湯浅の手が、腰骨を撫でるように滑った。
その指先は、無駄な力が入っていない。淡々とした動きだった。けれど、その淡々さが、藤並の胸を締めつけた。「こんな風に時間をかけられたことはなかった」
美沙子のときは、もっと早かった。
準備も、気遣いもなかった。ただ、自分の身体を「使う」だけの行為だった。なのに、今は違う。
湯浅は、丁寧に触れてくる。焦らず、壊さず、滑らかな手つきで。「壊してくれた方が、楽だったのに」
心の中で、そう思った。
だけど、身体はその手を拒めなかった。湯浅がローションの容器を取った。
かちりと小さな音がして、冷たい感触が指に伝わる。藤並は、シーツを握った。
肩が微かに揺れる。「力抜いていいよ」
湯浅の声が、耳元で低く響いた。
その声に、藤並は小さく息を吐いた。でも、身体はこわばったままだった。「壊れるなら壊れてしまいたい」
その言葉が、喉の奥で渦を巻く。
けれど、「この人に壊されるのは、違う意味で怖い」とも思った。
心を壊されることが、身体を壊されるよりも怖かった。湯浅の指が、ゆっくりと入ってきた。
冷たい感触が、奥まで広がる。でも、痛みはなかった。「……っ」
かすかな吐息が漏れた。
「大丈夫だ」
湯浅の声が、また耳に落ちた。
そのたびに、藤並の胸がざわついた。湯浅は、指を丁寧に動かした。
時間をかけて、奥まで触れてくる。その動きは、快楽を与えるためだけのものだった。「感じてはいけない」
心はそう言っているのに、身体は反応してしまう。
「っ……」
喉の奥から、知らない声が漏れた。
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。指が抜かれ、代わりにローション
スマホのバイブレーションが、デスクの上で静かに震えた。通知音は切ってある。それが美沙子の日常だった。けれど、そのわずかな振動が、今はやけに耳についた。画面を覗くと、銀行名が表示されている。与信担当の支店長からだった。美沙子はゆっくりとスマホを持ち上げた。指先がわずかに湿っているのを自覚する。けれど、それを拭う仕草はしなかった。拭いてしまえば、自分が怯えていることを認めるような気がした。通話ボタンを押す。「お電話ありがとうございます。葛城です」声は落ち着いていた。むしろ、普段よりも静かだった。その落ち着きが、自分を保たせる唯一の方法だと知っていた。「葛城社長、大変恐れ入ります。与信枠について、再度見直しのご相談をさせていただきたく…」その言葉を聞いた瞬間、こめかみに微かな痛みが走った。美沙子は、左手でこめかみを押さえた。偏頭痛の前触れだった。けれど、それを言葉に出すことはなかった。「…見直し、というのは、どういう意味かしら」「はい。昨今の経済状況や内部監査の結果も踏まえまして…一度、与信枠を適正に見直す必要があると判断しております」「適正、ね」声は変わらない。表情も崩さなかった。けれど、心の奥で、何かがひとつ崩れ落ちた気がした。「具体的には、いくらにするつもり?」「詳細はまた文書でお送りしますが…大幅な縮小になるかと思います」美沙子は、視線を机の端に向けた。クリスタルのペーパーウェイトが、わずかに傾いていた。いつからだろう。自分の机の上で、そんな不安定なものを見過ごすなんて、ありえなかった。けれど、今はなぜか、そのペーパーウェイトを直すことができなかった。指を伸ばせば届く距離にあるのに、動けなかった。「分かりました」短く答えた。その声は
デスクに戻ると、美沙子はタブレットを手に取った。表面には指紋一つなく、画面は滑らかに光を反射している。ネイビーのジャケットの肩のラインを、無意識に正す。座った瞬間、ほんの少しだけズレたような気がして、右手でそっとなぞる。それでも落ち着かず、もう一度肩を撫でる。誰も見ていないとわかっていても、習慣だった。完璧でなければいけない。常に、正しく整っていなければならない。その意識が、身体の端々にまで染みついていた。画面に手を滑らせると、メールの一覧が開いた。未読メールが、普段より多い。その数だけで、少しだけ胸がざわめいた。理由はわからない。ただ、普段と違うというだけで、心の奥がざらりとする。