踏み出せなかった。胸の奥に湧き上がる気持ちを、飲み込んだ。「普通じゃない」と思われるのが怖かった。「おかしい」と言われるのが怖かった。だから、黙った。笑ってごまかした。もし、あの時、好きだと言えていたら。この手で、自分の身体を慰める夜はなかったかもしれない。こんなふうに、心と身体がずれたまま、生きることもなかったかもしれない。だけど、もう遅い。美沙子に抱かれた夜が、自分の中
実家の玄関前に立つと、朝の光がゆるやかに石畳を照らしていた。雨は上がっていた。昨夜降った雨が、まだ地面に残る水滴をまとわせ、庭の植え込みにも、木の葉の先にも、透明な粒をいくつも揺らしていた。藤並は、玄関扉の前で深く息を吸った。その呼吸は、胸の奥で詰まった。空気が湿っている。雨上がりの匂いと、ほんの少し土の匂い。それを感じながら、ポケットの中で手を握りしめた。「ただいま」小さな声で呟いて、扉を開けた。軋む音が耳に届く。それは毎朝の、変わらない音だった。「おかえり、蓮」母親が玄関に出てきた。朝の光が、母親の白髪混じりの髪に反射している。眠たげな目をこすりながら、けれど微笑んでいる。「朝まで仕事だったの?」「うん。急な仕事が入って」藤並は、靴を脱ぎながら答えた。スーツの裾に、まだ昨夜の湿気が残っている気がした。ネクタイを緩める指先が、かすかに震えた。けれど、その震えを隠すのは、もう慣れていた。「大変ね。ご飯、用意してあるけど、食べる?」「…あとで。少しだけ横になるよ」母親は何も聞かずに頷いた。それが救いだった。問い詰められることも、心配されることも、今は必要なかった。玄関の匂いは、昔から変わらない。木の香りと、少し湿った畳の匂い。それを感じながら、藤並はふっと目を閉じた。母親の手が、藤並の肩に触れた。その手は、いつも通り温かかった。けれど、藤並には、その温度を感じることができなかった。感覚が、どこか遠い場所にあった。触れられているのに、まるでガラス越しのようだった。「身体、壊さないようにね」「うん。大丈夫だよ」言葉だけが口から出た。それは、自分のものではないようだった。階段を上がるとき、足が重かった。でも、ゆっくり
ホテルのロビーは、まだ朝の支度が始まる前の静寂に包まれていた。フロントのスタッフが低い声で朝刊を受け取り、ベルボーイが無言でカウンターを拭いている。天井のシャンデリアは、昨夜と同じ柔らかな光を落としているが、その輝きも、どこか乾いたものに見えた。藤並は、ロビーの一角に立っていた。スーツの襟を整え、ネクタイを締め直す。それはもう、習慣のような動作だった。鏡の中に映る自分の顔は、いつもの藤並だった。営業スマイルも、完璧に作れる。だが、頬の奥で、筋肉が微かに引きつるのが自分にはわかっていた。「蓮くん」美沙子が後ろから声をかけた。足音は軽い。ヒールのかかとが、絨毯に沈み込む音が、柔らかく耳に届いた。振り返ると、美沙子は黒いワンピースを着ていた。完璧な化粧。夜とは違う、朝の顔。けれど、その瞳の奥は、やはり冷たかった。「車、呼んでおいたわ」美沙子が笑った。唇だけがほころぶ。その微笑みに、藤並はまた、営業用の笑顔で応えた。「ありがとうございます」「また来てね、蓮くん」その言葉は、何気ない一言のように聞こえた。けれど、藤並にはその裏にあるものがはっきりと見えていた。「また来てね」それは「繰り返す未来」の宣言だった。これが一度きりではないことを、美沙子は最初から知っている。そして、藤並も知っていた。黒塗りの車が、ロビー前に滑り込んできた。運転手が無言で降りて、後部座席のドアを開ける。その動作もまた、流れるように滑らかだった。藤並は、心の奥で何かが止まる音を聞いた。それは「諦め」と呼ばれるものかもしれなかった。あるいは「壊れる」という感覚だったかもしれない。「壊れてもいい。もう、それでいい」胸の奥で、静かに呟いた。これは自分の選んだ道だ。誰かのせいにするつもりはなかった。家を守るた