一通ずつ開く。経理部からの報告、法務からの確認依頼、秘書室からの予定表。どれも、日常の業務連絡だった。けれど、スクロールする指先は落ち着かなかった。あるメールの件名が、ふと目に留まった。「来週の戦略会議について」差出人は副社長の安東だった。普段なら、自分のところにも当然来るはずのメール。だが、なぜかこれは届いていなかった。件名をタップする。開いたメールには、役員会のメンバー宛の会議招集が記されていた。場所も時間も、議題も詳細に書かれている。それ自体は不自然ではない。ただ、そこに自分の名前がなかった。宛先欄を指先でなぞる。TO、CC…そして、BCC。自分のアドレスは、どこにもなかった。美沙子は、唇の内側を舐めた。スマホを持つ手が、わずかに湿っている。「どういうこと…」小さく呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。BCCで外されている。それは、表向きには何も問題がないように見せかけて、実際には「あなたはもう関係ない」と宣言されているのと同じだった。肩のラインをもう一度、指で正し
ビルの窓ガラスには、灰色の雲が低く垂れ込めていた。朝の光は弱く、薄いカーテン越しに落ちてくる光は、まるで影のように冷たかった。葛城美沙子は、鏡の前に立ち、唇に口紅を引いていた。ネイビーのスーツに身を包み、白いブラウスの襟元を整え、細い指で口角をなぞる。唇の輪郭は完璧に描かれているはずだった。けれど、鏡に映る自分の顔を見たとき、微かに唇の端が震えているのに気づいた。アイシャドウは薄めに仕上げている。目元がきつく見えることは知っている。だからこそ、意図的に色は抑えていた。けれど、それでも鏡の中の自分の目は、どこか尖って見えた。「大丈夫よ」低い声で自分に言い聞かせた。その声は、滑らかで淀みがなかった。ただ、最後の語尾がかすかに掠れていた。気にしないふりをして、鏡から視線を外す。社長室を出ると、廊下にはいつもの朝の光景が広がっていた。秘書たちが並び、整然とした姿勢で出迎える。けれど、その目は…どこか曇っていた。普段なら、軽く会釈を交わしながら「おはよう」と声をかける秘書たちが、今日は誰一人として目を合わせてこない。「おはようございます」秘書の一人が、かろうじて声をかけた。だが、その声には覇気がなかった。目線は床の一点に落とされたままだった。美沙子は、歩くスピードを変えずに応えた。「おはよう」その一言は、普段と同じ響きのはずだった。けれど、自分の耳には妙に冷たく聞こえた。デスクに着くと、コーヒーが差し出された。細い指でカップを受け取る。そのとき、指先が一瞬滑った。コーヒーはこぼれなかった。だが、カップの底がほんの少しだけ机の表面を擦った音がした。その微かな音が、やけに大きく感じられた。コーヒーの香りは、いつもと変わらない。けれど、口元に持っていくと、わずかに唇がこわばった。冷えた空気のせいではない。
湯浅は天井を見つめたまま、呼吸を整えていた。隣には藤並がいる。毛布に包まれ、浅い呼吸を繰り返しているが、眠っているわけではないと湯浅には分かっていた。藤並の肩が、時折ほんのわずかに震える。それは恐怖か、それとも解放への戸惑いか。湯浅には、どちらも分かっているつもりだった。ソファの背もたれに頭を預けると、背筋にわずかな冷たさが伝わる。夜の空気は湿っていて、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。部屋の隅ではスマホが光っている。黒瀬からの通話は終わった。けれど、あの声はまだ耳の奥に残っていた。「決めたよ。協力する」黒瀬のあの言葉を、湯浅は繰り返し思い出していた。社長と沈む気はないーーそれが黒瀬の選択だった。その決断は、全てを動かす。けれど同時に、何かが確実に壊れることも湯浅は知っていた。視線を横に向けると、藤並の額が毛布の中でわずかに動いた。湯浅はその髪にそっと手を伸ばし、撫でた。指先が微かに震える。だが、それを止める理由はなかった。「蓮」名前を呼んでも、返事はなかった。けれど、藤並は湯浅の手の甲に指先を重ねた。そのぬくもりが、湯浅の胸の奥に静かに沁みていった。「夜が明けたら、全部終わる」心の中で呟いた。その言葉は、誰にも聞かれない。けれど、確実に自分の中に落ちた。目を閉じると、胸の奥で何かが静かに軋んだ。けれど、それでもいいと思った。その頃ーー。黒瀬は封筒の口を閉じていた。証言内容を書き出したメモと、裏帳簿のコピー、名義変更の書類。全てを一つの封筒に収めた。机の上に封筒を置くと、その輪郭がやけに鮮明に見えた。夜の部屋はまだ暗い。けれど、窓の外にはわずかな夜明けの気配があった。黒瀬は椅子にもたれ、天井を見た。何も見えないはずの天井に、数字が浮かぶ気がした。これまで
黒瀬は書斎の椅子に座り、深く息を吐いた。机の上には、裏帳簿と名義変更の書類が並んでいる。全て、社長ーーいや、美沙子が命じてやらせたことだった。手のひらを机につき、目を閉じる。心臓が、ゆっくりと鼓動している。だが、そのリズムはどこか不自然だった。胸の奥に、冷たい石が落ちているような感覚がある。書類の山に手を伸ばした。だが、指先が震えて、一瞬止まる。「……これで、本当に終わるんだな」呟いた声は自分のものとは思えなかった。美沙子のために動いた十年間が、紙一枚で崩れる。その事実を、まだ体が受け入れきれていなかった。だが、もう引き返せない。黒瀬は手を伸ばし、裏帳簿のページをめくった。帳簿に記された数字は、何度も見たものだ。料亭藤並の名義変更。不自然な融資記録。帳簿の余白には、美沙子の走り書きが残っている。「欲しいものは全部手に入れなさい」美沙子の声が耳の奥で蘇った。あの女の冷たい笑み。自分はその言葉に従い、何もかもを動かしてきた。だが、欲しいものを手に入れたはずの自分は、今こうして机の前で震えている。ペンを握る手に力を入れた。ボールペンの先を、メモ帳の上に置く。「証言内容」黒瀬は小さくつぶやきながら書き始めた。裏帳簿の操作時期、料亭藤並の名義変更の手続き、社長の指示の有無。全てを正確に思い出しながら、箇条書きにしていく。証言で間違えれば、自分が潰れる。完璧にやらなければならない。手のひらが冷たかった。ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に響く。額から汗が一筋、こめかみを伝った。黒瀬は袖でそれを拭ったが、またすぐに汗が滲む。「……」グラスに残った水滴が、机の上に静かに落ちた。その音がやけに大きく聞こえた。
湯浅はスマホを置き、深く息を吐いた。そのまましばらく動けなかった。指先にはまだ、通話を終えたばかりの黒瀬の声が残っている。低く、かすれるような声だった。決意と、恐怖が入り混じった声。それを聞いた湯浅の胸の奥も、何かが静かに揺れていた。立ち上がると、リビングのソファに目をやった。藤並が毛布にくるまり、目を閉じている。だが、眠れていないことは分かっていた。まつげの影が、ほんのわずかに震えている。肩は布越しに小さく上下している。湯浅は静かにソファのそばに腰を下ろした。毛布の上から、藤並の頭を撫でる。その髪は、夜の湿度を含んで少しだけしっとりとしていた。「黒瀬が動く」低い声で呟いた。藤並の肩が、わずかに跳ねる。だが、目は閉じたままだった。「これで社長は終わる」言い切ったとき、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。だが、もう後には引けなかった。藤並の唇が、ほとんど動かないくらいの小さな声で返す。「……本当に?」湯浅は手のひらを、もう一度藤並の髪に滑らせた。その指先が微かに震えているのを、自分でも感じた。だが、撫でる動きは止めなかった。「……ああ。明日には動く。鷲尾にも伝えた」淡々とした声だった。けれど、その言葉の奥には、今まで積み重ねてきたすべてが詰まっていた。共謀。証拠。脅し。そして、決断。藤並は毛布の中で、小さく息を吸った。「……怖いな」その声は、吐息と区別がつかないほどにかすれていた。けれど、その言葉は確かに湯浅の胸に落ちた。「怖くていい」湯浅はもう一度、藤並の髪を撫でた。指先が耳の後ろを通り、首筋まで滑る。その肌は少しだけ冷たかった。「俺が全部引き受ける」